アロエリによって引き起こされた一騒動が落ち着き、帝都では多くの屍が生み出された日の翌日、トレイユの忘れじの面影亭ではアロエリが預かった遺産「守護竜の角」に込められた力の継承が行われていた。
「先代より預かりし力、お渡しいたしました」
力を継承した影響で竜の姿へ戻ったミルリーフに、アロエリは恭しく礼をしながら言った。昨日のような暴走さえしていなければ、彼女は守護竜に忠実で優秀な戦士なのだろう。
「……で、今度はどういう力を得たんだ?」
見た目も魔力もこれまでと全く変わりない姿のミルリーフをしばらく凝視していたネロだったが、結局どこが変わったか分からなかったようだ。
これまでミルリーフに継承された力は魔力の制御と身体能力を司る力の二つであり、それぞれを継承した際にはミルリーフの魔力が強くなったのだ。しかし今回はそれがない。本当に継承できたのか疑ってしまうほど、何の変化も見られなかった。そのため、御使い達に尋ねてみることにしたのだ。
「アロエリが託されたのは知識ですの。過去に失われた秘術や、人間には到達できていない真の世の理といった、先代の持つ知識の集大成が継承されたのです」
ミルリーフがまた一つ先代の力を継承したことへの達成感、あるいは知識を司る天使であるせいか、リビエルは得意そうな顔をしている。
「そりゃあ随分とヤバいものを渡されたもんだな」
秘術だの世界の理だのには全く詳しくもなく、興味もないネロだったが、それの危険性は悟ることができた。人間がいまだ知り得ていない知識を、大した力も持っていないミルリーフの中にあると知れたら、どんな輩に狙われるか分かったものではない。
「それほど心配することはないぞ、御子どのに受け継がれた知識はまだ封印がかけられているからな」
「それじゃあ、せっかくの知識も使えないってことじゃない……」
セイロンの説明を聞いたリシェルは残念そうに言うのを見たアロエリは補足して説明することにした。
「仕方のないことだ。万が一にでも奪われ、知識を利用されることなどあってはならないからな」
知識を悪用される危険性については先代の守護竜も認識していたようで、それを防ぐ意味もあって知識に封印をかけたいたのだ。
「そしてその封印を解くには、先代の記憶が込められた最後の遺産が必要だ」
「ええ、その記憶さえ継承してしまえば、先代の全てを受け継いだことになりますし、もう心配も無用ですわ」
「そっか、これで三つだもんね。次で最後なんだ……」
フェアが寂しそうに小声で呟いた。最後の遺産を継承さえしてしまえば、もうフェア達がミルリーフを守る必要はないのだ。敵に占拠されたラウスブルグをどうするかという問題は残るが、少なくとも別れの時が近づいているのは確かだ。
「それじゃあ、最後の御使いが来るまではこれまで通り様子見ってことでいいのかな?」
「いや、追手を向けられている以上、こちらから探しに行った方がいい。いくら御使いが強くとも、多勢に無勢では厳しいだろうしな」
ルシアンの確認にグラッドが反論した。まだ到着していないということは、追手との戦いで思うように移動できていない可能性がある。ここで待っているより、たとえ戦闘になる危険を冒しても迎えに行った方がいいという判断なのだろう。
「探しに行くのはいいけど、その最後の御使いってどんな人?」
「うむ、最後の一人はクラウレと言ってな。我々の長にして、アロエリの兄、そして先代に最も信頼されていた男だ」
「兄者はオレの何倍も強いセルファン族最強の戦士だ。どんな苦境にあっても、必ずここに向かっているはずだ」
その言葉だけでもアロエリが兄に全幅の信頼を寄せているのが分かる。セイロンも同じようにクラウレを信頼していることが言葉から感じ取れた。
「なら少しでも早く会うためにもみんなで探しにいきましょう。情報収集も兼ねて」
ミントの提案に反対する者はなく、とりあえず準備が整い次第、付近を捜索するために出かけることにした。
