「……相変わらず、だな」
士道がフラクシナスで烏丸のホログラムから驚愕の事実を知った日の翌日。士道は授業の合間の休み時間に机に突っ伏しながら、席に座って写真の専門書を見ている始を見てそう呟いた。昨日自分をボコボコにしておきながら、彼はまったく変わった様子を見せていない。感情を表に出さないと言えば聞こえは良いだろうが、彼の場合は人間そのものに興味を抱いていないと言った方が正確である。その証拠に、彼は今日授業が始まってから誰とも話をしていない。彼にとっては人間と話す時間は、無益な時間と等しいのだろう。
士道が始を観察していると、パン! と士道の背中が誰かに勢いよく叩かれた。士道が後ろを見てみると、そこには悪友である殿町がにやにやと笑みを浮かべていた。
「よぉ、何見てんだよ五河。女子を見ているだけならまだしも相川を見てるなんて、お前まさかマジで男好きなのか?」
「んなわけねぇだろ! ……ほら、相川っていつも一人でいるだろ? 友達とか、そういう奴いないのかなって思っただけだよ」
すると殿町は何故か手をひらひらと振りながら、
「あー、無理無理。俺も一年の時からあいつの噂を何回か聞いたけど、あいつが誰かと話している所を見た奴なんて一人もいないんだよ。冷たさなら、鳶一とタメを張れるって話題が出るぐらいだしな」
「そこまでなのか……」
士道が呟くと、殿町は何故か士道にさらに顔を近づけた。
「何だよ、気色悪いから離れろよ」
「(うるせっ。……それに、正直あいつと関わり合いたくないって奴らもいるんだよ)」
何故か小声で話す殿町の話に、士道は思わず眉をひそめて尋ねた。殿町の声に合わせてか、自然と士道の声も小さくなる。
「(関わり合いたくないって、何でだよ?)」
「(ありゃー確か去年の6月かそれぐらいの時か? 相川がモテるのに嫉妬した二年の先輩達が、相川に喧嘩を売りに行ったらしい)」
「(マジかよ!?)」
殿町のその言葉に、士道は思わず目を見開いて驚いてしまった。モテるのに嫉妬して喧嘩を売りに行くというのも信じられないし、平和だと思っていた自分の高校にそんなトラブルがあった事も信じられなかったからだ。殿町は肩をすくめながら、
「(ま、実際の理由はそれだけじゃなかったみたいだけどな。あくまで噂だけど、その先輩が惚れてる女子の先輩が相川に告ったんだが、あえなく撃沈したらしい。それでその人がかなり落ち込んじまったらしくて、それに怒った先輩があいつに嫉妬してた友達を連れて相川に喧嘩を売りに行ったらしい)」
「(な、なるほど……)」
喧嘩を売りに行くというのはあまり感心できない行動だが、落ち込んだ姿を見て始に喧嘩を売りに行ったという事は、その先輩はその女子生徒に強い好意を抱いていたのだろう。その愛情の強さだけは認めるべきかもしれない。……まぁ、誰も頼んでいないのに喧嘩を売りに行くというのは、見方を変えれば自己中心的な行動とも言えるが。琴里が聞いたら『自分に酔ってる反吐が出る行為』と切り捨てられそうである。
「(で、喧嘩の結果はどうなったんだよ?)」
「(そう慌てるなよ。先輩達としては、ただ相川を脅す程度だったらしい。実際、病院送りにしようとかそういう感じじゃなくて、ちょっと小突いてやろうってぐらいだったらしいしな。……だけど、相川には通じなかった。五、六人で囲んでもあいつはいつも通り平然としてたらしい。それに腹を立てた先輩が相川の肩を押して怒鳴ったら、先輩の鳩尾に相川の拳が飛んだんだとよ。それで周りの先輩達も相川に殴りかかったんだが、全員腹パンされて、地面に倒れてそれで終わりだったって話だ)」
「(……随分詳しいな)」
「(その時の現場をたまたま見てた奴がいてな。そいつが周りの奴らに広めたんだよ)」
ふーん、と士道は頷くが、ある事に気づいて殿町に尋ねる。
「(でも、相川は大丈夫なのか? 喧嘩を売られたとはいえ、暴力を振るったんだろ? それが先生達に伝わったら大変な事になるんじゃ……)」
すると殿町はやれやれと言うように首を振りながら、
「(生憎そうはいかなかった。ああ見えて相川は鳶一に次いで成績優秀な生徒だし、さっきの先輩との件だって理由はどうあれ言いがかりをつけてきたのはあっちだしな。あまり大きな騒ぎにはならなかったんだ。おまけに下級生にのされたなんて恥ずかしいって理由で、先輩達も事を荒立てなかったんだと)」
「(ふーん……)」
