大きな森に囲まれたある村の花畑で、大きな帽子をかぶった少女が座りながら手を動かしていた。
「お母さん喜んでくれるかな?」
手には白い花を持っており、それで花輪を作っているようだ。
「きゃ!」
不意に突風が吹き、帽子が飛ばされそうになり、少女は両手で必死に帽子を押さえた。
風が静まるのを感じて少女は心底ほっとした。彼女の頭には誰にも見られたくないものがある。それを隠すために日頃から大きな帽子をかぶっていたのだ。
「もう帰ろう」
今日、この花畑に来てから弱い風は何度か吹いたが、帽子が飛ばされそうになるくらいの強風に見舞われたのは初めてだった。頭を隠す帽子が飛ばされることは少女にとって、何物にも代えがたい恐怖なのだ。
つばを左右から両手で押さえて、足早に花畑から立ち去ろうとした。
だがつばを押さえたことで、足しか見えないほど視界が狭くなってしまう。おまけに早く帰ることばかりを考えすぎたことで注意が散漫になってしまった。その結果、前を歩いていた人とぶつかってしまい、つばを押さえていた片方の手が離れたのだ。
さらに少女にとって不運は続いた。片手が離れた瞬間、再び突風が吹いたのだ。残された手でつばを押さえていたことで、辛うじて帽子が飛ぶことは防げたが、風によって大きく捲り上げられたのだ。
少女の開けた視界に映ったものは、銀髪に青いコートを着た男が振り向いて冷たい瞳で自分を見下ろしている姿だった。
「え……あっ!」
自分がどういう状況にあるか思い至り、少女は慌てて帽子をかぶりなおした。
(見られた……!?)
帽子が捲り上がっただけであるため、隠したかったものが見られたか定かではない。それでもその可能性があるというだけで、彼女の心臓は早鐘を打ち、背筋に冷たいものが走った。
再び狭くなった視界に男が手にしていた黒い棒状のものが映った。それが武器の類であることは幼い少女にも容易に想像できた。村の人間ではない男が、はぐれ召喚獣が出没することもある街道を抜け一人でこの村に来たのだから、武装しているのが当然だろう。
男から威圧するようなプレッシャーを感じ、少女の体は恐怖から震え始める。それは自分の正体がばれることへの恐怖よりも、男の底知れぬ力とそんな彼の意識が自分に向けられていることへの恐怖だった。
「お母さん……」
無意識の内に彼女が唯一頼れる存在である母を呼んだ。
「……フン」
唐突に男は鼻を鳴らし、興味を失くしたかのように踵を返した。
重圧から解放された少女は、体の震えが止まるまで地面にへたり込んでいた。
「しばらくここに泊まりたい」
宿屋の受付でバージルは言った。
数日前、彼はとある都市の紅き手袋の拠点から、この村の近くに無色の派閥の施設があることを示す書類を発見した。それはかなり古いものであるため確度は低いが、手掛かりがないよりはマシと判断しここまできたのだ。
「どのくらいのご予定で?」
「長くとも四日程度だ」
書類が正しければ一日で終わるが、そうでない場合はこの周辺一帯を塗りつぶすように探すはめになるため、四日程の時間が必要なのだ。
「わかりました。部屋は二階の奥の部屋です」
受付から鍵を受け取り、部屋へ向かった。
ベッドと机、椅子が一つずつという質素な部屋で、荷物を置き椅子に腰かけたバージルは、この宿屋へ来る道中で会った少女の事を思い出していた。
(あの娘、悪魔か……?)
