Green travelers ~ The another seed ~ 作:VSBR
三十分ほど続いた独特の揺れが収まり、シートベルト着用のランプが消える。艦内チェックの人員が体を浮かせながら通路を移動する。トレランシアのリフトグリップが始めて仕事をした。
防護シャッターの開けられた窓から見えるのは、足元に青白く浮かび上がる巨大な星。窓にもモニターにも収まりきらない大きさで、地球が眼下に広がっている。プラントから見る地球は儚くも脆くも見えるが、ここからだとその偉大さが押し迫ってくるように見える。
プラントからの直行便で地球に降りたため、低軌道から地球を眺める機会はなかった。他のクルーもめいめいに、感想を叫びつぶやきを交し合っている。タルハにそっと肩を抱かれたユンディは、甘い言葉を待つ。
「おら、仕事だ仕事」
代わりにアジズの大声が聞こえて、二人で持ち場に戻る。これから一日かけてゆっくりと軌道を変更し、スカンジナビアへの降下コースに入るのだ。途中で推進剤補給のため、低軌道周回ステーションとのランデブーがある。離脱用のブースターが間に合わなかったため、マスドライバーで加速をつけた後は艦のスラスターでここまで上がってきたのだ。
艦内の点検が終わり、降下までの軌道変更コースも設定された。後は基本的に機械がやってくれる。レセディが、ほっと息をついて艦長を見る。マーカスは、艦を通常シフトに戻した。
彼女が艦長に目礼をしてブリッジを出ようとすると、その脇をカシアが通り抜けた。髪を無重力に合わせて、きっちりとアップにまとめている。しかし、男性クルーの視線が妙だと思ったら、スカート丈は変わらないままだ。慌てて注意する。
「見られても大丈夫なやつです」
「そういう問題ではありません!」
追いかけようとするレセディの前で、カシアは空中で半回転して天井を蹴る。半回転と半捻りを加えて廊下に降り立つと、靴底の粘着部分で上手に体を固定した。そして丁寧に頭を下げて、すぐに着替えると謝った。あまりにも素直な態度に、レセディは面食らう。
用は済んだとばかりに廊下に体を流すカシアは、スカートの中を隠す事もせずに空中を漂う。後ろで何か言っているのが聞こえるが、今は小言に付き合う気分ではなかった。窓から見える青い地球にも、慰められることは無い。睨むように、その青さを見つめる。
リリトの事、いや自分の事に、何らかの目途をつけなくてはならない。ようやく、何かが掴めそうな気がするのだ。つかむ物が、良い物なのか悪い物なのかは分からないが、逃がした時の後悔は、おそらく最悪の物だろう。
膝を抱えて体を回す。廊下に降り立つと歩いてフィジェの部屋に向かう。シフト通りなら部屋にいるはずだ。粘着素材が床に付いたり離れたりする時のペタペタした音が、今の決意に似合わない間抜けさだと思った。
ウェルガーがブリッジ前の甲板に立って周囲を警戒している。敵襲ではなく、デブリに対する警戒であった。旧世紀から既に存在していたデブリの問題は、CEの戦争によってその深刻さを増していた。
連合とプラントは、軍や宇宙運輸関連部局にデブリ処理のセクションを設置し、同じ業務を行う民間業者も複数存在するが、その処理は追いつくものではなかった。レーダーが利かないという現状は、デブリ回収を困難にしている。航行する船舶が、デブリの存在を前提とした頑健さを持っているため、大きな事故は少なくなったが、それでも年に一、二件は衝突事故が起こっている。
「あれ、結構デカくないか?」
タラスの見つけたデブリのデータが、ブリッジに流される。位置や相対速度が瞬時に計算され衝突の危険性なしと判断されるが、逆にかなりまで接近するようだ。送ってもらったデータを見て、タラスはウェルガーのスラスターを吹かす。
近づくと、MSの胴体と同じくらいの大きさの岩の塊だった。タラスはウェルガーをその岩に接触させると、モニターの数値を確認してペダルを思い切り踏み込む。岩の重さを感じさせるように、ウェルガーの腕が一瞬軋んだ。岩を蹴りつけて方向転換すると、艦へと戻る。
ブリッジから再度送られてきたデータを見る。計算通り十二時間後に大気圏に突入させるだけの減速はかけられた。現在トレランシアは低軌道の最下層に位置しているため、周囲のデブリを地球に落とすことは比較的簡単なのだ。昼の部分に落下するため流れ星にはならないが、燃え尽きずに地球に落ちる事は無い。
モニターの中でゆっくりと遠ざかっていくその岩を目で追いながら、リリトは一人ロッカールームにいた。MSでの警戒行動は二時間交代、次は彼女が出撃する番だった。部屋にいるより、ここにいる方が人に会う確率は低い。
「それで・・・」
