PCが壊れてしまって、新しいのを買いました
今回でようやく、ユイちゃん編が終わりです!
長かった
「パパ……ママ……お兄ちゃん……ぜんぶ、思い出したよ……」
ヨロヨロと近づいてきた三人に対して、ユイは目には涙を溜めて静かに言った
黒鉄宮地下ダンジョン最深部の安全エリアは、正方形の部屋だった
中央には光沢のある黒い立方体の石机らしき物が置いてある
ユリエールとシンカーの二人には、転移結晶で先に脱出してもらった
脱出を促されたユリエールは最初、脱出することを躊躇い首を振っていたが、三人が「まだやることがある」と告げたら、渋々といった様子で脱出した
ユイは記憶が戻ったと告げた後、数分間は沈黙していた
その表情は悲しそうで、三人は言葉をかけるのを躊躇っていたが、アスナが意を決して話しかけた
「ユイちゃん……思い出したの……? 今までの、こと……」
アスナが語り掛けても、ユイはしばらく俯いていたが、コクリと頷いた
泣き笑いのような表情で、小さく唇を開き
「はい……全部、説明します……キリトさん、アスナさん、ヨシアキさん」
その他人行儀で、丁寧な言葉にアスナは胸が締め付けられるような痛みを感じた
それはまるで、何かが終わってしまったという、切ない確信だった
「《ソードアート・オンライン》という名のこの世界は、ひとつの巨大なシステムによって制御されています。システムの名前は《カーディナル》。それが、この世界のバランスを自らの判断に基づいて制御しているのです。カーディナルはもともと、人間のメンテナンスを必要としない存在として設計されました。二つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、更に無数の下位プログラム群によって世界の全てを調整する……モンスターやNPCのAI、アイテムや通貨の出現バランス、何もかもがカーディナル指揮下のプログラム群に操作されています。……しかし、ひとつだけ人間の手に委ねなければならないものがありました。プレイヤーの精神性に由来するトラブル、それだけは同じ人間でないと解決できない……そのために、数十人規模のスタッフが用意される、はずでした」
「GM……」
「だね……」
キリトの呟きに、ヨシアキが頷いた
「ユイ、つまり君はゲームマスターなのか……? アーガスのスタッフ?」
キリトの問い掛けに、ユイは数秒間沈黙した後、ゆっくりと首を振った
「カーディナルの開発者たちは、プレイヤーのケアすらもシステムに委ねようと、あるプログラムを試作したのです。ナーヴギアの特性を利用してプレイヤーの感情を詳細にモニタリングし、問題を抱えたプレイヤーのもとを訪れて話を聞く……《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》MHCP試作一号、コードネーム《YUI》。それがわたしです」
驚愕のあまりに、アスナは息を呑んだ
ユイの言ったことを即座に理解できない
「こりゃ……驚いた……」
ヨシアキも驚きで、目を見開いている
「プログラム……? AIだっていうの……?」
アスナが掠れた声で問いかけると、ユイは悲しそうな笑顔のまま頷いた
「プレイヤーに違和感を与えないように、わたしには感情模倣機能が与えられています……偽物なんです、全部……この涙も……ごめんなさい、アスナさん……」
謝罪するユイの両目から、涙が止めどなく流れ、光の粒子となって消えていった
アスナは静かにユイに歩み寄り、手を伸ばそうとしたが
それをユイは、首を振ってアスナの手を拒んだ
まるで、アスナに抱きしめられる資格がない、とでも言うように……
いまだに信じられないアスナは、言葉を絞り出した
「でも……でも、記憶がなかったのは……? AIにそんなこと起きるの……?」
アスナは否定してほしい気持ちで、そう問い掛けた
「……二年前……正式サービスが始まった日……」
しばらくすると、ユイは呟くように説明を始めた
「何が起きたのかはわたしにも詳しくは解らないのですが、カーディナルが予定にない命令をわたしに下したのです。プレイヤーに対する一切の干渉禁止……具体的な接触が許されない状況で、わたしはやむなくプレイヤーのメンタル状態のモニタリングだけを続けました……」