彼女の魔力は人間と似てはいるが違うものであり、頭部から生えていた角も人間ではないことを証明していた。さらに娘の魔力は以前戦った霊界サプレスの悪魔の魔力と似ていたのだ。
そこから考えられることは、少女が人間と悪魔のハーフであるということである。
もしそうであるならば、彼女から人間とも悪魔とも判断できない魔力を発しているのにも納得できる。
(まあ、これ以上考えても無駄か……)
いくら少女の正体が分かろうとバージルに何をもたらすわけではないのだ。彼女が強ければ、戦いに意味を見出すことができるかもしれないが、魔力量から大した力がないことは分かりきっている。
おまけに当の本人が、バージルの視線を受けただけで震えるほど恐怖を感じているのだから話にならない。
少女を一瞥した後、すぐに踵を返した理由の一つはそれだった。
そしてもう一つの理由は、彼女の母を呼ぶ声にあった。三年前、聖王都ゼラムにある紅き手袋の拠点を襲撃した後、スカーレルからヘイゼルの母の愛についての話を聞いてから、バージルの中には言い知れぬ感情が存在した。
それが少女の言葉によって呼び起されたからこそ、彼は何もせずに立ち去ったのだ。
「…………」
目を閉じて、一つ息を吐く。
ゆっくり目を開け、これからのことに思考を切り替えた。そして足元に置いていた旅行袋から、地図と紅き手袋から奪い取った書類を取り出し、机の上に広げる。
明日から書類をもとにこの村の周辺を探索するわけだが、一応書類には簡単な地図がついているものの、なにぶん古いものであるため現在の地図とは異なる点が多すぎるのだ。
だからこそ書類と地図の情報を照らし合わせ、少しでも正確なものに近付けることは、無駄な探索を行わない為にも重要なことなのである。
バージルは黙々と書類と地図を見比べ、明日の準備を進めて行く。彼が眠りに就くのはもう少しかかりそうだった。
「おはよう、お母さん……」
少女は寝惚けた目を擦りながら母に挨拶をした。
「その様子じゃあ、もう大丈夫みたいね」
「うん……心配かけてごめんなさい」
彼女はあの青いコートを着た男、バージルに会った日から具合が悪いと嘘をついて、家に閉じこもっていたのだ。しかし本当に見られたのか分からなかったため、母にこの村を離れようとは言い出せなかったのだ。
それでも彼女の恐怖がそう簡単に消えることはなく、むしろ、ばれていたら自分が言わなかったせいで母も危険な目に遭ってしまうのではないか、と考えてしまい夜も眠れなかった。
リスク管理の視点から考えれば、彼女の行動は悪手なのかもしれないが、それを十歳ほどの少女に言うのはあまりにも酷過ぎるだろう。
結局、少女がバージルと会ってから四日経つが、いまだ何もなかったため彼女は、何も見られなかったのだろうと思い始めていた。
「今日はお花畑に行ってくるね。お母さんの分の花輪も作ってくるね!」
彼女はあの時は作れなかった、母へプレゼントするための花輪を作るつもりでいた。
「ふふ、楽しみにしてるね。あ、でも、帽子を忘れちゃだめよ」
「うん、わかった!」
少女は人間ではなかった。母と霊界サプレスの悪魔の間に生まれた半魔が彼女なのだ。頭に生えている角はその証である。これこそが彼女が見られたくはなかったものだ。
サプレスの悪魔は一般的に恐怖の存在であるため、もし少女がその悪魔の血を引いているのが知られたら、決してただでは済まないだろう。良くて村から追放か、最悪殺されてしまうかもしれない。それに気付かれたと感じた時は、何か言われる前にすぐにその土地から出て行くようにしており、実際にこれまで彼女たち親子は各地を転々としてきたのだ。
だからこそ彼女は、帽子をかぶり角を隠しているというわけだ。昔は髪で隠れるくらいに角は小さかったが、少女が成長するにつれ角も日に日に大きくなっていき、今では帽子をかぶらなければ隠せないほどにまで大きくなってしまったのだ。
これからも角は大きくなっていのだろうか、そんな不安を抱いたことは何度もある。もしかしたら、これまでのように外に出ることができなくなるかもしれない。
しかし、たとえそうなっても少女は不幸だとは思わないだろう。彼女にとって大好きな母と一緒に過ごせることだけで十分幸せなのだ。
「いってきまーす」
朝食を食べ終わった少女が出かけて行く。だが、彼女は知らない。幸福の終わりがすぐそこまで来ていることを。
