Green travelers ~ The another seed ~ 作:VSBR
明かりの落とされた部屋。カーテンの隙間から差し込む青白い月明かりが、夜になっている事を教える。その微かな光に浮かび上がる室内は、空調の音だけが静かに満ちていた。夜目が利く身ではあっても、部屋には僅かな家具以外には何も見えない。
だから一層、自分の隣の温もりを強く感じてしまう。フィジェは空いている右手を伸ばして、枕元の時計を掴んだ。疲れて眠るリリトを起こさぬよう、そっと毛布を引き上げる。
時計を枕元に戻すと、何かが手に触れた。モスグリーンとネイビーに色分けされたビニールでコーティングされたアルミフィルム。封がされたままの避妊具を投げ捨てると、フィジェはリリトを見る。
「何も聞かない・・・から」
それでリリトは泣き止むのだろうか。隣で微かな寝息を立てる彼女は、何もしない事を望んでいるのだろうか。そうだとすれば、何かをしてあげたいと望む少年にとって、それは少し残酷な事だ。
崩落する岩を受け止め、強い慣性重力に耐え、あのフリーダムと互角に渡り合う。それは彼女が、何者かである事を示しているのではないだろうか。彼女はその事を厭い、その事を隠している。
それらの一切を聞かないという事は、それらの一切に対して何も出来ないということだ。それで果たして、何もなかったように過ごせるのだろうか。明日、朝日の下で眼を覚ました彼女に、どんな言葉を掛けられるというのだろうか。
リリトは、フィジェの腕に抱きつくように体を丸めている。呼吸に合わせてその胸が上下するのが分かる。服越しのその暖かな柔らかさに、喜びより早く罪悪感を覚える。白く滑らかなきめの肌を流れるブロンド、何も塗っていないのに鮮やかな桃色を見せる唇。愛しさより先に哀しさを感じる。
「・・・リリト」
それでも、彼女はここにいる。誰の隣でもなく、自分の隣にいる。
例え彼女にとって不本意な選択だったとしても、選ばれた者として成すべき事はあるはずだ。何も出来ないのであれば、何も出来ない者として成すべき事はあるはずだ。彼女が望む事を成し、彼女が望まない事を成さない。
・・・それで彼女は救われるのだろうか。
フィジェの目が閉じられる。おずおずと、彼女の手に触れる。きっと、触れ方を間違えば、彼女は壊れてしまう。それでも今、彼女に触れることが出来るのは自分だけだ。それだけは間違いないと思いたかった。
それは、愚かな妄想なのだろうか。その考えが頭を巡りだす前に、眠ってしまいたかった。少しだけ首を傾け、彼女の髪に顔を近づける。そのほのかな匂いに誘われて、眠りに落ちてしまいたかった。
北極海に氷が戻ってきたのは、コズミック・イラに入ってからであった。旧世紀には、急速に進行した温暖化によって北極海は文字通りの海となり、海底資源の採掘競争が行われていたくらいだ。
しかし温暖化の終息に伴い、北極海は再び氷の平原に戻った。地球全体の気温が低下傾向にある現在、北極海の氷の面積は観測史上最大を更新している。スヴァルバル諸島も、未だに周囲を氷で覆われていた。
「今年は北大西洋海流の流れ込みが弱いようでして」
いつもならもう少し楽なのだがと言いながら、砕氷船の船長が通信モニター越しにぼやく。海を覆っていた氷の板が割られ、その割れ目を押し上げるように一隻の艦が浮上してくる。潜水艦とは全く異なるフォルムのそれは、雪と同様の白い装甲を煌かせていた。
そのまま深く切れ込んだ湾の奥に艦は進んでいく。やがて正面に断崖をくりぬいたような巨大な構造物が現れ、艦がその中に吸いこまれた。洋上艦艇ではなく、大型の宇宙艦を収容できる施設である。スカンジナビア王国でも、王族をはじめとするごく一部のものにしかその存在を知られていない施設の一つであった。
施設の最深部にあるドックに固定された艦に、さっそく人が取り付く。先日までアフリカにいたこの艦は、ビクトリア湖の南岸付近から弾道コースで大西洋まで出て、そこから潜水して北極圏のここに到着したのだ。