同じ頃、バージルは帝都ウルゴーラからその近く潜ませているラウスブルグへと戻っていた。紅き手袋の拠点で手に入れた書類の選別はアズリアに任せているため、それを回収してからラウスブルグをトレイユ方面に戻すつもりでいるのだ。これからすぐに紅き手袋や無色の派閥を潰して回るわけではないが、各種施設の情報を仕入れておいて損はない。
そうして時間ができたため一旦ラウスブルグに戻ったバージルは、大広間でギアンと昨日の紅き手袋の拠点を潰したことについて話していた。
「なるほど僕が渡した情報は信用してもらえなかったというわけか」
バージルがギアンの渡した情報の信用性を疑問視して、帝都まで出向いたことを聞いたギアンは心外だと言わんばかりの冷ややかな表情を隠さなかった。彼としては情報に嘘を混ぜてはいなかったので、そう反応するのはある種仕方のない部分もあるだろう。
「当然だろう。少し前まで敵だった奴が渡した情報など信用するものか。ましてその相手がこちらのことを信用してないのなら猶更だ」
しかし、バージルの言っていることもまた正論だった。渡した情報に偽りはなくとも、ギアンはバージルのことを一切信用していなかったのだ。自分が相手のことを信用していないのに、自分のことは信用してほしいなど、さすがに都合が良すぎるだろう。
「そんなことのために、君は一体何人の人間を殺したんだい?」
「その言葉、貴様らにそっくり返すとしよう。……それに、これでも感謝はされたのでな。『おかげで奴らを追い詰められそうだ』とな」
都合が悪くなった時ばかり被害者面とは実に滑稽だ、と侮蔑も込めながらバージルは言う。そもそもこれまで何人もの人間を殺してきた奴らに、そんなことを言われたくはなかった。
「ま、まさか……! 僕が渡した情報を一体どうした!」
てっきり自らが渡した情報の信憑性を確かめただけだと思っていたギアンは、バージルの言葉を聞いて嫌な予感がして問い質した。
「売った」
たいしたことないように呆気なくバージルは答えた。当然、情報を売った相手はアズリアだ。無色の派閥にも紅き手袋にもいい感情を抱いていない彼女は、相当の金を支払ってその情報を買い取ったのだ。おかげでバージルの財布はだいぶあたたかくなった。
「っ!」
財布とは逆にギアンの顔は真っ青になった。バージルに渡した情報の中には派閥の幹部達の拠点の情報も含まれているのだ。
さすがにこれまで感情的にならないように努めて冷静でいたギアンも、焦りと驚きの表情は隠しきれない様子である。
「どうせ奴らはじきに終わる。今の内に手を切っておけてよかっただろう?」
ギアンの心を見透かしたようにバージルは、見下すような冷笑を浮かべた。
「君は分かっていない! 奴らの恐ろしさは……!」
若くとも無色の派閥の有力な家系の当主としてやってきたギアンには派閥の執念深さはよく知っているし、何度か協力させたこともあるため、紅き手袋の暗殺者の恐ろしさも理解していた。
特に渡した情報の中で危険なのは、大幹部セルボルト家だ。先代の当主が一時期壊滅の危機に瀕した無色の派閥、紅き手袋の両組織を救ったため、双方に絶大な影響力を持っている。それは先代の当主が儀式のため出向いたサイジェント近郊で死亡した今でも変わらない。
もしギアンが情報を漏らしたことを気付かれたら、彼らに報復されることは間違いない。派閥という組織に忠誠心は持っていないギアンだが、好き好んで標的になろうとは思えないのだ。
抗議しようと言葉を続けようとしたギアンだったが、彼がその言葉を言うことはできなかった。バージルの視線に射貫かれ、蛇に睨まれた蛙のように金縛りにあったのだ。
「……俺と戦って勝てると思っているのか?」
愚かだな、と言わんばかりの視線をギアンに送る。これまでと変わりない抑揚のない声だったが、ギアンには心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じる魔王の声に聞こえたのだ。