バージルは宿へ戻るため、獣道を進みながら森の中を歩いていく。探していた無色の派閥の施設は今日も結局、見つかることはなかった。
見つからないこと自体は決して珍しくはないものの、ここ数ヶ月は「当たり」を引くこと自体なかったのだ。そのためか、どこか彼の足取りは重くなっていた。
(そろそろ、これまでのやり方を考え直すべきかもしれんな……)
これまで見つけてきた無色の施設から彼らの拠点がある場所は、一定の条件を満たす場所に作られていた。これからはそういった場所をピンポイントで探した方が効率がいいかもしれない。
それに紅き手袋からも情報は得られる。紅き手袋は比較的規模の大きな都市であれば、まず出先機関などがあるため探しだすのは、無色の派閥より遥かに容易いことなのだ。
「…………?」
思考を進めながら歩を進めていると、村の様子が常と違っている事に気付いた。
この村はいつもなら静かで牧歌的ですらあるのに、今はまるで祭りでもあるのかと思う程に騒がしくなっていた。ただそこには楽しげな雰囲気などはなく、緊迫感に満ちた怒号が飛び交っていた。
(はぐれか盗賊でも現れたか……いずれにせよ俺には関係ないな)
討伐の依頼を受けているのなら話は別だが、あいにく今のバージルは金に困っていない。三年前にスカーレルから得た報酬によって彼の懐は大分潤っていたのだ。
かつては金銭的な余裕がなかったため、仕事であれば選り好みせずに受けていたが、今では仕事を選べるくらいの余裕があった。最近では賞金がかかった盗賊等を討伐する一種の賞金稼ぎのようなことをして収入を得ていた。
そういった盗賊等の相手はただの人間であるにも関わらず、報酬は高めだ。金を稼ぐことにあまり時間をかけたくないバージルにとって、非常に割のいい最適な仕事だといえるだろう。
村の騒ぎを尻目に宿へ戻ったバージルは机の上に地図を広げた。今日でこの周辺の探索は全て終了したため、次の目的地をどこにするか地図を眺めていた。
そんな時ドアをノックする音が聞こえた。
「お客さん、すいません。相談したいことがあるんです!」
声からからすると宿の主人の妻のようだが、随分と切羽詰まっている様子だった。もしかしたら村の騒ぎと何か関係があるのかもしれない。
「何だ?」
ドアを開けた所には主人の妻の他に杖をついた老人が立っていた。主人の話しによると老人は、この村のまとめ役をしている者だということだった。
老人はバージルを見ると深々と頭を下げて口を開いた。
「急に押しかけて申し訳ありません。ですが、どうしても聞いていただきことがあるんです」
「…………」
無言で続きを促された老人は話を続けた。それによると、少し前からこの村に住み始めた母子の娘の方が悪魔だったというのだ。それに驚き恐怖した村人達は志願者を中心に討伐隊を組織して逃げた母子を追ったが、戻ってきたのはたった一人だけだった。
その唯一の生き残りの男の話では、悪魔を後一歩のところまで追い詰めることができたものの、不思議な力を使ったのか仲間が次々と苦しみながら倒れていき、同時に悪魔の傷はだんだんと治っていったというのだ。
そして男はあまりの出来事に恐ろしくなり命からがら逃げてきたというのだ。
この話を聞いた主人の妻は宿に泊まっているバージルの事を思い出し、部屋を訪れたのだ。
「あなたは腕利きの冒険者とお見受けしました。どうかお願いします。悪魔を討伐しては下さいませんか」
「お願いします! どうか……どうか、あの人の仇を……」
老人に続き女性も嗚咽をこらえながら頭を下げた。それでも抑えきれない涙が重力に従い床に落ち、大きな染みを作った。
見ると老人も表情にこそ出ていないが、悲しみを堪えるかのように口を真一文字に結び、杖を持つ手も震えている。
どちらもおそらくは、その悪魔の娘に大切な人の命を奪われでもしたのだろう。だからこそバージルに討伐を依頼してきたのだ。
(あの時の娘か……)
数日前に会った少女の事を思い出す。バージルは彼女が悪魔と人間のハーフではないかと推測したが、少なくとも悪魔の血を引いていることはほぼ間違いないようだ。
しかし、疑問もあった。あの時の少女はバージルの視線を向けられただけで、恐怖に震えるような存在なのだ。いくら悪魔の血を引いているとはいえ、とても何人もの人間を殺せるほどの度胸があるとは思えなかった。
(力を無意識に使ったのか……?)
