わたしは、自分をコントロール出来ている。
カレッジの連中みたいに、馬鹿騒ぎなどしない。ダンススクールの仲間たちのように、ただ談笑するための小道具としてケーキなど食べたりはしない。そんなことをすれば余計な物がついて、わたしがわたしを支配できなくなるから。
「……アン、大丈夫?」
「……平気よ」
トイレの外から声をかけられた。あの声は親友のマリーだ。幼い時からずっと一緒にいて、同じダンススクールにも通っている。
トイレの水を流し、手を洗ってから何食わぬ顔をして出ていくと、とても心配そうな顔をしたマリーがいた。
「……また、吐いてたの?」
「ううん、ちょっとお腹が痛くてね。最近冷えるからかしら」
嘘だ。
食べた後はこうして吐くのが、アンにとってはいつものことだった。
「それよりも聞いてよマリー、私、先生に褒められたの。このまま頑張れば、センターを任せてもらえそうよ」
「そう……おめで、とう」
マリーは喜んでいるような、でも悲しんでいるような顔をしていた。
「……何?」
「……なんだか、自分を責め苛んでいるように見える気がして……」
「私が?」
アンは笑いながらマリーに言ったが、マリーの顔からすっと笑みが消えた。
「ねぇ、今自分の容姿がどんなだかわかってる? まるで骸骨よ!?」
「骸骨? 失礼ね。私はまだまだ身体を引き締め切っていないのに。もっと痩せなくちゃ、ちゃんと踊れないわね」
「お願いだから目を覚まして。このままじゃ、あなた死んじゃう!」
マリーは半ば叫ぶようにしてアンの肩を揺さぶったが、一度揺さぶるとすぐにやめた。あまりのアンの体の軽さに驚いていた。
「死なないわよ。大丈夫。心配性ね。わたしのことならわたしが一番よく分かってるわ」
そう言ってアンはすたすたと歩いて行った。その後ろ姿を見て、マリーはそっと涙した。
アンが自分の体重を気にし始めたのは、本当に些細なことからだった。
ふと、自分の全身が映る、ダンススクールの鏡を見て「もう少し引き締めたいなぁ」と思ったことから、アンは体重を意識するようになった。
帰りにいつも仲間たちとカフェに寄っては必ず談笑しながら食べていたケーキを食べずに、紅茶だけで済ますようになった。たったそれだけのことで、体重は減り始めた。それが嬉しくて、数字が減っていくのをもっと見たくて、今度は夕飯を減らすようになった。そしてカロリーを気にするようになり、なるべく肉は食べずに、野菜を中心とした食生活に変えていった。体重はみるみる落ちていった。
だが、ある日を境に、体重が全く減らなくなった。それどころか、じわじわと数字が増え始めていた。それに恐怖したアンは、運動量を増やし、食べる量を減らし、必死に数字を減らそうとした。ようやく体重が減り始めた時、彼女が一食で摂取するものは、ドレッシングもかけないサラダが少しと、一切れを更に半分にしたパンと水だけだった。食べる量をわずかにでも増やすと、体重がわずかに変動し増える。それを見て、アンは自分の体を支配しているという全能感を感じた。だが、それも長続きはせず、むしろ体重が増えてしまわないかという心配の方が遥かに頭の中を占めていた。
親友のマリーも、最初の頃こそ彼女のダイエットの頑張りぶりを見ては褒めていたが、だんだんとやせ細っていく彼女を見て笑顔の代わりに心配そうな表情を浮かべるようになっていった。
今日もアンは、水だけを飲んだ。体内の消化管をするすると流れ落ちていく、ひんやりした水の感触が心地いい。でもあまりに飲み過ぎると、お腹の中で水がたぽんたぽんと揺れて、なんとなく気持ち悪くなる。そこそこに水を飲み終えると、寝る前のストレッチを始めた。
