明朝6時。
4月も半ばを過ぎ、しかし未だ朝は寒い時間帯。日は昇りながらも薄い霧が立ち篭める海鳴臨海公園。
その海岸沿いのアスファルトを大型の愛犬と走るジャージ姿の少年。グレーの上下お揃いのものと、白のランニングシューズ。多少上がった呼吸も、そして軽い疲労感も心地良く、軽い足取りで散歩を続ける。
「ゆ、悠~…!待ってよぉ~…!」
十数メートル後方から、アリシアが遅れて呼び止める。既に彼女の息は上がっており、ぐるぐるとその目は回っている、様な気がする。
一旦呼び止められた悠は足を止める。それに伴って愛犬であるエルも歩みを止めた。
一考して悠は気付いた。一昨日クロノの言っていたように、アリシアは仮死状態となっていたと言うことなら、その筋力や体力は衰弱していると言うことになる。家の中では問題なく歩き回ってはいたものの、こうして長距離を歩いたり走ったりと言うのは、やはりまだ難しいはずだ。まだリハビリを要するはずの身体なのだから、いきなりのジョギングは厳しかったか、と後悔する。
そもそもの発端は、休みの日課である早朝の散歩。昨晩もアリシアの要望で一緒に寝ざるを得なかったわけだが、明朝に起床して更衣していたときにアリシアを起こしてしまったのだ。
『何処かに行くの?』と質問され、ジャージに着替える姿を見られてどう答えるか。嘘をつく理由もないので正直に『エルの散歩だ。』と答えたならば、案の定『私も行く!』と昨日の昼間にリンディが購入してくれた黄緑のジャージに着替え始めたのだ。恥じらいを持ってくれと思いつつも、こめかみを押さえて軽い頭痛に耐え、今に至る。
「やっぱり疲れたか?」
「ぜ、全…然……」
足を止めて待つこと10秒弱。ようやく追い付いたアリシアは、膝に手を着いて上がった息を整えつつ、説得力皆無の強がりを口にする。
「一旦休憩にするか。適度な運動も必要だが、それに応じた休息も必要だからな。」
その言葉にアリシアの表情はぱぁっと明るくなる。どうやら先の言葉は強がりだったことは揺るぎないものだったようで、聞くや否や海に向かい設けられたベンチへと軽い足取りで向かう。
「ウォンッ!」
と、ここでエルが一声吼えた。必要以上に吠えないこの子が何も無いところでこうした以上、飼い主である悠は不思議そうにエルを見やる。鼻を鳴らして、先程の進行方向その先をジッと見つめている。
「どうした…ん…だ…ぁ…ぁ…ぁ…」
言い終わるまでもなく。悠は突如として走り出したエルに引き摺られて遠ざかっていく。悠も踏ん張ろうとしたが、やはりそこは大型犬。小学生が耐えられるような力ではなく、そして為す術も無く、妙な声を残してリードを手放さないように巻いた手首がネックとなったのか、そのまま連れ去られていく。
「ゆ、悠ぅっ!?」
アリシアも何が起こったのか理解できぬまま、未だ回復しない身体を推して追い掛けていった。
悠が引き摺られてやって来たのは、海岸線沿いの林。ここも臨海公園の一部であり、観賞用として整備された木々が立ち並んでいる。緑豊かな情景を出しながらも、鬱蒼とした雑草も生えておらず、その整備が良く行き届いているのがよく分かった。
「はぁっ!はぁっ!ま、待ってよ二人とも~!」
犬と、引き摺られてきた主人を追い掛けてきたアリシア。もう走るのはこりごりと言わんばかりにバテており、苦悶の表情が見て取れた。
「…良い運動になったんじゃないか?」
「限度って物があるよっ!!」
この男はどうしてこう…!
