間桐臓硯になりました。―ありえんから始まる聖杯戦争― 作:桜雁咲夜
時計塔の地下、講師達の研究室の扉が並ぶ廊下を白い紙袋を抱えた十代前半の赤髪の少女が不機嫌そうに歩いていた。講師によっては地上付近の部屋に作る者もいるが、地下の方がマナが安定するため地下室を利用している者が多いのだ。
目的の扉の前に立ちネームプレートを確認すると、ノックもせずに彼女は扉を勢い良く開けた。
「ソラウ……ドアはノックをして、返事を待ってから開けてくれといっているだろう」
闇の中から、声だけが響いた。
ソラウと呼ばれた少女は、室内の異様な暗さに当初面食らったもの、直ぐ目の前に置かれた丸い水晶玉のようなインテリアに手をかざした。
すると覆っていた闇は払われて、昼間のような明るさに変わる。周囲の棚には色取り取りの液体の入った試験管や何かの原石が無造作に置かれている。
奥の机で部屋の主である金髪の青年がため息をつきながら、書類を置いた。
「だって……折角、今日のお茶の時間は一緒に過ごそうって連絡しておいたのに、工房に篭りっきりっていうのは酷いんじゃないかしら、ケイネス?」
「仕事が立て込んでいた。それに、ここは危険だと言っておいたはずだが」
ここは、彼――ケイネス・エルメロイ・アーチボルト――の魔術工房であり、関係者以外は立ち入ることはできない。
許可無く立ち入ろうとすれば彼の仕掛けた霊的、魔術的罠が発動し命すら危ない。
ケイネスは、九代続いた魔術師の家系・アーチボルト家の正式後継者であり、ロード=エルメロイと呼ばれる時計塔の降霊科を最年少で講師になった天才魔術師だ。
先ほどソラウと呼ばれた少女は、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。ロンドン協会は時計塔、その降霊科学部長の地位を歴任するヌァザレ家の娘であり、ケイネスの婚約者である。
歳はさほど離れてはいないはずなのだが、ケイネスが老けているのかソラウが幼く見えるのか……ロリコンと密かに彼は一部から呼ばれているのだが。
「あら。私には危害が加わらないようにしてくれてるの知ってるわよ?」
危険であることはわかっているが、彼が自分も含めてターゲットから外していることを彼女は知っている。だから、安心してあのように扉を開くこともできるのだ。
抱えていた白い紙袋を空いている棚に下ろし、中から紅茶の缶とスコーン、クロテッドクリーム、イチゴジャムを次々と取り出していく。
ソラウがケイネスの下を訪れるようになったのは、ここ半年のことだ。
政略結婚を前提としての婚約が成り立ったのもその頃だった。
そして、こうやって二人で過ごす時間を取るようになってからケイネスはやっとソラウの本当の性格を知った。それまでは気難しく気位の高い我侭な性格だと思っていたのだが、実際は快活で素直であり政略結婚であるというのに純粋な好意をケイネスに向けてくれるのだ。
子供の頃に一目惚れした彼からすれば、夢の様なことだろう。
「フォションのダージリンと最近出たばかりのウェッジ・ウッドの茶葉を持ってきたのだけど、どっちが良いかしら?」
「全く……まだ仕事は終わってないんだが」
「あら、休憩だって必要でしょ? よし、ウェッジ・ウッドにしよっと」
勝手知ったる他人の家……もとい、研究室。
ソラウは、アルコールランプに火を灯しお湯を沸かして手慣れた手つきで紅茶をいれる。
それを横目に見ながら、ケイネスは苦笑しつつもティーセットが置ける場所を机に確保するために、書類を別の棚へと持っていった。
その後ろ姿を見ながら、ソラウは小さな声でつぶやいた。
「絶対にあなたは死なせない。そのために私は
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屋敷に戻ってから調べてみたが、表面的に手に入る程度の情報は原作から得ている知識とさほど代わりはなく――むしろ、これ以上調べることで藪蛇も考えられ、私は調査を一旦打ち切った。
一つ気になったことは、ケイネスの情報を辿っている際に耳にした、婚約者のソラウ嬢との仲が大変良いと時計塔で噂になっていることだろうか。
あのケイネスとソラウがである。
政略結婚的な仲の良さとは違う結びつきがあるようだ。