一通り終えた後、ふと気がつくと携帯にメールが来ていた。見てみると妹からのメールだった。
『今度また個展を開くの、来てね!』
一言の短い文章と、URLが貼られていた。
妹はあまり出来のいい子供だとは言えなかった。いつも赤点スレスレを取っては、落第するんじゃないかと両親をヒヤヒヤさせた。そして結局彼女が選んだ道は、なんと画家になるという物だった。両親は当然いい顔をしなかったが、そんなのはどこ吹く風と言わんばかりに説教も聞き流し、妹は自称画家となった。
以前にも個展を開いていたので一度行ったが閑古鳥が鳴いており、彼女も暇そうにしていた。最近は画家というよりフリーのイラストレーターとして働き、身銭を稼いではまた絵に打ち込むという生活を送っているらしい。
若い内にしか出来ない、ある意味無茶な生活だと言えた。結局彼女はハイスクールを出てからはカレッジになんて通ってないし、姉の彼女から見たら学のない人間だ。
アンは両親の期待に答えられる「いい子」であり、学業でも優秀な成績を修め、トロフィーをもらうくらいだった。それは学校側に返却して飾ってもらうことにしていたから手元にはないが、今の彼女が難関と呼ばれるカレッジに入り、相も変わらず優秀な成績を修め続けていることに揺るぎはない。両親を一度たりとも困らせたことなんてないし、ましてや妹のようにクラスメイトに怪我をさせてしまうなんていう問題を起こし、両親に頭を下げさせるようなこともなかった。
ひとまずなんとなくでテレビを付けてみることにした。最近、近くの州でおかしな病気が流行しているそうだ。なんでも、その病気にかかった人は視線が定まらずふらふらとし、食欲が増大してまるでケダモノのようになると聞いた。そんな病気があると知り、近くで流行していると知ってからアンは震えが止まらなくなった。
そんな病気にかかってしまえば己の身がどうなるか分からなかったからではなく、自分の体をコントロール出来なくなることが一番怖かったから。
アンはニュースで病気の流行状態を確認すると、テレビを消して床についた。
次の日の朝、彼女はカレッジで講義を受け、ダンススクールへ向かった。このダンススクールは半分趣味半分運動がてらにやっていたようなものだったが、筋がいいと先生に褒められてからは少し本腰を入れてやってみようと思えるようになった。
一緒に通っているマリーは残念ながら違うクラスで踊っているが、自分のいるクラスでも友達はいるから何も問題はない。
「ワン・ツー・スリー・フォー・ターン・アンド・ターン!」
先生の手拍子と声で刻むリズムに合わせて手を振り、ターンし、精一杯の表現をする。自分では踊れているつもりでも、鏡に映る姿はひどく無様だったりする。
「もっと指先をしっかり伸ばして! 中途半端で見苦しい! 足先、指先に気を遣いなさい! 細かい先に気を遣ってこそ美しいシルエットが生まれるの!」
踊りながら、アンは無心でいた。今表現をしようとしているのは、自分が風の中揺れる一輪の花だということ。風の中での儚げに揺れる花のたおやかさ。そういったものは一見弱々しく見えても、その実大地にしっかりと根を張っていて……。
「今日はここまで! ……アン、ちょっとあなたは残りなさい。今日は解散!」
周りの仲間たちはお喋りをしながら行ってしまったが、アンは胸を高鳴らせていた。ひょっとしたら、自分が今度の舞台でセンターを貰えるのかもしれない……。
「……アン、その、貴女最近ちゃんと食事は取れている?」
「ええ、先生」
「睡眠は? 何か悩み事はない?」
「大丈夫です、先生」
アンは表面上ではにこやかであったが、内心少し鬱陶しいと感じていた。心配性のマリーだけならともかく、先生まで同じことを言うのだろうか?
