藤森哲也は一度リュックサックを担ぎ直すと、列車のステップから軽やかに飛び降りた。
札幌から45分。夏のこの時期、覚悟はしていたが車内はまるで通勤電車のように混雑していた。そのため哲也はずっと立ちっぱなしだったが、疲れは微塵も感じなかった。未知なる土地への期待感だけが身体を包み込んでいた。
表示板の「小樽」の文字が彼を迎えてくれた。
この街こそ、今回の旅行で最も楽しみにしていた場所なのである。
ここへ来るまでに函館、札幌と大都市を渡り歩いてきたが、哲也にとってそれらは商業色の強い観光地でしかなかった。確かに有名なスポットは絵はがきのように綺麗で、食事も美味しかったのだが、孤独な一人旅ではそれはあまり有り難いものではない。
もっと牧歌的な雰囲気を楽しみたい、そんな気持ちがずっと彼の身体を支配していた。そしてようやくこの街に辿り着いたのだ。
しかしホームに降り立った哲也はそんな余韻に浸る暇はなかった。車輌から吐き出された乗客が大きなうねりとなって地下へと進み始めたからだ。彼は立ち止まることもできず、赤や黄色で彩られた観光客に飲み込まれて改札口へと流れ着いた。
見ると駅構内の天井は高く、玄関には裸電球を傘で覆った昔ながらのランプが整然と並べてあった。こんな演出にも自然と旅情がかき立てられる。
駅舎を出ると日差しは強かった。北海道の夏は本土と何ら変わらない。それでも空気が乾燥している分だけ、肌を撫でる風に嫌味がない。
札幌から同じ列車でやって来た人々は皆同じ方角へと歩いていく。その先は小樽運河だ。
哲也は駅舎の大時計に目を遣ると足を止めた。まだ午後1時を回ったばかりである。
何も慌てることはない。予定に束縛されることもない。時間は無尽蔵にあるのだ。なにしろ一人旅である。実は今日の宿さえ決めていなかった。そう考えると、時計の針のように動き回る観光客が哀れに思えてくる。
哲也は少し引き返して、ファーストフード店で遅い昼食を取ることにした。
店内でこの小樽の街をどう巡るか考えてみた。
もちろん小樽運河へは行くつもりだが、もう少し夕刻の方が望ましい。陽が高いうちは観光客でごった返し、静かな佇まいも台無しではないだろうか。
それなら先に市内を散策して、運河は最後に取っておこうと考えた。途中、鉄道記念館やおたる水族館、オルゴール堂に寄るのも面白いだろう。哲也はガイドブックを閉じた。
小樽の街は意外にも小さかった。
あちこち見て廻ったのだが、思っていたよりも早く運河に着くことになってしまった。
さすがにここはどの観光スポットよりも混雑していた。ひっきりなしに大型観光バスが出入りをし、ツーリングのバイクが所狭しと停められている。
これでは思い描いていたような静かな散策とはいかないようだ。
よく観察すると、彼らのほとんどは時間を気にしている様子である。まもなく一日も終わろうとしている。目指すべき次の観光地や宿泊先への移動が頭にあるからだろう。
そんな中、哲也は一人のんびりと歩いた。一人旅の気楽さを実感した。
運河と反対側の歩道にいくつか小さな屋台が並んでいた。ジュースやアイスクリーム、キーホルダーなどの土産物を売っている。
哲也はふと足を止めた。
その一番端に陣取った屋台が気になったのである。
その店はガラス細工を扱っていた。清潔感に溢れたグラスや食器が広げられ、アクセサリーの類いがコルクボードに吊り下げられている。
哲也が目を奪われたのはそれらの品物ではない。
店番をしている女性であった。
彼女は柔らかなブロンドを短くまとめ、長いまつげと大きな青色の目が日本人にない気品を漂わせている。肌は透き通るように白かった。小柄で背も低くまだ若い少女のようだが、固い表情はどこか成人女性の様相を呈していた。
不思議なことに彼女には商品を売る気がないようだった。というより、歩道を行き交う人々から一歩身を引いて関わるのを避けているようである。
対照的に隣の店では売り子が愛想を振りまいて声を掛け続けていた。
ひょっとすると、日本語が分からないのではないか、哲也はそう思った。
もしそうなら彼女の消極的な態度も理解できる。下手に声を掛けて客が立ち止まってしまったら、それこそ困ってしまうに違いない。
しかし店も店である。そんな戦力にもならぬ外国の娘を立てておく理由は一体何であろうか。
たまに若い女性が興味を持ったのか、ガラス細工を手に取るのだが、如何せん売り子が何も声を掛けないものだから、すぐにその場を離れていってしまう。
哲也は少し離れたガードレールに腰掛けてその様子を見守っていた。
その娘が気の毒に思えたのだ。どうして彼女に一人店番させているのか、どうしても分からなかった。
そこへ若い派手な格好の女二人が足を止めた。観光客である。