「さすがはアークエンジェル」
施設の責任者が、クルーへのねぎらいと共にそう言う。レクイエム戦役が始まる直前、オーブの支援を失ったアークエンジェルを隠匿した時の責任者であった。もちろんクルーに面識はないが、その万能戦艦の事は良く知っていた。
レプリカに過ぎませんという艦長の謙遜を豪快に笑い飛ばす。本物同様の活躍を見せていた事は、広く知られている。状況の説明を行いながら、施設内にクルーを導いた。
スカンジナビア王国は現在、政治的な混迷が現実の混乱に変わる瀬戸際にあった。その決定的な要因は背後にいたターミナルの弱体化であるが、間接的な要因はユーラシアの方針転換である。
ブルーコスモスの排除に成功したユーラシアは、プラントとの緊張緩和とともにスカンジナビアとも関係改善を模索していた。しかしユーラシアは、経済規模の差や地理的要因から、スカンジナビアの仮想敵国であり続けている。その捩れが、スカンジナビアの国内政治にも影響を与えていた。加えてスカンジナビアが大半の国境を接するユーラシアの中部での、ブルーコスモスの再活動である。
「ユーラシアは、ブルーコスモスに対する共同軍事作戦を内々に提示してきたのですが・・・」
中立派と呼ばれるグループは、それがユーラシアの罠であると疑っている。ユーラシア国内の問題はユーラシアが処理すべきという筋論と、ユーラシア国内での軍事行動はスカンジナビアの中立政策に反するという原則論を掲げているが、共同作戦を利用した軍事的圧力の可能性が高いと読んでいる。
アークエンジェルはそのための保険であった。スカンジナビアの独立と中立を維持するための盾として役割を期待されている。施設の責任者は、はっきりとは言わないまでもそれを示唆していた。
「ユーラシアの領土的野心だけではない、連合は各地の紛争に介入し武力による国家主権の侵害を目論んでいる。それは世界を連合の色に塗り潰そうという野心だ。オーブの二の舞を演じるわけにはいかない」
責任者はそう言って、クルーと握手交わしていく。最後に手を握ったのは、フリーダムのパイロットだった。揺らぎのないその紫の瞳は、良く似ていた。
ビクトリアにあるプラントの領事館には、カーペンタリア経由のザフト専用回線が設置されていた。わざわざそこに呼び出されたのは、その命令が連合軍緊急即応部隊の命令ではなく、ザフトからの命令だからだ。通信専用モニターに映るのはアカデミー事務局長のサーシャ・ローレンツだったが、その制服はザフトのものだ。
盗聴器の設置が出来ないように、壁に埋め込まれたモニター以外には椅子さえ置いていない。それでも、日に三度の盗聴器探索が行われている部屋は、壁も床も天井も複数の防音層と微小な振動を発生させる層によって囲われ、壁の振動すら外に漏らさないように設計されている。
殺風景な部屋にたった一つの扉には、駐在武官が鋭い目を光らせていた。これから伝えられる命令は、それだけ重要な命令だという事だろう。
タルハが不安げに質問をする。
「スカンジナビア皇太子の護衛という事ですが、我々はそのための訓練は必修一単位分しか受けていません」
「ネスタ少尉は選択でもう一単位持っている・・・まぁ、それはいいとして。君達に取り立てての役割はない。これまで通り、トレランシア側の指示に従うように」
ザフトとしては、連合やユーラシアの気を損ねることなく、スカンジナビアへの義理を立てねばならない。スカンジナビアの皇太子を本国まで送る責任は、一義的には連合にある。その面子を潰さずに、スカンジナビアからの「ザフトによる護衛」という要請を満たすためのレトリックとして、彼らにザフトとしての命令を下したのだ。
サーシャは心底申し訳なく思う。思えばカオシュン以来、彼らはずっと貧乏くじを引かされ続けてきたのだ。こんな殺風景な部屋に呼び出された挙句に、どうでもいい命令を聞かされ、特に何もしないで良いと指示される。
