人の目も、陽の光も、神の慈悲さえも届く事の無い地の底。存在すら知られていない地下の牢獄にて、
各地から無差別に集められた人々が牢に押し込められ、石畳の上で震えている。各々の顔は絶望と恐怖で強張り、いつ
地下に設けられた牢獄には窓が無く、鉄格子の前に置かれた篝火が、いつまでも消える事無く人々の顔を照らしている。薄汚い老人から年端のいかない少年まで、牢に入れられた人種は様々だった。
彼らは罪を犯してここに収容されているのではない。中には法に裁かれるべき身もあるだろうが、その殆どは、ただ巻き込まれただけの無辜の良民であった。
気が付いたらここに居た……と、鉄格子越しに彼らは口を揃えて語っていた。自宅で書に耽っていた時、公園でジョギングをしていた時。突然足元から無形の闇が伸びて来て、それに呑み込まれた次の瞬間には、彼らは牢内に居たという。
その為か彼らの服装は様々で、礼服を着ている者も居ればジャージ姿の者、パジャマ姿のまま囚われた者も居る。彼らは虚ろな目で篝火を見つめながら、これが夢である事を祈り続けていた。
牢獄には他の部屋と繋がっている廊下が一本あった。この廊下の奥、暗闇の向こうからは数時間毎に
連れて行かれた者達は二度と帰って来る事は無く、しばらくすると、廊下から尋常ではない叫び声が聞こえて来るのだ。暗闇の向こうで何が行われいるのか、想像するのは容易だった。
「次の方ぁ~、どうぞですぅ」
少し前に連れていかれた人間の悲鳴が聞こえなくなってからしばらくして。廊下の向こうから、執行人の一人がひょいと顔を覗かせる。牢に捕らわれた誰よりも幼く、無垢な笑みを浮かべた少女。執行人達の間で“
不気味な美しさ、というのが率直な印象だった。年齢は小学校高学年から中学生くらいで、血のように赤いセミロングの髪とルビーの様に輝く瞳が闇中でもはっきりと見える。異様なほど白い皮膚は一見すると不健康なように思えるが少女にそんな様子は無く、年齢の割にスタイルの良い肉付きをしていた。
服装はこの場に似つかわしくない赤いメイド服を着用し、スカートの丈は極めて短い。膝までの長さの真赤なニーソックスをスカートから伸びるベルトで固定し、幼い割には色っぽい格好をしていた。
「今度はお二人様のご案内ですよぉ~。今、鍵を開けますからねぇ」
赤いメイド服の少女――…女帝は胸ポケットから小さな金属製の鍵を取り出すと、廊下から最も近い牢屋の扉を開けていく。身を屈めての作業だった為スカートの中が他の
やがて女帝は牢の中へ入り、そこから二人の少女を引きずり出す。女帝より少し年上の、女子高生くらいの少女達だった。
「嫌ぁ! やめてぇ、家に帰してぇ!」
「大丈夫ですよぉ。悪魔おじいちゃんはシャイな人ですから、二人には
「いやっ、助けて! 誰か助けてぇ!」
「もぉ~、大丈夫だって言ってますのにぃ。これでもアシュちゃんは嘘は吐かない方ですよぉ? 歯医者さんじゃないんですからぁ」
悪戯っぽく笑いながら、“アシュちゃん”と名乗った女帝は少女二人の手を引いて暗闇の向こうへ連れ去っていく。無論、少女達も死に物狂いで抵抗するのだが、女帝は歯牙にもかけない様子だった。
そして。少女達の悲鳴が暗闇の中に消えていき、牢獄には再び静寂が訪れる。連れて行かれた彼女達がこれからどうなるのか、誰も考えたくない様子だった。
「次の方ぁ~、どうぞですぅ~」
先の二人を連れ出してから程なくして、暗闇の中から女帝がにこにこ笑って戻って来る。あまりに早い再訪に牢内の者達はぎょっと肩を竦ませ、生気の無い瞳を彼女に向けた。
「今度は一名様のご案内ですよぉ~。張り切ってどうぞですぅ」
言いながら、女帝は再び牢の鍵を開けて、中から一人の男を引きずり出す。二十歳くらいの外見の、顔立ちのよい青年だった。
「おややぁ? お兄ちゃんはちょっとハンサムさんのナイスガイですねぇ。女教皇さんは格好良い男の人に弱いですから、手心なんか貰えちゃうかも知れませんよぉ? 良かったですねぇ~」
「やっ、やめろ! 一体何をする気だ!? お前ら、こんな事して……許されると思ってるのか!」
「あははー、そんなに怒らないで下さいよぉ~。アシュちゃん怒鳴られるのはちょっと苦手ですぅ」
何処までも悪戯っぽく笑って聞き流しながら、女帝は青年を暗闇の中へと連れて行く。青年が拳を振り上げて抵抗するも効果は無く、彼女は人間とは思えない凄まじい力で青年を引きずって行った。
暗闇を抜けた先に待っていたのは、血生臭い個室だった。
窓一つ無い狭い空間には家具一つ置かれておらず、水入りのバケツや鉄釘、鋸といった不気味な道具が血潮を浴びて石造り床に転がっている。壁には鎖付きの手枷と足枷が付けられていて、ここが単なる生活空間で無い事を示していた。
部屋は血や嘔吐物、肉の焼けたような不快な臭いが充満し、不気味な生温かさが感じられる。「拷問部屋」という言葉が脳裏に浮かび、青年は思わず「ひっ…」と情けない声を漏らした。
そして、部屋の中央。真新しい血と嘔吐物を靴で踏みながら、その人物は立っていた。
胸を大きく
お世辞にも美形とは言えない濃厚な顔立ちを化粧で彩ったその男は、女帝に連れられる青年の顔を見るなり「あらぁ」と野太い声を発した。
「随分と男前なお兄さんねぇ。こんな素敵な子を虐めなきゃいけないなんて心苦しいわぁ、胸が張り裂けちゃいそう」
男とは思えない口調で喋りながら、その男は女帝に向かって顎で合図する。女帝は人間とは思えない力で青年を引きずり、慣れた手付きで彼を壁から伸びる手枷と足枷に繋いでゆく。
手枷とそれを繋ぐ鎖はとても青年の力で引き千切れるものでは無く、瞬く間に両手両足を壁に繋がれた彼は、これから我が身に起きるであろう“運命”に戦慄した。
「お…、俺をどうするつもり……だ…!?」
「んー、それは貴方次第かしらねぇ。はい、これ持って」
適当に答えた男はシャツの胸ポケットから一枚のカードを取り出すと、それを青年の右手に握らせる。
《
「面白いでしょう? 異端の札っていうのよ、そのカード」
香水の匂いが染み付いた顔を青年に押し当てながら、その男――“女教皇”は言う。
「異端の札は人の心に反応して変化する性質があるらしくてね、変化の仕方も人によって違うのよ。原理はよくわかってないんだけどね」
醜い男の口元がにやりと歪み、青年の唇に近づいていく。咄嗟に青年が顔を背けると、女教皇はその反応を楽しむかのようにクスクスと笑った。
「人によって違うと言っても、カードを変化させられる人間はごく少数……私やここに居る女帝ちゃんを入れても、十数人しか確認されてないわ。もし貴方が――…いえ貴方も、このカードの変化をさせられる人だったなら、その功績に免じて助けてあげるつもりだったんけど……残念ねぇ、貴方は違うみたい」
青年の胸や腰回りを柔らかな手付きで撫でながら、女教皇は穏やかに吐息する。
貴方は違う。それはまるで死刑宣告のようで、青年は思わず怯えた双眸を女教皇に向け直した。
「あら…、別に怖がらなくてもいいのよぉ? 言ったでしょう、カードを変化できる人間は少数だって。貴方がその少数の中に入れなくても不思議じゃないし、だからって貴方に罰を与えようなんて気はさらさら無いんだから。本題はむしろこれからなのよ?」
青い瞳で青年の顔を覗き込みながら、女教皇はまたにやりと笑みを浮かべる。
「その異端の札って代物はね、持ち主の強い気持ちに特に反応するみたいなの。人を愛する気持ちとか、逆に恨む気持ちとか、トラウマだとか思い出だとか、そういうのね。…お分かり?」
「……まさか…」
「うふっ、察しがいいわね。そう、貴方からその強い気持ちを引き出すのが私達の役目なの。特に悪い方の気持ちをね。だからかなり荒っぽい方法を取る事になるけど、希望を捨てちゃダメよぉ? もし異端の札を変化させる事ができたなら、貴方は助かるんだから」
他人事のように突き離し、ようやく女教皇は青年から離れる。キツい香水の臭いが離れた途端、部屋に満ちた血の臭いが鼻を突き、青年はこの男がこれから何をするつもりか本能で理解した。
「さてと…。じゃ、そろそろ始めようかしら」
声のトーンを僅かに落とし、女教皇は瞳に冷酷な光を宿して青年と向き合う。その表情にはもはや人間らしさは感じられず、ただ事務的に“事”を行おうとする冷淡さがあるだけだった。
「…そうそう。そう言えばまだ貴方の名前を聞いてなかったわね、ハニー。貴方のお名前は?」
感情の読めない顔を青年に向けたまま、女教皇が問う。
これから明らかに自分を暴行するつもりの相手である。どう答えるべきか青年が迷っていると、女教皇はにたりと口元を吊り上げて、「ふぅん」と小さく呟いた。
「ジョンソン君っていうの。割と平凡な名前ね」
「ッ――!」
どうしてわかった。心の内で戦慄しながら、その青年、ジョンソンは目を見開いて女教皇を見返す。
「歳はいくつ? …へぇ、十九歳。思ったより若いのね。恋人はいるの? …ふぅん、地元で出会った子と熱愛中。いいわねぇ、青春ねぇ。けどゴムくらいは付けた方がいいわよぉ? 私こう見えて元聖職者だから、中絶にはあまり良いイメージが無いのよねぇ」
「なっ…! なんで、そんな事まで――、」
他人には知り得ないプライベートな事まで言い当てられ、ジョンソンは思わず声を荒げる。
カマを掛けた様子は無い。否、当てずっぽうでここまで的中する訳が無い。事前に自分の事を調べていたのか、もしくは――。
(この
「んふっ、どうかしらね」
明らかに心を読んだ上での返答の後、女教皇は「最後の質問よ」と語気を強めた。
「人間誰でも、こんな死に方だけはしたくないってものがあるわよね…? 貴方の中で、絶対に嫌な死に方ってどんなものかしら?」
「ッ――!」
ぞくり、と肌が粟立つ感覚。
絶対に嫌な死に方……そんな事を聞いてどうするつもりだ? 不安と恐怖でパニックになりそうなのを懸命に堪え、ジョンソンは目の前の女教皇を見つめる。彼はしばらくジョンソンの顔を見つめた後、にぃ…と口元を歪め笑った。
「ふぅん…。チェーンソーで体をバラバラにされるのは絶対に嫌、と…」
これまた見事に言い当てた女教皇は、傍で見ているだけの女帝に目で合図を送る。女帝は「わかりましたぁ」と気が緩みそうな声で返事をすると、扉を開けて部屋から出て行った。
「…けど、随分珍しい答えねぇ。チェーンソーに何かトラウマでもあるのかしら? …子供の頃に間違って見たホラー映画のワンシーンがトラウマに? あらあら、それはお気の毒ねぇ」
「あ…、ああ……」
憐れみを含んだ残酷な瞳が、再びジョンソンの顔を映した時。彼は、この男がこれから何をするつもりなのかを本能で悟った。
強い気持ちを引き出す――と、この男は言った。異端の札なるカードを変化させるには、トラウマや恨みのような負の感情が必要だと。
もしこの男が本当に相手の心を読む事ができ、その上で相手の負の感情を引き出そうとするのなら。「一番嫌な死に方は」という質問の意味は、一つしか考えられない。
「や…、やめろ…! お願い、やめて…!」
「そうねぇ…、私もできる事ならやりたくは無いのよぉ? 目的の為とは言え、後味が悪過ぎるもの。せめて麻酔くらい打ってあげれたらいいんだけど、うちのボスが余計な事はするなってうるさいし……お互い神様に縁が無かったって事で、女々しい言葉は無しにしましょ」