「わ、わかった……わかったよ……」
声を震わせながら何歩か後ずさる。もはやギアンは諦めるしかないことを悟った。確かに派閥や紅き手袋の報復も恐ろしいが、それ以上にこの男の方がずっと恐ろしかったのだ。
だが、恐怖による選択だとしてもこの判断は正しかった。ギアンの思考の中に出たセルボルト家、その先代当主であるオルドレイクを殺したのはバージルなのだ。そしてそれ以前に、無色の派閥と紅き手袋を壊滅寸前にまで追い詰めたのも同じくバージルなのだ。
もしバージルが島に帰っていなければ、とうに両組織は壊滅していたことだろう。そんな男に情報を求められた時点で、ギアンの運命はほぼ決まっていたのだ。
「分かればいい。……ところで、例の幼竜の件はどうなった?」
ギアンが不承不承ながらも納得したのを見て、思い出したようにトレイユにいるという守護竜の子のことを尋ねた。
「どうもこうもない。君がこんなところまで城を動かしたせいで何もできないんだよ」
バージルがラウスブルクを帝都近郊まで動かしたのは、ちょうどギアン達が再度の攻撃をかける前だったのだ。そのため彼らは実質、何もできていなかった。せいぜい、竜の子奪取のための作戦を立案した程度だ。
「しばらくは余計なことはするな」
バージルはラウスブルグを長く帝都近くに留めておくつもりはなかった。近くアティとポムニットに示した合流地点であるトレイユ近くまで戻らねばならない。
その際にバージルは、かねてより考えていた己の血を引く者の力を試してみようと思っていた。ギアンにしばらく行動の中止を命じたのは、その邪魔をされたくなかったからだ。
「なぜそんな……、いや、わかった。言う通りにする。彼らにも伝えて来るよ」
その理由を尋ねようとしたギアンだったが、バージルが話すとは考えにくいと思ったのか、すぐその言葉を取り消し、配下の将軍や教授に伝えるために大広間から出て行った。
それを無言で見ていたバージルだったが、内心ではトレイユにいる自らの血を引く者のことを考えていた。
(ネロ、といったか……、俺の血を引くのなら少しは戦えるといいが)
会ったこともない存在に期待しながら、バージルはまるで玉座のように備え付けられたに椅子に座るのだった。
それから数日後、トレイユではまた忘れじの面影亭に皆が集まり話をしていた。一昨日までの捜索では、最後の御使いであるクラウレはおろか、その手掛かりすら得ることはできなかった。
そのため、昨日も捜索に出かけようという話になっているのだが、グラッドによって急に不要な外出が禁じられたため、町の中で大人しくすることになったのだ。
とはいえそれ自体は、連日の捜索によって疲労が溜まっていたリシェルあたりには歓迎されていたようだが。
「えー!? 今日も町の外に出ちゃいけないの!?」
しかしそれが二日続けてとなると、さすがにリシェルも不満の声を漏らした。普段は二日くらい町の外に出ないのは珍しいことではないのだが、こうして禁止されてしまうと、たいして影響なくとも、どこか息苦しく閉塞感を感じてしまうのは仕方のないことだろう。
「今日も、というより当面の間らしい。なんでも帝国全土で無色の派閥や紅き手袋の大規模な摘発をするらしくてな」
「それで……どうして私達は町から出ちゃいけないの?」
フェアが疑問を呈した。別に派閥や紅き手袋を摘発することに文句はないが、それがどうして町を出ることを禁じられるのか分からない様子だった。
「きっとみんなの安全を守るためじゃないかな? もしかしたら報復に事件を起こすかもしれないし」
「物騒な話だな、そりゃ」
ミントの言葉にネロが呆れたように肩を竦めた。どこの世界に行っても人間は同じようなことを考えるらしい。
「それだけじゃないぞ。町の外に出られないってことは、他の都市にも行けないってことだ。つまり、よそからくる奴がいたら、そいつは派閥か紅き手袋の人間である可能性が高いってワケさ」
「な、なんか今回は随分と徹底してるね……」