「(というわけで、あいつに関わろうとする奴はあまりいないってわけだ。……ま、女子の人気は相変わらず高いけどな。くそー! なんであんな不愛想な奴がモテて、俺はモテないんだよ!! やっぱり顔なのか!? 顔で男の価値が分かるわけがないだろうがー!!)」
ぐあーっ!! と突然雄たけびを上げた殿町を、クラスメイト達が奇異な目で見つめた。その姿を半目で見ながら、いやお前がモテないのは顔のせいだけじゃないと思うぞ……と士道は思った。
と、そんな時、士道の携帯電話にメールの着信が入った。士道が携帯電話を取り出して画面を見てみると、メールの送信相手は妹の琴里だった。着信ボックスを開いてメールを見てみると、こんな文が書かれていた。
『今日の夕食後、訓練を行うわよ。だから今日は早く帰ってくる事。言う事を聞かなければ、どうなるか分かってるわね?』
メールを読み終えてると、士道は思わずため息をついた。どうやら前から彼女が言っていた訓練とやらを行うらしいが、どんな事をするのかさっぱり分からない。ただあの妹と組織が考えている訓練と言われると、嫌な予感しかしないというのが今の士道の本音である。
携帯電話をしまい込みながら、士道はもう一度ため息をついた。
「……で、訓練ってのは何なんだ? 俺に一体何をやらせるつもりなんだよ」
士道が琴里から言われた通りに自宅に早く帰ってきてから数時間後。
夕食を終えた士道は、リビングのソファに腰かけた琴里に問いかけた。
今五河家のリビングにいるのは、士道の琴里の二人だけである。
「別に、何もしなくて良いわよ」
士道が問うと琴里は、チュッパチャップスを咥えながら唇を動かした。
「は……? どういう事だ? あれだけ訓練訓練言ってたのに」
「んー、正確に言うと、普段通りの生活を送る事が今回の課題……かしらね」
「あ?」
「基本的に士道の訓練は、身体能力を上げる事を目的としてBOARDの訓練とは違って、これから何人もの精霊とデートする事になった事を想定して女の子と緊張せずに話せるようになる事を目的としてるわけよ」
「………ああ、そう言えばそんな事言ってたな」
先月やらされたギャルゲー訓練とナンパ訓練の事を思い起こし、頬をぴくつかせる。ある意味、あれよりはBOARDの戦闘訓練の方が何倍もマシだった。
「今回は、女の子と同居というイベントを生かした実戦訓練なの。要は、突然女の子胸キュン展開になっても、落ち着いて紳士的に振る舞えるようになって欲しいわけよ」
「………はあ」
「だから士道は、十香との同居期間中、どんなムフフイベントが起こっても、焦らずとちらず対応してくれればそれで良いわ」
「な……っ、なんだそりゃ……」
士道は眉の間に盛大にしわを寄せて、呻いた。
しかしそこで、脳裏にある疑問が浮かんだ。
「……ていうか、そもそもなんで精霊を口説き落とさなきゃならないんだ? 精霊の力はキスで封印できるんだろ? なら不意を突いて……」
「あらなに、士道ったら無理やりがお好み? 朝刊に載らないように気を付けてよね。身内から犯罪者が出るなんて私嫌だから」
「載るか!」
士道が叫ぶと、琴里はやれやれと肩をすくめた。
「駄目よ。精霊が士道に心を開いていないと、完全には力が封印されないの」
「そ、そうなのか……?」
「ええ。そうね……アンデッドとの戦いをイメージしてもらえると分かりやすいかしら。アンデッドは強いダメージを負わせて、腰のバックルを開かせてからじゃないとラウズカードに封印できないでしょ? それと同じよ。精霊をの力を封印させるためには、士道に心を開かせないといけないの」
「なるほど……」
琴里の説明を聞いて士道はそう呟く。確かに自分のしているアンデッドの封印をイメージすると、精霊の力の封印の原理が理解しやすかった。まぁ、外見が化け物そのものであるアンデッドを精霊と重ねて考えるのはまだ見ぬ精霊達にかなり失礼なような気もしたが……。
「でも、心を開かせるって具体的にはどのぐらいなら良いんだよ。まさか、ベタ惚れさせろって言うんじゃないだろうな?」
「さすがにそこまではいかないけれど、少なくともキスを拒まれないくらいには信頼されてないと厳しいわね。だから令音が逐一精霊の機嫌や好感度をモニタリングしてるのよ」
「へぇ……」
しかし聞けば聞くほどわけの分からない能力である。もしも運命の神様とやらがこの世界にいるのなら、一体何を考えて自分にこんな力を授けたのだろうかと士道は思った。