皮肉なのか、本心なのか。女教皇が溜め息混じりに吐露すると、部屋の扉が再び開いて女帝が戻って来る。
その手には、エンジン式で動く機械の刃――…まさにジョンソンが恐れていた通りの物が抱えられていた。
「ありましたよぉ女教皇さん。は~いですぅ」
女帝がそれを適当に放り投げると、女教皇は「危ない!」と刃の部分をかわしながら、それを掴み取る。
大木を切り裂き、肉を抉り、神さえ屠る刃の集合体…。いよいよ悪寒が確信にかわり、ジョンソンの呼吸は早まった。
「うあぁぁぁ! や、やめろッ。やめろぉぉーッ!」
「はーい、カードは離しちゃダメよ~? もしカードに変化があったら助かるんだから、しっかり握ってないと大変よぉ?」
言いながら、女教皇は静止した刃をジョンソンの右足首に当てる。そしてそのままエンジンのスイッチを入れようとした刹那――。再び部屋の扉が開き、一人の男が入って来るのを、ジョンソンは視界の端に捉えた。
「…あら、噂をすれば。お帰りなさい審判ちゃん」
スイッチから手を離した女教皇は、ジョンソンへの興味を忘れてその男に顔を向ける。それにつられる形で、ジョンソンもまたその男に視線を向けた。
影のある人物という印象の、強面の男だった。所々が跳ねた黒髪に、射抜くように鋭い赤い双眸。女教皇にはやや劣るものの体つきはがっしりしており、赤いベストの上に血で汚れた黒いコートを羽織っている。
手の甲には炎を模した刺青が掘られ、ズボンにも赤黒い血が付着している。女教皇に“審判”と呼ばれていた事を含め、彼が女教皇達の仲間であるのは一目瞭然だった。
「あ、審判ちゃんだ。早かったですねぇ、教皇くんは何て言ってましたぁ?」
子犬のようにはしゃぎながら、審判に擦り寄る女帝。審判は腕で彼女を払いのけると、冷たい視線でジョンソンを一瞥し、次いで女教皇に目を向けた。
「どうやら侵入者の対処に手を焼いてるようだ。奴の部下は全員返り討ちに合い、援軍を頼むと泣きつかれた所だ」
「あら、意外と手間取ってるのね。相手はただの一般人なんでしょ?」
「殺さず生け捕りとなると逆に苦労する、というのが奴の言い分だ。正義を送ったから間も無く方はつくだろうが……どうした、続けろ」
女教皇が持つ凶器に目をやりながら、審判は言う。人間らしさなどまるで感じられない、低く冷たい声だった。
この男が、こいつらのボスか。審判が来た事で僅かに冷静さを取り戻したジョンソンは、焦点の定まらぬ瞳で目の前の三人を交互に見比べる。
女教皇と女帝。この二人も十分に異常だったが、この状況を前にして落ち着き払っているこの男は更にどす黒い雰囲気を醸し出していた。命を愛しむ事を知らない、人を人とも思っていないような、そんな印象だ。
その感覚は正しかったらしく、女教皇は「あのねぇ」と呆れたように吐息すると、持っていた獲物を床に放り投げた。
「今日これで七人目よぉ? 少しは休ませて頂戴よ。これでも結構精神に来てるのよ?」
「…殺しにはもう慣れたと思ってたんだがな。少し早いが昼飯にでもするか?」
「何その冗談、笑えないわよ。こんな環境で食欲なんてある訳ないじゃない! 肉も骨ももうたくさん! 見たくもないって感じよ」
ヒステリックに叫びながら、女教皇はぶんぶんと首を横に振る。審判はしばらく彼を睨んだ後、徐に懐からタバコの箱を取り出し、そこから一本口に咥えた。
「ふん…。まあいいだろう。二人共、少し来い。話がある」
審判が言うと同時、彼が咥えたタバコの先端に自然と火が灯り、白い煙がゆらゆらと登り始める。
火を着けた様子は無かった。ライターやマッチのような道具を出したところも見ていない。まるで独りでにタバコに火が着いたかのような――…そんな事をジョンソンが考えていると、審判はこの場の全員に背を向ける。コートの背中に描かれた炎に焼かれる十字架が、妙に印象に残った。
「あれぇ? このお兄ちゃんはどうするんですかぁ?」
「そのまま放って置け。後で代わりにやっておく」
首を傾げる女帝に短く返し、審判と呼ばれた男は部屋を後にする。それを追うように、女教皇と女帝もまた部屋を去って行った。
(……助かった、のか?)
心の内で呟いて安堵の息を吐くジョンソン。
だが、彼の手足は未だ拘束されており、この安堵が一瞬のものでしかない事を、彼は心の内で認めていた。
「…で、話っていうのは?」
部屋を出てすぐ。更に地下に続く階段を下りながら、女教皇が先を歩く審判に尋ねる。審判は不愛想な表情を正面に向けたまま、「
「俺達が一枚噛む事になった以上、そいつらの処遇については俺達も立ち会う事になる。そのつもりでいろ」
「つまり……その子達も、って事?」
少しずつ離れていく拷問部屋を振り返りながら、女教皇が眉をひそめる。審判は腕に組みついてくる女帝を軽くあしらいながら、「そういう事だ」と肯定した。
「Dr.31から聞いた限り、侵入者は八人。そのうち少なくとも一人は既に異端の札を発現させているそうだから、残り七人を
「うわぁ…。まさに鬼畜の口ぶりね、審判ちゃん」
反吐が出そうだわ、と露骨に表情を顰めながら女教皇は言う。
審判は眉一つ動かさずに彼の嫌味を聞き流し、問題でもあるのかと言いたげに煙草の煙を口から吐き出す。こうなると女教皇は沈黙するしか無かったが、今度は女帝の頓狂な声が審判に意見した。
「でも、教皇くんは反対すると思いますよぉ? あの人、小さい子が酷い目に遭うのは大嫌いですしぃ。審判ちゃんも知ってますよねぇ?」
「…ああ、だろうな」
素直に頷いた審判は、ちらりと女帝の顔を睨む。悪意も善意も無い、無邪気な笑みが張り付いただけの笑みが、審判の顔を明るく見返していた。
「だが、今度の事は向こうの失態だ。俺達が尻拭いをする以上、あいつの言い分だけを通す訳にはいかない。まあ…、七人のうち半分は俺達、残りは教皇が管轄するのが妥当ってとこだろう。つまり三人か四人、ここに堕ちてもらう事になる」
「あらら…。お友達を助けに来て、行きつく先が地獄、か…。教皇ちゃんじゃないけど、なんか気の毒ではあるわねぇ」
「世界の破滅を防ぐ為だ、ガキの命くらい安いものだろう。まして正義感で俺達に噛み付いてくる連中だ。事情を話せば、気前良く死んでくれるだろうよ」
皮肉に満ちた言い方は、どちらかと言えば女教皇に対するものに思えた。審判は足を止めて振り返り、「違うか?」と女教皇を睨む。
文句があるならはっきり言え。そう語る冷たい双眸に返す言葉も無く、女教皇は諦めたように吐息した。
「…でも、援軍が正義おじいちゃんだけで大丈夫なんですかぁ?」
ただ一人、場の空気を読めない様子の女帝が、とぼけた表情を浮かべて審判と女教皇を交互に見比べる。
「戦いは数だって言いますよぉ? 正義おじいちゃん一人じゃ心配ですし、アシュちゃん達も教皇くんのお手伝いに行った方がいいと思いますよぉ」
「…て言うか女帝ちゃん、あんたも一応は教皇ちゃんの部下の筈なんだけどね。仮にも上司のピンチなのに、なんでそんな呑気してるのよ」
「えーっ。そんな、照れるですぅ」
両手で頬を抑えながら、けらけらと笑う女帝。あまりに場の空気に不釣り合いな彼女の性格に根負けしたのか、審判もまた呆れたように息を吐いた。
「まあ、心配はいらないだろう」
吸い終えた煙草をその場に捨てて、審判は呟く。
「正義は俺達の中で一番腕が立つし、教皇の異端の札は俺達の中でも最強格だ。あの二人を倒せる決闘者はこの世に存在しない。何処の並行世界を探してもな」
確信を持った口ぶりで言い切り、審判はまた歩を進める。
今度は女教皇も女帝も否定はせず、大人しく彼の後ろを着いていった。
――――――
―――――
――――
濃厚な甘い匂いが、部屋の中を満たしていく。
真っ赤な絨毯が敷かれ、美しい家具類に彩られた広い空間。ランプの灯りで仄かに照らされるその部屋の中央で、一人の老人がソファに腰掛けてパイプを吹かしていた。
身なりの良い老人だった。黒いモーニングコートを自然に着こなし、それに合わせた灰色のズボン。白髪頭をオールバックに整えつつ、前髪の一部を僅かに垂らしている。
皺だらけの顔は気品に満ちており、真っ白な口髭も上品に整えられている。左目に装着したモノクルと革の手袋もその外見と合っており、まさに高貴な人物という出で立ちだった。
「…いつまで、そうしているつもりかね?」
口から甘い匂いを吐き出しながら、老紳士は視線を部屋の隅に向ける。その金色の眼差しの先には、凡そこの部屋には似つかわしくない物が設置されていた。――猛獣用の檻、である。
檻の中には先刻、女帝によって牢から出された二人の少女が閉じ込められており、それぞれ怯えた眼差しを老紳士に向けている。
奇妙なのは、二人のうち一方は口に猿轡をされて手術用の台に両手両足を縛られており、もう一人がその台の前に立たされている事だ。台の傍には木製の机が設置されていて、アイスピックやメスと言った鋭利な物が、銀色のトレイに乗せて丁寧に並べられている。
「むーっ! むーっ!」
台に縛られた少女が、声にならない声を漏らしている。もう一人の少女はその傍で立ち尽くしながら、「今一度説明が必要かね?」とのんびりと呟く老紳士の声を聞いた。
「君達二人の運命は今、糸のようにか細くなって私の手に握られている。嵐の山中にゴミのように打ち捨てられるか、それとも無垢な体のまま家に帰るか。全て私の心次第だ。君達のご両親が助けに来る事は無いし、ここには法の庇護も存在しない。もし君達が生きて帰りたいと願うのならば、私という人間に合わせた方が良い。無理にとは言わんがね」
まるで孫に語り掛けるような穏やかな声と表情で、老紳士は語る。少女達の顔が見る見る青ざめていく事は歯牙にもかけていない様子だった。
「さて…。君達二人のうち、どちらか一人は解放すると約束した事は覚えているかね。私が出した条件をクリアした者を、家に帰してあげようと言った事を」
老紳士はソファから立ち上がり、ゆっくりとした足取りで檻の前へと歩いて行く。その双眸は拘束されていない少女のみに向けられており、人の良さそうな微笑を浮かべていた。
「条件とは、ただ一つ。目の前にいる相手を殺す事だ」
両腕を後ろ手に組んだ老紳士が、さも当然の事の様に吐き捨てる。一気に踏み込んだその物言いは、そのまま老紳士の本性だと言えた。
「方法は何でも構わんよ。首を絞めて絞殺してもいいし、相手が死ぬまで殴り続けるのもいいだろう。僭越ながら凶器もいくつか用意した、必要なら使いたまえ」
「ふ…、ふざけないでッ! なんでそんな事……そんな事、しなきゃならないの!?」
老紳士の声に真っ向からぶつかり、少女が叫ぶ。老紳士は心持ち驚いた表情を浮かべた後、慈しむような眼差しを彼女に向けた。
「こんな所に私達を押し込めて、ひ、人を殺せなんて頭がおかしいんじゃないの!? なんでそんな事をさせられなきゃいけないのよ、このッ……変態ッ!」
「君は――、学校で蛙を解剖した事はあるかね?」
感情のままに叫ぶ少女を宥めるように、老紳士は穏やかな口振りで返す。あまりに唐突な問いに少女が面食らっていると、老紳士は「ふむ」と口元に微笑を浮かべた。