アスナ達は反射的に、その《予定にない命令》とはSAO唯一のゲームマスター、茅場晶彦の操作によるものだと察した
恐らく、茅場に関する情報を持っていないのだろうユイは、その幼い顔に沈痛な表情を浮かべ、唇を動かし続けた
「状態は……最悪と言っていいものでした……ほとんど全てのプレイヤーは恐怖、絶望、怒りといった負の感情に常時支配され、時として狂気に陥る人すら居ました。わたしはそんな人達の心をずっと見続けてきました。本来であればすぐにでもそのプレイヤーのもとに赴き、話を聞き、問題を解決しなくてはならない……しかし、プレイヤーにはこちらから接触することはできない……義務だけがあり、権利のない矛盾した状況のなか、わたしは徐々にエラーを蓄積させ、崩壊していきました……」
静かな地下迷宮の一角に、ユイの錦糸を思わせる声が響いた
アスナとキリトの二人は言葉もなく聞き入り、ヨシアキは歯を食いしばり、拳を硬く握りしめていた
「ある日、いつものようにモニターしていると、他のプレイヤーとは大きく異なるメンタルパラメータを持つ二人のプレイヤーに気づきました。その脳波パターンはそれまで採取したことのないものでした。喜び……安らぎ……でも、それだけじゃない……この感情はなんだろう、そう思ってわたしはその二人のモニターを続けました。会話や行動に触れるたび、わたしの中に不思議な欲求が生まれました。そんなルーチンはなかったはずなのですが……あの二人のそばに行きたい……直接、わたしと話をしてほしい……すこしでも近くにいたくて、わたしは毎日、二人の暮らすプレイヤーホームから一番近いシステムコンソールで実体化し、さまよいました。その頃にはもうわたしはかなり壊れてしまっていたのだと思います……」
「それが、あの二十二層なの……?」
アスナが問いかけると、ユイはゆっくりと頷いた
「はい。キリトさん、アスナさん……わたし、ずっと、お二人に……会いたかった……森の中で、お二人の姿を見た時……すごく、嬉しかった……おかしいですよね、そんなこと、思えるはずないのに……わたし、ただのプログラムなのに……」
涙を目元いっぱいに溢れさせて、ユイは口をつぐんだ
アスナは言葉にできない感情に心を打たれ、両手を胸の前でぎゅっと握りながら
「ユイちゃん……あなたは、ほんとうのAIなのね。本物の知性を持ってるんだね……」
アスナが囁くように言うと、ユイはわずかに首を傾げて
「わたしには……解りません……わたしが、どうなってしまったのか……」
ユイがそう言った時、今まで沈黙していたキリトとヨシアキがユイに近付いて
「ユイはもう、システムに縛られるだけのプログラムじゃない。だから、自分の望みを言葉にできるはずだよ」
「そうだよ……ユイちゃんは本物の知性と感情を得たんだからね」
そこまで言うと二人は目配せして頷き、視線の高さをユイに合わせて
「ユイの望みはなんだい?」
「言ってごらん?」
柔らかい口調で問い掛けた
「わたし……わたしは……」
ユイはそこで一旦区切り、大きく息をすると
「ずっと、一緒にいたいです……パパ……ママ……お兄ちゃん……!」
顔を上げて、自分の素直な気持ちを告げた
そのユイの言葉にアスナは、溢れる涙を拭いもしないでユイに駆け寄ってユイの小さい体を両腕で力強く抱き締めた
「ずっと、一緒だよ……ユイちゃん」
アスナに少し遅れて、キリトもユイとアスナを抱き締めた
「ああ……ユイは俺達の子供だ。家に帰ろう。みんなで暮らそう……いつまでも……」
そして、キリトの背後にヨシアキが立ち
「僕も遊び相手になってあげるよ……ユイちゃんは大切な妹なんだからね……」
ヨシアキは微笑みながら、ユイの頭を撫でた
ユイは少しの間、ヨシアキに撫でられていたが、ヨシアキが手を離すと、ゆっくりと首を振った
「え……」
「もう……遅いんです……」
ユイの言葉に、キリトが
「なんでたよ……遅いって……」
とユイに訊ねた
「わたしが記憶を取り戻したのは……あの石に接触したせいなんです」
ユイはそう言いながら、部屋の中央にある黒い立方体を指差した