「……ん?」
と、士道はそこで首を捻った。
琴里が、何やらぼそぼそと唇を動かし始めたのである。
「……そう、分かった。ん……じゃあ……」
よくよく見ると、琴里の右耳には小型のインカムが装着されていた。
「琴里? 誰と話してるんだ?」
「――――ああ、何でもないわ。気にしないで。……それより、士道」
そう言うと琴里はぴょん、とソファから立ち上がった。
「お手洗いに行きたいのだけれど」
「あ? 行けば良いだろ」
「さっき見た所、電球が切れていたのよ。先に交換してくれないかしら」
「……? ああ、別に良いけど……」
士道は琴里の様子を不審に思いながらも、棚の引き出しから予備の電球を一つ取り出して作業用の丸椅子を持ってトイレに向かう。そして、椅子を床に置いてから扉を開けた直後。
「………っ!?」
そのままの体勢でフリーズした。
しかし、それも当然だった。何故ならば……電球が切れているはずのトイレには、先客がいたのだから。
「な……っ、シドー!?」
十香が、パンツをひざ元まで下げた状態で、そこに座っていたのである。
「と、とととととととととと十香……!? なんでお前、こんなとこに……!」
士道は心臓が急激に鼓動を速めていくのを感じながら、そんな声を絞り出した。
おかしい、トイレの鍵は閉まっていなかったはずである。
おまけに、琴里が切れていると言っていた電球は煌々と天井で明るく光っていた。ついでに、扉のわきに設えられているスイッチはオフになっている。
こんなの、咄嗟に人が入っている事を見抜けという方が無茶である。
「こ、こっちの台詞だ! 早く閉めんか!」
頬をリンゴのように真っ赤にした十香が、部屋着の裾を片手で下に引っ張りながら、壁に設えられていたトイレットペーパーをむんずと掴み取り、力いっぱい士道の顔面に投げつけた。
「うおっ!?」
間一髪、士道は投げつけられたトイレットペーパーをかわすと、トイレのドアを全力で閉めた。今のトイレットペーパーをかわしたのは、BOARDで行った訓練で身に着けた反射神経のおかげだろうが、まさかアンデッドの戦いとは一切関係ない生活で役に立つとはさすがの士道も予想できなかった。
「な、なんだってんだ……」
士道が深呼吸をしながら呟くと、そこにタイミングよく琴里が現れた。
「情けないわね。焦らずとちらずって言ったばかりなのに」
「……琴里、お前の仕業か……」
妹の方を向きながら士道が言うと、琴里はキャンディの棒をピンと立てて何故か楽し気に唇の端を上げる。
……要は十香がトイレに入ったのを見計らって、士道に突撃させたのだろう。しかもご丁寧に、鍵と電灯のスイッチに細工までして。
「士道の様子は常にフラクシナスでモニタリングされているわ。そこでクルーとAIが、士道の対応の合否を逐一判定するの。――――今回はもちろん、駄目」
そう言って琴里は、背に隠していた物を士道に示した。
「あ……?」
それは小型のラジオだった。
琴里がそれの電源を入れて、周波数を合わせる。すると、
『――――この世界は欺瞞に満ちている。大人達は腐敗しきっている。俺達はそうなっちゃいけない。示せパワー。漲るワンダー。未来に向かう足を止めちゃいけない――――』
どこかで聞いた事のあるような詩が、淡々と朗読されていた。
そう。それは何を隠そう、士道が中学校の時分に書いたものである。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!?」
士道は喉が潰れんばかりに大声を上げると、琴里の手からラジオを引ったくってすぐさま電源を落とした。
「そんな事をしても無駄よ。だって、もう電波に乗っちゃってるんだから」
「なっ……!?」
士道は妹の言葉に、顔を真っ青に染めた。
「前回の発展型ペナルティよ。訓練だからって気楽にやられちゃ困るからね。ま、安心なさい。全部失敗でもしない限り、作者名を流すような事にはならないからね」
「それ全部失敗したら流すって言ってるようなもんだろうが!」
「だから、その前に慣れなさいって言ってるのよ。別にドキドキするなって言ってるわけじゃないの。どんなに緊張しようが、落ち着いた対応さえすればクリアにしてあげる」
「そ、そんな無茶な……っ」