どうなるのだろう。ただ、先延ばしにするだけで何の解決にもなっていない。いや、もはや解決の道は閉ざされている。自分の正体をあんな形で知られた。化け物じみた、いや事実として怪物のような、自分自身の存在を。
少しずつ、自分の口から話すつもりだった。あの島でヘンリーに話したように、自分の苦しさや限界とともに、その事を話すつもりだった。そこに、一縷の望みを繋いだというのに。
うつむき、頭を抱える。イェレの目が、カシアの視線が怖い。そこにどんな自分が映るのか、想像したくない。
しかしこのままでどうなるというのだろう。きっとフィジェの瞳も、疑いの色を濃くしていくだろう。やがてそこには、疑惑と不信だけが映るようになる。そうしたら、自分はどこに逃げたら・・・
「あ、ここにいたんだ」
その声に肩を震わせ、リリトの足は反射的に駆け出す。伸ばされた手を避けるように体をよじって、ロッカールームを飛び出そうとすると、真正面の人にぶつかった。前にはタルハ、後にはユンディが立っている。
隙間を探そうとするリリトに、ユンディが言う。
「逃げなくてもいいでしょ、私らはまだ何も知らないんだから」
それはもう、知っているという事なのではないか。リリトの足から力が抜ける。
シミュレーション画面の中で、砂時計型のMSが手足と頭部を失い、文字通りの砂時計になって落下していく。その落下する先には、動かなくなった立方体が転がっていた。画面が切り替わり、再び戦闘シーンが映し出される。真正面のMSが翼からドラグーンを展開させた。
百年やっても、結末は同じだろう。砂時計が先に落ちるか立方体が先に落ちるかだけの違いしかない画面が、延々と続いている。ラフな私服姿の研究員達が、吐き出される膨大なデータを順序良く整理していた。
シャーレンの連携は悪くない。悪くならないように常に調整されている。それでも結果には寸分の狂いも無い。
「これ以上は無駄でしょう、勝てませんて」
研究員の一人が呆れた声で言った。チン・ヤンチャンは深くため息をつく。もともと分かっていた事だが、一応の落胆はあった。彼はフリーダムのパイロットであるスレイ・カルガに関する研究に携わっていた一人である。
落胆の半分は、それを上回る存在を作り出せなかったことであり、もう半分はそれと同等の存在を作り出せなかったことである。連合軍緊急即応部隊に配属されたパイロットの一人が、最高のコーディネーターであるとの情報は既に入っている。確認はされていないが、各種データはそれを裏付けていた。
結局、ナチュラルであれコーディネーターであれ、事後的な強化による限界は、事前強化による限界の遥か下だという事である。筋肉と骨格を機械にしても、それを支える内臓がおぼつかない。神経と脳を機械にしても、そこに積み込むプログラムに人の柔軟性は無い。一から人間サイズのMS開発でも進めた方が確実なのではないか、そんな事も言われた。
それは、ジンビンメイ、そしてその前身機関である新京新医学学術院の限界であった。前大戦時には、非グレン型遺伝子改造や経絡系への刺激など、先鋭的な研究も行われていたのだが、それらのデータは戦争やその後の混乱でほとんどが失われていた。
代わりに手に入れたのがメンデルベビーであるスレイ・カルガだ。プラントの研究者との接触によって、終戦直後のどさくさに紛れて入手した物だった。大戦末期、バイコヌールから宇宙に逃れた新京新医学学術院の研究者の一部は、メンデルベビーとともに東アジアに帰国し、軍の特殊部隊であるジンビンメイとともに、パイロットの高性能化研究を始めた。その最終目標はメンデルベビーを超える存在を生み出す事である。
ヤンチャンは疲れ目を押さえた。彼が目の当たりにした最高のコーディネーターの性能は、人間の可能性への希望などではなく、コーディネーター技術に対する直感的な恐怖であった。科学者としてはあるまじき感想かもしれないが、あんなものを見れば誰でもフランケンシュタイン博士の気分となるだろう。
12歳の子供が、いきなり150キロのベンチプレスを成功させ、モスクワから招いた研究員の会話をほんの少し耳にしただけでロシア語を解し、六桁の整数の素因数分解を暗算で行うのだ。研究開始直後から、スレイ・カルガの存在は恐怖の的であった。かつて新京新医学学術院の上海分室は、研究中の「生物」が逃げだした事によって壊滅させられている。
そんな過去を抱えていれば、スレイがこのロップノル研究所を脱走した時に全員が安堵の息を漏らしたのも当然だろう。殺されずに済んだと。スレイ脱出の手引きをした連中には、今でも感謝しているくらいだ。
それだけに軍から研究再開の命令、しかもスレイ・カルガを捕らえた上での研究を命じられた時は、暗澹たる思いに覆われた。百度目の撃墜を喫したインとヤンに投与すべき薬剤の量を指示し、ナノチップの定着状況を確認させる。明後日にはコラ半島へと向かわなくてはならない。
