望月命が意識を取り戻した時、最初に目に入ったのは天井だった。彼は見知らぬ部屋のベッドに寝かされていたのだ。
(ここは……? 確か、おかしな光に包まれた時に意識が遠のいて……)
ぼんやりとした頭のまま、自身に起こったことを思い出そうとするが、どうしてもその先が分からない。なぜ自分が知らない部屋に寝かされているのか全く記憶がないのだ。
ミコトはもっと集中して記憶を呼び起こそうとしたが、そこに横合いから掛けられた。
「おお、目が覚めたか」
「あ……えっと……」
「あ、悪い悪い。驚かせちまったか? 俺はグラッド。この宿場町トレイユで駐在軍人をやってるんだ」
グラッドは戸惑う様子を見せたミコトに、まずは自分の名と所属を伝えた。それを聞いたミコトは少しいまだ混乱した様子ながらも、自分の名前を名乗った。
「あ、えっと、命です。望月命」
「そうか、ミコトだな。それにしてもどうしてあんなところに倒れていたんだ?」
体を起こしたミコトの受け答えがはっきりしているのを確認したグラッドはそのまま事情を聴くことにした。もともと両腕に犬に噛まれたような傷あるのは確認していたが、はっきりと言葉を発することができていたため、簡単な事情を聴くくらいならできるだろうと思ったのだ。
「……あんなところ?」
「なんだ覚えてないのか? お前は郊外の星見の丘に倒れていたんだぞ」
より正確に言えばミコトを見つけたのはグラッドではなかった。彼は人が倒れているという知らせを受けて彼をこの駐在所のグラッドの私室まで運んできたのだ。
「えっと……、すいません。全然覚えてないんです」
ミコトは首を振って答えた。グラッドと話したことで、起きた時よりは意識もはっきりしていた。そのため星見の丘に倒れていた理由は察しがついたが、それを口にする気にはなれなかった。
目を覚ます前に思い出せるのは、突然現れた化け物によってボロボロの廃墟同然になっていく那岐宮市の街並み、自身を捕らえた犬のような化け物、まるで別人のように豹変していたシャリマ、彼女と知り合いだったらしい育ての親である叔父カイロス、シャリマを迎えに来たらしい優男。そして最後に現れた大剣を背負った銀髪の男が現れ、手にした拳銃で両腕を抑えていた犬の化け物を殺したところで、極限まで達していた緊張が爆発したのだ。
そして声なき叫びを上げると周囲が光に包まれ、意識を失ったのだ。
ただ、実際に起こったことは思い出せるが、あの化け物たちがなんなのか、どうしてシャリマは変わってしまったのか、一体叔父は何者なのか、そういった疑問を考えようとは思わなかった。今でも頭の中で整理がつかないということもあるが、その疑問を考えてしまうと、否が応でも自分自身と向き合わなければならない気がして、無意識の内に拒否していたのだ。
「そうか……。まあ、まだ疲れてるだろうし、明日にでもまた話を聞かせてくれよ」
「はい……、ありがとうございます」
ミコトが何か隠していることに気付いていたのかは分からないが、グラッドはそれ以上事情聴取を続けようとはせず、踵を返したところで何かを思い出したかのように振り返った
「あ、そういえば腹減ってるだろ? もうちょっとで飯が来るからな」
「でも俺……お金持っていませんし……」
これまでのグラッドとの会話で、ミコトはここが那岐宮市や日本という国ではなく異世界であるということに確信を持っていた。そのため、財布に多少なりとも入っている日本の貨幣が使えないことも悟っていたのである。
「気にするなって。腹減ったままじゃ良くなるもんも良くならないぞ」
「す、すみません、あの、いただきます」
時間的には昼食の牛丼を食べてから数時間しか経っていないはずだが、極度の緊張から解放されたせいか意外と腹には入りそうな感じだったため、グラッドの申し出をありがたく受けることにした。
ミコトがそう答えたところで家の外から快活そうな女性の声が聞こえてきた。
「お兄ちゃーん、頼まれたもの持ってきたよー!」
「お、噂をすればなんとやらだ。それじゃ、少しここで待っててくれな」
そう言うとグラッドは「今行く!」と声を張り上げながら部屋を出ていった。どうやら今しがた聞こえた声の持ち主が食事を持って来てくれたらしい。グラッドのことを兄と呼んでいたため、彼の妹なのかとミコトは思っていた。
しかし、それもほんの僅かの間。グラッドが部屋から出て行き、一人になったことで不安に襲われた。
(……これからどうすればいいんだろう)
異世界に来たという不安もあるが、それまで信じてきたものが音を立てて崩れ、拠って立つものがないという不安もあった。そしてそれらがしこりとなって胸の堆積し、言いようのない不快感を放っていた。
(わけがわからない……、どうせなら全部明らかになってくれればいいのに)
ミコトは再びベッドに倒れ込んだ。この不快感を消してくれるならどんな真実が明らかになったって構わないと、半ば投げやりになっていた。
「ちょっ、何なの、あれ!?」
(何があったんだろう?)