構成員の一人も見逃さないような態勢は、執念すら感じさせた。摘発自体はこれまで何度か行われてきたが、今回のように帝国全土へ命令が下るような大規模なものは、ルシアンの記憶にある限り初めてだった。
「なんたって今回の指揮を執るのは、あのアズリア将軍だからな! これまでとはわけが違うってことさ!」
何故か自分のことのように誇らしげに語るグラッドを不思議に思ったネロが首を傾げていると、フェアが口を開いた。
「確かその人って帝国初の女将軍になった人だよね? たしかお兄ちゃんの憧れてる部隊を率いているのもその人だっけ?」
「国境警備部隊の要『紫電』だな。陸戦隊なら一度は憧れるところだよ」
今でこそアズリアの率いる「紫電」は、今でこそ精鋭部隊の代名詞だが、ほんの五年ほど前までは退役間近の兵ばかり集められる閑職に過ぎなかった。
それが変わったのは先のエルバレスタ戦争で、悪魔の侵攻をアズリアの指揮の下に見事に阻止したからだ。この功績でアズリアは将軍へと昇進し、帝国軍上層部も国境警備部隊の重要性を再認識し、警備部隊の強化を図ることになったのだ。
「紫電」は編入試験も訓練も非常に厳しいが、広く門戸が開かれ出自によって区別されることはない。条件を満たし編入試験に合格すれば誰しも入ることができる。つまりは手の届く目標なのだ。そのあたりが「紫電」が陸戦隊憧れの部隊である理由の一つかもしれない。
「まあ、それはそれとして、しばらく捜索は諦めざるを得ないということですわね?」
「まあ、そういうことだ」
リビエルが確認するような言葉にグラッドは頷いた。色々脱線はしたが結局のところ、しばらくは捜索できない状況が続くことは避けようがないのである。
「致し方ないな。しばらくはクラウレを信じて待つとしよう。ただ、その代わりと言ってはなんだが、あやつが来た時は……」
セイロンも同意した。ただ、それを受け入れる代わりにグラッドに条件を付そうとした。
「ああ、そのクラウレって奴が来たら通せばいいんだろ? 任せとけって」
セイロンの条件自体は予想していたのか、彼が言う前にグラッドが口にした。これはクラウレがアロエリと同じく、背中に翼の生えたメイトルパの亜人セルファンだからできることだ。仮にクラウレが一目見ただけでは人間と変わらないシルターンの人間であったなら、こんな配慮をすることはできなかっただろう。
「心遣い、感謝する」
「いいっていいって、気にするなよ」
真面目な顔をして礼を言ったセイロンにグラッドは笑いながら言葉を返した。駐在軍人として見れば、グラッドのしていることは決して褒められた行為ではないが、ミルリーフが全ての遺産を継承すれば、一つ問題が解決するため、そう判断したのだろう。
「とにかくしばらくは暇になるってことよね」
何をしようかと思い悩むリシェルを、呆れたように見つめるルシアンは大きく息を吐いて言う。
「姉さん……。こっちは暇でも、あいつらは来るかもしれないんだよ」
こっちは町の外に出られなくとも、あの「将軍」や「教授」といったミルリーフを狙う輩は、帝国の指示に大人しく従うような者達ではないだろう。だからこそ、警戒を緩めることはできない。むしろいつも以上に注意を払うべきだと、ルシアンは思っているようだ。
「その通り、気を緩めないようにな」
生まれ育ったラウスブルグを追われるなど、彼らには随分煮え湯を飲まされたアロエリはルシアンの言葉に同意した。
「……結局、これまで通りってことだろ?」
御使いの到着を待つこと自体はこれまでと同様だ。そのため、いくら町から出られない状況にあるとはいえ、いつも以上に警戒する必要をネロは感じていなかった。
そもそも、レンドラーにしてもゲックにしてもネロの目には脅威には映っていなかった。それは彼らが率いている軍団を考慮に入れても変わりないのである。むしろ多数相手の立ち回りに関しては、悪魔を相手にしていた経験もあって手慣れているのだ。