「さっき、アスナさんがわたしをこの安全地帯に退避させてくれた時、わたしは偶然あの石に触れ、そして知りました。あれは、ただの装飾的オブジェクトじゃないんです……GMがシステムに緊急アクセスするために設置されたコンソールなんです」
ユイの言葉に何らかの命令が込められていたかのごとく、黒い石に突如数本の光の筋が走り、ブン……と音を立てて表面に青白いホロキーボードが浮かび上がった
「さっきのボスモンスターは、ここにプレイヤーを近づけないようにカーディナルの手によって配置されたものだと思います。わたしはこのコンソールからシステムにアクセスし、《オブジェクトイレイザー》を呼び出してモンスターを消去しました。その時にカーディナルのエラー訂正能力によって、破損した言語機能を復元できたのですが……それは同時に、今まで放置されていたわたしにカーディナルが注目してしまったということでもあります。今、コアシステムがわたしのプログラムを走査しています。すぐに異物という結論が出され、わたしは消去されてしまうでしょう。もう……あまり時間がありません……」
「そんな……そんなの……」
ユイの言葉に、アスナは抱き締めながら首を振り
「くそっ! ここまできて!」
ヨシアキは拳を地面に打ちつけ
「なんとかならないのかよ! この場所から離れれば……」
キリトは一縷の望みを賭けて、部屋の外に視線を向けるが、ユイは黙って微笑みを浮かべるだけであった
「パパ、ママ、お兄ちゃん、ありがとう。これでお別れです」
ユイはそう言いながら、その白い頬を再び涙で濡らした
「嫌! そんなのいやよ!!」
アスナは涙をながらに、必死に叫んだ
「これからじゃない!! これから、みんなで楽しく……仲良く暮らそうって……」
「暗闇の中……いつ果てるとも知れない長い苦しみの中で、パパとママの存在だけがわたしを繋ぎとめてくれた……」
涙を流しながら叫ぶアスナを、ユイはまっすぐ見つめていた
そして気づけば、その小さな体を光が包み始めていた
「ユイ、行くな!!」
キリトはユイの手を握りながら、必死に叫んだ
そのユイの小さい指が、キリトの手をゆっくりと握った
「パパとママのそばに居ると、みんなが笑顔になれた……わたし、それがとっても嬉しかった。お願いです、これからも……わたしのかわりに……みんなを助けて……喜びを分けてください……」
そう言ってる間にも、ユイの黒髪やワンピースが端から朝露のように儚い光の粒子となって少しずつ消え始めていた
ユイの笑顔まゆっくりと透き通り、重さがアスナの腕の中から消えていく
「やだ! やだよ!! ユイちゃんが居ないと、わたし笑えないよ!!」
アスナはまるで子供のように泣きながら、首を振った
そんなアスナを見て、ユイは溢れる光に包まれながら、ニコリと笑った
そして、透き通っている消える寸前の手がアスナの頬に触れて
……ママ、わらって……
そう囁くような声がアスナの頭の中に響くと同時に、ひときわ強く光が飛び散り、消えた時には
アスナの腕の中に、ユイの姿はなかった……
「うわあああああ!!」
アスナは悲しみが堪えきれなくなり、叫び声を上げながら膝を突いた
そのまま石畳の上にうずくまり、アスナは子供のように大声で泣いた
涙が次々と地面に滴り落ち、弾けた涙の粒がユイの残した光の粒子と混じり合いながら消えていった……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「こんな旨いものが……この世界にあったんですねぇ……」
そう呟いたのは、昨夜救出されたばかりの《軍》の最高責任者のシンカーである
気候は、昨日までの冷え込みが嘘のように暖かい風が吹いている
シンカーが食べているのは、ヨシアキとアスナが腕を振るって作ったバーベキューである
その隣では、ユリエールがニコニコと笑みを浮かべながらシンカーを眺めている
三人の第一印象では、冷徹な女戦士といった風情の彼女であったが、今の様子からでは、陽気な若奥様にしか見えなかった
件のシンカーは、先日の際には顔を見る余裕すらなかったが、改めて見ると、とても巨大組織のトップとは思えないほど穏やかな印象の男性だった
背丈はアスナよりは高いが、ユリエールよりは低い
やや太めの体に地味な色合いの服装を着ていて、武装は一切身に付けていない
