トレイユに黒い雪のようなものが降っている中、ポムニットは見るからに具合の悪そうにしているミントを家の中に運び込み、寝台に寝かしつけた。
「なんでこんな……」
急激に具合の悪くなったミントを支えながらポムニットが呟く。原因がいまだ降り続いているあの黒い雪だということは想像がつくが、その正体がわからなかった。
(まさか、悪魔……?)
「悪魔じゃねぇな。何なんだありゃあ」
これまで多くの生き物の奪ってきた悪魔こそ、その正体ではないかと考え付いた。しかしその考えは、窓から外を見ていたネロによってすぐさま否定された。
「ホントになんだろう、あれ? こんなの見たことないよ……」
ネロの隣まで来て、彼と同じ光景を見たポムニットが呟いた。アティやヤードのもとで十分な教育を受け、バージルと共にそこらの冒険者よりもずっと世界各地を見てきた彼女でも、こんなことは見たことも聞いたこともなかった。
「あ、あれは……」
ミントが何かを言おうと声を上げて起き上がろうとするが、思うように体に力が入らないのか、中々体を起こすことはできないようだ。
「無理するな。寝てろ」
ネロは起き上がるのを止めようとしたが、ミントは「少しは良くなったから」と体を起こすのを止めなかった。さすがに力づくで寝かしつけるわけにはいかず、仕方なくネロは彼女の肩を支えて起こしてやった。
「うん、やっぱり少しは良くなってるよ」
「いや、そうかも知れねぇけどよ……」
ミントの頷きにネロは言葉を濁した。確かに彼女は支えがあれば意外とすぐに体を起こすことができたのだ。黒い雪には僅かな時間しか当たっていないため、それが短時間で体調が良くなったのかもしれないとネロは推測するが、それでも原因がわからない以上、無理をさせるのには抵抗感があった。
「それにこの黒い雪みたいのには心当たりがあるの。だから調べさせて」
これは絶対に譲れないという強い意志が込められた言葉に、折れたのはポムニットだった。
「……分かった。でも、無理だと思ったら無理矢理でもやめさせるからね」
その言葉にミントが微笑んで頷いたのを確認したポムニットはミントに肩を貸すようにして、ベッドから立たせた。
「ネロ君も肩貸してあげて」
「ああ、わかった」
ネロはミントが調べ物をするのには賛成しかねる立場だが、二人の意見が合致したのであれば反対する意味はないと悟ったようで、彼女に負担をかけない方向に舵を切ったようだった。
そしてネロとポムニットに肩を借りたミントは書斎に行き、一冊の本を探し出してページをめくった。
「これ……、たぶんこれだよ。黒い雪の正体は!」
その正体が記されているページを開いたまま、ミントは本をテーブルに置いた。
「マナ枯らし……?」
本を見て呟いたポムニットの言葉にミントは頷いた。
「幻獣界のとっても性質の悪い病気で、あの黒い雪のようなものは、病原体の特殊なカビなの」
「幻獣界のものってことは誰かが召喚したってことか」
リィンバウムには存在しなかった病原体が、いきなりトレイユに現れるなど考えられない。誰かが召喚術を用いて呼び出したに違いなかった。
「そうだと思う。でも早くなんとかしないと……」
「そんなにヤバいのか? あんたもすぐ良くなったし、たいしたことないんじゃないのか」
ミントもすぐ回復したため、それほど言うほど厄介ではないと感じていたネロが尋ると、ミントは首を横に振った。
「この病に罹ると体内のマナが吸い尽くされて、最後には死んでしまう……。実際、幻獣界に住んでいた言われる人間もこれで絶滅したと言われているの、ただ、亜人や他の生物は罹らないらしいけど……」
「……でも、どうして良くなったんでしょう? 読む限りでは自然に治ることなんてないと思うんですけど……」
ずっとマナ枯らしの項目を呼んでいたポムニットが疑問を呈した。親友が快方に向かっていることは喜ばしいが、本に書いていないことであるため、一抹の不安を覚えたようだった。