と、アリシアの憤慨を余所にエルはというと、茂みに鼻を突っ込んでフガフガと鳴らしていた。
目を見開いて、アリシアと悠は目を見合わせる。先程から謎の行動が目立つエルだが、今日は輪を掛けて変だ。そういえば一昨日も似たようなことがあったような…、とデジャヴを悠は感じた。もっとも、前回は引っ張られこそすれ、引き摺られるようなことはなかったが。
背中などにこびり付いた砂を払い、エルが気にする先へと歩みを進める。アリシアも気にはなるが、それでも怖いというのもあるらしく、ギュッと悠のジャージを掴んで陰に隠れている。
「………!」
照らし合わせたわけでもなく、二人が揃ってゴクリと固唾を飲み込む。ジリジリと一歩、また一歩と茂みに近付いていく。いくら男とはいえ、やはりそこは小学四年生。年相応のメンタルでしか持ち合わせていない。
「ゆ、悠~…。」
「だ、大丈夫だ、問題ない…。」
いつの間にか握った拳を伝う冷や汗。
そして上昇する心拍数。
五月蠅いぐらいに心臓が高鳴っている。
近付くにつれ、茂みの死角が少し狭まる。
茶色い土の上に黒い…あれは布地だろうか。それが無造作ともとれるほどに広げられていた。
更に近付く。
次は同じく黒く、しかし若干紫が掛かった…あれは髪だろうか。見るからに長く、そして黒い布の一部を覆うほどだった。
と、そこまで進んだところで、悠のランニングシューズ、その爪先から固いものを蹴った感触が伝わってきた。
杖。
それも長杖と言うほどの長さ。
紫の柄。コウモリの翼を模したような形の金の先端部と紫の水晶体。持ち上げてみると、悠の身長では若干長く、そして少しズシリと確かな重量があった。しかし、不思議と重たいとも感じない不思議な物である。
あと一歩で…恐らくは全体像が明らかとなる。
相変わらずフガフガとしているエルは置いといて、杖を持ち、そして長い髪とするならば、黒い布地は…服か何かなのだろう。ここまで来て中途半端にするつもりもない。
そして…
踏み入れた。
予想通り…人が倒れていた。青白さすら感じるような不健康気味の肌。そして痩せこけた身体。気を失っているからか、微動だにしない。長い前髪で目元は確認は出来ないが、唇に塗られた紫のリップが妖艶さすら感じられる。
「…行き倒れ?」
近付いて口元に手を近付けて呼吸を確認する。
弱々しいながらも息はある。先日のようなドッキリにも似た物は無かったが、それでも呼吸の弱さは看過できない。
「アリシア。念のために病院に運ぼう。俺は救急車を呼ぶから、アリシアは…」
「ママッ!?」
ジッと倒れている女性を見つめていたアリシアだったが、突如として駆け寄る。母と呼ぶ女性を揺するが、力なく項垂れる彼女に涙を浮かべ始める。
「ママッ…ママァッ!!」
「落ち着けアリシア。」
腕で遮り、母親を揺らし起こすのを制止する。こう言う場合は下手な刺激を与えず、救急車を手配して、必要があるならば救急隊員の指示による応急処置を施すのがセオリーと言うもの。
「とにかく、こういったことはプロの指示を仰ぐ。まずはそれからだ。今から救急車を呼ぶから、アリシアは海岸線沿いの道路で車を誘導してくれ。俺は救急隊員に応急処置がないか聞いてみる。」
「う、うん…わかった…」
こう言う時は慌てず、それでいて冷静を保たなければならない。焦り、パニックを起こしてしまっては、助かる命も助からない。しかし正直、表面上は平静を装っては居ても、悠とて未だ小学生。焦っていないと言えば嘘になる。証拠にスマートフォンを持つ手、タップする手が震えている。
なんだ…
これじゃあアリシアに偉そうに言えないじゃないか。
自嘲染みた笑みを浮かべ、内頬を奥歯で噛む。口に広がる僅かな鉄の味。そして、びりっと走る痛みが震えを幾何か拭い去ってくれた。
『119番、消防署です。火事ですか、救急ですか?』
その声がスマートフォン越しに耳に届き、心拍数は少しずつだか落ち着いてきたのが実感できた。