これまでの情報から彼は少女が、ただ単に目覚めた力を制御できないでいるのだろうと予想する。
だが問題は母親の方だ。バージルがこの村に来てから、少女以外に悪魔の魔力は感知しなかったが、そもそも少女の母親とは会ったことはおろか、どこに住んでいたのかさえ知らないのだ。
そのため母親が悪魔であり、村人を殺したのも母親である可能性を否定することはできなかった。
「……いいだろう」
思考を巡らせた末、バージルは村人の依頼を受けることにした。ここであれこれ考えるより、実際にその母子を見れば全て明らかになる。それに時間のかかりそうな依頼ではない。明日、この村を出るという予定には影響しないだろう。
「あ、ありがとうございます!」
何度も頭を下げ、二人から感謝の言葉を背に受けながらバージルは閻魔刀を携え、母子が逃げたという森へと向かって行った。
村から少し離れたところにある山林。そこの崖下にある洞窟に少女とその母親はいた。母子は二人とも体のあちこちに傷があったものの、手持ちの道具では最低限の応急処置を施すのが精一杯だった。
特に少女の傷は酷かったようで、彼女は横になって寝ており、母親が必死の看病を続けていた
「ごめんなさい、お母さん……ごめんなさい、私のせいで……」
少女が弱弱しげに言う。
母子がこんなことになってしまった始まりは、少女の頭に生えた角を村人に見られてしまったことだった。泣きながら帰ってきた最愛の娘から角を見られてしまったことを聞いた母親は、村に迷惑をかけないためにもすぐに出ていくことにした。
だがそれで終わらなかった。村人達は武器を手に母子を追ってきたのだ。当然、戦う力などない彼女達はただ逃げるしかなかった。しかしまだ十歳の娘を連れて早く逃げるのは難しく、半日とかからず追いつかれてしまった。
母親の記憶は後頭部を襲う痛みと共に、一旦途切れた。そして彼女が意識を取り戻したとき目に映ったのは、姿が変わり傷だらけになりながらも呆然と立っている娘とぼろ雑巾のように倒れている村人の姿だった。
村人が死んでいることに気付いた母親は娘を抱いて、痛む体に鞭打ってその場から逃げだした。
それから運良く雨風を凌げそうな洞窟を見つけ、今はそこで体を休めているのだ。
もうじき完全に日も暮れる。いくら自分達が憎かろうと、村人達もわざわざ暗闇に閉ざされる森の中を探すようなことはしないだろう。そう考え、今日はこの洞窟で夜を明かすつもりだった。
そうでなくとも少女の体は傷だらけなのだ。今、無理をしたら間違いなく悪化する。下手をすれば命に関わるかもしれない。
「大丈夫、大丈夫だから……今はゆっくり休んで」
娘の手を握りながら声をかける。いくら姿が変わろうと、悪魔の能力を受け継いでいようとこの子だけは守る、そんな意思を込めながら。
少女は悪魔と人間のハーフ、半魔なのだ。
今から十年以上前、少女の母親が生まれ育った旧王国の村は、はぐれ召喚獣の悪魔に襲撃され滅ばされた。ほぼ全ての村人が無惨にも殺されただ一人生き残ったのが、母親だけだった。
だが、彼女は生き残ったものの悪魔の子を身籠っていた。そうして生まれたのが、現在横になっている娘だった。決して望んで生んだ子供ではなかったが、彼女は娘を精一杯育てた。
娘の無邪気な笑顔に荒んだ心が癒され、救われたのかもしれない。そしていつからか娘は母親にとってかけがえのない大切な存在であり、希望となっていたのだ。
不意に背後から声が聞こえた。
「……悪魔の血を引いているのは娘だけ、というわけか」