「うーん、どうしてだろう……? 特別なことはなにもしてないし……」
確かにポムニットの言うことはもっともだった。治るようなことは何一つしていないにもかかわらず、回復するなどありえないことであり、ミントも首を捻るしかなかった。
「むぅ……、あっ、もしかしてネロ君のおかげだったり?」
「そんなわけあるか。俺も何もしてねぇよ」
思いついたように言ったポムニットの意見をネロは呆れたように一蹴した。そもそもマナ枯らしという病気自体、初めて聞くものなのだからネロにどうこうできるものでもないだろう。
「……もしかしたらそうかもしれない」
少し考えるようにしたミントが小さな声で続けた。
「病とはいえ病原体はカビの一種、生物としては比較的弱いから、ネロ君の魔力に耐えられなかったのかも」
「はぁ?」
突拍子もないミントの意見にネロは思わず聞き返した。
魔力と一口に言っても、悪魔の魔力はこの世界や人間界の魔力とは異なっている。そのため人間界やリィンバウムに住む者が悪魔の魔力を、自分の世界の魔力と同じように扱うことは、回路に規格外の電圧を流すようなもので大きな危険を伴う行為なのである。
だからマナ枯らしの病原体が、ネロが無意識に放つ悪魔の魔力を吸い取っていたのだとしたら、それに耐えきれず死滅したとしても不思議ではない。人間くらいの大きさの生物であれば、多少なら悪魔の魔力を取り込んでも影響はないが、肉眼では見ることすら難しいカビならごく僅かの量でも致死量になりかねないのだ。
「確かにバージルさんの魔力も普通の人とは違うような感じですし、案外当たっているのかもしれません」
ポムニットが顎に手を当てながら言った。彼女は魔力の扱いはたいしてできないが、さすがに二十年近く一緒にいれば違いくらいはわかるようだ。
それを聞いでもネロは自分にそんな力があるとは思えなかった。それに二人の推測が事実だとしても外の黒い雪が止むわけではない。そう考えたネロは、大きく話を変えることにした。
「別になんでもいいけどよ、これからどうするんだ? これを召喚した奴でもぶっ飛ばすのか?」
「ううん、それだけじゃダメ。いくら召喚した人を倒してもマナ枯らしは消えないよ。だからその人に送還させるか、マナ枯らし自体をなんとかしないといけないの」
「……少なくとも大人しく戻すのには期待できねぇな」
舌打ちしながら呟いた。召喚者がはいそうですかと素直に送還するのであれば、最初からこんなことはしていないだろう。召喚獣を元の世界に戻せるのはそれを呼び出した者だけ。これは召喚術の基本中の基本だが、それが今大きな障害となっているのである。
したがって実質的にネロ達が選べる手段は一つ。召喚を止めた上で、マナ枯らしをなんとかするのである。
(カビが魔力を吸い取ることが原因なら殺しちまうのが手っ取り早いが……)
マナ枯らしの原因は病原体である特殊なカビがマナを吸い上げること、つまりはカビの活動が原因である。だからウイルスや細菌と同じように殺菌するというのはすぐに思いついた。だが、そのための方法が限られているのだ。
薬品を使うにしてもどんなものがマナ枯らしに対して効果があるのかはわからないし、それを集めるのにも時間がかかる。高温による殺菌なら効果が見込めるだろうが、まさかそれを発症した人間にするわけにはいかない。
ネロが求めるのは罹患した者も治せるような方法であるため、殺菌という手段は使えないのだ。
「フェアちゃん達は大丈夫かな……、町の人達も……」
窓に視線を移したミントの呟きに、ネロも同じように窓の外を見た。ミントの説明では、これに罹るのは人間だけという話だったので、ミルリーフや御使い達は無事だろうが、フェアやリシェルにルシアン、それについさっきまで話していたグラッドはもう発症しているかもしれない。
「少し様子を見て来る」
マナ枯らしは人間だけが罹る病気だ。だから悪魔の血を引いているネロが発症することはない。これまで悪魔の血を引いていることをありがたいと思ったことはないが、この時ばかりは感謝してもいいかもしれない。