目を開ければ、白く、そして知らない天井だった。
開かれた窓から、涼しげな春風が舞い込んで前髪を撫でる。窓を見たときに左手に繋がれたチューブ。そこから体内に流れ込む点滴。清楚や清潔を表す白を基調とした室内に点滴。以上のことから鑑みるに、ここは恐らくは病院だ。
ここに運ばれた経緯は覚えていない。忌々しくも感じつつ、しかし懐かしいとも思える声と共に、闇から一時目を覚ました所は記憶にはある。しかし、その後については朧気で、思い出したくともその片鱗すら姿がない。
頭を抑えて深い溜息。
そうしたときにふと違和感を感じた。
「…息苦しさが…ない?」
そう、確か自分は実験の薬品、その影響で気管支を侵されていたはず。身体の感覚が覚えている。脳裏に焼き付いたあの不快感が全くない。不治の病とも考えていたはず。しかしそれが、まるで元々無かったかのように綺麗さっぱりと。
「どういうこと…なの…!?」
こうなると現状に対する喜びよりも、逆に末恐ろしさすら感じてしまう。
「…とにかく、ここが何処で、どうしてこうなったのかを整理しないと…!」
布団をはねのけて、腕に繋がれたチューブを引き抜かんと起き上がった時だった。
何ら変哲も無く、恐らくは患者が自分で身だしなみを整えるために設けられた鏡。洗面台とセットになっているのは見たことはあるだろう。
それを見るまではよかった。
しかし、そこに映し出された顔は…
「これが…、私?」
何処かの紙袋を被った医者が準備運動を始めた…気がする。
そう、鏡に映されたのは、娘のために狂気の研究を続け、見るからに痩せこけた悲劇の母親ではない。何もかもを喪う前…娘のために身を粉にして働いていた普通の母親だった頃の『プレシア・テスタロッサ』だった。
いつからか身だしなみを気にすることもなく、それでいて鏡を見ることも無くなったが、それでもあの時の自分とはかけ離れた姿になっているのは分かる。
「どういうことなの…?…っ!?」
話し声がドア越しに聞こえた。病院であるならば、恐らくは医者か何かの回診だろう。目を覚ましていたなら聴取にも似たやりとりをしなければならない。そして…管理局を知る者ならば、局員を呼ぶだろう。
開け放たれた引き戸の入口。そこから話し声は更に鮮明となる。
「全く…着替えとか持ってくるのは中々難儀な物だな。」
「当然だよ。身の回りの物とか、そう言った物はある程度こっち持ちなんだから。」
大きな紙袋を両手に持った少年。そしてそれに随伴する幼い少女の声。
…あぁ!
永遠とも取れる永い時間、聞きたかったあの声だ。
悪魔に魂を売ってでも聞きたかった、そして抱き締めたい愛しい娘。
聞き忘れようものか!
「お…。」
「あっ…!」
声と、そしてその姿を見た瞬間、自ずと今までに溜め込んでいたモノが崩れ落ち、眼から止め処なく溢れ出した。
金糸のような髪と、そして赤く愛らしい眼。
「アリシア…ッ!」
「ママ!目が覚めたんだねっ!…わぷっ!?」
アリシアが近付いた瞬間、抱き寄せられてこれでもかと言わんばかりに頬擦りされる。
「アリシア…アリシア…ッ!」
「むぎ…!ま、ママ…苦しいぃ…!」
もはや周りが見えていないのか、一心不乱に抱き締め続けるプレシア。豊満な胸に沈められ、藻掻き続けるアリシアに全く気付いていない。
「そ、その…そろそろアリシアを離して…」
「あ″?」
睨まれたでござる(´・ω・`)
そしてちょっとちびったでござる(´;ω;`)
「そ、その…アリシアが…危険な状態で……」
プレシアも渋々彼の言うことに耳を傾けると、藻掻く力も無く、だらりと項垂れるアリシアであった。
「そう…貴方がアリシアを保護してくれたのね。」
「…まぁそんな所です。」
アリシアが倒れていた所を助けたことを説明すると、睨んでいたプレシアもようやく落ち着きを取り戻した。
(どうやってアリシアが生き返ったのかしら…。その鍵はこの男の子が…?)