労いの言葉でも掛けたいと思うが、それ以上に気になるのは彼らの様子であった。
タルハとユンディはともかくとして、あとの四人は全くこちらの話を聞いていないであろう。視線をぶつけ、逸らし、睨み、いなし、不意に目を閉じたかと思えば、急に上を仰ぐ。
「・・・ともかく、健闘を祈ります。こんな作戦で死なないよう、互いに助け合うように」
どこか歯切れの悪い様子で切られた通信に、ユンディは小さく息をついた。重い音とともに扉が開かれ、駐在武官が部屋から出るように促す。ユンディとタルハは、四人を追い立てるように部屋を出る。
視線のやり取り以外は何も言わない四人に、二人は揃ってため息をついた。話の切り出し方も分からないので何も言わないが、例え切り出したところで答える者はいないだろう。
今朝イェレとカシアは、フィジェの部屋から出てくるリリトとフィジェに出くわしてしまったのだ。
雲が低く垂れ込めた空模様の日は、放射冷却が抑えられるため冷え込みが緩む。寒さの厳しい冬は、むしろ曇り空の方が良い天気だった。だが今、空を覆う雲は、吹雪をもたらしそうな色の具合であった。
東のラドガ湖から西の港まで、街並みを含めて白い色で覆われている。海も湖も氷で覆われ、街はすっぽりと雪を被っている。今年は一段と寒さが厳しい。国全体がエネルギー不足を抱えているため、市民の一部には二ヶ月も前から避難勧告が出されていた。サンクトペテルブルグは、廃墟のような静けさである。
その静けさを破るのは、吹雪の奥から幽鬼のように現れるMSだけであった。特殊な樹脂製の防寒コートを装備しスキーを履いた、ストライクダガー寒冷地仕様。帰還したMSは地下格納庫に姿を消していく。
「遭難者は出したくないな・・・敵さんも動かんだろ」
司令官が、真っ白になっているモニターを見つめながらつぶやいた。レーダーも通信も阻害され、視界が一メートル以下になるような吹雪である。MSに乗っていても遭難する。生身より生還率は高いが、あくまで比較の話である。推進剤と充電を行えば動き出すMSの中で凍死したという話は、珍しくないのだ。
温かくない紅茶では十分に砂糖が溶けない。せめてポットの電気くらいまともに使わせてもらいたいと思いながら、司令官はカップを傾ける。
エイプリルフール・クライシス以降、ユーラシア連邦の北部は人が住むには困難な地域となった。極東や北極海海底の油田・ガス田はまだ健在であったが、それでも十分な供給量には及ばず、絶えずエネルギーの使用制限がかけられている。その上、旧世紀の氷が少なかった頃に開発され始めた北極海海底の資源は、現在採掘が困難であり既存施設の補修などもやりにくくなっている。そのため、増産どころか現状の維持すら危ういのだ。
連合内での発言力を強めているとはいえ、ユーラシアの内実は気候と同じくお寒いものであった。それがブルーコスモスの再動に繋がっている。
「結局、実施されないんですか?」
「スカンジナビアが首を縦に振らん・・・ブルコスと繋がってるのかもしれんしな」
「でも連中は親プラントを理由にスカンジナビアを攻撃してるんですよ」
「あのオーブですらジブリールを匿ったのだ、蛇の道は蛇だろう」
司令官はスタッフが持って来たジュネーブからの電文を読みながら言う。交渉の継続を伝える文書を何度読んだことだろう。その苛立ちは、もはや自力ではテロリストに対処できない自軍のふがいなさにも向けられる。
ラドガ湖を渡って二百キロも北上すれば、ブルーコスモスの実効支配地域になる。コラ半島沖の海底油田からフィンランド湾に向かうパイプラインは、敵に完全に抑えられていた。
領事館から戻ると、今度はトレランシアクルーの招集だった。最終の補給品の搬入が終わるのが明日の正午、作戦の開始は明日の夕刻とされた。マスドライバーで艦を低軌道まで打ち上げ、軌道変更を行った後に直接スカンジナビアへ降下する予定であった。飛行速度の遅いトレランシアにとって、もっとも早く目的地に向える方法である。