「わ、私も……」
「だ、だめですよ、ちゃんと寝てなくちゃ!」
ネロについて行こうとしたミントをポムニットが慌てて止める。せっかく良くなってきたのに、病原体が降っている外を歩くなんてもってのほかだ。
「お願い、私も行かせて! 御使いのみんながいるフェアちゃんのところなら、何とかできる方法が見つかるかもれない。私もお手伝いしたいの!」
「ミントさん……でも……」
「このままここにいて助かっても、誰かが犠牲になったんじゃ嬉しくないよ。私はみんなが助かる方法を探したいの!」
「……わかりました。でも無理は絶対にダメですからね」
ミントの決心を聞いてポムニットは折れた。これ以上何を言っても今の彼女は梃子でも動かないと悟ったのだ。
そして彼女に肩を貸すと玄関まで連れて行った。扉を開けるとやはり外にはまだ黒い雪が降っている。状況は先ほどから全く変わっていない。むしろ時間が経つほど多くの人が衰弱していくため、悪化していると言っていいだろう。
「おい、どうした?」
ずっと外を見ていたままのポムニットに声をかける。ミントも肩を貸してくれている親友に怪訝な顔を浮かべた。
「……私、バージルさんに相談してみます」
無茶をする親友を傍で支えてやりたい、その気持ちはなんら変わりないがそれが事態の解決に繋がる最善の手段とは言えない。ミントも解決のために己ができる最大限のことをしているのだ。自分もできることをしなければならない、そう考えた末の決断だった。
「だからネロ君、代わってもらってもいい?」
「ああ。俺も戻ろうと思っていたからな」
どうせ向かう先は同じなのだ。ミント一人支えて行くくらいたいしたことではない。むしろ脇にでも抱えて運んだ方が手っ取り早いかもしれない。
「ごめんね」
そう思いつつポムニットと入れ替わると、ミントが結果的に迷惑をかけることになったネロに謝罪しつつ体を預けた。そんな二人を見たポムニットは若干憮然とした表情になったかと思うと、ネロをじっとりした目で見ながら口を開いた。
「……ネロ君、役得とか思ってない?」
肩を貸すともなれば相当密着するのが当然。そのため、ネロの胸のあたりにはミントの豊満な胸が当たっていたのだ。
ただ、それにはネロも気付いていたが、その程度のことで下心を出すほど子供ではないし、故郷には恋人もいる。そこまで困っているわけではないのだ。それに体調の悪いミントに気を遣わせるのも憚られる。だからネロは話を逸らすことにした。
「思ってねぇよ。……そもそもあんた、このまま別行動して大丈夫なのか? あんたも人間だろう?」
「あ……、それは……」
マナ枯らしという病の発症率がどの程度かは知らないが、少なくとも人間が何の防備もなしに病原体の中を歩くのは、危険極まりない行為のはずだ。そう思ってのネロの言葉だったが、ミントは困ったような顔をしてポムニットを見た。
「ネロ君には隠してもしょうがないですからね」
ポムニットは苦笑しながら頭のカチューシャを取った。そこにあったのは黒くねじ曲がった悪魔のような二本の短い角だった。
「私は悪魔の血を引いているから大丈夫です、この病気には罹りません」
微笑みながら言う。彼女がネロに出自のことを伝えたのは、ここで隠す意味がなかったからだ。なにしろネロはじきにラウスブルグに来て、人間界に行くまでの期間を共に過ごすことになる。バージルもアティもいる状況でわざわざ隠しておく意味はないし、おまけにネロ自身も悪魔の血を引いている。そもそも隠す理由などないのが実情なのだ。
ネロはそんなポムニットの告白を聞いても驚いてはいなかった。むしろ納得した部分の方が大きいかもしれない。少し前のセクターとのいざこざに割り込んできた彼女が人間離れした力を発揮した理由がようやくわかったのだ。
「悪魔? ……ああ、こっちには別な悪魔もいるんだっけか」