ゲームならまだしも、こういったイベントに免疫のない士道にとっては難易度の高すぎる訓練だった。
「って、ていうか、十香の精神状態を不安定にしてもいけないんじゃねえのかよ……!?」
「ああ、それは大丈夫。感情の揺らぎにもいろいろと種類があるのよ。こういったイベントで、精霊の力が逆流する可能性は低いわ」
「で、でもだからって……」
士道が諦めずに反論しようとした時、背後から扉が開く音がした。
士道が音のした方向に目を向けてみると、十香がトイレのドアを少しだけ開けて、真っ赤な顔を半分くらい覗かせていた。
「と、十香……?」
つい今しがた、琴里のせいとはいえ覗きのような真似をしてしまった手前、顔を合わせづらい。士道は小さく視線を逸らしながら言った。
「す、すまん。わざとじゃなかったんだ。許してくれ……」
すると十香は、恥ずかしそうに頬を染めながら、廊下に描かれたトイレットペーパーによる紙の白線を指差した。
「……許してやるから……その、なんだ……か、紙を取ってくれ」
「あ……」
そう言えば、備蓄用のトイレットペーパーが切れていたような気がする。
士道は廊下に転がったトイレットペーパーを手に取ると、くるくるとロールし直して十香に手渡した。
こうして、士道の名誉と尊厳を懸けた、可愛い妹の悪意が混じった過酷な対精霊用の訓練が始まったのだった。
そして、時刻が十一時を回った頃。
「さ、散々な目に遭った……」
あの後、琴里の計略に嵌まって先に風呂に入浴した士道は、士道が入っているとは知らずに風呂場に突入してきた十香に見つかり、自分の裸を見られるのを恥ずかしがった彼女により風呂場に沈められ意識を失う事になった。
そしてどうにか意識を取り戻し、風呂から上がった士道は流し台に溜まった皿を洗って、明日のご飯を用意してからようやくふらふらと自分の部屋に戻る事ができた。
ちなみに良い子の十香と琴里は、すでに各々の部屋で眠りについている。
健全な高校生男子としてはまだまだ宵の口なのだが、今日は色々あったせいで疲れ方が尋常ではない。
さすがに今日はもう琴里もネタ切れだろうと思い、士道は部屋に入るなりベッドにダイブし、すぐに眠りに落ちて行った。
翌日。
「ん……うぅん……」
士道は小さな呻き声を発しながら、ベッドの上で軽く背筋を伸ばした。
目には窓から差し込む朝日が、耳には琴里のさえずりが入り込んでくる。
「ん……もう朝か」
あくびを一つこぼし、目をしばたたかせながら寝返りを打つ。
と、そんな時だった。
「あ……? 何だ……?」
頬に柔らかい物が触れた気がして、士道は小さく眉をひそめる。
それの正体を探るために、ふと頭の上の方に目線を向けてみた。
すると、そこには、
「ん……」
なんて、可愛らしい声を上げながら眠りについている十香の顔があった。
「………っ!」
士道は叫び出したい衝動を必死にこらえた。もしもここで叫んでしまえば間違いなく十香は目覚めてしまう。そうなったら自分は、容赦ない精霊の一撃を食らってしまうだろう。
士道は一瞬息を止めると、状況把握のために思考を巡らせた。
ちらと視界を巡らせる。目の前には当たり前だが十香が着ている薄手のフリース生地。そして天井には、士道の部屋の物とはタイプの違う電灯が見えた。
つまりここは、いつも使っている士道の部屋ではない。
部屋の内装から言って、普段あまり入る事のない二階奥の客間のようだった。
だが、自分がどうしてこんな所にいるかが分からない。昨日自分は疲れていたとはいえ、間違いなく自分の部屋に入って就寝したはずだ。それからは熟睡したため、トイレに行った帰りに間違えてこの部屋に入った記憶もない。疲れていたので記憶がおぼろげになっている可能性もないわけではないが、それでもいつもはあまり来ないこの部屋に入る可能性は低いだろう。
つまり、
(こ、琴里ぃいいいいいいいいいいいいっ!!)
自分の可愛い妹、琴里が夜中に何らかの手を回して、自分をこの部屋に運び込んだのだろう。すっかり油断していた自分の馬鹿さ加減を呪いながらも、士道はどうにかしてこの部屋から抜け出せないかを考える。
自分と十香は今は密着している状態ではあるが、不幸中の幸いと言うべきか十香が目覚める様子は見られない。気を付ければ、彼女が起きる事なくこの場から脱出する事は出来るだろう。
(よし、息をひそめてこっそりと抜け出せば何とかなる! 琴里、お兄ちゃんをあまり舐めるなよ!!)
