グルー君、モアー君、フロスト君との情報交換が終わった私は雪ノ下さん達が待つ部屋へ移動した。その部屋の襖を開けるとすぐにホワイト大佐と話をしている雪ノ下さん達を見つけた。
様子を見ていると、どうやらホワイト大佐が何やら困惑しているようだった。何かと思い私は話に入ることにした。
「どうかな。お話は弾んでるかい?」
その声にホワイト大佐はなぜかお手上げのようなジェスチャーをして答えた。
「どうかしたの?」
「そうですね……ここまで認識の差があるのかと思いまして……」
「認識の差?」
『認識の差』とは何のことだろうか。私はさらに詳しい話をホワイト大佐に聞いた。
ホワイト大佐は雪ノ下さん達に今の日本の周辺状況について聞いたらしい。日本の民間人、特に雪ノ下さんのような子供とホワイト大佐は接することが少ない。そこで、彼女は日本の子供たちはどんな国防意識を持っているのかを聞いてみようと思い、そのような質問をしたらしい。だが、それに対する回答があまりにも頓珍漢なものだったため対応に困っていたというのであった。それはそれで当たり前と言えば当たり前である。日本人に、さらに言えば日本の高校生や中学生にそんなことを聞いても頓珍漢な答えしか返ってこない。
「それで、なんて答えたの?問いは日本の周辺情勢についてだよね?」
ホワイト大佐はうなずいた。そして、私はまずは雪ノ下(姉)さんに視線を向けた。
「平和なんじゃないかな?」
まあ、現代日本人のいいそうなことである。私とホワイト大佐が雪ノ下(姉)さんの答えに少しなんとも言えないような表情した。
「何?何か間違えた?」
雪ノ下(姉)さんはその反応に困惑していた。
「間違えてないよ。というかそもそもそういうことについて知らないんだから仕方ないよね。じゃあ、まずはそこからお勉強していこうか。ホワイト大佐、極東地域の地図とかある?」
ホワイト大佐は地図を持っていなかったので、他の出席者から数枚の地図を借りてきた。私はその地図を雪ノ下さん達が座っている机に広げた。
「さて、質問」
私は雪ノ下さん達に対して言った。
「日本の北方にある大国と言えば?」
私は雪ノ下さんに視線を向けた。
「ロシアよね」
「その通り。日本の北方にある大国はロシア、正式名称ロシア連邦」
私は地図のロシアの部分をオレンジで塗りつぶした。
「総面積17,075,200平方キロメートル、人口1億4350万人、GDP1兆222億ドル。冷戦期にはソ連として米国と覇権を争った超大国。でも91年のソ連崩壊により弱体化。まあ、弱体化したと言っても世界有数の軍事力及び核戦力を保有している大国だね。あと国連の安全保障理事会の常任理事国だよ」
私の説明に雪ノ下さん達は黙って聞いていた。はっきり言ってこんなものは一般常識だから質問は出ない。
「次に行こうか。では、日本の西方にある大国と言えば?」
私は次は雪ノ下(姉)さんに視線を向けた。
「中国だよね」
「その通り。日本の西方にある大国は中国。私は中華民国と区別するために中共って呼ぶけどね。正式名称は中華人民共和国」
そう言ってロシアの時と同様、中共の部分に赤色を塗った。
「総面積963,4057平方キロメートル、人口13億3474万人、名目GDP5兆59億ドル。計画経済の行き詰まりから弱体化しかけたけど、78年における改革開放から世界で最も成長率が高い主要経済国の一つになったよ。でも、そのGDPの値は電力消費量の値などと比較するとおかしな部分があるので、水増しされた値ではないかと言われているよ。他には世界最大の常備軍と核戦力を保有していること、安保理の常任理事国であることが言っておくべきことかな」
ここでも質問は出なかったので、私は話を先に進めた。
「じゃあ、次。さて、この地図には描かれていないいないけど、日本の東方、太平洋を挟んで位置する大国と言えば?」
私は今度は葉山君とやらに視線を向ける。
「アメリカだな」
「その通り。日本の東方、太平洋を挟んで位置する大国、アメリカ。正式名称はアメリカ合衆国。総面積9,630,000平方キロメートル、人口3億737万人、名目GDP14兆4178億ドル。米国は先進国であり世界最大の国民経済を有する国家だよ。さらに世界で最も多くの軍事費を使っていて、米軍は
私は欄外にアメリカと青色で書いた。
「さて、次は日本について見ていこうか」
私は次に日本の状況をについて説明した。