「ま、そういうことだな。それに、せいぜい五日もすれば禁止も解除されるだろうから、そんなに深刻になることはないさ」
グラッドは説明しなかったが、今回の禁止令は商人など、許可を受けた者には適応されないことになっていた。さすがに商人を含めて一切の例外なく禁止にしてしまえば、帝国の経済はもとより人々の生活にも重大な影響を与えてしまうためだ。
もちろん商人には許可を出すからといって、悪影響がなくなるわけではないが、長期化しなければ深刻な事態にはならないと、アズリアなど禁止令の発令に関わった者達は判断したに違いない。
「それじゃあ、禁止令が解除されるまでは捜索は中止でいいのよね?」
フェアはこれまでの話の流れを聞いて、全員に確認するように言った。当然、異論が出ることはなく、今日の所はそれで解散にすることにした。
その日の夜、店の営業が終わってしばらくした頃、ネロは水を飲むために食堂に来ていた。しかし、そこには先客いたようだ。
「何やってんだ? こんな時間に」
食堂にいたのはフェアだった。これが厨房に立っていたら明日の仕込みでもしているのかと思うこともできただろうが、今の彼女は書類の束が置かれたテーブルに座り、筆記用具を持って難しい顔で何やら書き込んでいた。
「帳簿つけてるの、いろいろ忙しかったから溜まっちゃててさ」
大きく息を吐いたフェアは、ストレッチでもするかのように背中を伸ばしながら答えた。
「あー、そいつは大変だな」
ネロも事務所を営んでいる以上、帳簿をつけるのが必要だというのは理解している。そうはいっても、彼の場合はキリエがやってくれているのだが。
なお、余談だがダンテは当然のようにそんなものをつけたことは一度もない。
「リビエルにも手伝おうかって言われたけど、これでも店主だからね。やっぱり収支くらいは把握しておかないと」
忘れじの面影亭は赤字を出してはいないが、オーナーであるブロンクス姉弟の父、テイラー・ブロンクスが求めるほどの利益は出していないのが現状なのだ。
しかし最近は、知り合いから聞いたアドバイスを活かしたり、お題に沿った料理を作ることで腕も上げたりしているおかげで、少しずつ客も増え、評判も良くなってきていた。しかし同時に、ネロを筆頭に居候も増えたせいで、今のところ利益自体はたいして変わりなかった。
「随分やる気なのは結構だが、あまり無理はするなよ」
店は少し前まで営業していたため、フェアはずっと料理を作っていただろうし、店が閉まった後も明日の仕込みをしていたはずだ。その上、こうして帳簿をつけるとなると大きな負担になるのは、火を見るよりも明らかだ。
「普段はこんなに溜めないから大丈夫だよ。……それよりネロも何か用事があったんじゃないの?」
「水を飲みに来ただけだ」
フェアにそう言われて、ここに来た理由を思い出したネロは、水瓶からコップ一杯分すくい一気に飲み干した。
町の中心部は水道橋からため池に貯められた水が供給されているが、中心部からは程遠い忘れじの面影亭の面影亭は、毎日、庭にある井戸から水をくみ上げていのだ。これがなかなか大変な作業で、ネロは整備された水道が恋しくなったこともあった。
「ねぇ、ネロ……」
水を飲んだネロは、フェアの邪魔をするのも悪いと思いさっさと部屋に戻ろうとしたが、その途中で呼び止められた。
「何だ?」
聞きながら振り返ったネロの目に映ったフェアは、いつものようなしっかり者ではなく、どこか幼い子供のような雰囲気を漂わせていた。
「最後の御使いが来れば、もう私達がミルリーフを守る必要はないって話だからさ……。そしたらネロも出て行っちゃうんだよね?」
「まあ……そうなるだろうな」
ミルリーフに関する一件が片付くまでは協力する、というのはネロ自身が言ったことであるし、今もそれを変えるつもりはない。ただ、守護竜の力を全て継承したミルリーフと御使い達が選ぶ道によっては、もう少し協力してもいいと思っていた。