艦の修理や補給に関してはビクトリア基地が行っているため、多くのクルーは最後の休みとばかりに市街地に繰り出す。会議室ががやがやとうるさくなり、人の波が扉に吸い込まれていく。
大方の人が出て行き、ようやくゆるゆると立ち上がったリリトは、真っ直ぐ宿舎に足を向けた。カシアがそれを引き止めようとする。それをフィジェが遮った。
「ちょっ・・・」
「そっとしておいてくれ、リリトが嫌がってる」
リリトに対する馴れ馴れしさを滲ませるような言葉に、イェレが表情を硬くした。そしてカシアより先に口を挟む。
「フィジェには聞いていない・・・リリトと話したいんだ」
「だから嫌がってるんだよ!」
「リリトの口からそう言えばいい!」
タルハが割って入る。睨み合う二人を無視して、カシアはリリトの腕を取ろうとする。彼女の手は空を切り、リリトはその歩みを速めた。慌ててその後を追いかけるフィジェの背中を、カシアは黙って見つめる。
会議室のドアがバタンと音を立てて閉まった。リリトは肩を落として息をつく。
フィジェの気配を背中に感じながら、振り向かずに足を進めた。自分が何者であるかを知られた。最高のコーディネーターに対して、どのような視線が、どのような好奇心が向けられるのか、たまらなく怖かった。
人に対して関心を持つのとは違う、未知の「物」に対する好奇心の視線。それは最高のコーディネーターを見る視線であって、リリト・フィランディエーレを見る視線ではない。あの研究機関で浴び続けてきた視線、それを再び浴びなくてはならないのか。
だから離れていたかった。
リリトは思う。何故、アカデミーになど入れられたのだろう。何故、他人との関わりを持ってしまったのだろう。あの研究機関では、あの視線を何の疑問も無く浴びる事が出来た。それ以外の視線など知らず、自分がリリト・フィランディエーレである事も知らなかった。
あそこに居続けていたならば、こんな不安を抱くことは無かった。何も知らずに、ただ存在し続けていられた。彼女にとっての不幸は、アカデミーに行き他人との関わりを持ったことなのだろうか。
否、リリトの心は答える。立ち止まり振り返った先にはフィジェの瞳があった。
タルハとユンディも会議室を出て行き、カシアとイェレが取り残されるように部屋に立ち続けていた。宿舎の清掃員が、並べられた椅子の片付けを始め、閑散とした中に騒々しさだけが広がる。
二人の胸の内のわだかまりは、形にならない。焦燥感より粘つき、猜疑心ほど固まっておらず、不信感のように入り組んではいない。だから、誰に対して苛立っているのかすら分からない。
最高のコーディネーターだとか、そんな事はどうでもいい話だ。何故、リリトがフィジェの部屋にいたのか。それだけが問題だった。二人は・・・そういう関係なのか。「そうではない」と断言する自分の心は、願望の反映なのか。イェレは拳を掌に打ち付ける。乾いた音に、部屋の喧騒が一瞬だけ静まった。
「二人だけで・・・」
フィジェは何を知り、何を知らないのか。それとも、リリトが語ったのだろうか。
リリトが何を隠していたのかは分かった。だが、何故隠していたのかは分からないままだ。あの男がしゃべったのは、リリトの「スペック」に過ぎない。そんなものはスリーサイズより価値のない情報だ。知りたかったのは彼女の考え、彼女の思いだ。その思いを、フィジェは知ったのだろうか。
カシアの唇から血が滲む。鉄錆びの味に舌打ちをして、彼女は足を進める。ここで立っていても埒が明かない。ハッと息を吐くと、彼女は駆け出した。
リリトが何を語り、何を語らなかったのかは分からない。
「フィジェだから語った」のであれば、それはきっとショックだろう。だが、それすらも分からないまま立ちすくむ辛さに比べれば、はるかに苦痛は小さいはずだ。石橋を叩いて壊すより、当たって砕けた方がマシだ。