ただ、ネロは「悪魔」と聞いて一瞬、魔界の悪魔を思い浮かべ、右腕が反応しないことに訝しんだが、すぐにポムニットの言う「悪魔」がサプレスの悪魔であることに思い至った。
「うん。色々あって、バージルさんに拾われたんです」
彼女の「色々」という言葉の中にネロは悲しみの色を見つけた。何気なく放った言葉だったが、失言だったようだ。
「あー、その、悪かったな」
うまく取り繕う言葉が見つからなかったネロは、顔を顰めて頭を掻いた。
それを聞いたポムニットはキョトンとした表情を浮かべると、クスと笑って口を開いた。
「ううん、気にしないで。……さあ、話はこの辺にして早く行かないと。私もできるだけ早く戻って来ますから」
「……ああ」
「気を付けてね」
思いがけず話し込んでしまったが、今はそれぞれすべきことがある。それを思い出したネロは頷き、ミントと共に忘れじの面影亭へと歩いて行き、ポムニットはトレイユから出るために二人とは逆の方へ走り出した。
ネロとミントはゆっくりとした足取りで忘れじの面影亭に歩いてきたため相応の時間がかかり、その分ミントも長時間病原体に晒されることになったが、具合はそれほど悪くないようだった。
「ここまで来るのに結構かかったけど最初の時よりも全然楽だよ。やっぱりネロ君のおかげかな?」
「それならいいんだけどな」
ようやく着いた忘れじの面影亭はやはり客はいないようだが、食堂には何人かの人影が見える。恐らく話し合いの最中だろう。
「二人とも無事だったか!」
ネロとミントの姿に気付いたクラウレが声をかけてきた。ネロはそれに手を振って答えると、ミントと共に食堂に入った。
そこにいたのは御使い達四人とセクターの五人。フェアとミルリーフの姿はなかった。
「フェアとミルリーフはどうした?」
「心配しなくていい、無事だ。今は他の者の様子を見に行ってる」
食堂を見回しながら言ったネロに、アロエリが安心しろとばかりに答えた。
「他にも誰か来てるの?」
「ええ、いつもの三人が。……今のところは何とか落ち着いているようですけど」
ミントの疑問にリビエルが答えた。彼女が言う三人とはこの場にいないリシェル、ルシアン、グラッドの三人と言うことは確かめずとも分かった。
ただリビエルは、三人の容体は落ち着いていると言っているが、治る見込みがない以上、それは緩慢な死への道を歩いているに過ぎなかった。
「……そういやあんたは大丈夫なんだな」
「もしかたら、この体のおかげなのかもしれないね。……決して喜ばしいことではないが、生徒を助けることができたことだけは感謝するべきか……」
ネロから尋ねられたセクターは自嘲気味に答えた。その言葉を聞く限り、どうやらリシェルとルシアンをここまで連れてきたのは彼のようだ。しかしそれでも、改造された体に対しては複雑な思いがあるのだろう。
「あの、みんなはどこまでこの病気のことを……?」
そこへミントが声を上げた。彼らがどこまで知っているかによって、先ほど調べたことを説明しなければ、と思っていたようだ。
しかしクラウレは首を横に振って、少し言い辛そうにしながらも告げた。
「一応、ある程度は聞いている。ギアン様から……」
「は? あの野郎が関わってんのか?」
思わず聞き返した。ネロもギアンが召喚師だということは知っている。そのため、彼が今なお降り続く病原体を召喚したとしても不思議ではない。
「詳しくは御子さまと店主殿が戻ってきたら話す。それまで待ってはくれんか?」
「……そうだな、その方がいい」
大きく息を吐いた同意する。ギアンが関わっているなら自ずとその狙いも分かった。もしネロの想像の通りだとしたら、確かにセイロンの言う通り二人が戻ってきたら話すのが筋だろう。
ネロがそう答えた時、廊下から足音が聞こえてきた。どうやら待つ時間はほとんどなかったようだ。
「結論から話そう。……ギアン様は御子さまと引き換えに『マナ枯らし』を送還してもいい、そう言っていた」
フェアとミルリーフが戻ってきて、すぐにクラウレからの状況説明が始まった。