隣に寄り添っているユリエールも、軍のユニフォームではなく私服姿だった
シンカーはキリトの差し出したワインボトルをグラスで受け止めると、グッと頭を下げた
「アスナさん、キリトさん。そして、ヨシアキくん。今回は本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいか……」
「いや、俺も
「僕もです」
笑みを浮かべながら、キリトとヨシアキは答えた
キリトが出した名前を聞いて、シンカーはその丸い顔を綻ばせて
「懐かしい名前だな……」
と懐かしんでいた
「当時は、毎日の更新が重荷で、ニュースサイトなんてやるもんじゃないと思ってましたが、ギルドリーダーに比べればなんぼかマシでしたね。こっちでも新聞屋をやればよかったですよ」
シンカーの言葉に、テーブルは和やかな笑いに満たされた
「それで……《軍》のほうはどうなったんですか……?」
アスナが恐る恐ると言った様子で訊ねると、シンカーは表情を改めて
「キバオウと彼の配下は除名しました。もっと早くそうすべきでしたね……私の争いが苦手な性格のせいで、事態をどんどん悪くしてしまった。……軍自体も解散しようと思っています」
シンカーの最後の言葉に、アスナとキリト。そしてヨシアキの三人は目を見張った
「それは……ずいぶん思い切りましたね」
「軍はあまりにも巨大化しすぎてしまいました……ギルドを消滅させてから、改めてもっと平和的な互助組織を作りますよ。解散だけして全部投げ出すのも無責任ですしね」
とシンカーが苦笑いしながら言うと、ユリエールがシンカーの手をそっと握って
「……軍が蓄積した資材は、メンバーだけでなく、この街の全住民に均等に分配しようと思っています。いままで、酷い迷惑をかけてしまいましたから……サーシャさん、ごめんなさいね」
突然、ユリエールとシンカーが頭を深々と下げたので、サーシャは一瞬キョトンとしてから慌てて両手を振り
「いえ、そんな。軍の、いいほうの人達にはフィールドで子供達を助けてもらったこともありますから」
サーシャのそんな素直な物言いに、再び和やかな笑いが場に満たされた
すると、ユリエールが周囲を見回してから視線をアスナに向けて
「あの、それはそうと……昨日の女の子、ユイちゃん……はどうしたんですか……?」
と首を傾げて、訊ねた
アスナとキリト。そしてヨシアキの三人は、視線を合わせると微笑みを浮かべて
「ユイは……お家に帰りました……」
アスナはそう言いながら、右手をそっと胸元に持っていった
そこには、先日まではなかった、細いチェーンのネックレスがあった
その細い銀鎖の先には、同じく銀色のペンダントヘッドか下がっていて、その中央には、涙滴型の大きな宝石が輝いていた
そっとその宝石を撫でると、ほのかな温もりが指先に沁みるような感じがした
少し時は遡り、あのユイが消えた時だった
ユイが消えた悲しみで、両膝を石畳に突きアスナが泣き崩れた時だった
「キリト!!」
「ああ……カーディナル!!」
ヨシアキが声を掛けると、同じことを考えていたのかキリトは頷くと顔を天井に向けながら、憎しみの声を上げた
「そう何度も、自分の思い通りになると思うな!!」
キリトはそう言いながら、部屋の中央にあった件のコンソールに飛びついて、表示されたままだったホロキーボードを高速で叩きだした
「き、キリトくん!? ……なにを!?」
キリトの行動に驚いたアスナは、目を見開きながら問い掛けた
「今なら……今ならまだ、GMアカウントでシステムに割り込めるかも……」
キリトは呟きながら、キーボードを高速で叩き続けた
そんなキリトの眼前に、ブンと音を立てながら巨大なウィンドウが開き、高速で文字列がスクロールしていく
その様子をアスナが呆然と見守っていたら、キリトは新しいコマンドを幾つか立て続けに入力
すると、巨大ウィンドウの周囲に小さなプログレスバー窓が開き一本の線が右端まで到達した瞬間
唐突にコンソールが青白く光り、その直後に破裂音と共にキリトは弾き飛ばされた
その弾き飛ばされたキリトをヨシアキが受け止めると、アスナが駆け寄って
「キ、キリト君!! 大丈夫!?」
と、安否を確認した