「……そう。ならいいんだけど……」
「何か問題でもあるのでしょうか?」
「……もう少し、体力を付けた方がいいかもしれないわね」
「分かりました、先生」
先生はぽん、とアンの肩に手を置いて言った。
「何かあったら遠慮無く相談しなさいね」
「はい、ありがとうございます先生」
アンは先生に別れを告げ、更衣室で手早く着替えた。スクールの外では、マリーが待っていた。
「先に帰ってるかと思ったのに、待たせちゃってごめんね」
「ううん。……ねぇ、アン。貴女また痩せたんじゃない?」
「そう?」
二人で歩きながら話していると、マリーはまた泣きそうな顔になった。
「カレッジで自分が何て呼ばれてるか知ってる? スピッターだって……」
「ゲロ吐き女って? どうせそいつらには分からないわ。自分のこともコントロール出来ないような怠惰な奴には、ね」
アンは優越感を満面に湛えながら言った。マリーが何か言おうとした時、不意に叫び声が聞こえた。
「なんだこいつ、チクショウ、離れろこのクソった、痛ぇぇ!!」
そこには中年に覆いかぶさられて首筋を思い切り噛み付かれている男性がいた。男性は両手足をバタつかせて必死に逃れようとしているが、白目を剥いた中年男性は全く離れようとしない。口からはだらだらと血が溢れ、男性のシャツに染みこんでいった。
「離れて! 離れなさいよぉ!!」
おそらくは襲われている男の恋人なのだろうか、女性が手に持っていた傘で何度も中年を殴りつけているが、中年はまったく意に介していなかった。
あっけにとられたアンとマリーはしばらくそのまま見つめていることしか出来なかったが、やじうまの誰かが呼んだのだろう警察官たちに中年が引き剥がされ、さるぐつわを噛まされるのを見てようやくその場を離れることが出来た。そして一言も発することなく、いつもの分かれ道につくと別れの挨拶を交わした。
何だったのだろう、あの醜悪な男は。まるで自分をコントロール出来ていない。精神を病んでいたのだろうか? いや、あれは違う。もっと何か、違うもの。どちらにせよ、私はああはなりたくはない。
家に帰るやいなや、情報を求めてテレビをつけた。そういえば近辺の州で謎の病気が流行っていると聞いた、あれはその類だろうか?
「次のニュースです。突如起きた謎のウイルスによる病気は、依然収まる気配を見せず拡大を続けています。政府はマスクの着用や消毒の習慣づけなどを呼びかけています。症状の第一段階である、意識の喪失や極度の空腹を感じた時は速やかに最寄りの病院へ……」
感染地域のマップがテレビ画面に表示された。私の住むこの州にも色がついていた。
あれから、カレッジもダンススクールも休校するとお知らせが来た。今なお拡大を続けているという病気が収まるまでだと言う。窓から外を見れば、もうほとんど人気はなくて、かろうじて見えた人影は大概が感染者だ。日中でも夜中でも、時間を問わずに外をふらふらしている。だが、何も知らない人が感染者を見ればまるで酔っぱらいのように見えるだろう。壁に手をついて嘔吐したり、道路に大の字になって寝転がったりと、その傍若無人な様子はまともな人間のとるような行動には見えなかった。
家に篭り続けている私は、皮肉なことに今まで食べることを拒否してきたせいで食料品のストックには困らなかった。だが、もうこの緊急事態では痩せて美しくあることに何の意味があるのだろうか。私は頭の片隅でそう考えながらも頑なに食事を拒否した。
だが、テレビとネットを併用して得られた情報は私が望むようなものではなかった。ウイルスを撲滅することやワクチンの開発どころか、もう手が付けられるような状態ですらなくなっているようだった。
政府はマスクの着用や消毒を義務付けていたが、どうやら空気感染はしないらしかった。時折換気扇を回している私が感染しないのがいい例だ。接触を避けているのは相変わらずだが、奴らの体液に触れてはマズイのだろう。噛まれたら感染するというのこそ、唾液が傷口に触れるから感染するのだろうし。
だからきっと、私は家にある食料品が尽きるまで外には出ないし、感染もしないだろうと、そう思っていた。浄水器から流れる水の味が変わるまでは。
いつものように、浄水器から汲んで、沸かしておいた水を口に含んだ。何やら生臭い味がして、慌てて吐き出した。私の舌がおかしくなってしまったのだろうか? 念のため少しだけ、保存用のペットボトルのミネラルウォーターを少しだけ口にふくむ。変な味は特にしなかった。
私は嫌な予感がしていた。浄水場のシステムはよく分からない。が、もしそこで働いている人たちが感染したら? 感染して何らかの原因により、感染者の死体や体液が水に混入していたら? それこそ、浄水器のフィルターなどろ過も追いつかないほどに? あるいは途中で水道管が破損したりしていたら?