彼は妹のアロエリはマナ枯らしによる被害が発生してすぐ、周辺の状況を確認するためトレイユ周辺を偵察していた。そしてトレイユから見て北北東の方角にある淀んだ泉でギアンを見つけたのである。
二人はそこに降りてギアンと話をした。そしてその際に、彼が召喚したマナ枯らしの能力と、それを送還するための条件を突き付けられたのである。
「なんで? なんでそんなことするの……?」
ミルリーフが悲痛な声を上げる。彼女は先ほどマナ枯らしによって苦しむリシェル達の姿を目の当たりにしてきたのだ。そこまでしてする価値が自分にあるとはどうしても思えなかったのだ。
「確かにそのことは我も疑問に思っていた。仮に御子さまを手に入れたとしても城は今……」
全て言わずともセイロンの言いたいことは伝わった。ミルリーフを手に入れたとしても、ラウスブルグ押さえているのはネロを一蹴するバージルだ。仮に至竜の力を利用できたとしても勝てるとは思えなかった。
「ギアン様からは狂気の色が見えた。もはや……」
「ああ、兄者の言う通りだ。あれは妄執に取り憑かれている」
ギアンは表面上こそは平静を装っているが、ほとんど面識のないアロエリにも見抜かれるほど狂気に満ちていた。正常な判断は期待するだけ無駄だろう。
「まるで少し前の私をようだな。……きっと彼は条件を呑まなければ絶対に召喚術を解こうとはしないはずだ」
セクターも以前は憎しみに囚われていた。そのため、そうした狂った執念がいかに厄介であるか身を持って知っているのである。
「元からそんなの期待しちゃいねぇよ」
「しかし、御子さまを引き渡すなど断じて認められぬ」
ネロの言葉にセイロンが宣言するように言い放った。御使いの立場からすれば、ギアンの要求など呑めるはずがないのは当然だった。
「でも、召喚術を止められるのは召喚した者だけ。たとえ殺したってマナ枯らしは止められないよ」
「そのマナ枯らしを何とかするのは難しいんだよな?」
マナ枯らし自体を何とかする方法はネロも考えたが、何も思いつかなったのだ。だが、召喚師である彼女なら何かの手段を知っているのではないか思い、尋ねてみることにした。
しかし、それに答えたのはミントではなくリビエルだった。
「天使やその系譜に連なる者ならできるかもしれないですけれど……」
そこまで言ってリビエルは口ごもった。天使の系譜に連なる者とは、天使の祝福によって変化した者のことであり、彼らは天使と同じように「奇跡」を使える。そうした奇跡であればマナ枯らしを浄化することも不可能ではないのだ。
だが、そうした奇跡をリビエルは使うことはできなかった。
「ごめんなさい。私にもう少し力があれば……」
申し訳なさそうに俯いた。マナ枯らしを浄化できるほどの奇跡を、天使としてはまだ年若いリビエルが使うことはできなかった。それは妖精や聖獣でも同じだ。十分に熟達した存在でなければ浄化できるほどの奇跡を使うことなどできないのである。
もっとも、仮にそんな存在がいたとしても浄化できるのは精々トレイユなど一つ都市が限界だろう。もしマナ枯らしが帝国全土、ひいてはリィンバウム全体にまで蔓延した時は、もはや一個の存在にはどうしようもなくなるのである。
「やっぱり、何とかするにはギアンに解かせるしかないってことだね」
リビエル言うような存在を召喚できる者がいれば話は別だが、自分はもとよりミントでもできないだろう。他の場所から召喚師を探してくるのも現実的でない。
やはりギアンが自ら送還するようにするしかないとフェアも考えているようだが、そのための方法はないも思いつかなかった。
「……少し時間を置こうか? このまま考えていてもいい案は出ないと思うよ」
そこへセクターが提案した。時間に余裕があるとは言えないが、彼なりに休憩が必要だと考えたようだ。
「それがいい。我らも今一度考えてみよう」
「わかった」
セイロンと同様にフェアもセクターの提案を受け入れ、この場は一時解散とすることにした。