そんな事を考えながら、士道が動き出そうとしたその時。
「ぅ……」
と、唐突に十香が小さな声を上げたので、士道は動きを止めた。まさか、起きたのか!? と士道が思った直後。
「シドー……どこだ……?」
と、悲しそうな声で十香が言った。その声に士道が思わず十香の顔を見つめると、彼女はまるで悪夢にうなされているかのように目元に涙を浮かべながら続ける。
「シドー……。ここはどこなのだ……。真っ暗で、何も見えん……。お前はどこにいるのだ……? 嫌だ、一人は嫌だ……。助けてくれ、シドー……。私を、一人にしないでくれ……!」
「十香……」
彼女の名前を呟いてから、士道は前に令音が十香について言っていた事を思い出す。
彼女はこの前センチピードアンデッドに襲われて死の恐怖と、士道という大切な存在と二度と会えなくなるかもしれないという恐怖を味わった。それが原因で十香のストレス値はアンデッドに襲われる前よりも蓄積が激しくなってしまい、士道と離れている時の精神状態も非常に悪いのだと。
自分の目の前でそんな様子は見せなかったために士道は気づかなかったが、令音によると自分に心配をかけさせないためにあえてその感情を感情を隠しているのだろうとの事だった。その言葉は今、目の前の彼女の姿で証明されたも同然だった。今の十香の心には、まだ死の恐怖と士道と離れ離れになる恐怖が刻み付けられているままなのだ。
いつも天真爛漫な十香がそんな表情を浮かべているのは士道としても嫌だったので、どうにかしてその不安を払拭できないか考えた結果、ある方法が頭に思い浮かんだ。
(寝ている最中にこんな事をするのはあれだけど……やってみるしかない)
ここで彼女が起きて殴られる可能性も覚悟して、士道は十香の両腕の下から腕を入れて彼女の体を静かに抱きしめた。それから小さな声で、彼女にゆっくりと語り掛ける。
「十香、大丈夫だ。俺はどこにも行かない。俺は十香のそばにいるよ」
そう言ってしばらく、十香の体を抱きしめる。彼女の体からは熱とほのかにシャンプーの匂い、さらに自分の胸の辺りには彼女の胸の感触が伝わってきていた。
いつもの士道ならばそれに赤面しているかもしれないが、今の士道には十香の状態の方が心配だったので、動揺も無かった。やがて十香の呻き声が聞こえなくなったので彼女の顔に目を向けてみると、目元に涙が残っていたものの、その顔には確かに柔らかい笑みが浮かんでいた。どうやら自分の覚悟を決めた抱擁は、十香の心を癒す事に成功したらしい。
それから士道は彼女が起きないようにゆっくりと離れると、ベッドから降りてそっと部屋から出て行った。その直後、士道の耳にこんな電子音声が聞こえてきた。
『ゲームクリアー!』
それと同時に、テレッテレッテレッテレー!! という効果音らしきものまで聞こえる。その方向に士道が視線を向けてみると、画面に『GAME CLEAR!』という表示が映し出されたタブレット端末を手にした令音とチュッパチャップスを口にした琴里が立っていた。
「……やっぱりお前の仕業かよ、琴里」
「あら、何の事かしら。士道が溢れ出る思春期の青い
士道本人を目の前にしてそんな事をいけしゃあしゃあと言うのだから、もはや呆れるのを通り越して感心すら覚えてしまう。それに士道がため息を吐くと、琴里はどこか柔らかい口調で言う。
「でも、不測の事態にも慌てずに対応したのは誉めてあげるわ。良かったわね? これで失敗したら、士道の詩をインターネットラジオで本格的に配信を開始してたから」
「………お前なぁ」
普通ならばこの時点で声を荒げても良いのかもしれないが、悲しい事に士道はもうこういった事にはすっかり慣れてしまった。それにもう過ぎた事なので、怒る必要も無いだろう。
士道はくしゃくしゃと髪を掻くと、琴里に告げた。
「まぁ良いや。俺下で朝飯作るからさ、もう少し時間が経ったら十香を起こしてやってくれ」
「ええ、分かったわ」
そう言って士道が二人の脇を通り過ぎた時、それまで黙っていた令音が士道に言った。
「……機嫌が良さそうだね、シン」
「え? そうですか?」
「ああ。自分では気が付いていないかもしれないが……。今の君は、笑っているよ」
その言葉に士道は自分の顔に手を当ててみるが、やはり自分ではどういう顔をしているかいまいち分からない。
ただ、令音がそういうからにはきっと笑っているのだろうと士道は思った。
そして、それから三十分後。トーストに目玉焼きに加えて、多めに皿に盛りつけられた肉汁滴るウインナーにポテトサラダといういつもよりも豪勢な朝ごはんに、悪夢から一転して幸せな夢を見ていた十香は目を輝かせるのだった。
「よっ、殿町」
「おう、五河か」