「体験した事は無いが、聞いた事はあるという顔だね。…その通り、生物の体の構造を学ぶ為に、蛙を生きたまま解剖させる実習の事だ。生々しい授業でね、中には耐え切れずに嘔吐する子供も居たようだが……それでも大人達は将来的に必要な事だと考えて、子供達に生き物の解体を強いたのだよ」
「んーっ! んむー!」
猿轡をされた方の少女が、激しく体を揺すりながら何かを叫ぼうとする。老紳士の言葉の奥に何かおぞましいものを感じ取ったのだろう、その顔は恐怖で怯えきっていた。
「君達も同じだ…。必要な事だから、させているのだ。君達の命は取るに足らないものかも知れないし、この犠牲に意味は無いかも知れない。しかし保障しよう、これは必要な事なのだよ」
必要な事。そう言われて、少女の心は僅かに揺れた。
老紳士の言葉に共感したのでは無い。この悪質な老人は、決して考えを変えるつもりは無いと直感したのだ。
この老人は本気だ。最初から殺し合わせる為に、自分達をここに閉じ込めたのだ。正気の沙汰では無い。物腰こそ柔らかいが、人間として根本的な部分が大きく歪んでいる。従わなければ――、何をされるかわかったものではない。
とは言え。だからと言って、無抵抗な相手を――…人間を、手に掛けるなど到底できるものではない。少女は目に涙を浮かべながら拘束された少女を見つめ、どうにもならない感情を目で分かちあった。
「なに、恐れる事は無い」
少女の動揺を感じ取ってか、老紳士は優しい声色で少女に囁く。
「自らが生き残る為に他者を手に掛ける事は、決しておかしな事では無い。自然界でも同種同士で食らい合うのはよくある事だし、人間同士ですら私欲による争いは尽きないものだ。共食いという言葉は知っているだろう?」
「ば…、馬鹿な事を言わないで! 貴方、こんな事して……ただで済むと思ってるの!?」
震える声を絞り出しながら、少女は老紳士の囁きに反抗する。「おや?」と僅かに顔を持ち上げた老紳士は、わざとらしく両腕を広げて見せた。
「おや…、おやおや…。なんと優しい子だろうか。私の身を案じてくれるのかね?」
心底嬉しそうに身を震わせながら、老紳士はにこりと微笑を浮かべる。その反応があまりに異常で、少女はまたぞくりと背筋を凍らせた。
「ありがとう…、だが君が案ずる程の事ではないよ。例え私の存在と罪が明るみになったとしても、犯罪者には裁かれる権利がある。私が君達より苦しむ事は決して無い。せいぜい電気椅子に送られるくらいだろう。だから私の心配は不要だよ、お嬢さん」
相容れない――。そう本能で感じる程に、歪み切っていた。
狂っているという言葉だけでは片付けられない、底知れぬ悪意。まるで老人の姿形をした物の怪が目の前に立っているかのようで、少女はごくりと息を呑んだ。
「あ……貴方は…。貴方は、悪魔よっ…!」
「…おっと、そうだった。そう言えば、まだ名乗ってはいなかったね」
思い出した様に呟いて、老紳士はポンと手を叩く。その表情は何処か楽しげで、少女の罵倒を喜んでいるように見えた。
「私の名はアハト=ヴィラン。仲間からは悪魔の
右手を胸に添えながら、丁寧に頭を垂れる老紳士。“悪魔”を名乗るその男は、少女の心が折れたらしい事を見て取ると、「さて」と一声呟いて、今度は急かすように手を叩いた。
「では、そろそろ始めてもらおうか」
悪意を含んだその言葉に、少女二人はびくりと肩を竦める。緊張と恐怖で浮ついていた二つの心は、悪魔の冷笑によって一気に現実に引き戻された。
「何を躊躇う事があるのだね。その子を手に掛けるだけで、君は家に帰れるのだよ? この秘密が他者に知られる事は無い、君が裁かれる事も無い。日常に帰りたくは無いのかね? 家族と語り合う日々、男の温もりを知る未来が欲しくないのかね」
「で……でも。人を殺すなんて、私…」
「ふむ。――では、君が代わりにその台に乗るかね?」
痺れを切らしたのか、声に苛立ちを含ませながら、悪魔は手術用の台に左手を差し出す。思いがけない質問に理解が追いつかなかった少女は、「え…?」と焦点の定まらない瞳を悪魔に向けた。
「言ったろう、君達のうち一人だけを解放すると。条件を達した者だけを助けると。それはつまり、そこで縛られている子にも生還の権利があるという事だ。そこまで考えはしなかったのかね?」
「そ…、それは…」
「君は実に優しい子だ。君のような純真な心の持ち主こそ長く生きるべきだと思うのだが…、その子が可哀想と言うのなら仕方がない。君が身代りになればいい。君がその子の代わりに殺されれば、彼女の解放は約束するよ」
遠回しな脅迫が、少女の心を悪意で握りしめる。
殺さなければ、殺される。それは当然の事ではないかと態度で語り、悪魔は懐から古びた懐中時計を取り出した。
「…どれ、三分待とう」
少女に思考する余裕を与える事なく、悪魔は冷たく言い放つ。
「三分後、この場にまだ一滴の血も流れていなければ、その時点で交代だ。…よく思案したまえよ、助かるべきはどちらなのか。君は生きたいのか、それとも生かしたいのか。くだらない人情や道徳など捨てて、心の声に従いたまえ」
何処までも他人事と言わんばかりの言葉が、文字通り悪魔の囁きとなって少女の脳髄を撫でた時。部屋の扉を叩く音が、この場に居る全員の耳朶を叩いた。
自然、三人の視線が扉へと向けられる。とりわけ反応を示したのは、この部屋の主である悪魔であった。
「誰かね。今は選別の最中なのだが」
「俺だ。少し話がある」
返って来た男の声に、悪魔は「おや」と心持ち驚いた表情を浮かべる。彼は興が冷めたとばかりに深い溜息を一つ吐くと、「では、三分後に」と言葉を一つ残して、ゆっくりとした足取りで部屋を出た。
彼を待ち受けていたのは、審判、女教皇、女帝の三人。悪魔は彼らの顔を見ると、「これはこれは」とわざとらしく驚いた表情を浮かべて両腕を広げた。
「お揃いで私に何の用だね? 君達に咎められるような事はしていない筈なのだがね」
「よく言う…。咎の塊のような人間だろうが」
鋭い目で悪魔を睨みながら、審判は言う。その表情には嫌悪と警戒の色が色濃く浮かんでおり、この悪魔という男を嫌っているらしい事が見て取れた。
「まあいい…。大した用がある訳じゃない。後で一度拠点に戻る事になった、それを伝えに来ただけだ」
「おや…。向こうで何かあったのかね? 拠点には教皇組が居る筈だが」
大袈裟に首を傾げながら、悪魔は質問を重ねる。答えたのは、審判の隣に居た女教皇だった。
「私も詳しい事は知らないんだけどね。どうも拠点に第三者の侵入があったみたいなのよ。で、その後処理に行くって話みたい」
「ほう…。それはそれは、興味深い話だ。並行世界の枠を越えて、我らの領域に入り込む者があったのかね」
僅かに表情を綻ばせ、悪魔は肩をゆすって笑う。興味深いと言った言葉以上の喜悦を浮かべたその顔に、女教皇は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。
「了承した。その時が来たら呼びに来てくれたまえ。どうせ私が手を下している訳では無いのだ、私がここを離れても選別には問題ない」
「ええ、そうでしょうね…。自分は手を汚さず、他人同士を争わせる……貴方の好きなやり口だったわね、悪魔ちゃん」
「好きと言うより、生まれ持った性分だろうね。覚えておくといい、悪魔というものは、自ら手を下す事を何よりも嫌うのだよ」
皮肉を言ったらしい女教皇に生真面目な表情で答えた後、悪魔は「では、失礼」と三人に頭を垂れて部屋の中に戻っていく。何か言い返そうとした女教皇の言葉は、扉に阻まれて耳には入らなかった。
部屋に戻った彼は、懐から懐中時計を取り出して時の経過を確認する。――きっかり三分。宣言した時間が、今まさに訪れていた。
「………」
悪魔は懐中時計を懐にしまい、何の表情も浮かべずに少女二人を閉じ込めた檻へと近付いていく。
そして檻の中の光景と、血生臭さを確認した時。悪魔は、その名に違わぬ残酷な笑みを浮かべた。
「なんだ――。やればできるじゃないか」
――――――
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同時刻。
彼らの言う“侵入者”が暴れまわる廃墟の一室にて、二人の男が顔を合わせていた。
一人はリリオンや
その視線の先に居るのは、赤い鎧を身に着けた大柄の老人、正義。まるで太古の時代から蘇った武将のような恰好をした彼は、周囲に自分達以外の人間がいない事を確認すると、固く結んだ口を開いた。
「時に教皇。鼠どもを狩る前に、幾つか確かめておきたい事があるのだがな」
無機質な鬼の面で教皇を見据え、正義が問う。その外見に違わぬ古風な口振りに思わず微笑を浮かべた教皇は、「何かな?」と小さく返した。
「そも、その鼠はどのようにして入り込んだのだ。ここは遥か昔に滅びた隔離された空間…、我ら以外の者が入り込める筈もあるまい。内部から手引きでもせぬ限りな」
言葉を飾らぬ物言いは、正義という人間の性格を表れだった。教皇は意外そうに目を丸くすると、「あれ?」と頓狂な声を漏らす。
「変だな。てっきり審判から話を聞いてるものと思っていたんだけど」
「子細は聞いた。…が、今一度そなたの口から確認しておきたい。伝聞では伝わりきらぬ意図もあろうからな」
何処までも生真面目な態度で尋ねる正義に、教皇は「なるほどね」と二度頷く。
白か黒か、是か非か。何事もはっきりさせなければ気が済まないのが、この老人の性格だった。だからこそ“正義”の異端の札が発現したのだろうと内心思いながら、教皇はにこりと笑みを浮かべて正義の問いに正直に答える。
「昨日、塔と死神が新たな異端の札の持ち主を回収してね。愚者のカードを発現させた男の子で、回収自体は無事に済んだんだけど、どうも回収の現場をその子の仲間に見られたらしい。今入り込んでいるのは、その連中だ」
「ほう…」
驚いた様子も無く、正義は機械的に相槌を打つ。知った上で聞いているのだから当然の反応ではあるのだが、何処か白々しいように教皇には思えた。
「本来なら、回収の現場を目撃されても何ら問題は無い。並行世界を行き来できるのは異端の札を持つ僕達だけだからね。…けど、愚者の仲間達はそこを突いて来た。どうにかして別の異端の札を用意して、それを餌に罠を張ったんだ」
「…我らが異端の札を求めている以上、新たな異端の札が発現すれば必ず姿を見せる。そこを取り押さえれば……確かに道理ではあるな」
「恥ずかしながら、僕はその道理に気付かずに
「死神は敵の罠に堕ち、その者らを手引きせざるを得なくなった…。そう申すのだな?」
言葉を重ねた正義に、教皇は「納得してくれたかい?」と笑みを返す。
正義は腑に落ちないと言った様子で「ふぅむ…」と口をへの字に結んだ後、
「やはり、少し話が出来過ぎているように思えるな」
と、教皇に明確な疑惑を向けた。
「敵の策略に乗せられたと言うが、その程度の罠を見抜けぬ
「うーん…、今になって考えるとその通りだね。まあ僕も寝起きだったし、
困ったように頬を掻く教皇だが、それは正義を納得させる程の答えでは無かったらしい。正義は苦笑いする教皇を暫く見つめた後、「教皇よ」と重い声で呼び掛けた。
「余にまで隠す必要はあるまい。何を考えておるのか、本心を申してみよ」
「…もー、疑り深いなぁ正義は。別に何も隠してなんかいないよ。こうやって素直にミスを認めてるんだし、あんまり人を虐めるのはどうかと思うなぁ、僕」