当たり障り無く関係を続けることは、きっと可能だ。何事も無かったように、触れていい場所でだけ触れ合う関係は簡単に作れる。だが、その積み重ねが何ももたらさない事も知っている。だから、これからは別のものを積み重ねると決めたはずだ。
砕けるのならその破片を積み重ねる。溝があるならそれが埋まるまで、壁があるならそれを乗り越えるまで。
「ちゃんと友達になっておけば良かった」
そんな後悔を、リリトが生きているのにするわけには行かない。
車のドアが外から開けられた。従業員が恭しく頭を下げながら、ホテルの中へと案内する。マーカスは肩をすくめた。こういう扱いに慣れていないと、どうも白々しく嘘っぽく感じる。他の関係者に取り囲まれるようにロビーを横切って、エレベーターに乗り込む。
レセディに対する扱いの方が丁寧なような気がするが、気のせいかもしくは女性だからだという理由で割り切る。最上階の物々しい警備に、思わず苦笑した。テロへの警戒というより、ビクトリア基地やユーラシア当局者に対する当て付けだろう。ビクトリアで行われた会議の仲介役であった、スカンジナビア王国の皇太子が宿泊している。
マーカスとレセディは、帰国までの護衛の責任者として挨拶に来たのだ。ドアが開かれ、二人は中に招かれた。
ドアのところで揃って敬礼をしたのだが、次の瞬間にはレセディの敬礼が崩れていた。
「こ、皇太子・・・?」
マーカスは言葉が続かなかった。男性がレセディを抱き締めている。現スカンジナビア国王・ハーラル九世の長男、グスタフ・ユングリング。美しい金髪の青年だ。見たところ自分と同じくらい、レセディよりほんの少し年下といった感じだろうか。
そのレセディは、あくまでも礼を失しないように、その男性を引き離す。しかしその目は当然のように怒っていた。自分だったらどんな目に合わされるだろうと、マーカスは身震いをした。
驚いた様子も見せない年配の秘書官に促され、ソファーに腰を下ろす。いい部屋だが、これといった特別仕様は見当たらない。それが逆に嫌味だった。出されたコーヒーを一息に飲み干したのを見て、レセディの怒りが分かる。
だが二人の関係は何なのだろう。そう思いながら話が切り出されるのを待つ。皇太子が軽く咳払いをした。
「お見苦しいところを。レセ・・・クッツェー少佐の姿につい感激してしまい」
「お知り合いなので?」
マーカスの問いにレセディの視線が刺さるのを感じる。だがこういうのは早めに知っておかないと、タイミングを失う。皇太子は大学時代の親しい友人だったと言う。どの程度の親しさかは推して知るべきであろう。ともにブリュッセルの大学に留学していたそうだ。
それ以上は関係ないとばかりに、レセディが今後の予定を説明し始める。いつにも増して簡潔で明瞭な説明だった。
トレランシアに乗り込むのは皇太子と、数名のスタッフにボディーガードだけだった。あとの政府関係者は陸路と海路でユーラシアに入って、そこから飛行機を使うと言う。艦の立ち入り禁止区画その他、必要な説明事項の示された資料を手渡すと、用は済んだとばかりにレセディは立ち上がる。
「君のお父様にも尽力していただいた。今回の件、本当に感謝している」
レセディの口元が歪むのを見た。それに対して皇太子の方は、痛々しいほどに切なさの溢れる目をしている。事情は分からないが、あまり知りたいと思える話でもないようだ。
マーカスも、長居は無用とばかりにコーヒーを飲み干して立ち上がる。名残惜しそうな皇太子の視線に、男性として深い同情を感じながら部屋を辞した。
窓から見えるのは峨々たる崑崙山脈の姿だった。チベット高原の片隅にひっそりと建つ建物は、およそ軍関係の施設とは思われない。
しかしここは、東アジアでも独立紛争の火種の多い地域である。赤道連合やユーラシア連邦との国境紛争地帯とも近いため、東アジア軍も重点的に部隊を配備していた。