なにしろミルリーフを狙う者達のことは、いまだ解決の糸口すら見つけ出せていないのだ。守護竜の力を受け継いでしまえば自分達に守ってもらう必要はないくらい強くなるという話だが、精神的にも幼いミルリーフに戦いなどはさせたくなかったのだ。
したがって、最後の御使いが来れば出て行くと言うのは必ずしも正しくはないが、遅かれ早かれここを去るのは間違いないため、ネロはフェアの言葉を肯定したのである。
「そっか……、そうなるとここも寂しくなっちゃうね……」
これまではリシェル達がいるとは言っても、フェアはこの忘れじの面影亭で一人暮らをしてきたのだ。ネロ達が出て行ったとしても、表面上はその状態に戻るだけだが、やはり今のような賑やかな生活に慣れていると、寂しさを感じてしまうのは不思議ではない。
「…………」
フェアの言葉にネロは何も答えてやられなかった。ミルリーフや御使い達とは違い、ネロとフェアは文字通り住む世界が違うのだ。今のところ人間界へ帰る手段は見つかってはいないが、もしネロが人間界に帰ってしまえば、フェア達とは二度と会うことはできないだろう。
かといって帰らない選択肢など選べるはずもない。フォルトゥナには帰りを待っている最愛の人がいるのだ。
そうした理由もあってネロは、彼女にかける言葉を見つけることができなかった。ただ、何も答えないのではあまりにも無責任であるような気がして、ネロは頭をフル回転させて口を開いた。
「……そりゃあ、いつかはここを出る。でもな、今すぐじゃないんだ。それまでに思い出の一つくらい作れるだろ?」
「そっか、そうだよね。……ありがと、ネロ」
結局口に出せたのはそんなありきたりな言葉でしかなかったが、フェアにはネロの意図は十分に伝わっていたようだ。素直な気持ちで感謝の気持ちを伝えた。
「俺は何もしてねぇよ、気にすんな」
ふいと顔を逸らしながらネロが言う。さすがにあんな純粋な感謝の言葉を受けて、少し気恥ずかしさがあったのだ。
いつものぶっきらぼうなネロからは想像できない様子を見て、彼が照れていることを悟ったフェアは少しからかいの言葉をかけてみることにした。
「それにしてもさっきの台詞、似合ってなさすぎだよ。……でも、ちょっとドキッとしちゃった」
くすくすと笑いながら言う。それでも最後の言葉は小声でしか言えなかったところを見ると、フェアもまだまだ子供というところか。
ネロをからかう目的なら最後まで聞こえるように言った方が、なんだかんだ言ってこうしたことには疎いネロには効果がある。しかし、いくら大人びているとは言え、根は純情なフェアには、紛れもない本心である最後の言葉を声を大にして言うことはできなかったのだ。
「うっせぇ、俺はもう寝るからな」
とはいえ、それを言わなくてもネロには効果覿面だった。不貞腐れたようにそう吐き捨て、自分の部屋に戻って行く。
それを見て、さすがに悪ふざけが過ぎたと思ったフェアは、明日の朝食は少しネロにサービスしようと心に決めた。
もっとも、そんなフェアの心配などネロには全く無用だったようで、部屋に戻った頃には機嫌はすっかり元に戻っていた。
しかしネロはベッドで横になってはいるものの、一向に寝付くことはできないでいた。先ほどのフェアとの会話でも出たこれから先のことを考えていた。
人間界に帰る手段。
それをネロはいまだに具体化できないでいた。このままトレイユを出たところで帰る手段を見つけるのは、砂漠から一粒の砂を探すようなものでしかない。
しかし、帰還を諦めるつもりはない。フォルトゥナにはネロの帰りを待つ者もいるのだ。
(しかし、なんでだろうな……。先のことなんか全く見通しが立たないってのに、不安も焦りもねぇのは……)
数年前のネロならこんな状況に立たされれば、焦りから苛立ちくらいは覚えるだろう。しかし今のネロは焦りや不安とは無縁で、実に落ち着いていた。もちろん彼が精神的に成長したというのもあるだろうが、それだけでは説明できないほどの冷静さだった。
(やっぱり、あれが原因か……?)