叱られた子供のように弱気な笑みを浮かべながら、何処にも嘘は無いと主張する教皇。
正義はそんな彼の目を真っ直ぐに見つめ――…教皇もまた、澄んだ瞳で正義の顔を見返した。
赤い鬼と、毒気の無い男はしばらく視線を交え、言葉の無い会話を続ける。最初に根負けしたのは、意外にも正義の方であった。
「…ふっ、まあ良い。清廉潔白なそなたの事だ、仮に何か思惑があったとしても、後ろ暗い事など何一つ無いのであろう。つまらぬ事を聞いたな」
強張っていた表情を和らげ、笑みを浮かべながら正義は言う。
疑念はまだ晴れていないが、それ以上に“教皇”という人間を信頼している。ならばこれ以上は聞くまいと、その表情は語っていた。
「さて、そろそろ鼠狩りを始めるとしようか。教皇、例の物を」
笑みを浮かべたのも一瞬、すぐに表情を引き締めた正義は、装甲に守られた右腕を教皇に差し出す。
教皇は何の事と言いたげに目を丸くした後、思い出したように胸ポケットから一枚のカードを取り出した。
裏面に魚の骨が描かれた、奇妙なカード。デュエルに敗北した者を電流によって気絶させる機能を決闘盤に付加する、リリオン達にも与えたカードだった。
正義はそのカードを受け取ると、鎧の左腕部分に不自然に開いたカード投入口に差し込み、再び吐き出されたそのカードを教皇へと返す。
「確か、敵は九人……二手に分かれたという話であったな。余一人でも一時間もあれば片が付くであろうが、そなたはどうする、教皇?」
「ん、もちろん僕も戦うつもりだよ。部下にだけ戦わせて自分は何もしないってのも気が咎めるし、塔の事も心配だからね」
そう言うと教皇は立ち上がり、近くのテーブルに置かれていた自身の決闘盤を手に取る。植物の茨の模様が描かれた、彼専用の決闘盤だ。
教皇は決闘盤を左腕に装着すると、「じゃあ、行こうか」と笑って部屋を出る。綺麗な内装で飾られた部屋を一歩出ると、薄暗い廃墟の廊下が左右に広がっていた。
リリオン、デス、
「敵が二手に別れているのなら、僕達も別れた方が効率的かな。僕は下に行くから、正義は上の方を頼むよ」
「承知した」
同じく廊下に出た正義が頷いた時。彼の鎧の隙間、至る所に内臓された筒状の部品から火の粉が散り、次の瞬間には青白い炎が噴出した。
小型のジェットを思わせるそれは、鎧の重量も合わせて百kgは越えるであろう正義の体をふわりと浮かせ、ホバリングするヘリのように空中で静止させる。
塔やデスのような異端の札の実体化では無い。鎧に埋め込まれた小型スラスターの推力が、正義の巨体を強引に持ち上げていたのだ。
「では、武運を祈る」
そう言い残すと、宙に浮いた正義は鎧のスラスターを巧みに操り、ジェット機のような凄まじい速度で廊下の向こうへと飛んで行く。
鎧というものは本来身を守る為の物であるが、この正義という男が装備する鎧――…
装甲の隙間に細かく配置されたスラスターは、装備者の意志に従って推力を調整し、彼を自由な速度・自由な方向へと飛翔させるのである。
無論、それによって発生する肉体への負担は尋常では無いが――…それに耐えうる強靭な体を、この正義という男は持っていた。
教皇と別れて数秒。部屋から数十メートルは離れた所にある螺旋階段に辿り着いた正義は、螺旋の中央で一度静止して、上階を確認する。
「さて…。敵の実力がどれほどのものか、見物だな」
正義の呟きは、彼を上へと押し上げるスラスターの音に掻き消された。重力に逆らい浮遊する彼の体は、鳥のような身軽さで上階へと登って行く。
何もかもが常識から外れた、規格外の“敵”――。その鬼の面が獲物を見つけるのは、時間の問題だった。
――――――
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――――
一方その頃、教皇の部屋から数階上にあるデスの部屋にて。次元を越えた再会を果たしたクロンとソール達は、これからの事を話すべく、互いに知る限りの情報を共有していた。
異端の札の事。並行世界の事。黒い羽根の事。滅びの運命の事。クロンが語る話はその全てが現実離れしていたが、ソールとフロムは特に口を挟む訳でも無く彼の話を聞き入っていた。呆気に取られていた、と言い換えても良いだろう。
「…以上が、ボクがここで聞いた事の全てです」
「
真剣な面持ちで語り終えたクロンに対し、ソールは呆れたように声を上げる。
当然と言えば当然の反応であるが、この場に置いては非常識こそが基準だ。クロンはむっとした表情を浮かべて、今にも笑い出しそうなソールに反論した。
「ボクだってまだ半信半疑ッスよ! けど、ボクが見た限り……少なくとも、あの人達がボク達の知り得ない力を持ってるのは事実です。全部が本当とは限らないけど、まるっきり嘘でも無いとボクは思うんです」
真実かどうかは問題じゃない。ただ自分の目で見て感じた事を、そのまま伝える。困惑したような表情を浮かべたソールは、答えを求めるように青色の瞳をクロンからフロムへと移し替えた。
「どう思う、天才?」
「さあね。ボクは自分の目で見た事しか信用しない主義だから」
他人事のように応じながら、「ただ」と一声付け足したフロムは、緑色の双眸にクロンとソールの顔を映す。
「ボク達がこの場所に来た経緯なんかも踏まえて考えると、否定しきれない部分があるのも確かだよ。並行世界説、ボクはありだと思うけどね」
「なるほどな。つー事はだ……ん? ここが並行世界だったとしたら、どうなるんだ?」
今一つ危機感に欠ける表情で、ソールは二人に問い掛ける。
恐らく彼女の中ではクロンと接触できた時点で半ば目的を達した気分なのだろう。つくづく単純な性格だと思いつつ、クロンはソールの疑問に答えるべく口を開いた。
「つまり、ボク達は自力じゃ元の世界に帰れないって事ッスよ。デス君達は異端の札の力で並行世界を行き来できるらしいけど、具体的にどうやってるかまでは教えてくれませんでしたから…」
「で、その猫はお仲間のお姉さんと一緒に気絶してる訳だから…。ん、確かに。袋小路だね」
クロンの言葉にフロムの補足が加わり、ようやくソールにも事態が飲み込めたようだった。
もしここが本当に並行世界で、行き来する手段を知っているのが敵だけだとしたら。今ここに居る自分達は、どうやって元の世界に帰ればいいのか?
「…って事は何か? 俺様達は、一生ここから出られねぇってのか?」
「そこまでは言ってないけど……でも、そういう可能性もあり得る状況って話ッス」
「…あのデスって黒猫も、そんな事を言ってたね」
そういう事か、と納得した面持ちでフロムが頷く。その落ち着いた様子に僅かな苛立ちを覚えたソールは、「随分と余裕そうだな」と嫌みを一つ彼に吐き付けた。
「テメェも閉じ込められた一人だろうに、なんでそんな平然としてられんだ? 何か考えでもあるってのか?」
「別に。ただ、狼狽えてばかりじゃ問題は解決ないって事を知ってるだけだよ」
小馬鹿にするように笑いながら、フロムは前髪を手で掻き上げる。相変わらずの性格であるが、今回に限っては自分達がパニックにならないよう敢えて皮肉な態度を取っているようにクロンには見えた。
「…ま、話はわかったよ」
嫌味を程々に、ようやく真面目な表情を浮かべたフロムは、真っ直ぐな視線をクロンに向ける。
「疑問は山ほどあるけど、今はとりあえず姫利お姉ちゃん達との合流を優先しよう。話を聞く限り、ボク達二人で考えて何とかなる問題じゃないようだからね」
「…了解ッス」
「おい、二人つったか今? 仲間外れにされたのは誰の脳味噌だ?」
露骨な嫌味を聞き逃さずソールが声を荒げるが、姫利達と合流しようという点に関しては意見は同じだった。
リリオンとデスは倒したが、他にもまだ敵はいる。ここで延々と話し合っていても敵に利するだけだ。
意見が合致すると、三人の動きは早かった。外に人の気配が無い事を入念に確かめながら部屋を出て、姫利らと合流すべく元来た道を辿っていく。
無論、三人には姫利らが今何処に居るのか知る由も無かったが、ソール達が最初に分かれた場所からそう遠くには行ってないだろうと辺りを付け、ひとまずは下を目指す事にした。
今も部屋を一つ一つ見て回っているであろう彼女達と違い、自分達は真っ直ぐに目的地に進む事ができる。姫利らとの合流には、そう時間は掛からないように思えた。
「…っと、そうだ。おいクロン、フロム。ちょっと止まれ」
薄暗い廊下を慎重に歩き、何事も無く螺旋階段にまで辿り着いた時。不意にソールが立ち止まって、前を進む二人を呼び止める。
彼女は二人が振り返ったのを確認すると、腕に抱えた黒い決闘盤からデッキを外して扇状に広げ始めた。
「…あれ? その決闘盤、ソールちゃんが使ってたやつじゃないッスね」
気付いたクロンが首を傾げると、ソールは動作を続けたまま、にやりと悪い笑みを浮かべる。
「ああ、さっきフロムが倒した糞猫が使ってたやつだ。俺様の決闘盤はリリオンと戦った時に壊されちまったんでな、ちょっと拝借させて貰ってんだ」
「なるほど…」
「で、何がしたいの?」
苛立った口振りでフロムが言う。わざわざ足を止めさせておいてデッキ弄りを始めた事が気に入らない様子だが、ソールはその事に気付かず「異端の札だよ」と二人に告げた。
「糞猫のデッキに入ってる異端の札を、テメェらに渡しとこうと思ってな。敵が異端の札を使ってくる以上、こっちも異端の札を使うに越した事はねぇだろ? 文字通り規格外の力を持ったカードなんだからな。…お、やっぱ三積みしてやがった」
デッキから三枚の異端の札を抜き取ったソールは、それ以外のカードをその場に捨てて代わりに自分のデッキを決闘盤にセットする。
そして三枚のカードを二人に渡そうとした刹那――、
「お…?」
と、頓狂な声を上げた。
「…おっ、おい! 見てみろ二人とも!」
突然声を大にして、ソールは手に持った三枚の異端の札を二人に向ける。
何事かと思いクロン達がそのカードを覗き込むと、そこには――…そこに描かれていたのは、【
黒い枠を見る限り、エクシーズモンスターなのだろう。イラスト部分には下半身の無い黒い魔人が描かれており、にやりと悪い笑みを浮かべているのが確認できる。
「これって…!」
「…異端の札の変化、だね」
驚きを隠せないクロンと落ち着いたフロムが同時に言葉を発し、それぞれの表情でソールを見返す。
異端の札の変化。見たままの現実を二人の反応でようやく受け入れる事ができたソールは、「どういう事だ!?」と興奮した様子で叫んだ。
「俺様が触って異端の札が変化したって事は……じゃあ、俺様も異端の札を使えるようになったって事か!? 昨日は何の変化も無かったんだぞ!?」
声を荒げながら、ソールは自身の言葉に誤りがある事を思い出していた。
昨日、新たな異端の札の持ち主を探す為に雨の中を奔走していた時。フロムと出会う少し前、真っ白だった異端の札が一瞬だけ変化したのを、自分は確かに見た。
見間違いだと思っていた。次の瞬間には真っ白なカードに戻っていた異端の札を見て、幻覚だと思っていた。
だが、今まさに現れた『先入眼の涅恋人』のカードは――…紛れもなく、あの時幻視したカードである。
まさか、俺様にも異端の札が発現したのか? あれは見間違いじゃなかったのか…?