驚いた母親が顔を青褪めさせながら振り向くと、そこに青いコートを着た銀髪で長身の男が立っていた。左手に武器のようなものを携えながら男は、恐ろしい程冷たい瞳で見下ろしていた。
バージルは洞窟の中にいる母子を一瞥した。
村で逃げた母子の討伐を依頼された彼は、魔力を頼りに二人を追ってきたのだ。最初にこの村に来た時に娘と会っていなければ、ここまでスムーズに見つけることはできなかっただろう。
母親は人の姿であるものの、娘の方は肌の色が青紫色に変わっていた。
当初バージルが予想した通り、悪魔の血を引いているのは娘だけであり母親の方はただの人間のようだ。村人の命を奪ったのも、母親の後ろで横になっている少女の力によるもので間違いないだろう。
結局のところ今回はバージルの予想が完璧に的中していた。ただ、それは彼にとって最も退屈な結果でもあった。
(つまらん、さっさと片付けて戻るとするか……)
左手に持った閻魔刀に手をかけようとした時、母親が叫んだ。
「お願いします! 私はどうなっても構いませんから、この子だけは助けてください!」
バージルの心にいつかの光景がフラッシュバックした。母が子を守るために身を呈する。この光景は――。
(……くだらん)
この程度のことで心を乱されることは、彼にとってこの上ない屈辱だった。
だからこそ悪魔であるバージルは心を押し殺し、いつものように閻魔刀に手をかけた。
「お母さんっ、だめ!」
自分の身を犠牲にしようとする母を止めようと、傷ついた体を無理矢理動かし、少女が叫びながら縋りついた。
「私、お母さんと一緒じゃなきゃ、いやだよぉ……」
泣きながら懇願する少女を見ていると、抑え込んだ筈の感情が再び湧きあがった。
(……やめだ)
あの島でも自分らしくないことは何度かやったのだ。いまさらそれがもう一回増えた所で問題はない、そう自分を正当化しながら胸中で呟いた。
だがそれは所詮、己を取り繕っているだけだということくらい、冷静なバージルは理解していた。
閻魔刀から手を離しバージルは洞窟から出ていくため体を翻した。
同時に倒れ込むような音が聞こえた。
「う……ぅ……」
倒れ込んだのは緊張の糸が切れたからだろうと思っていたバージルだったが、苦しむような声を怪訝に思い振り向くと、倒れ込んだ母親に縋りつく少女の姿があった。
少女の頭から生えている赤黒い角は光を放っており、母親はそれによって苦しんでいるようにも見えた。
(やはり、この力は……)
少女の魔力から感じた既視感。そしてこの能力から彼女の父親に見当がついた。今から六年前に聖王国で戦い、そして滅ぼした悪魔の軍勢の首領だ。あの悪魔も周りの生命力を吸収し傷を癒していたのだ。
おそらく村人もこの力で生命力を吸い取られたのだろう。
だが少女はその能力を制御できないようだ。
「いやっ、止まって、止まってよ! お、お母さん、お母さんが!」
命を吸収し傷が癒えていく少女と、見る見るうちに弱っていく母親。少女の能力が止まった時には母親はひどく衰弱していた。
「あ、ああ……お母さん、わ、わたし……わたし……」
言いたいことはいくらでもあるのに、上手く言葉にできない少女に母親はやさしく声をかけた。
「いい、のよ……あなた、の……傷、治……ってよか、った……」
息も絶え絶えだったが、今度はバージルに声をかける。
「どうか……この、子を……おねがい、し……ます」
バージルは何の言葉も返さない。表情も変わっておらず、何を考えているかも分からない。ただ二人を見ているだけだ。それでも母親は微笑した。
そして最期の力を振り絞り、手を最愛の娘の頬に当てて語りかけた。
「あ、なたは……じぶん、の幸せを……見つけて、ね……」