そんな時、先ほどの女性の声が聞こえてきた。なにか想定外のものを見たような声であり、外で何かあったことを想像させた。
それを聞いたミコトも何があったのか当然疑問に思ったが、グラッドからここで待ってろと言われたこともあり、すぐに部屋を出ることには抵抗感があったのだ。
「我も……、……皇帝……正統な……なのだ!」
外からは何かの放送でも行っているのか若い男のような声が聞こえてくる。とはいえ室内にいる以上、途切れ途切れにしか聞こえず、それがミコトの心を揺り動かしていたのだ。
(ああ、もう!)
そこまで来てようやくミコトは意思を固めた。我ながら決断が遅いと自嘲しながらベッドから立ち上がって部屋を出る。彼が寝かされていたところは駐在所の奥の部屋とはいえ、駐在所自体がそれほど広くはないため、迷うことなく入り口の方に向かうことができた。
そうして駐在所の入り口に辿り着くと、そこにいたのはグラッドと白い髪の少女、フェアがいた。グラッドが食事を頼んだのは彼女だったようだ。
さらに二人が視線を向けているのは一人の男が移された浮遊する映像だった。その男は何やら演説のようなことを口にしているが、今しがた見たばかりのミコトには何の話をしているのかさっぱりだった。
「あ、あの……」
「ああ、すまん。ついこっちのことばかり気になってしまってな」
ミコトに声をかけられて二人が振り返ると、グラッドが気まずそうに答えた。あの映像に気を取られてミコトのことはすっかり忘れていたらしい。
「えっと、これって……」
「知らないのか? 緊急放送システムだよ。もっとも実際に使われたのは初めてだけどな」
グラッドの言葉を受けてミコトはあらためて空中に浮かぶ映像をまじまじと見つめる。それに映る男は大衆を熱狂させるような熱弁を振るっている。実際、グラッドやフェア以外に映像を見ている何人かは歓声や喝采を上げていた。
そして男はこれが最も重要だと言わんばかりに、これまで以上に声を張り上げて言う。
「我が名はレイ――歪んだこの世界を正すため造物主より力を授かった新たな王、真聖皇帝レイである! そして我が帝国はこれより世界をあるべき姿へ戻すため、リィンバウムの全ての国家に宣戦を布告する! なおも歪んだ世界に固執する者は力を持って我を打倒してみせよ! されど我は一切の容赦なく歯向かう者全てを打倒し、世界を掌握する!」
その言葉を言い放った瞬間、ガラスが割れたような音が響き渡ると、男の前の演台にコートを着た人が降り立った。
(あのコート……、どこかで……)
それを見たミコトはコートに見覚えがあったのに気付いた。しかし、それがどこで見たのかを思い出す前に伝声装置を通じて周囲に銃声が響き渡った。
その数瞬後に聞こえてきたのは、人が倒れたような音だ。それを聞いてようやくミコトは先ほどまで演説していた男が撃たれたのだということに思い至った。
「どうなってんだ……!」
グラッドが思わず言葉を漏らした。彼としては先ほどまで演説していた男がこれまで政治を意のまま操っていた者達を処刑した上、皇帝マリアスを廃し、自身が新たに皇帝の座につくと宣言しただけでも重大事なのだが、さらに新皇帝まで撃たれたとあっては、そう口にしたくなるのも無理からぬことだった。
さらに撃った者が振り向くと、真っ赤な返り血を浴びた顔が露になる。映像越しにそれを見た者は悲鳴を上げる者や口を抑えたりする者がいた。
そしてフェアとミコトも同じタイミングで反応を示した。
「ネ、ネロ!?」
「あ、あの人は……!」