互いにそんな挨拶をかわしながら士道が席に着くと、殿町は何やら漫画雑誌巻末のグラビアページを深刻そうに眺めながらこんな事を言った。
「っと、そうだ。なぁ五河。ちょっとお前に聞いておきたい事があるんだが……」
「何だよ?」
士道が問い返すと、殿町はいつになく真剣な様子で言葉を続けてきた。
「ナースと巫女とメイド……どれが良いと思う?」
「……は?」
予想外の言葉に、思わず士道の返事が間の抜けたものになる。
「読者投票で次号のグラビアのコスチュームが決まるんだが……悩むんだよなぁ」
「……ああ、そう」
士道がため息交じりに返すも、殿町はまるで気にしない様子で雑誌を突きつけてきた。
「で、お前はどれが良いと思う!?」
「ええと……じゃあ……メイド……?」
異様な希薄に気圧された士道が言った瞬間、殿町がピクリと眉を動かした。
「ど、どうした?」
「まさかお前がメイド好きだったとはな! 悪いが俺達の友情はここまでだ!」
「お前は一体何を言っているんだ」
まったく意味の分からない殿町の狂言に士道は呆れ気味にそう返すと、自分の席に歩いていき鞄を机に置く。
その際、すでに隣の席に着いて分厚い技術書を読んでいた折紙が、ちらと士道に目を向けてきた。
「………」
「お、おう……折紙、おはよう」
「おはよう」
折紙は抑揚のない声でそう返すと、小さく首を傾げてきた。
「メイド?」
どうやらさっきのやり取りを聞かれていたらしい。このままでは自分の性癖を誤解されそうなので、士道は否定するように慌てて手を横に振った。
「………っ、い、いや、気にしないでくれ」
「そう」
折紙はそれだけ言うと、再び書面に視線を戻した。
「おはよー」
と、次いで殿町が折紙に向かって手を振るが、彼女はピクリとも顔を動かさなかった。
殿町は大仰に肩をすくめると、士道の脇腹をぐりぐりとわりと強めに押してくる。
「毎度の事だけど、なーんでお前だけ挨拶返してもらえんだよー。ってか、いつの間に鳶一の事名前で呼ぶようになったんだよ! 吐けこの野郎!」
「や、やめろよ、ったく……」
鬱陶し気に殿町を振り払って席に着くと、教室の扉が開かれ一人の男子生徒が入ってきた。
その男子生徒……相川始は誰とも挨拶をする事無く自分の席へと向かって行く。そんな始に、士道は手を上げて挨拶をした。
「よ、よぉ相川」
「………」
しかし始はその挨拶に返事を返す事はせず、一度かすかに士道を一瞥してから、視線を士道から外して自分の席へと向かった。席に座って鞄を机に置く始を眺めながら、殿町が言った。
「あいつはいつも通りだな」
「みたいだな……」
そんな事を二人で言っていると、再び教室の扉がガラッと開かれた。入ってきたのは、十香だった。
無論十香は現在五河家に住んでいるわけだから通学路も全く同じわけなのだが、一緒に登校すると色々と勘繰られそうだっため家を出る時間をずらしたのだ。
ただでさえ十香が転入時に発してくれた衝撃的なセリフが未だに尾を引いているのである。七十五日も経たない内に新たな燃料を投下されるわけにはいかなかった。十香は士道を見つけるなり、目を輝かせて士道の席に駆け寄ってきた。
「おはようなのだ、シドー!」
「あ、ああ。おはよう、十香」
笑顔で挨拶をしてくる十香に、士道も挨拶を返す。
本当ならば五河家にいる時に一度このやり取りはしているのだが、十香が五河家にいる事を隠すために二人は教室でこのやり取りをもう一度するという事を学校に来る前に話し合っていた。これならば、仲良しの男女が教室で朝の挨拶を交わしていると見られるはずである。
だが、次に放たれた十香の言葉に教室の空気は一変した。
「そうだ! シドー、今日の昼餉は何なのだ!? シドーが昼餉を作っている所はよく見ていなかったから分からないのだが、私としては今日の朝餉に出てきたポテトサラダがまた食べたいぞ! あれはまさに絶品だったからな!」
その言葉に、教室にいた始を除くクラスメイト達の視線が二人に集中した。視線を感じて、士道の額から冷や汗が流れる。
だがクラスメイト達の疑問も当然である。あくまで士道のクラスメイトに過ぎないはずの十香が、何故士道に朝食に出てきたポテトサラダがまた食べたいなどと言うのだろうか。これではまるで、士道と十香が一緒の家に住んでいるようである。
「と、十香。その話にまた後にしないか……?」
「ぬ? 何故だ?」
十香が首を傾げながら士道の方を向いて、ようやく皆の視線に気づいたらしかった。
「……っ」
昨日の内に、士道と十香の同居は皆には絶対に秘密、と言い含められていた事を思い出したらしい。十香がハッと息を呑み、頬に汗を垂らした。
「ち、違うぞ皆。私とシドーは、一緒に住んでなどいないぞ!?」
『………っ!?』
十香の言葉に、周囲のクラスメイト達が一斉に眉を寄せた。
「ば、馬鹿……」