一人が奥に向かって何やら話し掛けた。仕方なく彼女もおどおどしながら口を開いた。しかしとてもコミュニケーションが取れている風ではない。
すると驚いたことに、もう一人の女が手近にあったガラスの小鉢を自分のトートバッグにするりと流し込んだ。
万引きである。
一人が店員を引きつけて、その隙を狙ってもう一人が商品を盗んでいるのだ。舗道を行く人々は誰も彼女らの犯行に気づいてはいない。
そしてまた一つ、小皿をかすめ取った。
哲也は心穏やかではなかった。この衆人環視の中でこの犯罪に気づいているのは、どうやら自分しかいない。売り子の彼女ですらまったく気づく気配はない。
どうしようか。
激しい葛藤が芽生えた。このまま連中を見逃してもいいのだろうか。それでは彼女があまりにも不憫でならない。
しかし観光でこの街を訪れている身である。事を荒げて旅行の雰囲気を乱すのも本意ではない。
そうこうするうちに、女二人はその場を離れた。外国人の娘はやはり何も気づいていないようだった。
哲也は反射的に二人の後ろをついていった。
公衆トイレ付近で人気がなくなったのを確認して、連中に追いついた。
「お前たち、さっき盗った物を返せよ」
どういう訳か、それは自信に溢れた声だった。別にヒーローを気取っている訳ではない。ただあの外国人を守ってやらねばならないという義務感だけが身体を動かしていた。
二人は同時に振り返り、哲也の顔を窺うと安堵の表情を浮かべた。
「何だよ、あんた」
「文句あるのかい?」
左右から別々に声がした。
「ちゃんと見てたんだよ。お前らが万引きするところをな」
二人は顔を見合わせた。どうしようかお互いに心の中で相談しているようだった。
「別に俺は警察じゃない。今この場で盗んだ物を返してくれれば見逃してやる。でもシラを切るのなら、どこまでも追いかけるぞ」
旅の空の下で、こんな不良連中に脅しをかけることになるとは思いも寄らなかった。しかしこれは自分にしかできない仕事なのだった。
「ふん、分かったわよ」
トートバッグを持った女が観念して言った。もう一人はまだどこか不満気な顔をしている。
鞄からいくつかガラス細工が現れた。哲也は両手でそっと受け取った。手の中でそれらがぶつかり合う乾いた音がした。
「これだけか?」
「疑り深い奴だな。何なら中を調べるかい?」
「それじゃ、一応」
哲也は鞄の取っ手を左右に大きく広げた。包装された土産品がいくつか入っていたが、裸のガラス製品はなかった。
「ふん、これで気が済んだだろ」
二人はその場をさっさと離れようとした。
「おい、お前ら。あの子に何か言うことはないのか?」
哲也は二つの背中に声を浴びせた。
「うるせえな、何もねーよ」
謝罪の言葉はなかった。しばらくして二人は申し合わせたように突然駆け出した。
哲也はガラス細工を両手で優しく抱えながら来た道を戻った。
今になって心臓の鼓動が高鳴ってきた。あの連中の前では平静を装ってはいたが、実のところ、この後どうなるのかと心中穏やかではなかったのだ。
もしあの連中が他の仲間と合流していたら、果たしてどうなっていただろう。そんなことを思い浮かべると今頃になって足が震えてきた。
しかし商品は無事に戻ったのだ。後はこれらを彼女の所へ持っていくだけである。
足の運びに合わせて、ガラス同士が甲高い悲鳴を上げた。
そう言えば何も考えていなかったが、これらを彼女にどう言って渡せばいいだろうか。何しろ彼女自身が万引きの事実を知らないのである。果たしてどう説明すれば分かってもらえるだろうか。
街はすっかり夕暮れになっていた。太陽が西の山にかかっていた。
ようやく屋台まで戻ってきた。ひょっとして彼女が店を畳んでいたらどうしようかと心配していたが、それは杞憂に終わったようだ。
相変わらず彼女は顔をこわばらせたままひっそりと立っている。
哲也はそんな彼女の真正面に立った。
「これをどうぞ」
哲也はゆっくりとガラス細工を両手から解放した。
さすがの彼女も驚いた表情を見せた。自然と前に踏み出した。
「これは、どうしましたか?」
彼女の言葉は明らかに外国人特有のものであった。
「さっき、客がお金を払わずに、こっそり持っていった物です」
「そうなのですか?」
彼女は青い目を丸くした。
「それを取り返してきたのです」
「どうもありがとうございます」
彼女は途端に笑顔になった。それは息をのむほど美しかった。
「あなたは、とてもいい人ですね」
「あなたがお店に慣れていないようで、見ていて心配だったのですよ」
彼女はちょっと考えるような顔つきをしてから、手を差し出した。
「わたし、ターニャ。ターニャ・リピンスキーです」
「僕は藤森哲也」
「フジモ…?」
「テツヤでいいですよ」
二人は握手をした。
夕陽が小樽運河の倉庫を赤く染め抜いていた。これが二人の出会いだった。