どちらもその人物を知るような言葉。それゆえ互いの言葉が耳に入った二人は思わず相手の方に視線を向けた。そして疑問を口にしたのはフェアの方が先であった。
「な、なんであなたがネロのことを知ってるの……!?」
「え……え?」
急に尋ねられたミコトは意味ある言葉を返せずにただ目を泳がせるしかなかった。フェアにしてみればこっちの世界でネロと面識がある者は基本的に自分とも面識が会って当然だという思いがあった。彼がリィンバウムにいたほぼ全て期間この町の忘れじの面影亭に滞在していたのだから当然だった。
ただミコトにしてみれば、那岐宮市で会った男がこの世界では、突然演説している者を撃った。さらに彼と知り合いらしい少女から詰問までされては、落ち着いて答えることなど不可能だった。
「フェア、落ち着けって」
グラッドがそう声をかけると、フェアは眉間に皺を寄せて納得していない様子を見せながらもそれ以上ミコトに何かを尋ねることはしなかった。しかしグラッドとしてもネロ知っているような反応を見せたミコトをそのままにしておくことはできなかった。
「ミコト、悪いけどさっきの男について詳しく話を聞かせてくれるか?」
「え……、ええ、はい。わかりました」
ミコトは何が何だかわからないままだが、とりあえず正直に話してみようと思い、グラッドの言葉に頷いたのだった。
そうして再びミコトとグラッドは駐在所の中で机を挟んで向かい合った。ミコトは最初、まるで警察の取り調べのようなものかもしれないと訝しんだが、実際はグラッドが威圧的な態度になったということはなく、間に机を置いたのもただ彼がメモを取りやすいからという理由だけだった。
それを話しやすいよう気を遣っているのだと感じたミコトは、ネロと会い、そしてこの世界に召喚される経緯をグラッドに話せたたのだった。
「……なるほどね、じゃあネロと会ったのもその時ってことか」
時折相槌を打ちながら話を聞いていたグラッドは、ミコトが話し終えると確認するように尋ねた。
「はい。……と言っても会話らしい会話は何もしていませんけど」
あの場に居合わせたことはネロも記憶しているだろうが、彼の興味は那岐宮市をあのようにした元凶と思われるシャリマ達にあったように思える。あの場ではミコトを押さえつけていた犬の化け物を倒したものの、半ば脅しつけるように声をかけたのはシャリマ達だけだったのだ。
「ネロがこっちに来たのもその時かもしれないな」
グラッドがミコトがこちらに来る原因となったと思われる光が広範囲に及んでいたと考えると、元の世界に帰ったはずのネロが帝都にいた理由も説明がつく。もっとも、世界に宣戦布告をしたあのレイと名乗る男を殺した理由は定かではないが。
「あの……俺を見つけた所に他に誰かいませんでしたか……?」
グラッドが呟きながら手元の紙にメモするのを見たミコトが尋ねた。もし本当にネロという男が自分と同じ光に包まれてこの世界に来たのだとしたら、那岐宮市のあの場にいた他の者もこちらに来ているかもしれない。
「俺が星見の丘に着いた時はお前一人だったし、見つけた奴もお前一人のことしか言ってなかったな。ただ、誰かに見つけられる前に目が覚めてどこかに行った可能性もあるから断言はできないけど」
グラッドはそう答えたが、もしミコトが倒れていたという星見の丘に、ミコトを捕らえに来たと思われるシャリマや彼女を迎えに来ていたメルギトスがいれば彼はここにいなかっただろう。もちろんそのことはグラッドも聞いていたため、実際彼が想定しているのは叔父のカイだけだろう。
「そう、ですか……」