ヨシアキに受け止められたキリトは、頭を左右に振ると右手をアスナに突き出した
アスナは訳も分からず、両手を出した
すると、キリトの手の中からアスナの両手に大きな涙型の宝石がこぼれ落ちた
アスナの手の中に落ちると、宝石の中央ではまるで脈動のように白い光が光っていた
「こ、これは……?」
「……ユイが起動した
キリトはそれだけ言うと、精根尽き果てたように目を閉じた
そして、キリトの説明を聞いたアスナは手の中の宝石を見つめて
「ユイちゃん……そこに、いるんだね……わたしの……ユイちゃん……」
再び涙で頬を濡らしながら、宝石を胸に抱いた
その時、アスナの言葉に応えるように光が一回、強く光った
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕暮れの中、別れを惜しむサーシャ、ユリエール、シンカーと子供達に手を振りながら、三人は転移ゲートをくぐった
ヨシアキは直接、セルムブルグに戻り、アスナとキリトの二人は二十二層に戻った
僅か三日間だったが、なんとも長く留守にした気がした二人は深く深呼吸した
そして、数瞬逡巡するとアスナは小道を見てから視線を上に向けた
「ね、キリト君」
「ん?」
「もしゲームがクリアされて、この世界が無くなったら、ユイちゃんはどうなるの?」
アスナが問い掛けると、キリトは思い出したように
「ああ……容量的にはギリギリだけどな。クライアントプログラムの環境データの一部として、俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されるようになっている。向こうで、ユイとして展開させるのはちょっと大変だろうけど……きっとなんとかなるさ」
「そっか」
キリトの言葉にアスナは嬉しそうに頷くと、キリトに抱きついた
「じゃあ、
「ああ、きっと」
キリトの言葉にアスナは、二人の間で光り輝いてる宝石を見下ろした
《ママ、がんばって……》
アスナの耳の奥に、かすかにそんな声が聞こえた気がした
その日の夜に、ヒースクリフから最前線復帰要請が来た
その翌朝
キリトがベッドの端に座りうなだれていると、支度を終わらせたアスナが近づき
「ほら、いつまでもくよくよしてないの!」
「だって、まだ二週間なんだぜ?」
キリトは子供のように口答えをすると、顔を上げた
キリトとアスナの二人は血盟騎士団を脱退しているので、ヒースクリフからの要請を断ることもできた
だが、メッセージの最後にあった「すでに被害が出ている」という文章が、二人を動かした
「やっぱり、話だけでも聞いておこうよ。ほら、もう時間だよ!」
キリトはアスナに背中を叩かれると、渋々といった様子で腰を上げて、装備画面を開いた
ギルドは一時脱退中なので、キリトは馴染んだ黒いレザーコートと最小限の防具を身につけて、最後に二本の愛剣を背中に交差させて吊した
その重みは否が応でも最前線に戻るとわかり、不謹慎かもしれないが、心が躍った
キリトは気合いを入れるためか、少し剣を抜くと同時に勢いよく鞘に収めた
高く澄んだ金属音が、部屋中に響いた
「うん、やっぱりキリト君はその格好がよく似合うね」
キリトの装備を見たアスナが、ニコニコと笑みを浮かべながらキリトの右腕に飛びついた
キリトは首をグルリと回して、新居を見渡すと
「……さっさと片付けて戻ってこよう」
と意気込みを告げた
「そうだね!」
二人は頷きあうと、ドアを開けて、冬の気配が強くなった冷たい朝の空気の中へと踏み出した
二十二層の転移門広場に、釣り竿を抱えているニシダがキリト達を待っていた
二人は彼だけに、出発の時間を教えていたのだ
「ちょっと、お話よろしいですか?」
とニシダが声を掛けると、二人は頷き、ニシダと共に近くのベンチに座った
ニシダは上層の底を見ながら、ゆっくりと口を開いた
「……正直、今までは、上の階層でクリア目指して戦っておられるプレイヤーの皆さんもいるということが、どこか別世界のように思えておりました……内心では、もうここからの脱出を諦めていたのかもしれませんなぁ」
キリトとアスナの二人は、ニシダの言葉を無言で聞き入っていた