様々な考えが脳裏を過ぎり、何が現実か訳がわからなくなった時。「多分、そうだと思います」と呟いたクロンの声が、ソールを現実に引き戻した。
「デス君の話によれば……異端の札は、人の強い気持ちや願いに反応して発現するんだそうです。例え一度は異端の札に選ばれなかった人でも、心に大きな変化があれば後天的に発現する事もあるんだとか…」
「じゃあ…」
「その変化は、間違いなくソールちゃんによるものだと思います。ソールちゃんの心に反応して、異端の札が変化したんッスよ。今」
驚いたものか喜んだものか。何とも言えない複雑な気持ちで言いながら、クロンもまた思い出していた。
あの時。教皇に異端の札に纏わる話をされた時、彼は言っていた。異端の札に選ばれたのは、
それは言い換えれば、自分とソールの両方に
(教皇さんは勘でわかるって言ってたけど……結果的に、あれは正しかったって事になりますね…)
それが何を意味するのかはわからないが、少なくとも、ソールにも異端の札が発現したのは紛れもない事実だった。
カード名を見る限り、彼女の異端の札はタロットの【恋人】にあたるカードだろう。クロンの【愚者】とフロムの【世界】、合わせて三枚の異端の札がここに集まった事になる。
その事実が吉と出るか凶と出るかはもはや人智の及ぶところでは無いが、何か運命的なものを感じずにはいられなかった。
「えーと、君の異端の札は、と…。ん、エクシーズモンスターか。なるほど、単純脳細胞らしい攻撃的な効果だね」
ソールの異端の札を覗き込みながら、フロムらしい分析が入る。「なんだと!?」と反射的に叫んだソールを、クロンは「まぁまぁ」と苦笑いを浮かべて宥めた。
「…とにかく、この三枚の異端の札はボク達が一枚ずつ持っておきましょうよ。ソールちゃんの言う通り、向こうは遠慮なく異端の札を使って来る訳ですし」
話題を逸らす事で一悶着を食い止めながら、ソールの手から異端の札を一つ抜き取ってデッキに加える。
それに続くようにフロムがもう一枚の異端の札を自身のデッキに入れ、ソールもまた舌打ちしながら最後の一枚をデッキに差し込んだ。
全ての発端となった『
そう前向きに考えを切り替え、気持ちを新たに姫利らとの合流を急ごうとした時だった。クロンは、背後の螺旋階段から何かが迫り上がって来る音を聞いた。
「え…?」
異様な風切り音に気付いたクロンが振り返ると同時、何もない螺旋階段の中央から大きな赤い影が現れ、次の瞬間にはクロンの視界から消えていた。
赤い猛禽類――…という言葉が脳裏を掠め、擦れ違い様に放たれた熱風に髪を撫でられた時。クロンは、熱風の中に猛禽の声を聞いた。
「――そこに居たか」
はっきりと聞き取れる老人の声が、一瞬にも満たない時間の中で三人の耳朶を叩く。
クロンらの居る階を通り過ぎた赤い猛禽は、その巨体を空中で反転させると、両足で天井を蹴って彼等の下に戻って来る。上下逆さで戻った猛禽はクロンらの目の前でピタリと静止し、ゆったりと宙に浮かびながら再び体を反転させた。猛禽の正体が赤い鎧を着た人間である事にクロンが気付いたのは、この時だった。
「なっ――! なんだ、こいつは!?」
背後からソールの声が聞こえ、ただならぬ事が起きたのだと遅まきながら気付いたクロンは、呆然とした瞳をその人物に向けた。
「ふむ…、三人か。子供とは聞いていたが、思っていた以上に幼いな」
螺旋階段の中央。底なしの闇の上に直立しながら、その男、“正義”は口を開く。顔の半分を隠す鬼の面が、三人を値踏みするかのように左右に動いていた。
「な、なんだありゃ…!? 和製バットマンか!?」
「…ソールちゃん、下がって」
思わず駆け寄ろうとするソールを後ろ手に押しやり、クロンは威嚇するように正義を睨む。
何者かは知らないが、味方ではありえない。教皇の仲間の一人が自分達を捕らえに来たのだと想像するのは、難しい事ではなかった。
「赤い鎧に、鬼の仮面…? ……まさか…!」
一歩後ろに下がったフロムが、珍しく狼狽した表情を浮かべて声を震わせる。その口ぶりは目の前の男について知っているかのようであったが、その事に気付く余裕はクロンには無い。
クロンはごくりと息を呑み込むと、恐る恐る尋ねてみた。
「ど……どちら様、ですか?」
クロンらしい物言いにその人物はすぐには答えず、闇の上に浮かびながら周囲を見渡す。彼はこの場にクロン達三人しかいない事を確認すると、ようやく鬼の双眸をクロンに向けた。
「余は正義。異端の札、『
敵意も善意も感じない、ただ質問に答えだけの声が、重い威圧となって三人に伸し掛かる。
やはり敵か……と、わかりきっていた事実を認識したクロンは、何とか逃げる術は無いものかと視線を周囲に散乱させた。
「幼子達よ。その歳で悪に立ち向かう気概は殊勝であるが、少しばかり
更なる威圧を正義が放つと同時、鎧の左腕の装甲が発光し、その場で変形を始める。からくり仕掛けのように滑らかな動作で形状を変えるそれは、鎧としての機能はそのままに決闘盤へと姿を変えた。
明確な戦闘態勢であるが、しかし決闘盤が展開されるのを見たクロン達は逆に安堵していた。腕力勝負となれば鎧を身に着けた大男相手に敵う術は無いが、デュエルでの勝負ならその限りは無い事はリリオン達との勝負で既に証明されている。
「へっ、つまり新手の敵って訳か。面倒な喋り方しやがって。おい天才野郎、テメェが戦うか? それとも俺様がぶっ倒そうか?」
「――三人掛かりで良い」
フロムに呼びかけた筈の問いに代わりに答えられ、ソールは「あぁ!?」と不快を露わにして正義を睨む。怒気を含んだ眼光を涼しげに受けながら、正義はもう一度口を開いた。
「三対一の勝負で構わん、と申したのだ。細く折れやすい矢も三本束ねれば案外折れぬもの。三人の力を一つに束ね、掛かって来るが良い」
はっきりとした物言いだけに、意味を理解するのに時間が掛かった。
三対一……三人と一人。考えるまでも無くこちらに有利な勝負を挑まれていると気付いた時。ソールは自らを庇っているクロンを押しのけて、「舐めてんのか!」と声を荒げた。
「子供だからって馬鹿にしやがって…! それほど自分の異端の札に自信があるってか!? …おいクロン、フロム! テメェらは後ろで下がってろ! こいつは俺様が相手してやる!」
「……いや。ここは向こうの提案通り、三人で戦おう…」
じっと正義の顔を凝視したままのフロムが、いきり立つソールを宥めるように肩に手を置く。普段強気な彼らしからぬ弱々しい声に気付いたクロンとソールは、驚いたように彼の方を見返した。
「今度の敵は…、さっきの猫達とは明らかに
「…何だとぉ?」
初めて目の当たりにするフロムの弱気な表情に、ソールの声は自然と裏返った。目の前の“鬼”はそんな彼らの様子を無機質に見つめながら、鎧に内蔵された決闘盤を黙々と起動させる。
「ちっ…! どういうつもりか知らねぇが、三対一のデュエルで負ける訳がねぇ! いくぞクロン! あの糞じじいを三人で叩き潰してやる!」
いよいよ頭に血が上ったソールは、デスから奪い取った決闘盤を腕に装着して起動させる。フロムもまた苦しげな表情を浮かべながらも決闘盤を起動し、目の前の敵に対峙した。
ただ、一人だけ。クロンだけは、自身の決闘盤とソールを見比べ、まごついた表情を浮かべていた。
「ちょ、ちょっと待って下さいッス! 協力したいのは山々ですけど、ボクの決闘盤はまだ旧式のやつだから……その、参加しようにもっ…!」
「なっ…。ちっ、そういやそうだったな…!」
忘れかけていた不都合が再燃し、ソールは思わず舌打ちする。
クロンがデュエルに参加できない以上、ここはフロムと組んで二人掛かりで戦うしかない。無論、それでも負ける気はしないのだが、三人でも勝てるか怪しいと断言したフロムの言葉が妙に引っかかった。
とは言え、こうなったからには二人で戦うしかない。そうソールが考えていると、助け船は、意外にも敵である正義の方から差し向けられた。
「ふむ…。決闘盤が無いか」
心持ち驚いた様子で正義が呟くと、彼の右腕付近の空間がぐにゃりと歪み、そこから決闘盤が一つ吐き出される。
派手では無いが所々に鮮やかな和風の模様が描かれた、最新型の決闘盤――。正義はそれを右手で受け取ると、「受け取るが良い」と言葉と共にそれをクロンに投げ渡した。
「余の予備の決闘盤だ、それを使うが良い。安心せよ、妙な細工はしておらぬ」
「えっ? あっ…。ど、どうも……ありがとう、ございます…」
決闘盤を受け取ったクロンが、困惑した表情でひとまず礼を言う。
正義が何のつもりで決闘盤まで与えるのか。その真意は表情からは読めないが、彼は腕組みしながら「もう一つ」と右手の人差し指を立てた。
「余の山札には異端の札は入っておらぬ。従ってこのデュエルにおいて、そなた達が異端の札と対峙する事は決してない事も伝えておこう」
「えっ…!?」
「異端の札を余は好かぬ。あれは我らの目的に必要な物ではあるが、ことデュエルにおいては所詮非公式に造られた物でしかない。ましてや一個人にのみ扱えるカードなど言語道断、そんなものに頼って得たものを勝利と呼びたくはないのでな」
違うか? と今にも問い掛けてきそうな物言いに、ソールは思わず息を呑む。
これまで自分達が戦ってきた相手――…リリオンやデス、塔にしても、彼女達は皆それぞれ“異端の札”を切り札にデュエルを行っていた。自分だけが使う事ができる強力なカードだ、使わない手がある筈がない。
事実、ソール達も今はデッキに異端の札を忍ばせているのだから、異端の札の有用性に関しては誰もが認める所と言っていい。その圧倒的な優位を自ら捨てると言うのだから、正義の言葉には三人とも面食らった。
「異端の札を使わねぇ、だと…? 本気で言ってんのか、こいつ…?」
「偽りは言わぬ。また、二度も言わぬ」
その言葉を最後に、正義は組んでいた両腕を解いて左腕の決闘盤を三人に向ける。これ以上の問答は不要と言葉なく告げられ、三人はもはや後には引けない自身の状況を悟った。
クロン達はそれぞれデッキを構え、ただ一人の敵に対峙する。そして――、
『デュエル!』
圧倒的に有利な条件で、デュエルが始まった。
「…ボクのターン!」
三対一という変則的な条件で始まったこのデュエル、先攻を得たのは先程から様子のおかしいフロムであった。
彼が初手の五枚をデッキから引き抜くと同時、クロンとソールの手札が立体映像として彼の目前に小さく表示される。
フロム自身を含め、悪い手札では無い。またこの時点で彼らの手札枚数は正義の三倍であり、アドバンテージの上では圧倒的の有利であるが……それでも勝算は薄いと弱気に考え、フロムは震える双眸を対峙する正義に向けた。
(……やっぱり、あの敵には見覚えがある…)
心の内で呟き、デュエルに集中すべき思考を目の前の既視感に注ぐ。
その既視感がある一つの仮説と繋がり、考えがたい結論となって立ちはだかろうとする直前。呆けていた頭を強引に揺り起こしたフロムは、ようやく自らのターンを開始した。
「手札から、『パラクスの少女 マリア』を召喚!」
躊躇いを呑み込み、普段通りの展開を開始する。
天使の翼を思わせる大型スラスターを肩に取りつけた少女《マリア》がフロムの場に出現し、宙に浮かぶ相手を見るや目を丸くしてフロムを振り返っていた。
「マリアの召喚に成功した時、デッキから新たなパラクスの少女を特殊召喚できる! ボクは『パラクスの少女 セシリー』を特殊召喚!」