御使い達は先のセイロンの言葉通りもう一度他の方法について考えるため、ミルリーフを連れて食堂を後にした。どこか適当な部屋で五人だけで話し合うつもりなのだろう。
彼らを見送ったフェアは先ほどよりも具合の悪そうに見えるミントに駆け寄る。
「お姉ちゃんは寝てなくて大丈夫なの? 具合悪そうだよ?」
「……そうだね。フェアちゃん、ちょっとベッド借りていい?」
実のところ、ミントはだいぶ辛かった。しかし自分の我儘でここまで来た以上、そう簡単には言い出せなかったようだ。
「無理すんな。運んでやるから大人しくしてろ」
それでもようやく素直に答えたミントをネロは抱き上げた。彼女が立つのも辛そうにしていることに気付いたため、ベッドまで連れて行ってやるつもりだったのだ。
それに、ミントが言ったように自分の魔力にマナ枯らしを殺せる力があるのなら、少しでも楽にしてやりたいという思いもあったからわざわざ抱き上げてまで運ぶことにしたのである。
(いつの間にこんなに冷たくなったんだ……)
ミントを抱えたネロは彼女の体が氷のように冷え切っていることに気付いた。先ほど忘れじの面影亭に連れてきた時はここまで冷たくなかったはずだ。それから僅かの間にここまで悪化するとは、マナ枯らしは想像以上に危険な病だとネロはあらためて実感した。
「フェア、悪いが空いてる部屋に案内してくれ」
「うん!」
そしてネロはフェアに案内された部屋のベッドにミントを寝かせた。どうやら彼女は運んでいる間に意識を失ったようで、今は苦し気な表情を浮かべながら眠っていた。
「私、他に掛けるものないか探してくる……!」
フェアはいてもたってもいられず、体を温めるための掛け布団がないか探しに出て行ったが、ネロは眉間にしわを寄せながらミントの状態を見ていた。
(……もう時間がないな)
素人目ではあるが、あそこまで体温が下がって長く生きていられるとはネロには思えなかった。もはや一刻の猶予もない。速やかにギアンにこの召喚術を解除させる必要がある。
そう思ったネロは息を吐いて踵を返し、部屋から出て行った。
そして食堂まで行って、さらに玄関から外に出ようとした時、背後から声をかけられた。セクターの声だった。
「一人で行くつもりなのか?」
彼はネロがこれからギアンのところへ行こうとしていることに気付いていた。もっとも、この状況下で目つきを変えたネロが向かうとすれば、そこくらいしかなかったのだが。
「ああ、そのつもりだ。もう悠長に待ってられないんだよ」
「いくら君が強くとも、彼の召喚術を止める方法がない以上、行っても無駄だよ。今はその方法をみんなで考えよう」
セクターは落ち着いた声で再考を促すが、ネロは振り向きもせずに口を開いた。
「手がないわけじゃねぇ。好きじゃねぇ方法だが、あいつらをこのまま死なせるわけにはいかねぇんだよ」
ネロの言葉はハッタリではなかった。思いついたのはついさっきだが、恐らくギアンにも有効な手段だと考えていた。ただしその手法はネロからすれば好まない、むしろ嫌う方法だったのだが、今優先すべきはミント達の命だ。個人の好き嫌いを優先するわけにはいかない。
「……そうか。なら止めはしない。行くといい」
ネロの言葉を聞いて、その後ろ姿から何かを感じ取ったらしいセクターはそれ以上引き留めることはしなかった。
そしてネロは一度も振り返らずに忘れじの面影亭から出ると、ギアンがいるという忘月の泉を目指した。
忘月の泉。かつては木々に囲まれた心落ち着ける場所で、トレイユの水源の一つだったが、帝国貴族の別荘の建設予定地となり周囲の木を切り倒したせいか、水面に月を映すこともできない程に淀み濁ってしまったのだ。そのため、町の人々にはどぶ池と呼ばれている有様だ。
しかし地理的には忘れじの面影亭からも近いため、なぜかフェアもたまに来ている場所でもあった。
当然この泉にもマナ枯らしは降り注いでいるが、幽角獣の血を引くギアンは平気なようで視線を正面から向かってくるネロに向けていた。