「日本は北東亜細亜に位置する四方を海に囲まれた孤立的な多海洋型の国家だよ。で、総面積377,961平方キロメートル、人口1億2800万人、名目GDP5兆350億ドル。現状、米国と中共に続く世界第三位の経済大国だけど経済規模に比べて極めて不釣り合いな少ない軍事力しか保有していないよ。まあ、それは置いといて地政学的な観点から日本の位置を見ると、ランドパワーとシーパワーが対決する重要な地域、いわゆる『リムランド』の東端に位置しているよ」
そこまで私が説明した時、雪ノ下さんが質問をしてきた。
「質問なのだけれど」
「どうぞ」
「ランドパワーとシーパワーとは何のことかしら?」
確かに日常の会話では使わない用語なので雪ノ下さんが知らなくてもおかしくはない。私は『ランドパワー』と『シーパワー』について説明することにした。
「『ランドパワー』っていうのは国家が保有する陸地を利用する潜在的、顕在的な能力の総称のことを言うよ。今回は地政学上で使ったから意味としては大陸勢力っていう風に認識してもらえればいいかな」
「大陸勢力?」
雪ノ下さんは未だイメージが湧かないようである。私はさらに説明することにした。
「そもそも陸地っていうのは古来より人間の基本的生息地だよね」
「そうね」
雪ノ下さんは頷いた。
「つまり、陸地の重要性っていうのは普遍的ってわけだよ。だから、いつも戦争の最後の勝敗を決するのは陸上戦力なわけだよ」
「……」
いきなり戦争の話に飛んだのでよく分かっていないようであった。
「それで『ランドパワー』の構成要素だけど、基幹的な要素として陸上戦力で、そこから派生した陸地とその陸地における住民・資源の支配権が挙げられるよ。また、陸地を開拓・開発能力、道路・鉄道・高速道路などの交通施設や自動車や電車などの交通手段を用いた陸上輸送能力、建築物や施設の建設能力が挙げられる。加えて、陸地そのものの能力として、農業や牧畜などの食料生産能力、陸地に存在する工業材料やエネルギー資源の保有量などを包括する概念だよ」
「つまり、陸地を支配できて、かつ利用できる能力と理解すればいいのかしら」
「端的に言えばそういうことだよ」
「なるほど」
雪ノ下さんは『ランドパワー』については一応理解ができたようであった。
「基本的に大陸の大部分を領有する国家はその量的な観点からランドパワーに優れた国家であり、島や半島を領有する国家は強大なランドパワーを求めることが出来ないと考えられるよ。具体的な国名を挙げればロシアや中共が大きなランドパワーを保有していると言えるよ。対して日本は島国だから大きなランドパワーは保有することができないよ」
これで一応『ランドパワー』の説明は終了した。
「次は『シーパワー』についてだね。まあ、予想はできると思うけど」
一呼吸置いて私はシーパワーについて説明し始めた。
「海洋は歴史的に沿岸地域に住む人間の生活と密接に関わり、古代から海産物の資源地域や海運の交通路として活用されてきたよ。また、水域によって妨げられた陸上輸送を媒介するものでもあり、多面的な重要性を持つんだ。その構成要素としては海洋利用のための商船隊・漁船隊、海洋を支配するための海軍力、造船などのための工業力、船舶の活動を支援するための港湾施設などがあるよ」
「ようは海上を支配し、利用できる能力ということよね」
雪ノ下さんが言った。
「まあ、端的に言えばね。それで基本的に大きな『シーパワー』を持つ国家というのは、長い海岸線と良い港湾、地理的に恵まれた位置、商業保護と海運政策に関する国の立法的位置、造船用資材獲得の容易さ、航海体験人口の多さ、商船隊保護に必要な海軍、できるだけ多くの植民地がその特徴として挙げあられるよ。これに当てはまるのはまずは米国。米国はさっきも言ったように世界最強の海軍を持っているよ。他には日本や英国もこれに当てはまるよ」
「なるほど。それで、『リムランド』というのは?」
「『ランドパワー』持つ大国と『シーパワー』を持つ大国が対決する場所が『リムランド』って言われているんだ。さて、それを踏まえてもう一度、極東の地図を見てみようか」
私はもう一度雪ノ下さん達の前に極東の地図を出した。
「さて、『ランドパワー』の説明もしたけど、ロシアと中共は『ランドパワー』だよ」
私はそう言ってロシアと中共を丸を囲って『ランドパワー』と書き込んだ。
「それで、日本と米国は『シーパワー』だよ」
今度は日本と米国の文字を丸で囲って『シーパワー』と書き込んだ。
「『ランドパワー』と『シーパワー』が近接している以上、対決は避けられないわけで、極東地域は『リムランド』ってことになるんだよね」