召喚されたばかりの《マリア》の眼前に小さな時空の渦が生じ、《マリア》は両肩のスラスターを吹かせて時空の向こうへと消えてゆく。
やがて渦の中から《マリア》は銀髪をサイドポニーにした少女を抱きかかえてフロムの場へと戻って来る。横腹にジェットエンジンを二つ搭載した鋼鉄の甲冑を身に着けた少女、《セシリー》である。
流れるように召喚された《セシリー》は甲冑に押し潰されそうになりながらも両足で立ち、同じような格好にも拘わらず空を飛んでいる正義に仰天して《マリア》とひそひそ話を始めた。
これらのモンスターは何れも攻撃力の低いモンスターであるが、フロムのデッキ、【パラクスの少女】の本質は疑似ターンスキップにある。その特異な戦術を早くも披露しようとした矢先、「ほう…」と意外そうに呟いた正義の声がフロムの耳朶を叩いた。
「これは驚いた。その若さでパラクスデッキを使うか」
「っ……!」
「パラクスは見栄えの良いコンボと速効性故に扱いやすいデッキと見る者も多いが、実際は相手のデッキ構成や性格、戦局の動き及びタイミング……リスクとリターンなど、使用者の優れた状況判断能力と技術力が求められる極めて扱いの難しいデッキだ。それを使うという時点で、そなたの技量の高さが伺えるな」
観察するような目だった。
自らのデッキの特徴をピタリと言い当てられ一度はデュエルの手を止めるフロムだが、手の内を知られていた所でやる事は変わらない。一瞬で迷いを振り切り、そのままターンを続行した。
「特殊召喚されたセシリーの効果発動! 次の相手のメインフェイズ1をスキップする!」
命令を受けた《セシリー》が右腕を正義に向け、彼に訪れる筈の
後はバトルフェイズを封じる事に成功すればフロムお得意の疑似ターンスキップコンボは完成するが、正義の表情には何ら焦った様子は無い。
何か対策があるのか、それともこちらのコンボをまるで意に介していないのか…。知らず知らずの内に悪い方に考えていると気付き、フロムはまた首を左右に振った。
「カードを一枚伏せて、ターンエンド! この瞬間、マリアの効果で特殊召喚されたセシリーはデッキに戻る!」
フロムの場の少女が一人欠けて、彼の場には二枚のカードが残る。不安は残るものの、これが今考え得る最良の手だった。
『パラクスの少女 マリア』 モンスター
光属性 機械族 ☆3
攻撃力900 守備力900
効果:①:このカードの召喚に成功した時、デッキからレベル2以下の「パラクスの少女」モンスター1体を自分フィールドに特殊召喚できる。
この効果で特殊召喚したモンスターはターン終了時に手札に戻る。
『パラクスの少女 セシリー』 モンスター
光属性 機械族 ☆2
攻撃力500 守備力700
効果:このカードは通常召喚できない。
①:このカードが「パラクスの少女」モンスターの効果によって特殊召喚された場合、次の相手ターンのメインフェイズ1をスキップする。
【正義】
次のターンのメインフェイズ1のスキップが確定。
「どれ、余のターン…」
続いて正義のターン。
デッキからカードを手札に加え、まさに行動を開始しようとする直前。伏せたばかりのフロムの伏せカードが、勢い良く翻った。
「この瞬間ッ、リバースカード――、」
「リバースカード、覇者の一括を発動。このターンの余のバトルフェイズをスキップし、先のメインフェイズ1のスキップと合わせ強制的にエンドフェイズに移行させる」
言葉を先読みした正義が、まさにフロムが行おうとした事を自ら解説する。「ぐっ…」と言葉に詰まったフロムを見て、正義はにやりと口元を吊り上げた。
「おっと、すまぬな。相手が幼子となると、どうも口が勝手に動いてしまう。年寄りの悪い癖だ。…余の方に特に返す手は無い、このままターンを終了しよう」
そう言って、正義は言葉通りフロムのコンボを受け入れて自らのターンを終了させる。
手の内は読めても、流石に一ターン目からの疑似ターンスキップを止める手段は無かったか…。ほっと安堵の息を吐いたフロムは、次のターンプレイヤーであるソールへと視線を向ける。
(よし、ここまでは順調だ…。後は火力馬鹿のこいつが、相手が無防備なうちにどれだけダメージを叩き込んでくれるか、だね。ここは最低でも4000ポイント……いや、6000ポイントは確実に削って欲しいところだけど…)
指示を飛ばすような事はせず、ただ期待だけをソールに送る。
この敵は危険だ。有利な勝負とは言え、長期戦に持ち込みたくは無い。その為には……リリオンすらも退けたソールの馬鹿げた火力が、頼りだった。
「覇者の一括」 通常罠
効果:相手スタンバイフェイズで発動する事ができる。
発動ターン相手はバトルフェイズを行う事ができない。
「俺様のターン! ドロー!」
勢いよく宣言し、ソールは自身のターンを開始する。
相手の場に一枚のカードも無く、十二分に手札が揃ったこの状況。通常のデュエルではまず有り得ない好機を前に自然と笑みを浮かべたソールは、手札から一枚のカードを抜き取って決闘盤に差し込んだ。
「まずは魔法カード、デビルズ・サンクチュアリを発動だ! 俺様の場にメタルデビル・トークンを一体特殊召喚するぜ!」
現れたのは、金属のような質感を持った人型のスライム。攻撃力こそ皆無であるが、その体には敵である正義の姿を映しており、自身が受けたダメージをそっくり相手に反射する能力を持っている。
「更にライフを1000ポイント払い、魔法カード、
続けて現れたのは、馬の魂魄に跨がった死霊。攻撃力こそ低いものの戦闘破壊耐性と直接攻撃効果を持ち、更にハンデスまで可能という地味ながら厄介な効果を持つ融合モンスターだった。
瞬く間に二体のモンスターが展開され、これで彼女の場にはモンスターが三体。自慢の爆発力を発揮する準備は整った。
「いくぜぇ糞じじい! 三体のモンスターをリリースし――…出でよ、邪神ドレッド・ルート!」
叫んだソールの後方の空間に亀裂が生じ、無形の闇が霧のように亀裂の間から漏れ出てくる。闇は三体の贄を包んで砕き、魂を自身に取り込むと、巨大な異形の姿を形作ってソールの場に君臨した。
恐怖の具現化とも言うべきそれは、血肉を得ると同時に両腕で闇を振り払い、その場で咆哮を上げる。神を倒すべく生まれた邪神――、ドレッド・ルートであった。
その攻撃力は4000ポイントと圧倒的で、加えて他のモンスターの攻守を半減する効果を備える。こと戦闘に関しては無敵と言っても過言では無い存在だった。
もっとも先のリリオン戦では手痛い敗北を喫したのだが、今回はそうはいかない。ソールはにやりと口元を吊り上げ、更なるカードを発動させた。
「装備魔法、巨大化を発動! ドレッド・ルートの攻撃力を倍にするッ!」
ただでさえ巨大な《ドレッド・ルート》の体躯が更にサイズを増し、天井を破壊しなければ収まりきらない程にまで巨大化する。無論これは決闘盤による演出であり実際には建物は破壊されていないのだが、その圧倒的な存在感の前には、正義も「ほぉ…!」と感嘆の声を上げずにはいられなかった。
「攻撃力8000を出して来るか…。手札が豊かなデュエル序盤とは言え、見事なものだな」
何処か余裕を浮かべながらも、しかし正義の場にはカードが無い。ソールは両隣にいるクロンとフロムに目で合図すると、迷い無くバトルフェイズに突入した。
「テメェはここで瞬殺だッ! 邪神ドレッド・ルートで、直接攻撃ッ!」
高らかに叫んだ声に従い、《ドレッド・ルート》は巨大な右腕を持ち上げて空飛ぶ正義に向けて拳を放つ。
この攻撃が通れば、正義は何もせぬまま敗北する事になる。フロムの時止めコンボと噛み合わせた1ターンキル、それが彼女の狙いだった。
正義は、動かない。彼は腕組みをしたまま迫り来る《ドレッド・ルート》の拳を見つめ――、
「見事なものだ、が…」
と、もう一度呟いた。
次の瞬間、《ドレッド・ルート》の拳が直撃し、凄まじい衝撃がフィールドを振動させる。
――手応えあり。勝利を確信したソールは、あまりに呆気ない決着に思わず吐息した。
「ざまぁねーな。偉そうな事をほざいておいて、結局この程度か」
フロムの協力あっての事とは言え、あまりに肩透かしな結果である。
こんな事ならもう少し手を抜いた方が良かったか? 何気なく考えていると、「いや、これでいいんだ」と、フロムが緊張を解いた表情で彼女に語り掛けた。
「今の敵は、1ターンキルで仕留めるのが正解なんだ。たまたまボクが先攻を取れたからこその結果だよ。もし一回でも彼にターンを渡していたら……そんな呑気な台詞は出て来なかったと思うよ」
「あぁ? さっきから聞いてりゃ随分と敵の肩を持つじゃねーか。てめー何かジジイにコンプレックスでもあんのか?」
不快を露わにしたソールが今にもフロムに掴み掛かりそうなのを、クロンは「まぁまぁ」と割って入る。
「何にしても、敵は倒したんだからいいじゃないッスか。次の新手が来る前に早く姫利お姉ちゃん達と合流しましょうよ」
「…そうだな」
不貞腐れた表情を浮かべ、ソールが鼻から息を吐いた時。ある異変にクロンは気付いた。
「あれ…? ドレッド・ルート、まだ消えてませんね」
何気なく呟くと、他の二人もまた場に君臨する《ドレッド・ルート》の姿を見上げた。
通常、決闘盤による立体映像はデュエルが終了すると同時に自然に消滅するようになっている。このデュエルが終わったのなら、邪神はとうに消えていなければならない筈なのだが――。
「まさか…!」
誰ともなく呟いて、三人は《ドレッド・ルート》の右腕の先に視線を向ける。
攻撃力8000の邪神の拳が何らかの力によって押し返されている事に気付いた彼らは、冷や水を浴びたような感覚の中で“正義”の声を聞いた。
「プロの世界では――、」
邪神の剛腕が
尻餅を突いた《ドレッド・ルート》は信じられないといった面持ちで我が手についた刀傷を見つめ、自らの攻撃を防いだ者の姿をクロン達と共に確認した。
それは、幼稚園児程の小さな体躯の侍だった。人型と呼ぶにはあまりにデフォルメされた二頭身に、ナイフと見紛う程の小さな刀が二振り。正義と同じように空中に浮かび、可愛らしい外見に似合わぬ鋭い眼光を邪神とクロン達に向けている。
「なっ…! なんだあの小っこいのは…!? あれが邪神の攻撃を防いだってのか!?」
ソールが声を荒げると、その侍は「如何にも」とばかりに頷いて、刀に付いた邪神の血を振り払う。あまりの出来事に理解が追い付かないでいると、再び正義の声が彼らの耳朶を叩いた。
「所謂プロ決闘者と呼ばれる者達の世界では…、1ターンキルは最も無様な勝ち方と言われておる。プロのデュエルとは互いに相手の力量を引き出し合い、切磋琢磨した上で見る者を魅力するもの。則ち芸を以て観客を湧かすが本道だ。1ターンキルで負ける事はあってはならぬ。勝つ事もあってはならぬ。それがプロの鉄則だ」
腕組みをしたまま、正義は語る。
気迫を含んだその声に、ソールが何か言い返そうとした時。一層鋭くなった気迫が空気を振動させ、ソールの言葉を強引に捻じ伏せた。
「1ターンキルなど、決闘者の恥だ――!」
鋭い気迫が拡散し、勝利に浮かれていたクロン達を震え上がらせる。邪神と比べても何ら劣らない威圧感を前に、浮かれていた気分は吹き飛んだ。
「な、何言ってんだこいつ…!? それにあの小っこいモンスターは何だ!? いつの間にあの野郎の場に出やがった!?」
「…あのモンスターは、『金城鉄壁