彼はリィンバウムではいつも身に付けていた右手の手袋を外しており
そしてネロがある程度近づいた頃合いを見計らってギアンは声をかけた。
「君一人で一体なにを――」
しかしギアンは言葉の全てを口にすることはできなかった。口を開いている最中に一跳びで接近したネロが殴りつけたからである。
濁った泉の中に叩き込まれたギアンは、立ち上がると声を荒げた。
「君は自分が何をしているのか――」
もしかしたらネロは召喚師を倒せば召喚獣も送還されるという都合のいい考えを持っているのかもしれない。そう思ったギアンは現実を教えてやろうとしたのだが、ネロは
「がッ……!」
ギアンは短い叫びを上げてうつ伏せに倒れる。ぶつかった木の方もどうやら枯れていたらしく、激突の衝撃であっけなく折れてしまった。
「口を開く暇があるならさっさとあれを解け」
木にぶつかったせいか肩で息をするギアンに向かって、ネロは恐ろしいほどの声で命令した。それにはまさしくバージルの血を引いていると、誰もが納得するほどの冷たさがあった。
「誰が、そんなこと……!」
まだ四つん這いで立ち上がる力も顔を上げる力も戻っていないギアンだったが、それでもやられっぱなしでいるわけにはいかないため、懐からサモナイト石を取り出した。
しかしネロは召喚術を使わせる気など全くなかった。再び
それでもギアンはサモナイト石を手放さなかった。召喚師の命とも言えるサモナイト石を失わなかったことは称賛できるが、この場合においては手放した方がよかっただろう。何しろネロはギアンの右手ごとサモナイト石を踏み砕いたのだ。
「っ!」
頭が真っ白になるような激痛がギアンに走るが、叫び声を上げることができなかった。地面に叩きつけられた衝撃でまともに呼吸すらできなかったのである。しかしそれでも、ギアンはネロを睨み付けた。どうやらここまで痛い目を見てもまだマナ枯らしを送還する気にはなれないようだった。
「仕方ねぇな……」
そんなギアンを見てネロは小さく呟いた。その数瞬後、睨み付けていたギアンに凄まじい悪寒が走った。それは目の前の、自分を痛めつけた男から感じ取ったものだった。
だが、ネロ自身にはさほど大きな変化は見られない。せいぜい両目が赤い光を放っているくらいだった。それでもギアンには先ほどまでのネロとは全く違う怪物のように思え、傷む体を必死に動かして少しでも距離を取ろうとした。
「…………」
ネロは無言のまま背中のレッドクイーンを抜き放ち、左手に持つとゆっくりとギアンのもとへ歩いていく。
「ダメっ! ネロ!」
しかし三歩ほど足を進めたところで、背後から切羽詰まったような声をかけられた。それとほぼ同時にネロの歩みを押しとどめようしたのか、腰のあたりに抱き着かれた。
「離せ」
ネロはその言葉を発したフェアに冷たく言い放ち、彼女の腕を振り払った。彼女がこの場に来ることは予想外の事態だったが、それでもネロがするべきことは変わらないのである。
「あ……」
振り返るどころか視線の一つも向けられなかったフェアは声を漏らした。
このままではネロは取り返しのつかないことをしかねないのではないか。先ほどミントを部屋に運んだネロの顔を見た時、彼女にはそんな予感めいた思いがあったのである。だからネロが出て行ったと聞いて、すぐに追いかけてきたのだ。
だが、自分の言葉はネロには届かなかった。力づくで止められる相手ではないし、もはや見ていることしかできないのだろうか。
「く、来るな……」
追い詰められたギアンは恐怖に顔を引きつらせながらすぐ近くまで迫ったネロに言う。それでもマナ枯らしを解除しようという発想が出てこないあたり、まだ妄執に憑りつかれているのだろう。
「…………」
無抵抗で怯えしかしない相手を痛めつけるのはネロとしても好きではない。
だが、元はと言えばこの状況を招いたのは、目の前のギアンだ。彼がこんな手段を用いなければ、あるいは先ほどのネロの言葉に従ってマナ枯らしを送還していればよかったのだ。