そこまで考えてプレシアは思案を止めた。
経緯などどうだって良い。こうしてアリシアが生きて居ること。それが自分にとっては大切なことなのだ。
「悠はね~、料理が上手なんだよ~!あのショーガヤキって言うの、また食べたい!」
「そうだな。また作るか。…すぐに、と言うわけにもいかないがな。」
「あとねあとね!悠はね!髪を洗うのも上手なんだよ!スッゴく気持ちいいんだ~!」
あれ…?
何か今…消えかけていた火に、油どころかハイオク辺りを着火剤とかスピリタスとかと一緒にぶち込まれたビジョンが…。
「そう…それは良かったわね…?」
アリシアにとっては、ただ嬉しいことを母親に報告しているだけなのだろう。しかしそんな悠の前には長い黒髪をゆらりゆらめかせ、眼が赤一色に発光している鬼のような母親が居た。
「エ…EX○M…!?」
「悠君…だったかしら?あとでゆっくりお話ししましょう?」
「え…?いや…その…!」
「いいわよね?」
何やらスパークを纏い、髪が逆立って金色に染まっている。
これはあれか…
「超野菜人2…だと…!?」
いわゆるプッツンした時に発動するとか言う。足が震えて冷や汗が止まらず。プレシアの『OHANASHI』の『OSASOI』にコクコクと頷くしかなかった。
「あと…フェイトと悠と…カワの字になって寝て…何か嬉しかった、かな。」
プレシアにとって聞きたくなかった名前。それがアリシアの口から出てきた。
自分がアリシアの代わりとして生み出した記憶転写型クローン。自分を『ママ』と呼ばず『母さん』と呼んで、利き腕も『左』ではなく『右』、アリシアの積もりが、『アリシアと似て非なる者』となっていたこと。アリシアとして受け入れられず、ただアリシアを蘇生させる準備を整えさせる人形として扱ってきた少女。今まではただそう思い、ただそう思い込んでいた。
しかし、
こうして今アリシアが結果として生きていることを実感して、今までフェイトに行ってきたことへの罪の意識が芽生えた、と言えばそうなるのか。ただただ一途に、自分を母として慕ってくれる彼女に、鞭を打つことしかしなかった自分。
そして気付くのはいつも遅く、アリシアの『模造品』なのではなく、アリシアの『妹』なのだと認識したのは、虚数空間に身を落とす最中であった。
「そう…出会ったのね。あの子と。」
「うんっ!」
屈託ない笑顔で返すアリシア、そしてその眩しい笑みを直視できず、思わず視線を逸らしてしまった。
やはりフェイトを未だ娘と認めきることに後ろめたさと罪悪感があるのか、この件に関してアリシアにどう説明したものかと困惑する。
(やっぱり…正直に言うしか…)
「ありがとうママ!」
「え…?」
「誕生日じゃなかったけど、可愛い妹をくれて!」
そう。
ようやく取れた休みに野原へピクニックに行ったときの約束。
『妹が欲しい。』
あぁ…そうだ。結果論でしかない。しかし、妹を…非合法ではあるが作ったのだ。
どうしてこんなに簡単なことに気付けなかったのか。記憶転写をしたとしても、同じ身体の構成であっても、それでも全く同じ寸分違わぬ人間など作れはしないのだ。
アリシアとフェイト。
入れ物は同じであれ、入る『魂』や『心』という内容物は全く同じではないのだから。
(どうやってあの子と向き合わなければならないか…まだ分からないけど…。)
目の前にはフェイトの事について、嬉々と話す愛娘。
そうだ、あの子はこんなに屈託なくは笑わなかった。いつも静かに、少し控えめに笑っていた。
(今さら…母親などと名乗るにはおこがましいかも知れないけど…。)
それでも一人の親として、フェイトにしてきた仕打ちに向き合い、ケジメを付けなければならない。そして…引き起こした事件の贖罪も。
(…私は、ちゃんと向き合ってみせるわ。過去と…そして…もう一人の娘と。)