「ご存知でしょうが、電気屋の世界も日進月歩でしてね、私も若い頃から相当いじってきたクチですから今までなんとか技術の進歩に食らいついて来ましたが、二年も現場から離れちゃもう無理ですわ。どうせ帰っても会社に戻れるか判らない、厄介払いされて惨めな思いをするくらいなら、ここでのんびり竿を振ってたほうがマシだ、と……」
ニシダはそこで一旦言葉を区切り、その顔に小さい笑みを浮かべた
キリトは掛ける言葉が見つからなかった
SAOの虜囚となったことで、ニシダが失ったモノは、キリトには想像できなかった
キリトが言葉を探しあぐねていると、アスナがポツリと
「わたしも……わたしも、半年くらい前までは同じことを考えて毎晩独りで泣いてました。
アスナの言葉を聞いたキリトは驚いた表情で、アスナを見やった
アスナが語っているのは、《閃光》ではなく《攻略の鬼》と呼ばれていた頃のことだった
アスナは驚いてるキリトを見ると、微笑んでから再び口を開いた
「でも、半年くらい前のある日、最前線に転移していざ迷宮に出発って思ったら、広場の芝生で昼寝してる人達が居るんです。レベルも相当高そうだったし、わたし頭に来ちゃって、その人達に『こんなところで時間を無駄にする暇があったら、少しでも迷宮を攻略してください』って……」
アスナはその時のことを思い出したのか、片手を口に当ててクスクスと笑い
「そしたらその人達、『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮に潜っちゃもったいない』『こんな日は昼寝するに限る』って言って、二人同時に『お前も寝ていけ』なんて。失礼しちゃいますよね」
アスナはそこまで言うと、笑いを収めると遠くを見て
「でも、わたしそれを聞いてハッとしたんです。この人達はこの
アスナはそう言うと、キリトの手をぎゅっと握った
アスナの言葉にキリトは内心、激しく狼狽していた
その日のことは、確かになんとなく覚えていたが……
「……すまんアスナ、俺そんな深い意味で言ったんじゃなくて、ただ昼寝したかっただけだと思う……」
ヨシアキは知らんけど、っとキリトが言うと、アスナは肘で小突きながら
「解ってるわよ。言わなくていいの、そんなこと!」
と唇を尖らせると、ニコニコと笑みを浮かべながら話を聞いていたニシダに向き直り
「……わたし、その日から毎晩彼のことを思い出しながらベッドに入りました。そしたら、嫌な夢も見なくなった。頑張って彼のホームを調べて、時間作っては会いに行って……だんだん、明日がくるのが楽しみになって……恋してるんだって思うとすっごく嬉しくて、この気持ちだけは大切にしようって。初めて、
アスナは俯くと白手袋をはめた手で両目を擦り、大きく深呼吸をすると
「キリト君はわたしにとって、
アスナの言葉をニシダは、しきりに目をしばたかせながら何度も頷いた
キラリと、眼鏡の奥で光るモノがあった
この時、キリトも目頭が熱くなるのを必死に堪えていた
(俺だ、救われたのは……俺だ。現実世界でも、
キリトがそう思っていると、ニシダは空を見上げて
「……そうですなぁ、本当にそうだ……今のアスナさんのお話を聞けたことだって貴重な経験です。五メートルの超大物を釣ったことも、ですな……人生、捨てたもんじゃない。捨てたもんじゃないです」
そこまで言うとニシダは大きく頷き、立ち上がった
「や、すっかり時間を取らせてしまいましたな。……私は確信しましたよ。あなたたちのような人が上で戦っている限り、そう遠くないうちにもとの世界に戻れるだろうとね。私にできることは何もありませんが、……がんばってください。がんばってください」
ニシダはキリトとアスナの手を両手で握り、何度も上下に振った
「また、戻ってきますよ。その時は付き合ってください」
キリトが右手の人差し指を動かしながら言うと、ニシダは顔をクシャクシャにしながら大きく頷いた
キリト達は固く握手を交わして、転移ゲートに向かった
蜃気楼のように揺れている空間に踏み込むと、二人は顔を見合わせて
「「転移、グランザム!」」
と、同時に告げた
視界に広がった青い光が、手を振っていたニシダの姿を二人の視界から徐々にかき消した
そして二人は、最前線へと舞い戻った
運命の戦いが待つ、七十五層へ……