最後にロシアと中共、日本、米国の文字を大きな丸で囲んで『リムランド』と書き込んだ。
「さて、ここまでの話を聞いてもらった上でもう一度質問するよ」
私は雪ノ下(姉)さんを見た。
「日本は平和かな?」
「……でも、現に戦争は起こってないよね」
確かに日本は戦後六十四年間、正確には戦後五十七年間、一度も他国と交戦したことはない。
「なるほど、戦争は起こっていないから平和だと」
雪ノ下(姉)さんは頷いた。その認識は間違いではない。だが、正確ではない。
「じゃあ、話を続けようか。日本は、太平洋、日本海、東シナ海などの海洋を繋ぐ宗谷海峡や津軽海峡などの収束点の多くと接しているよね」
さらに違う地図に宗谷海峡や津軽海峡に丸を書き込んだ。
「これらはすべてチョークポイントと呼ばれていて、シーパワーを制するに当たり、戦略的に極めて重要な海上水路なんだよ」
「どのように重要なの?」
雪ノ下さんが質問してきた。
「例えば、ここ」
私はロシアの領土であるウラジオストクに印をつけた。
「ここはウラジオストクと言ってロシア海軍の太平洋艦隊の基地があるんだ。ここから、太平洋に部隊を展開する場合、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡のいずれかを通過しなければならないんだよ。もし日本がここを封鎖するって言ったらロシアは太平洋に部隊を展開させることができなくなるよね」
私は宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡はバツ印を書きこんだ。
「……たしかに」
「さらに、東アジア地域の幅広い地域に展開することが可能な地域にあり、例としては九州は日本海、東シナ海、太平洋のいずれにも接し、海路や空路によって朝鮮半島、中国、台湾に部隊を展開することができるよ」
次は九州と朝鮮半島、中国、台湾に印をつけた。
「ようは、日本列島っていうのは戦略的に重要な土地ってこと」
「だからアメリカ軍も駐留してるってこと?」
雪ノ下(姉)さんが良いことを言った。
「その通り。日本に駐留していれば東アジアにおける有事には即応できるからね。さらに米国はアリューシャン列島、日本、南朝鮮、台湾、フィリピンを結んだ線を外郭防衛線として
「
この構想を考えたのは実は日本人だったりする。
「米国からすれば太平洋の制海権は絶対渡さないって意味だね」
逆を言うと、と私は話を続けた。
「中国やロシアからすれば喉元にナイフを突きつけられているのと同じってわけだよ。雪ノ下さんなら自分がそんな状況だったらどうする?」
「……身を守る為にその状況を変えようとするかしら」
「だよね。ようは中国もロシアもそうしたいってわけ」
「そうしたい?」
雪ノ下さんは驚いたようだ。
「今すぐってわけじゃないけど、機会は狙ってると思うよ。日本から米軍を追い出して、あわよくば日本を自分の勢力圏に取り込みたいってね」
私はホワイト大佐を見た。
「それが合衆国軍の一般的な認識です」
ホワイト大佐のその言葉に雪ノ下さん達は言葉を失った。
「まあ、戦争がない状態を平和っていうのは間違ってはいないんだけどね。でも、第二次世界大戦後の武力衝突では宣戦布告もなく休戦協定も頻繁に破られるとか今までの戦争の定義そのものが難しくなって戦争と平和の区別も曖昧になっているんだよ」
「だから今の日本は平和とは言えないと」
ようやく雪ノ下(姉)さんが答えに辿り着いた。
「そうだね。平和というよりは戦略的に安定しているって言った方がいいと思うよ」
そして、私は今まで沈黙していた雪ノ下夫人に視線を向けた。
「でも、こういうことはそもそも大人が子供に教える事なんだよね」
私は雪ノ下夫人を見た。
「今、私が言ったことは知ってたかい?」
夫人は沈黙している。すなわち、知らなかったということであり、これが現代日本の最も悪い点だ。
今の日本は主権在民である。つまり、政治に対して責任を負うのは国民であり、政治の中でもとりわけ重要な国防政策を決める事も国民の責任なのである。にもかかわらず、その国民が、特に有権者である大人が、国防について全くと言っていいほど見識がない。
「そりゃ、国防のことは県政には関係ないけどさ。国がなくなったら県政もクソもないんだからもう少し真剣に考えようよ。国の守り方ってやつをさ。そもそも……」
それから、私は火のついたように夫人への叱責を始め、それは五時間以上続いた。