士道は口の中で小さく呟くと、頭をフル回転させて架空の話を即座に作り出し、わざと大仰に声を上げてその話をクラス中に聞こえるように言った。
「あ、ああ! そう言えば十香の親は今二人共仕事で出張してるんだったなぁ! それで折角だし、朝食とついでに昼の弁当を十香に作ってあげてるんだった! 大丈夫だ十香! 今日の弁当にもポテトサラダはちゃんと入ってるぞ!」
「む………? う、うむ! そうなのか! ならば問題ないぞ!」
十香も士道の意図を察したのだろうか、苦しいながらも話を合わせてくる。
士道の話し方がどことなく説明口調の上に、結構無理やりな話ではあったものの、そもそもクラスの男女が同棲するという事自体が現実味のない話だったためか、クラスメイト達は案外あっさりと納得して散らばっていった。
が、それでも士道の左側から一名、背中が凍傷になってしまいそうな視線を浴びせて来る女子生徒はいたのだけれども。
「………」
なんだか、すぐにボロが出そうな気がする。そう思いながら、士道は深くため息をついた。
そして、その懸念は意外と早く的中してしまう事になる。
四限目の状業の終了のチャイムが校舎中に鳴り響き、昼休みの開始が示される。
それと同時に、
「シドー! 昼餉だ!」
「………」
士道の机に右左からがっしゃーん! と机が勢いよくドッキングされた。
無論、右は十香、左は折紙である。
「………ぬ、なんだ貴様。邪魔だぞ。……
「それはこちらの台詞」
士道を挟んで、左右から鋭い視線が放たれる。
「ま、まあ落ち着けって。みんなで食えば良いだろ?」
士道が言うと、渋々と言った様子で十香と折紙は大人しく席に着いた。そして二人共、自分の鞄から弁当箱を取り出す。士道もそれに倣うように弁当を机の上に出すと、二人と一緒に蓋を開けた。そして十香の弁当箱の中身を見て、折紙が目を少しだけ見開く。何故なら、十香の弁当箱の中身が士道の弁当箱の中身とまったく同じメニューだったからだ。
とは言っても、中身がまったく同じ理由はついさっき士道が咄嗟に口走った嘘のおかげで一応の辻褄はあっているはずだ。彼女がここまで反応する理由が分からない。
「ぬ、な、何だ? そんな目で見てもやらんぞ?」
ことの重大さに気づいていないのか、十香が自分の手元を覗き込んでくる折紙に、怪訝そうな眼差しを向ける。
「どういう、事?」
「いや、さっき言っただろ? 今十香の両親が出張だから……」
「嘘」
ウェイ!? と士道が心の中で絶叫すると、折紙は裏返っていた十香の弁当箱の蓋を持ち上げた。
「これは今から百五十四日前、あなたが駅前のディスカウントショップにて千五百八十円でそっちの弁当箱と一緒に購入した物。それからあまり使用されていないけれど、これは紛れもなくあなたの家にある物。あなたがもし夜刀神十香の家で弁当を作ったのなら、この箱が彼女の家にあるはずがない」
「な、なんでそんな事知って……」
「それは今重要ではない」
彼女は言葉通りあまり重要ではないように言うが、言うまでもなくかなり重要な問題である。しかし折紙の有無を言わせぬ調子に気圧され、士道は言葉を差し止められてしまう。
「むう、さっきから二人で何を話しているのだ! 仲間外れにするな!」
横から、不満げに頬を膨らませた十香が声を上げて来る。
そ、そんな時だった。
ウウウウウゥゥゥゥゥ――――、というけたたましい警報が街中に鳴り響いた。
瞬間、ざわついていた昼休みの教室が、水を打ったように静まり返る。
空間震警報。
およそ三十年前より人類を脅かす、最悪の災厄。空間震と称される、災害の予兆である。
「………」
折紙は一瞬逡巡のようなものをみせながらも、即座に席を立って素早い動きで教室を出て行った。
「………ッ」
士道は複雑な心境でその背を目で追うしかできなかった。……まぁ、不謹慎ながらも少しだけ、このタイミングで警報が鳴ってくれた助かったと思わなくもなかったのだが。
と、そこで教室の入り口から、ぼうっとした様子の声が響いてきた。
「……皆、警報だ。すぐ地下シェルターに避難してくれ」
白衣を纏った眼鏡の物理教師、令音が廊下の方に指を向ける。
生徒達はごくりと唾液を飲み干した後、次々に廊下へと出て行った。
「ぬ? シドー、一体皆どこへ行くのだ?」
十香がそんなクラスメート達の様子を見て首を傾げてくる。
「あ、ああ。シェルターだよ。学校の地下にあるんだ」
「シェルター?」
「ああ。とりあえず説明は後だ。俺達も行くぞ、十香」
「ぬ、ぬう」
十香は手を付けていない弁当に名残惜しそうな視線を残しながらも、士道の詩時に従って立ち上がった。
そして、ともにクラスメート達のあとについて廊下に出ようとした所で。
「……シン。君はこっちだ」