首を振ったグラッドにミコトは安心したような、残念だったような、どちらともとれる声色で答えた。カイの消息がいまだ不明なのは残念だが、同時に今彼に会わずに済んだことにほっとしていたのも事実であった。
「その人、たぶん召喚師なんだろう? なら元々はこっちの世界の人間なんだろうし、そんな心配することはないさ」
ミコトの話から叔父のカイが召喚師だということは分かった。そのためグラッドは彼の叔父についてはたいして心配はしていなかった。なにしろ召喚師というのは、国の別を問わずエリートであることが非常に多いのだ。そのため、どこへ飛ばされたとしても生きて行くことはそれほど難しくはないと考えていたのだ。
「そう、思います」
「しかし……向こうにいたとすると、ネロとは逆にこっちから召喚されたってことだよな」
グラッドが首を傾げた。召喚術というのはリィンバウムにおいてのみ存在する技術なのだ。ネロのように他の世界から召喚されるというのは少なからずありえるが、その逆にこちらの世界の者が他の世界に召喚されるというのは、グラッドの知る限り確認されたことはなかったのだ。
「あの、ところでネロっていう人と皆さんはどういう……?」
考え事をしているグラッドにミコトが尋ねた。ネロと親しい間柄ではないが、なぜリィンバウムの人間でない彼がグラッドやフェアにその名を知られているのか気になったのである。
それを聞いたグラッドは少し考えるように時間を置いた後、答えた。
「……数年前にあいつがこちらにいた時に知り合ってな。それでその頃に起こった事件でだいぶ助けられたんだよ。さっきのフェアも同じだし、ネロはあいつのところに泊まっていたから、余計に心配しているんだろう」
先のミルリーフをめぐる一件はギアン達のことこそ軍にも知られているが、その騒動の原因となったのが、世界間を移動する船でもある浮遊城ラウスブルグとそれを起動させる鍵である至竜の幼体ミルリーフだったことは軍にも報告していないことなのだ。
そのため馬鹿正直に答えるわけにもいかず、グラッドは当たり障りのない範囲で答えたのである。
「それってこっちに召喚されたってことですか?」
「ああ、そのはずだが、この町で召喚されたわけじゃないから俺達はそのあたりは詳しくないんだ」
実際ネロは誰に召喚されたとも言ってなかったし、グラッドを含めた当時の仲間もそんなことは誰も気にしていなかったのだ。
「そうですか……」
ミコトがそう答えたところでグラッドはフェアに持ってきてもらったものが、まだ後ろの机に置きっぱなしだったことを思い出した
「あ、フェアに持って来てもらったやつまだ食べてなかったな。……よし、とりあえず今日はここらへんで終わりにしよう。これを食べて今日は休んでくれ」
「え? グラッドさんは食べないんですか?」
フェアが持ってきたのにはグラッドの分も含まれていたが、二人の間の机に置かれたのはミコトの分だけだったのだ。
「ああ、これから町の見回りに行かないといけないからな。まあ、終わってからゆっくり食べるさ」
常日頃も夕暮れのこの時間に見回りしているのだが、今回は緊急放送システムを使った全世界への宣戦布告とそれ宣言した男の死亡という重大事が発生したこともあり、いつものところだけでなく町全体を見回るつもりでいた。他国がどう動くかは分からないが、軍から新たな命令がない以上、彼は駐在軍人としての職務を全うするつもりでいた。
そしてグラッドはミコトの顔を見て少しばつの悪そうに口を開いた。
「それと悪いが、今日のところは出歩かないでくれ」
「あ、はい。わかりました」
ミコトはグラッドの頼みにあっさりと答えた。