額に汗を滲ませながら、フロムがソールの疑問に答える。その表情には明らかな焦りが伺え、声も心無しか怯えているように聞こえた。
「…フロムお兄ちゃん?」
「おい! テメェもさっきから何なんだ!? こいつについて何か知ってんなら、さっさと言え!」
苛立ちが頂点に達したソールがフロムに食って掛かる。彼は乾いた笑みを漏らすと、
「…その昔、ある日本人プロ決闘者が行方知れずになる事件があった」
と、恐れを含んだ双眸をソールとクロンに向けた。
「その人物は世界で最も強い決闘者と呼ばれ、長年プロ決闘者達の頂点に君臨していたそうだよ。…その人物が何の前触れも無く姿を消したのが十年前。世界中の人間が捜索したにも関わらずその人物は見つからず、結局、伝説だけが残った…」
力なく語るその声に、今度はソールが既視感を抱いた。
昨日、クロン奪還について姫利達と話し合った際、同じような話が話題に上がった覚えがある。今の今まで忘れていた事を思い出した瞬間、ソールの脳裏にその時の会話が蘇った。
『――皆様は、戦国事件と言う言葉に聞き覚えはありませんか?』
『――今から十年くらい前……だったかな。その当時、世界最強と言われていた日本人プロ決闘者が、突然行方を眩ましたんだって』
『――部屋には争った形跡は無く、机の上には“すぐに戻る”という書き置きと、一枚のカードが残されていたとか』
『――そのカードは市販されているカードでは無く、触れた途端に真白なカードに変わってしまったと言う事です』
『――もしそうだったとしたら。戦国プロもクロン君と同じく異端の札を扱える人物で、同じような理由で行方知れずになったと考えられます』
はっきりと耳に聞こえた既視感が脳内で木魂し、ある一つの仮説が浮かび上がった時。ぞくりと背筋を凍らせたソールは、まるで亡霊でも見るかのように目を見開き、正義の姿を凝視した。
「まさか…!」
「そう…、ボクもまさかとは思った。けれどあの姿とモンスターを見る限り、もう間違いない…! ボク達が今戦っているのは、十年前に行方不明になった世界最強の決闘者――…戦国 殿方、その人だッ…!」
恐怖に掠れたフロムの声が、ただならぬ事実となって突き付けられる。一瞬目の前が真っ白になる感覚を覚えたソールは、「馬鹿な!」と声を荒げる事で辛うじて気持ちを踏み留めた。
「あの鎧武者が、十年前に消えたプロ決闘者だっつーのか!?」
「ああ…。十年前に何があって、どういう経緯でここに居るのはわからない。けど……あの人が戦国プロなのは、確かだよ」
「ちょ、ちょっと待って二人とも! いったい何の話をしてるんです!?」
「うるせぇ! テメーは黙ってろッ!」
ただ一人話についていけないクロンを黙らせ、ソールはデュエル中である事も忘れてその場で考え込む。
十年前に消えた決闘者。その場に残されていた異端の札らしきカード。戦国事件と呼ばれた失踪事件の背後に、もしリリオン達が絡んでいたとしたら――。
(クロンの奴は無事だった…。となりゃ当然、消えたプロ決闘者が生きててもおかしくねぇって事になる…! だが、まさか……俺様達が戦っている相手が…!?)
そんな偶然があり得るのか。思わずそう叫びたくなるのを、ぐっと堪える。
クロンが異端の札を発現してから今日までの出来事を思えば、その程度の偶然は些細なものに見える。むしろより大きなもの――…運命という不可視の歯車が噛み合ったようで、奇妙な納得すら感じられた。
そして。“戦国”という名が出た事で、正義の表情がぴくりと動いた。彼は腕組みを解くと、「ほう…」と意外そうにクロンら三人を見詰める。
「余の名を知っておるという事は……そなた達、余と同郷か」
さらりと事実を認めた正義は、顔を上げて「ふむぅ…」と唸る。
今この瞬間ではない、ずっと遠い過去に想いを馳せる鬼の面。どうやら間違いないらしいと遅れた実感を得たソールは、次の瞬間には持ち前の強気さを取り戻し、ターンを再会した。
「…プロ決闘者だろうが何だろうが、負ける訳にはいかねぇ! デュエル続行だ! 俺様はカードを一枚セットして、ターンエンドだ!」
攻撃こそ防がれたものの、《ドレッド・ルート》は未だ健在だ。例え相手がプロだとしても、その事実だけは変わらない。
ソールは手札から伏せカード――《魔宮の賄賂》を決闘盤に差し込むと、自らのターンを終了した。
「デビルズ・サンクチュアリ」 通常魔法
効果:①:自分フィールドに「メタルデビル・トークン」(悪魔族・闇・星1・攻/守0)1体を特殊召喚する。
このトークンは攻撃できず、このトークンの戦闘で発生するコントローラーへの戦闘ダメージは代わりに相手が受ける。
このトークンのコントローラーは自分スタンバイフェイズ毎に1000LPを払う。または、LPを払わずにこのトークンを破壊する。
「
効果:「簡易融合」は1ターンに1枚しか発動できない。
①:1000LPを払って発動できる。
レベル5以下の融合モンスター1体を融合召喚扱いとしてエクストラデッキから特殊召喚する。この効果で特殊召喚したモンスターは攻撃できず、エンドフェイズに破壊される。
「ナイトメアを駆る死霊」 融合モンスター
闇属性 アンデット族 ☆5
攻撃力800 守備力600
効果:「魂を削る死霊」+「ナイトメア・ホース」
このカードは戦闘によっては破壊されない。魔法・罠・効果モンスターの効果の対象になった時、このカードを破壊する。
このカードは相手フィールド上にモンスターが存在しても、相手プレイヤーに直接攻撃する事ができる。
直接攻撃に成功した場合、相手はランダムに手札を1枚捨てる。
「邪神ドレッド・ルート」 モンスター
闇属性 悪魔族 ☆10
攻撃力4000 守備力4000
効果:このカードは特殊召喚できない。自分フィールドのモンスター3体をリリースした場合のみ通常召喚できる。
①:このカードがモンスターゾーンに存在する限り、このカード以外のフィールドのモンスターの攻撃力・守備力は半分になる。
「巨大化」 装備魔法
効果:①:自分のLPが相手より少ない場合、装備モンスターの攻撃力は元々の攻撃力の倍になる。
自分のLPが相手より多い場合、装備モンスターの攻撃力は元々の攻撃力の半分になる。
『金城鉄壁
風属性 戦士族 ☆2
攻撃力500 守備力1300
効果:①:相手モンスターの直接攻撃宣言時に発動できる。その攻撃を無効にし、その後このカードを手札から特殊召喚する。
この効果で特殊召喚したこのカードはリリースできず、融合・S・X召喚の素材にもできない。
「魔宮の賄賂」 カウンター罠
効果:①:相手が魔法・罠カードを発動した時に発動できる。その発動を無効にし破壊する。
相手はデッキから1枚ドローする。
【邪神ドレッド・ルート】
攻撃力4000→8000
【金城鉄壁侍】
攻撃力500→250
守備力1300→650
【フロム/ソール/クロン】
LP:8000→7000
「余が異端の札を手に入れ、生まれ育った世界を離れて早十年。余の名など
何処か残念そうに呟きながら、正義は自らのターンを開始する。
今度こそフロムの妨害は無い。最強と謳われた決闘者の戦術が今、繰り広げられようとしていた。
「まあ良い。この十年で決闘者がどのように育ったか、そなた達を通して見極めるとしよう」
言いながら、正義は六枚となった手札から一枚を選び、決闘盤に叩き付ける。
現れたのは、《金城鉄壁侍》と同じような可愛らしい姿の侍。その小さな体に黒い鎧を着け、手には自身の背丈より長い槍を握っている。その攻撃力は1200ポイントと低く、その上《ドレッド・ルート》の効果によって半減。攻撃力8000の邪神に比べれば豆粒程のモンスターであった。
「へっ…。そんな見るからに弱っちいモンスターなんか出してどうしようってんだ。いくら数を並べようと、そんなんじゃ俺様のドレッド・ルートは倒せねーぜ!」
「ほう、それは困ったものだ…。
正義が呟くと同時、黒い鎧を着た侍は主の命令を待たずして《ドレッド・ルート》に攻撃を仕掛ける。自身の役割が何なのか、命じられるまでもなく理解しているようだった。
長槍を構えた侍が向かって来るのを確認した邪神は、拳を振り上げて殴りかかる。その剛腕が侍の小さな体を砕く直前、槍を地面に突き刺した侍は、棒高跳びの要領で邪神の腕を飛び越え、その頭部に肉薄した。
次の瞬間。きらりと何かが光ったかと思うと、小さな侍は腰に下げた刀を引き抜いて邪神の額を一突きに貫く。脳を狙われた《ドレッド・ルート》は巨体をぐらりと揺らし、その場に前のめりに倒れた。
「なッ…、何だとぉ!?」
「そなた、ちと勉強不足だな。一撃必殺侍が戦闘を行う時、二分の一の確率で相手モンスターを撃破する事を知らぬのか」
厳しい口調で正義が言うと、《ドレッド・ルート》を撃破した《一撃必殺侍》は刀を引き抜き、邪神の遺骸を蹴って地面に刺した長槍の傍に着地する。十倍以上の攻撃力を持つ相手を撃破したにも関わらず平然と正義の場に戻るその姿は、まさに歴戦の勇士そのものであった。
「さて、まずは邪神を打ち取った。次は金城鉄壁侍で直接攻撃を仕掛けるとしよう」
言うが早いか、今度は《金城鉄壁侍》が二本の刀を構えて突進する。二つの刃はソールの身を切り刻み、僅かであるが彼女のライフを減少させた。
「ふむ…、案外手薄なものだな。まあ良かろう。余はカードを一枚セットし、ターンエンドだ」
あっさりと攻撃が通った事を不満に思ってか、正義は何処か退屈そうに自らのターンを終了させる。
その鬼の面が、呆然と立ち尽くしているクロンに向けられた時。クロンは思わず肩を竦ませた。
「さて、三人目の幼子よ。そなたのターンだ。そなたの実力がどれほどのものか……余に見せてみるが良い」
厳しい、しかし何処か優しさを感じる声だった。
余裕に満ちたその声に圧倒的な格の違いを感じたクロンは、思わず「は、はい!」と叫んでいた。
「一撃必殺侍」 モンスター
風属性 戦士族 ☆4
攻撃力1200 守備力1200
効果:このカードが戦闘を行う場合、ダメージ計算の前にコイントスで裏表を当てる。
当たった場合、相手モンスターを効果によって破壊する。
【金城鉄壁侍】
攻撃力250→500
守備力650→1300
【一撃必殺侍】
攻撃力1200→600→1200
守備力1200→600→1200
【フロム/ソール/クロン】
LP:7000→6500
「ボ…、ボクのターン!」
緊張で声を震わせながら、クロンはデッキからカードを引き抜く。この頃には彼も正義の力量やソール達の会話の内容を理解し始めており、カードを持つ手にいつも以上に力が入っていた。
格上相手とのデュエルは慣れたものであったが、相手が元プロ決闘者となればやはり不安と緊張がどうしても付きまとう。既に雰囲気だけで気圧されている事を自覚しつつ、クロンはまず冷静に状況を見極める事にした。
まず第一に考えるべきは、攻撃力8000の《ドレッド・ルート》が《一撃必殺侍》によって倒された事実。《一撃必殺侍》の効果を考えれば撃破された事自体は別に驚くべき事では無いが、問題は、正義が迷う事なく《一撃必殺侍》で《ドレッド・ルート》を攻撃したという事実だ。
あの時の《一撃必殺侍》の攻撃力は600。破壊効果が発動したから良かったものの、効果が不発していた場合、正義は7400ポイントものダメージを受けていた事になる。
プロ決闘者と言えど、それ程のダメージを受けるのは致命的な筈。そんなリスクを承知で、平然と攻撃を宣言できたのは何故か?