士道は令音に首根っこを引っ掴まれた。
「れ、令音さん? こっちって……」
「……決まっているだろう、フラクシナスだ」
士道が問うと、他の生徒に聞こえないよう声をひそめながら令音が言った。
「……今後の事については、まだ結論は出ていないかもしれない。だが……いや、だからこそ、君には見ておいて欲しい。精霊と、それを取り巻く状況を」
士道は乾いたのどを唾液で湿らせると、小さく拳を握った。
「……分かりました。行きます」
令音は眠たげな半眼のまま小さく首肯すると、生徒達が全員列に並ぶのを見てから、昇降口の方に顔を向けた。
「……さぁ、急ごう。空間震まで、もう間もない」
「は、はい。と……あ、令音さん。十香は、一緒に連れて行かなくて良いんですか?」
ちらりと十香の方に目をやりながら、そう尋ねる。
十香はと言えば、廊下にずらりと列を作りながら避難するクラスメート達に驚いたような視線を送っていた。
「……ああ、その事か。――――うむ、十香は皆と一緒にシェルターに避難させてしまおう」
「え? それで良いんですか?」
「……ああ、力を封印された状態の十香は人間とそう変わらない。それに、精霊とASTの戦いを見て、自分の時の事を思い出されても困ってしまう。言っただろう? ラタトスクとしては、できるだけ十香のストレスを蓄積させたくないんだ。もしも今回またアンデッドが出現したら、十香に悪い影響がでるかもしれないしね」
「………っ」
確かに、令音の言う通りだった。ただの人間と変わらない十香を連れて行けば何が起こるか分からないし、それに今回も前回と同じようにアンデッドが出ないという保障もない。心配ではあるが、ここは十香にはシェルターに行ってもらった方が良いのかもしれない。
そんな事を考えていると、廊下の奥の方から甲高い声が響いてきた。
「ほ、ほらっ、五河君に夜刀神さん、それに村雨先生まで! そっ、そこで立ち止まらないでください! 早く非難しないと危険が危ないですよ!」
士道の担任である岡峰珠恵教諭・通称タマちゃんが小さな肩をいからせながら、焦ったような調子で言ってくる。そのためか、少し言葉の意味が支離滅裂の状態になっていた。
「……ん、捕まっても面倒だ。行こうか」
令音がちらと目配せし、昇降口の方に足を向ける。
まだ少々気がかりではあるが、仕方ない。士道は小さく唸って髪の毛をくしゃくしゃと掻くと、十香の手を取ってその手をタマちゃん教諭に預けた。
「先生、十香をよろしくお願いします!」
「ふぇ? え? あ、は、はい。それはもちろん」
急に十香を託されたタマちゃんは、呆気に取られたように目を丸くしながら、「わ、私先生ですもの!」と頷いた。
「シドー……?」
十香が、少し不安そうに眉を歪めてくる。
「十香。良いか? 先生と一緒にシェルターに避難しててくれ」
「シドーは、シドーはどうするのだ?」
「悪い、俺はちょっと大事な用があるんだ。先に行っててくれ。な?」
「あ、し、シドー!」
「五河君に、村雨先生まで!? 一体どこへ!?」
心配そうな二人の声を背に聞きながら、士道と令音は校舎の外へと走って行った。
一方、もう一人のライダーである相川始は列の後ろの方に並びながら他の生徒達と一緒に地下シェルターへと向かっていた。空間震警報が出たという事は精霊が出現したという事だが、はっきり言って自分には何の関係もない。唯一の懸念である天音と遥香はもうとっくに地下シェルターへと向かっているだろう。自分が戦う必要はどこにも無い。
そう考えていた、その時だった。
『人間になりすましたつもりかカリス。いつからお前はそこまで堕落した』
「っ!?」
突然頭の中に男の声が響き渡り、始は思わず目を見開く。それから周囲に警戒をするが、怪しげな人物の姿はどこにも見えない。ただ突然の始の行動に驚いたのか、列に並んだ生徒達が始に目を丸くしている。
『話をしよう。俺の所に来い、カリス』
その言葉の直後、街のある方向から強い気配が発せられた。これほどの強い気配ならば、殺気や敵意に敏感な人間ならばすぐに気が付くかもしれないが、生憎ここにいるのはそういったものとは無縁の生徒達だ。おまけにその気配はご丁寧にも始だけが気づけるように彼自身にのみ向けられている。恐らく自分が学校にいる事を前から知っていたのだろう。そうでなければ、こんなピンポイントで自分の位置を知らせるような事は出来ない。
(……目的は分からないが、ここで叩き潰した方が良いか)
こんな真似をただの人間ができるはずない。十中八九、アンデッドだろう。それも今までのアンデッド達とは一線を画す実力を持つアンデッドだ。このまま放っておくと、厄介な事になる確率が高い。
始は素早く列から飛び出すと、驚く生徒達を横目にして昇降口へと走るのだった。