しかしネロには自身の落ち着き具合の元となるものに心当たりがあった。それはトレイユに来た時から感じていた予感めいたものだ。
ミルリーフの一件に関わることが人間界へ帰るきっかけとなるような気がしていた、いや、現在進行形でそんな気がしているのである。もちろんそれは傍から見れば原因と呼べるほどはっきりとしたものではないだろう。しかし、ネロにとってその予感は確定した未来のようにさえ思えてくる。
そうしたことが、ネロの精神を安定させ落ち着かせているようだった。見方によっては、自らの精神を無意識的に守る自己防衛反応のようなものと捉えられるかもしれないが、それは普通の人間の話だ。ネロには人間とは異なるたった一つだけの、しかし決定的な違いがある。
それは伝説の魔剣士スパーダの血を引いていることだ。
人によっては、それだけでただの予感も俄然真実味を増すのである。もっとも、自分に流れる血のことなどたいして気にしたことのないネロは、自身の予感を全く信用していなかったのだが。
(……もういい、寝るか)
考えるのに疲れたネロは心中で呟き、寝返りを打ち窓から外を眺める。いろいろと考えているうちにベッドに入ってから二、三時間は経っていた。もうフェアや御使い達も寝ているらしく、真空の中にいるように物音一つ聞こえなかった。
横になった状態で窓から外を見ても深夜の空に昇る月は見えないが、その光は思いのほか強いらしく意外と遠くまで見えた。
そうしている内に徐々に瞼が重くなり、ネロの意識は眠りの中に溶けていく。
「っ!」
瞬間、ネロは飛び起きた。反射的にベッドの傍らに置いてあるレッドクイーンを持って戦闘態勢を取る。
(なんだ……今のは……?)
先ほどのほんの一瞬、ネロは殺気を感じた。鋭利な刃物のように鋭く、氷のように冷たい殺気だ。だが今は何も感じない。この忘れじの面影亭の中にも見知らぬ者の気配は感じなかった。
「…………」
それでも疑念を拭いきれなかったネロは、コートも着ず、手袋も着けぬまま窓を開けて外に出た。そして周囲を見回す。ネロが再び殺気を感じたのはその直後だった。
「上……!」
今度は逃がさないとばかりにその発生源を察知したネロは、反射的に屋根の上に跳んだ。
「こいつか……!」
ネロが着地した場所とは反対側に、満月を背にした男が立っていた。距離もあり、月光を背にしているため顔は分からないが、それでもネロと同じ銀髪を持ち、青いコートを着て、左手には刀を持っていることは分かった。
「…………」
男は一瞬、ネロの異形の右手に視線を移したかと思うと、そのまま何も言わず姿を消した。しかし今度は気配を隠していない。まるで己の存在をネロに知らしめるかのように。それは明らかにネロを誘い出そうとしている動きだ。
「上等だ……!」
ネロはその誘いに乗ることを決めた。急いで部屋に戻りコートを着て、ブルーローズを懐にしまった。しかし手袋は着けないまま、ネロは部屋を出た。
フェア達を起こすつもりはなかった。いても邪魔になるだけだ。あの男と戦えるのは自分だけだ。いや、もしかしたら、自分だけで戦わなければならないと、無意識の内に思っていたのかもしれない。
そうしてネロは誰にも声をかけず、静かに玄関から出て行った。
「パパ……?」
しかし、そんなネロの姿を幼い竜の子が見ていた。
次回、スパーダ式親子の触れ合いです。
ところでPS4版のDMCHDコレクションを買って3SEを4周ほどやってますが、今のところPS3版にあった進行不可になるバグには遭遇してません。
1、2はまだやってないのでバグの有無はわかりませんが、PS4で3ができるだけでも買った甲斐はありました。
サモンナイトシリーズもそろそろ動きを見せてほしいなあ……。
さて、次話は次の土日には投稿できるよう頑張ります。
ご意見ご感想、評価等お待ちしてます。
ありがとうございました。