もっとも、先に行われた帰属問題を巡る住民投票によって、表立った混乱は収束しつつある。各国ともに軍事行動を起こす余裕も無く、連合に首を突っ込まれる理由を作るつもりも無かった。窓越しに臨む高く澄んだ空の青のように、見るだけなら平穏な情勢が保たれている。
チン・ヤンチャンは、新聞をめくった。またしばらくは、機上で慌しい日々を送らねばならない。平穏をもう少し堪能することとする。彼は、修理の終わった二機のシャーレンの受領と、イン、ヤン両名のメンテナンスのために、ジンビンメイの本拠地であるロップヌル研究所に戻っていた。
アフリカでの新条約締結以外に、国際情勢に目新しい情報は無い。新聞が伝えるのは、経済指標に一喜一憂する国内の姿だ。別に世界が平和になったわけではなく、戦争をする金が無いだけだった。ならばいっそのこと戦争をやめればいいのに、金がなくても出来る戦争を模索している。
「少し良いかね?」
ヤンチャンが視線を上げるとスーツの男が二人、軍かどこかの情報部局の人間だろう。この研究所をスーツで訪れるのはそれくらいなものだ。新聞を閉じて空いている会議室を探す。
ナチュラルとコーディネーター、いわゆる遺伝子を巡る戦争は全ての陣営が等しく損失する戦争だった。政治行為としては失敗であり、経済行為としては愚かである。次からは利益の出る戦争をしなくてはならない。ブルーコスモスなどの原理主義者が真っ先にパージされたのは軍であった。
当然、利益を出すためには費用を縮減しなくてはならない。組織は効率化を、兵器は低コストで高性能を求められる。そしてその中には、パイロットも含まれていた。
「適正管理されたコーディネーターの能力は、こちらの予想通りです」
「当初報告書の通り、対抗は不可能ということか・・・」
今後、連合でもコーディネーターパイロットの使用は増えていくだろう。ナチュラルと同様の維持コストで、遥かに高性能を発揮するのである。その時、より性能の高いコーディネーターを有するかどうかが、戦争の行方を決する。それは、ヤキン・ドゥーエやメサイアで証明済みであった。
生物学的限界から、コーディネーターの性能の上限は推測できる。通常のコーディネーターを、事後的にその上限まで引き上げることが出来るか否か、それがインとヤンの研究目的であった。
だがその結果は否定的であり、事後的な性能強化では、誕生段階から管理されたコーディネーターには敵わないという結論に達している。フリーダムと互角の戦闘を行っていた連合軍緊急即応部隊のパイロットが、フリーダムのパイロットと同様の誕生課程であったことは先日知らされた。
「大西洋とユーラシアは、強化パイロットの研究を継続させている」
「後追いは無意味でしょう。むしろ」
「最高のコーディネーターの生産技術確立か・・・」
「プラントはメンデル系以外の方法でそれを生み出していました」
今後、プラントで作られるコーディネーターが全て最高のコーディネーターであった場合、地球圏の軍事バランスは一挙に崩壊するであろう。
ジンビンメイはメンデル系の研究データの一部を有している。フリーダムのパイロットの確保は、そのデータをより精緻にするために必要なものなのだ。そのためには、従来の作戦以外の方法も模索しなくてはならない。
カーゴキャリアーが引っ張ってきた小型のコンテナを、多脚型フォークリフトが積み替えていく。宇宙空間での船外作業用に、外装の様々な形状に対応できる六本足が採用されているのだが、平場での使い勝手はさほど良くない。そんなフォークリフトを流れるように操っているのはアジズだった。
他にも数名の整備員が、物資の搬入作業を行っていた。自分で運び込まないと、必要な時に必要なものがどこにあるか分からないという。ウェルガーの腰にあるメンテナンスハッチから頭を出したユンディは、首を傾げる。