「うん……うん……わかったから、死んじゃやだぁ……」
頬に添えられた母の手を握り、大粒の涙を流しながら母に抱きついた。
そんな娘を優しく抱きしめ、そして彼女の瞳から光が失われた。
「お母さん? お母さん! ……あ、ああ、ああああ――」
悲しみと後悔が込められた慟哭が洞窟の中に響き渡った。そして外では少女の悲しみを吐き出すように猛烈な雨が降り始めていた。
翌日、一度村に戻っていたバージルは再び洞窟を訪れていた。今日の早朝まで降り続いた雨はすっかり止んでおり、空には嘘のような青空が広がっていた。
「決めたか?」
短く尋ねられた少女はこくんと頷いた。
昨夜バージルは、少女が泣きやんだ後、一つの提案をしていた。それは、行くあてがないのなら自分と共に来てもいい、ということだ。
勿論彼は母親の最期の頼みを果たそうというわけではなく、少女に同情したわけでもない。ただバージルは己に不快な感情を起こさせた原因の一つである彼女を、このままにしておくことができなかったのだ。
もはや彼はその感情をそのまま放置しておくつもりはなかった。スパーダや
少女はその手掛かりになるかもしれない。もっともそうはいっても、まだ十歳程度の子供から得られるものなどたかがしれているだろう。それゆえ、たとえ断られても大した痛手ではないのだ。
だからこそ少女に選ばせることにした。かつてバージルが母を失った時に悪魔として生きることを選んだように、彼女にこれからどうするか、自らの意思で決めさせることにしたのだ。
「連れて行って、ください……お願いします」
少女がなぜ自分と共にいく道を選んだのかは分からない。それでも彼女は確かに自分の意思で行くべき道を選んだのだ。
もちろんバージルもそれに異を唱えるつもりはなかった。
「好きにしろ」
それだけ告げて踵を返した。少女も急いで後を追う。そのまま洞窟を出ようとしたバージルはあることに気が付いた。
「……名は?」
彼は少女の名前を知らなかったのだ。最初に会った時から今まで彼女が名前で呼ばれたところを聞いたことがなく、これまで尋ねたこともなかったので当然だろう。
「あ、ポムニット、です。あ、えっと……」
「バージル」
彼女が聞きたいことを察したバージルはぶっきらぼうに答えた。
洞窟を出ると少し離れたところに墓らしきものが作られていたのがわかった。おそらくポムニットが昨夜の内に作った母親の墓だろう。
少女は駆け寄り、母へ感謝と永訣の言葉を伝えた。
「お母さん、今まで、ありがとう……行ってきます」
バージルはその様子を少し離れた所から見ながらこれからのことを考えていた。とりあえず現在のバージルの目的はあの感情を理解することだ。
だが、それ以外にもこの少女の処遇を決めなければならないのだ。いくら目的を果たすための手掛かりとはいっても、さすがにずっと連れ回すつもりはないので、いずれはどこかに預けるか独り立ちさせる必要がある。
(やはりあそこしかない、か)
頭の中で次の目的を決めた時、ポムニットが戻ってきた。どうやら別れは済んだようだ。
バージルは墓に背を向け歩き出そうとしたが最後に一言だけ、名も知らぬ母親へ手向けの言葉を呟く。
「Rest in peace」
第17話いかがだったでしょうか。おそらく今後数話は戦闘なしの回になると思います。戦闘ありの話を書きたいのはやまやまですが、話の構成上どうしても必要なことですのでご理解ください。
なお、最近ゴッドイーターに再びはまっているので、次回更新は来月末か2月頭になると思います。
ご意見ご感想お待ちしております。
ありがとうございました。