(一撃必殺侍の効果の成功を確信していたか……もしくは、効果が不発になっても打つ手があったか…)
恐らく後者だろうと当たりをつけ、クロンは更に思考を張り巡らせる。考える事、それがいつも彼を支えて来た唯一の武器だった。
(金城鉄壁侍の攻撃力は500……一撃必殺侍は1200…。いくらボクのデッキの火力が低いって言っても、このくらいなら倒す事はできる。けど、問題は…)
石橋を叩くように考え抜き、クロンは正義の場に伏せられた一枚のカードに目を向ける。
攻撃力の低いモンスター二体の後ろにそっと置かれた、正体不明のカード。この一枚のカードが、クロンの動きを大きく封じていた。
(…ソールちゃん達の話を聞く限り、相手は世界で一番強い決闘者みたいだから……ボクが攻撃を仕掛けても、すんなり通るとは思えない。仮に攻撃が通ったとしても、それが相手の狙いって事も十分あり得る…)
冷静に、慎重に、臆病な程に。
額に脂汗を浮かべながら考えを巡らせたクロンは、やがて手札から三枚のカードを抜き取り、それらを正義から借り受けた決闘盤にセットした。
「ボクはカードを二枚伏せて、モンスターを裏守備表示でセット! ターンエンドです!」
「なっ…! 馬鹿っ、守ってどうする! あんな雑魚モンスター、蹴散らせばいいだろーが!」
考え抜いた末の最善の行動に、ソールが異議を唱える。しかし彼女の主張は「いや、これでいい」と即座に割って入ったフロムの声に却下された。
「戦国プロのデッキは、居合をモチーフにしたカウンター型だ…。考え無しに飛び込むのは危険すぎる。クロンの考えは悪くはないよ」
「…ふむ、慎重な事だな。余とて妖怪変化の類では無いのだが」
まあ良い、と小さく呟き、正義はクロンが警戒していた伏せカードを発動させる。
「罠カード、トゥルース・リインフォースを発動。余のデッキからレベル2以下の戦士族モンスターを一体特殊召喚する」
「あっ――!」
全身に悪寒が走った。
「カ、カウンター罠、魔宮の賄賂を発動! トゥルース・リインフォースの発動を無効にします!」
このカードを通すのは危険だと即座に判断したクロンは、反射的にソールが伏せたカードを独断で発動させる。
敵の力量がどれ程のものか確認できない今、厳しい条件があるとは言えデッキから任意のモンスターを特殊召喚する効果は災いでしかない。それ故貴重なカウンター罠を使って発動を食い止めようとしたのだが、それはあまりに甘い考えであった。
「手札よりカウンター罠、『抜刀術-「剣」』を発動。魔宮の賄賂の効果を無効にする」
即座に応じた正義が宣言すると同時、翻った《魔宮の賄賂》のカードが《金城鉄壁侍》によって両断される。
よもやカウンター罠を返されるとは思っていなかったクロンは、「えっ…!?」と叫んで目を丸くした。
「て、手札からカウンター罠…!?」
「如何にも。この抜刀術というカウンター罠は鏡、玉、剣の三種が存在し、一ターンにつき一度のみ手札から発動する事ができる。そしてこのカードは、余の場に侍モンスターが存在する場合、相手の罠カードを無効にする事が可能だ」
さて。――と言葉を続け、正義は決闘鎧からデッキを取り外して扇状に広げる。
《魔宮の賄賂》が無効になった事で、《トゥルース・リインフォース》の効果が問題なく発動したのだ。彼は扇状に広げたカードの中から一枚のカードを選ぶと、それをクロンら三人に提示して見せた。
「余が選択するのは、言語道断侍。攻撃表示で特殊召喚しよう」
正義がそのカードを決闘盤に叩き付けると、大太刀を抱えた小さな侍が彼の場に出現する。ライフポイントを払う事でそのターン中の魔法・罠カードの発動を封じる効果を持ったモンスター、《言語道断侍》である。
罠を多用するクロンにとっては天敵とも言えるカードの一つだが、召喚されてしまった以上はどうする事もできない。クロンは唇を噛みながらも、再度自身のターンの終了を告げる事しかできなかった。
「トゥルース・リインフォース」 通常罠
効果:デッキからレベル2以下の戦士族モンスター1体を特殊召喚する。
このカードを発動するターン、自分はバトルフェイズを行えない。
「言語道断侍」 モンスター
風属性 戦士族 ☆1
攻撃力200 守備力300
効果:800ライフポイント払う。
エンドフェイズまで全ての魔法・罠カードは発動する事ができない。
『抜刀術-「剣」』 カウンター罠
効果:このターン中に自分が「抜刀術」カードを発動していない場合、このカードは手札から発動する事ができる。
①:自分フィールドに「
その発動を無効にし破壊する。
「さて、余のターン…」
まるで鞘から刀を抜くかのように、ゆっくりとした動作でカードを引く正義。彼はドローしたカードを確認すると、即座に行動に移った。
「まずはライフを800ポイント払い、言語道断侍の効果を発動。このターン、全ての魔法・罠カードの発動を封じる」
大太刀を構えた《言語道断侍》が覇気を飛ばすと、正義とクロン、双方の決闘盤から状態異常を知らせるブザーが鳴る。
伏せカードの発動を封じられた事で、クロンの身を護るのはセットモンスターのみ。しかし正義は、その守りの要すら摘み取るように、次のカードを展開した。
「手札より、一刀両断侍を召喚する」
「うっ…!」
新たに召喚された小さな侍を見て、クロンは思わず顔を顰めた。
この《一刀両断侍》は攻撃力こそ低いものの、相手の裏守備モンスターを問答無用で破壊する効果を持つ。伏せカードを封じられた今、このカードの召喚はまさに青天の霹靂であった。
「そちらが攻めて来ぬのなら、こちらから参るとしようか…。一刀両断侍で、そなたの裏守備モンスターを攻撃する」
容赦なく発された攻撃命令を受け、細身の刀を構えた《一刀両断侍》が場を駆け抜ける。
その名の如くクロンのセットモンスター《スフィア・ボム》を一刀の下に両断した侍は、じろりとクロンら三人を睨むと、即座に正義の元へと戻っていく。攻撃力500の弱小モンスターとは思えぬ貫禄にクロンが身を震わせる間も無く、次の攻撃命令が彼を襲った。
「続いて言語道断侍、金城鉄壁侍、一撃必殺侍の順で直接攻撃を仕掛ける」
雪崩れ込むように突撃した三体の侍が、それぞれの武器でクロンを貫き、切り上げる。何れも攻撃力の低いモンスターばかりとは言え、畳み掛けるような攻撃は確実に彼のライフを削り取っていった。
「ぐ、ううぅ…!」
全ての攻撃が通り、クロンらのライフは早くも4600ポイントにまで低下する。対する正義のライフは、《言語道断侍》のコストで払った800ポイント分の変化があるのみ。
三対一……有利な状況の筈なのに。理解しきれない力量の差を目の当たりにし、クロンは思わず息を呑む。正義はそんな彼には見向きもせず、《一刀両断侍》が切り捨てたクロンのモンスターを確認していた。
「ふむ、裏守備モンスターはスフィア・ボムか…。成程な」
まるでクロンの戦術の全容を見透かしたかのように呟いて、正義はバトルフェイズを終了させる。
「カードを一枚伏せ、ターンエンド。…さて、パラクス使いの少年よ。次はそなたのターンだが、この状況をどう覆す? 言っておくが、余はまだ些かも手の内を晒してはおらぬぞ」
にやりと口元を吊り上げた正義が、次のターンプレイヤーであるフロムに視線を向ける。
プロ決闘者……これ程のものか。感嘆の声を上げながら、クロンは正義と彼の場に並ぶ四人の侍を見つめる。幼稚園児程の背丈しかない小さな侍達が、山の大きく見えた。
「一刀両断侍」 モンスター
風属性 戦士族 ☆2
攻撃力500 守備力800
効果:このカードが裏側守備表示のモンスターを攻撃した場合、ダメージ計算を行わず裏側守備表示のままそのモンスターを破壊する。
「スフィア・ボム 球体時限爆弾」 モンスター
闇属性 機械族 ☆4
攻撃力1400 守備力1400
効果:①:裏側守備表示のこのカードが相手モンスターに攻撃されたダメージ計算前に発動する。このカードを装備カード扱いとしてその攻撃モンスターに装備する。
②:このカードの効果でこのカードを装備した次の相手のスタンバイフェイズに発動する。装備モンスターを破壊し、その攻撃力分のダメージを相手に与える。
【正義】
LP:8000→7200
【フロム/ソール/クロン】
LP:6500→6300→5800→4600
冒頭の場面、本当はもっと濃厚な描写にしようと思ったのですが、あまりやり過ぎるとR18タグが必要になりそうかなーと思ったのでマイルドな表現にしましたです。
そんな訳で、次回は引き続きクロン、ソール、フロムvs正義になります。