マイクロタグが取り付けられているのである、どこに何があるかは全てデータベース化され個人のポケコンで呼び出せるはずだ。そう言えばアジスがポケコンをいじっているのを見たことが無い。それでいて、彼の物資検索能力は量子コンピューター並みの早さだ。
「コンテナの並べ方一つにも、コツがあるんじゃないか?」
タルハはそう言って、水筒を差し出した。ユンディの口がストローをくわえる。アジズらが現場の中で経験した事の蓄積を、彼女らの能力が上回る日は果たしてやってくるのだろうか。ウェルガーファーストの右上腕部第七アクチュエーターの設置角度が基準から十度ズレている理由や、ウェルガーサードの左胸部ダンパーだけに複筒式のショックアブソーバーを使用している理由が、尋ねなくとも分かる日が来るのだろうか。
こういう人がアカデミーの教官なら、どんな事を学べたのだろうか。そんな事を、タルハに聞いてみる。
「黙って見とけ、三年もすればそこそこ使えるようになる」
タルハに代わってヒューが答えた。白い歯を見せながら、キャットウォークを歩いてくる。どうしたのかと聞かれ、遊びに行く気になれなかったと同時に答える。乾いた笑いの後に、二人はふぅと息をついた。
「後の四人は何してんだ?」
ヒューの問いかけに答える言葉は無い。本当に、何をしているのだろう。自分達が首を突っ込める問題かどうかも分からない。
イェレの怪我が治ったら、艦から降りようとみんなに相談するつもりだった。お互いに、何かよく分からないものを抱えたままで戦場に関わるのは、そのまま生死に直結しかねない。喧嘩なら、降りてからやればいい。
マダガスカルでの選択は間違いだった。結局、あれから何の進展も無いままだ。なあなあと流されるくらいなら、例え撤退でも決断すべきだろう。そう思っていた矢先に、ザフトからの命令である。降りる選択肢を奪われ、ただ流されていく条件だけが整ってしまった。
「何・・・してるんでしょうね」
「聞く相手間違ってるぞ。ちゃんと聞いて来い」
「出来るんですか、そんな事」
「出来る出来ないじゃなくて、やるやらないだ。そしてそれは、したいかしたくないかだ。どうしたいんだ?」
ユンディは視線を動かす。タルハの手にそっと触れ、大きく息を吸いこむ。考えるべきは、まず自分だった。
呼び止めても止まらないだろうと、カシアは二人の前に回りこむ。イェレが追いかけてくるので、丁度挟み込む形となった。目を伏せたままのリリトを背中側に隠すような仕草を見せるフィジェに、頬を歪める。
しばしの沈黙を破るのはカシアの声。
「どこに行くの」
「部屋に戻る」
「リリトの部屋に戻るのなら、私が連れて行くわ」
伸ばされたカシアの腕を、フィジェの体が遮った。リリトを庇うようにその背中に腕を回そうとするフィジェの手を、イェレが掴む。三人の間をすり抜けるように、リリトがその場を離れる。
カシアもイェレも、リリトを追わなかった。代わりに、フィジェに視線を注ぐ。イェレの手を振りほどいたフィジェが苛立たしげに言う。
「お前ら、リリトをどうしたいんだ」
「話を聞きたいだけよ」
「フィジェこそ、何で邪魔するんだ」
「嫌がってるって分かるだろ!」
「俺にだって分かるさ!」
フィジェの声に合わせてイェレの声も大きくなる。カシアが一呼吸おいて、ゆっくりと言った。
「嫌がってるなら、その理由を聞きたいのよ。じゃないと、いつまでたっても嫌がる事をしてしまう。何も聞かずにただ・・・抱くだけなんて・・・」
カシアが最後まで言葉を言う前に、フィジェが苦笑いを浮かべた。
「何か勘違いしてるだろ、お前ら。俺は別に・・・」
その言葉には無意識の軽蔑が潜んでいる。イェレがフィジェに詰め寄ろうとすると、いきなりカシアの笑い声が響いた。驚く二人の前で、カシアはしばし自分を笑う。苛立ちの理由もその矛先も、リリトではなかったのだ。
カシアは壁に拳を打ちつけて、フィジェを睨む。