何かあったとしか思えないが、さすがに海外だ。
確かめるためだけにイギリスまで行くわけにも行かない。
とりあえず、現在進行形で簡単にできること……ということで、衛宮邸になる予定の武家屋敷と新都の冬木教会、そして遠坂家の付近には、調査のために例の羽蟲を重点的に飛ばしている。通常の虫と変わらない特性は魔術的罠や霊的探査にもかからないので、本当に便利だ。
今は、様子を見るしか無いのだろう。
「本当、どうすればいいんだろうねえ……」
思わず呟いてしまったが、最後の
一人で暮らしているせいか、独り言が増えた。
「独り言は、寂しさを紛らわすためだ」と、生前
一度死んだ自分ではあるが、寂しいものは寂しいらしい。
そして不意に思い出した言葉に、あの人はどうしているのだろうかと心配がよぎる。
同じように一人暮らしで、きっと独り言が増えているに違いないが。
「……あの人も元気で暮らしていればいいけど」
そう願うしか、今の私には出来ない。
――――早いもので、あれからまた三年の月日が流れた。
私が臓硯となってから、もう六年余の時が過ぎたということか。
その間に遠坂家には凛と桜が年子で生まれ、育っている。
彼女たちの年齢から察するに、恐らく後一年もしないうちに、遠坂時臣と言峰綺礼の間に師弟としての繋がりが出来るだろう。
鶴野さんは、雑誌だけでなくテレビでも最近は見かけるようになった。
彼が数年前に書いた小説「蟲毒の夢」が映画化され、ヒットしているためだ。
雁夜さんは、凛ちゃんが生まれてから、ようやく時々この街で見かけるようになった。 まだ黒髪の彼になぜか少し安堵を覚える。
彼も鶴野さんのように別の形で幸せを手に出来ればいいのに。フリーライターならば、鶴野さんのことを知っていてもおかしくはないと思うのだが。
歳の離れた友人となった雨生龍之介は、無事に希望だった地元の国立大に現役で受かり、教員免許取得のために勉強を頑張っている。
そんな彼は、聖杯戦争に出るつもりはなくとも、一度はその舞台を訪れてみたかったと、5月の連休を利用して初めて私の屋敷に遊びに来た。
今の時期を逃すと、自由に来るのも難しいと思う……というのが彼の言い分だ。
「臓硯さん。桜ちゃんは、頼んででも養子にした方がいいっすよ」
近況を話し、
かつては私のことをおっさん呼びし、口調もあまり敬っている感じてはなかった龍之介だが、さすがに気が咎めたのだろうか今では名前呼びで定着している。
「養子のことは私が言い出さなければ、精々他の魔術師のもとへ養子に行くだけでは?」
「そこが問題なんすよ」
大学に入っても髪は染めず相変わらず黒いままだが、視力が悪くなったらしく最近かけている銀縁の眼鏡の位置を軽く直しながら、龍之介はこちらを見る。
「桜ちゃんは、原作のままなら属性は『架空元素・虚数』という珍しい属性。だから、この資質のために遠坂の魔術見本として魔術協会にホルマリン漬けにされちゃう可能性があるっす。そして他の魔術師だったら、たぶん根源に行くために必要ならば、簡単に桜ちゃんを犠牲にして触媒がわりに使いかねない」
臓硯さんのことだからその辺の考えが甘かったんじゃないすか?……と続けて、彼は茶請けの煎餅をかじった。
「きちんと助けたいなら養子にして目の届くところで、魔術師として育てるべきだと思うっす」
「間桐の魔術は継がせたくないんですがねえ……まあ、なんとかしてみましょう」
お茶を湯のみからすすり、教えても問題なさそうな魔術はないか考える。
間桐の属性とされるのは水。一族に伝わる魔術特性は吸収。この吸収という特性は他者を律する束縛、戒め、強制に通じるもので、間桐の魔術は必ず成果が自らの肉体に返る。
差し障りない魔術といえば……使い魔の使役術か。
蟲で調教しなくとも、逆に蟲を卵から育てさせてそれを使役できるようにすればいいだろう。
「ああそれから。俺、こっちの観光がしたいんで二日ほど泊めてもらっていいすか? 無理なら、新都の方でホテル探すので」
「ええ、別に構わないですよ。一人暮らしなので掃除が行き届いてないところもあるとは思いますが、気にしないで下さいね」
椅子から立ち上がり、客間に案内することにする。
「余りあちこちの部屋を開けて覗かないようにして下さいね。危ない部屋は鍵はかけてあるとはいえ、罠をかけてある部屋もあるので」