だからこれはギアン自身が招いたこと。ネロはそう自分に言い聞かせて、レッドクイーンを背中から抜き放った。殺すつもりはないが、手足の一つや二つをへし折るくらいのことは必要だろう。
なにしろ、今のギアンを彼の敵であるネロが妄執から解放するためには言葉ではなく、恐怖と痛みによってしかなされないのだ。それを悪魔の力で理解させるのである。愚かな妄執を捨てなければどうなるか、彼の本能に直接教えてやるのだ。
あるいは、マナ枯らしの進行がもう少し緩やかであったなら、彼の仲間であったエニシアやレンドラー達に説得させることもできたかもしれない。
だが、僅かの時間でミントの体温が急激に下がったのを感じて、ネロは説得させる時間がないと判断した。だから力づくで、ギアン自身がマナ枯らしを解除するようにするしかなかった。
たとえその方法が、自身に流れる悪魔の、恐怖と破壊を振りまく力を使ったとしてもだ。ネロはそれだけこのトレイユで出会った者のことを大切に想っていたのである。
「や、やめて……、お願いだからもうやめて!」
だがフェアにはネロがギアンを殺そうとしているようにしか見えなかった。むしろレッドクイーンを抜いていながら、殺しはしないだろうと思う方が難しい。
だが、そんな悲痛な言葉でもネロは止まらない。左手に持ったレッドクイーンを振り上げる。
「あ……」
その時、フェアが呆けたような声を上げた。不審に思ったネロが振り返ると、彼女は右手を濁りきった泉にかざしていた。
「おい、どうした?」
思わずネロは声をかけるが、フェアは目を瞑り反応は示さなかった。まるで別の何かを見ているようだ。
さすがに心配になったネロはフェアのもとへ歩くが、その途中で彼女は水面に向かって歩き始めた。すると泉は黄金に輝いて強い光を放った。
その光が収まった時にはフェアは水面の上に立っており、空からは黒い雪のようなマナ枯らしに混じって光の粒が降り注ぎ始めた。
光の粒は次第にその数を増し、マナ枯らしはまるで浄化されるようにその数を急速に減らしていく。光の粒の正体はわからないが、マナ枯らしを清める力を持っているということは間違いない。
(こいつがやったのか……)
光の粒が発生したタイミングやその直前の彼女の行動からして、それを為したのがフェアであることは間違いない。マナ枯らしに罹っていなかったことも合わせると、彼女も純粋な人間ではないようだ。
「…………」
そんなことを思っていると、マナ枯らしを浄化するという役目を終えたからか、雨のように降り注いでいた光の粒は解けるように消え去った。それと同時にフェアも完全に意識を失ったのか、体勢を崩して倒れ込みそうになっていた。
「チッ……」
ネロは慌ててフェアの元に駆け寄り、水面に倒れ込む寸前に抱き留めた。彼女は意識こそ失っているが、特に衰弱している様子もなかった。
「さあ、帰ろうぜ」
フェアに語りかける。きっと仲間達も今頃は快復に向かっているだろうし、自分も望まぬことをしなくてもよくなった。今回はネロも彼女に助けられたのである。
そんな解決の立役者を早く休ませてやりたい。だからまずは戻ろうと思ったのだが、そこへ全く別の人物の声がかかった。
「ほう……」
「あんたは……!」
少し離れたところから感心したように見ているバージルだった。ポムニットが呼びに行ったと言うのは知っているが、随分早い到着だ。
「ちょうどいい」
バージルが視線を向けていたのはネロとフェアでも、まさかの登場に震えているギアンでもなかった。彼の視線はちょうど二人がいる位置から泉を挟んだ向かいにある、一際大きな切り株に向けられていたのだ。
そしてバージルは閻魔刀を抜刀した。
今回のギアンは物理的な意味でも踏んだり蹴ったりです。果たして彼は救われるのだろうか。
さて次回は11月24か25日に投稿予定です。
……最近朝に起きるのが辛くなってきたので、投稿時間を土曜の夜くらいに変えるか思案中です。
ご意見ご感想等お待ちしてます。
ありがとうございました。