あんなことがあったばかりで見知らぬ者が町の中を歩いていると住民にいらぬ不安を与えかねないというグラッドの考えは口にせずともミコトにも理解できた。もっとも、自由に出歩いていいと言われたところで出かける気力などなかったが。
ミコトに返事に頷いたグラッドは「それじゃあ行ってくる」と言い残し、駐在所を出て行った。一人残されたミコトはフェアが持ってきたサンドイッチを食べ始めた。
彼の人生でこれ以上ないくらい激動の一日であったが、その最後はひどく穏やかなものであった。
ミコトが食事を食べ終わった頃、忘れじの面影亭は早めに夜の営業が終えたところだった。いつもならまだ客で混み合っている時間帯であり、まだまだ閉店の時間ではないが、数時間前の緊急放送システムによって起きた混乱による影響かいつもよりだいぶ客足も落ちていたため、今日のところは早めに店を閉めたのである。
もっとも仮にいつものように行列ができるくらいの客が来てもそれはそれで困っただろう。
「フェア、外の掃除はしといたわよ。看板も片付けといたから」
「…………」
なにしろ料理人であるフェアが、リシェルの声を無視して先ほどからただひたすらに皿を磨いている有様なのだ。一応、言えば料理を作ることは作るのだが、その手つきはいつもとは程遠い有様であった。
「ちょっとフェア、聞いてるの!?」
「え、あ……、ありがとう」
さすがに無視されて腹が立ったリシェルが机を叩きながらうわの空のフェアに声をかけるとようやく反応を見せた。
「あんたねぇ……、ネロのことが心配なのは分かるけど、そんなんじゃ明日から店なんてできないわよ。」
彼女の様子がおかしくなった原因がネロにあることはリシェルにも分かっていた。実際、彼女もネロがどうしてあんなことをしたのか不思議でしょうがなかったのだが、リシェルは頭の切り替えがしっかりできているようだった。
「エニシアを見習いなさいよ、あの子だってちゃんとしてるんだから」
そう言ってリシェルが客席のテーブルを拭いているエニシアに視線を向ける。
エニシアはバージル達とともにリィンバウムに戻ってきた後、フェアに誘われてこの忘れじの面影亭で給仕として住み込みで働いているのだ。エニシアとしては同じ半妖精という境遇でラウスブルグでの旅路で親しくなったフェアと共に働けるというのは非常にありがたい話だった。
フェアとしても軍学校に進学するというルシアンと派閥の召喚師として本格的に勉強を始めるリシェルに代わる新たな働き手として期待できるうえ、人も召喚獣も区別なく接することができるエニシアは、自身が目指す誰でも入れる店を作るのにこれ以上ない人材だったのだ。
「で、でも私は直接それを見たわけじゃないから……」
エニシアは遠慮がちに答えた。フェアはグラッドのもとへ頼まれた料理を持っていったため、その目で血に塗れたネロを目にすることになったが、あいにくこの忘れじの面影亭では音声こそ聞こえはしたものの、映像を見ることはできなかったのだ。おかげでエニシアはレイと名乗る男の演説の最後に銃声が聞こえたことは分かったものの、まさかそれがネロが発砲したものとはフェアに聞かされるまでは露程も思わなかったのである。
そうした伝聞による情報のせいかエニシアはフェアほど大きな衝撃は受けていなかったのである。
「あたしはもう帰るけど、今日はしっかり休みなさいよ」
「うん……」
いつもより元気がないフェアの返事を聞いたリシェルが心配そうに見ながらも踵を返して店から出て行った。できることならもう少し親友の傍にいてやりたかったが、リシェルにもやるべきことがあるのだ。