私は安心したくて、浄水器のメーカーと、この地域の浄水場の電話番号を調べて電話した。しかしその会社のどれひとつとして受話器を取ることはなかった。
精神的な問題だろうが、ひどく口の中が渇いた気がする。私は汲み置きの水を飲みながら、水がダメになった今、どうすべきかを考えた。念のため、アスピリンを一錠飲み、少し横になることにした。
目が覚めた。なんだか喉が乾く。湿っているのに喉が乾くというのも不思議な感覚ではある。
水を飲もうとして、涎が垂れた。涎を垂らして眠ってしまうほど疲れていたのかと自嘲気味に笑い、拭こうとして固まった。
一滴の涎が垂れたソファに穴が開いていた。こんなところに穴なんてあっただろうかと思ったら、また涎が垂れた。ソファが見る見る間に革を縮め、穴が開いていった。
私は慌てて鏡を見た。そこには、溶けた歯の隙間からダラダラと黄色い涎のような物を垂らす醜い女がいた。涎のような液体は酸性らしく、洗面台に垂れてはじゅっという音を立てていた。
不思議なことに、涎は手で触れてもなんともなかった。だが、下唇から顎の部分
にかけては黒く染まっていた。指でつつくと、かかとのようにガサガサと硬くなっていた。
口は大きく裂け、自然には閉じられなくなっていた。おかげで意識してしっかりと閉じないと何時まで経っても液体がダラダラと止めどなく、だらしなく出続けるというみっともない姿をさらけ出すことになる。
「イヤアアアアアアアアアッ!!」
口から出た金切り声は、上げた自分ですら自分の声だと認識出来ないようなひどい声だった。鏡を殴りつけて割った。欠片が少し散った。
――これが報いだというのか。私はただ美しくなりたかっただけだったのに。痩せて、綺麗になれば……。
これで、私も「自分をコントロール出来ない」感染者共の仲間入りだ。もう美しくある意味すらない。舌で探ると、お酢よりも舌を刺すことはないが、それでも強烈に酸っぱいような味がする。これは唾液ではない、胃液だ。だから強い酸性なのだろう。
私は泣きながら外に出た。本当に久しぶりの外だった。
道路では感染者たちが思い思いに振舞っていて、私の方なんて欠片も気にしていないようだった。それがまた、私の癇癪に油を注いだ。
つばを吐く要領で、そいつらに胃液を吐きかけてやった。顔に命中すると、感染者の一人は苦しそうに地に倒れ伏し、のた打ち回り、やがて動かなくなった。顔が溶けてなくなり、頭蓋骨が溶けたことで収まりが悪くなった脳みそがこぼれ、酸に溶かされていった。
「私を見てよ! 私を見てよ!!」
つばを吐いて周り、感染者共を殺していった。仲間が殺されていっているにも関わらず、他の感染者たちは無関心だった。自分が溶かされる段になってようやく、苦しむのだった。
「妹ばっかり! 私を見てよ!!」
私の脳裏には、両親が妹の話をしている所が思い浮かんでいた。
「私はゲロ吐き女じゃない! 私を見てよ!!」
密かに思い憧れていた、カレッジのクラスメートが思い浮かんでいた。彼とはあまり話したことがなかった。
「私を見てよ!!」
ダンススクールで、ケーキを食べに行かないと知るやいなや、私と一緒にいることがなくなった友人たちが思い浮かんでいた。
「私を見てよ!!!!」
結局酸のつばを吐いて回っても、何人を溶かし殺しても、感染者たちは私を気にすることはなかった。
おまたせしました。第二話です。
ハンター行ったんだから次も1のメンツだろうと思った方残念でした。まさかの2のスピッターでした。
スモーカーは多分色々な所で需要あるとは思うんですが、まだまだ出番は先です。というかスモーカー書き終えた途端やる気が消失しかねん。
拒食症の方って実際に「自分の身体を自分でコントロールしている」という考えをよく持つ傾向にあるみたいですね。実際に罹患なさった方の記録などを本で数冊ほど読んでそう思ったのですが。出来のよく、親の手がかからない子ほどそうなったりするみたいです。
とりあえず第三話はちょびっと着手しました。プロットはすぱっと作りましたので、話の流れだけならできてます。多分。まだまだ2%くらいですけどね。
このシリーズは気長に待っていただけると嬉しいです。では。