リシェルは数年前から金の派閥の召喚師としての勉強を始めるとともに、父の監督のもとで召喚術を用いた野菜の栽培という事業を始めたのだ。これはトレイユ近郊にあるアルマンの農園のような召喚獣を使役して作物を栽培するようなものではなく、異世界の食用に適する作物を作るというものであった。
当然のことながら世界が異なれば一方ではポピュラーな作物であっても、もう一方ではめったに見ることのできない貴重な作物になることもありえる。そうした作物を作り販売することで収益を上げるというある意味、基本に忠実な事業ではあった。
もっともこれにはいくつか特筆すべき点がある。
一つは畑の開墾から栽培までを行う人足にレンドラーを始めとした剣の軍団の面々が充てられたことだ。 レンドラーとしてはカサスがメイトルパへ帰り、ゲックも旅に出たためエニシアを守れるのは自分達だけという思いもあり、農夫として働くのもまんざらでもなく、リシェル本人も顔見知りである彼らが実作業をやってくれるのは歓迎していた。
とはいえ、いくら街に直接的な被害はなかったとしても、剣の軍団は過去にギアンという無色の派閥の幹部のもとにいた者達だ。そうした事情を知る者は、リシェルの父であるテイラーが、よくそれを認めたものだ、と口々に言うのである。
ただ、一説には上の方から口添えがあったとか、蒼の派閥からの要請があったと囁かれていたのは事実であった。
閑話休題。リシェルの去った忘れじの面影亭の食堂には沈黙が訪れる。どうにも元気がないフェアと彼女を気遣うエニシアだけが取り残されたのだから当然だった。
一応、上の階にはフェアの母のメリアージュと遊びに来ていたミルリーフがいるが、さきほどまで営業していたこともあり、食堂に降りてくる様子はなかった。
「げ、元気出して、フェア」
「あはは、ありがとうエニシア。さっさ片付けを終わらせちゃおう」
自身を気遣うエニシアの言葉にフェアは乾いた笑いを浮かべながら返した。まだ空元気なのは否めないが、先ほどリシェルに発破をかけられたおかげで最初の時よりはマシなっていると言えなくもなかった。
フェアの言葉を受けてエニシアは手際よく残りのテーブルを拭き終わると床の掃除を始めた。いまだ接客では不慣れな部分があるとはいえ、準備や後片付けはだいぶ慣れた様子だった。
一方のフェアは慣れた様子で厨房の片付けと清掃を終わらせると明日の仕込みを始めた。このあたりの分担はエニシアが一人前の仕事をこなせるようになったからこそできるものなのだ。
そうこうしていると、唐突に玄関のドアが開く音が聞こえた。厨房からは見えないが、もしかたら店に客かもしれない。既に外も日が落ちているため閉店中の看板が見えなかった可能性がある。そう思ったフェアは厨房の入り口あたりの床を掃いていたエニシアに声を掛けた。
「エニシア、悪いけどもう閉店したって伝えてくれる?
「うん」
せっかく来てもらったとはいえ、もう後片付けまで済ませてしまった後だ。今からできるものといえばそれこそ客相手に出すのは憚られるような出来合いのものくらいなのだ。
エニシアはフェアの言葉に頷き、玄関の方に向かって行く。
「あの、すみません。今日は……っ!」
その彼女の言葉が途中で途切れたことは疑問に思ったがフェアが厨房から出てみると、そこにはつい数時間前映像で見た男の姿があった。
「よう。閉店中で悪いが三人分の食事がしたい。あと宿泊もな」
フェアの姿を見たネロは挨拶代わりに片手を上げて言った。
どうやらもう一波乱が起きそうな感じであった。
次回投稿は1月になります。
ご意見ご感想評価等お待ちしております。
ありがとうございました。