雪が光を反射し、外は南国とはまた違った眩しさに包まれている。その眩しさに目を細めながら人を待つ。王宮内でもプライベートな空間に近い場所、招かれているのはそれなりの人物である。自分の金髪をいじりながら、アンジェリカ・マイズナーは時計を見上げる。
立ち上がると同時に短いノックが聞こえ、人が入ってきた。アンジェリカは頭を下げて、一応礼儀に則った口上を述べた。スーツ姿の秘書官数名と共に現れたのは、現スカンジナビア国王ハーラル九世である。背が高く、いかめしい顔つきの初老の男性であった。その人に促され、ソファーに腰を下ろす。
アンジェリカが話を切り出す前に、国王が口を開いた。彼女が尋ねてきた理由が分かっていると言う事だろう。
「アークエンジェルは既に出国した」
「ご心配なく、貴国の方針に口出しをするつもりはありませんので」
組織が揺らいでいるとはいえ、特殊な軍艦の運用に必要な資材やそのための資金の流れを追う事など、ターミナルには造作も無い。まだスカンジナビア国内に留まっている事など、先刻承知のことだ。そしてスカンジナビア王国がそれを否定する事も、予想通りだ。
アンジェリカが来たのは、ターミナルの方針を伝えるためである。今後、スカンジナビアに対して、特別な支援は行わないという決定を伝えに来たに過ぎない。金の切れ目が縁の切れ目であり、プラントでの政変の後ターミナルの友好国向け支援は減り、それに伴い関係性も希薄となっていた。
今回の決定はその追認だった。オーブが連合の信託統治となり、地球におけるターミナルの唯一の橋頭堡だったスカンジナビアも失われることとなるが、組織の維持に手一杯のターミナルにとって不安定要因は取り除いておきたい。
連合はアークエンジェルとその資金の流れをトレースし続けている。何かが起これば、ダミー口座やペーパーカンパニーを含めて、一気に摘発されるだろう。そうすればターミナルも大きなダメージを受ける。切り取れる部分は、早々に切り捨てておかなくてはならない。
「・・・アークエンジェルとフリーダムには、国家の転覆は出来ても防衛は出来ませんよ」
アンジェリカの言葉に、国王が口の端をピクリと動かす。レクイエム戦役の後、スカンジナビアが国際社会で一定の発言力を保てたのは、ターミナルの影響力を表に見せず、あくまで中立という立場を外部にアナウンスしていたからだ。
ユーラシアも連合も、当面はスカンジナビアへの直接的な圧力を考えてはいないだろう。そのような情勢を読まずに、ターミナルの弱体化に浮き足立ってアークエンジェルを引き込み、ユーラシアとの緊張を高めるのは、下の下策だ。
所詮はオーブと同じ精神構造の国家だったか、そこまでは言わずにアンジェリカは席を立つ。国王の苦しい立場には同情もできるが、元首として国家組織を把握するのは最低限の責任だ。
トレランシアの外壁を、多脚式フォークリフトが歩き回る。爪の代わりに専用のマジックハンドを取り付けた、簡易型の船外作業機だ。宇宙ステーションから伸ばされたケーブルを、所定の係留具に取り付けると合図が出された。
フォルトゥーナがそっと甲板から離れると、宇宙ステーションから伸ばされたパイプを掴み、トレランシアの推進剤補給口に近づける。ステーションから発進した二機のミストラルとともに、一抱えもあるパイプを慎重に接続させる。一瞬感じた振動が、固定の完了を伝える。コクピットのモニターにOKのサインが出て、イェレは大きく息をついた。
電波障害のある中でのランデブーやドッキングというのは、非常に神経を要する作業なのだ。トレランシアは、低軌道周回ステーションから推進剤の補給を受け、降下軌道に向かう。
トレランシアの三倍くらいの大きさの宇宙ステーションは、小さな居住ブロックの付いた長いアームを回転させていた。戻っていくミストラルから発せられた労いの発光信号にお礼の信号を出して、イェレはフォルトゥーナを艦に戻した。
昇降用エレベーターを上がるウェルガーファーストとすれ違うように、フォルトゥーナがMSデッキに戻る。オレンジのノーマルスーツを着た整備員がフワフワとフォルトゥーナに取り付き、毎度感心する手際で整備が始まる。頭部を動かした時の異音を近くの整備員に伝えて、イェレはロッカールームに向かった。
「お疲れだったな、ネスタ少尉」
ジュースのディスペンサーのところで、アレナに声をかけられる。彼は首を横に振って、彼女が差し出したコップを受け取った。丁度ステーションとのランデブーと、イェレの監視活動の時間が重なったのでドッキングの手伝いをしただけだ。コップに口をつけてそう言う。
濃い紫色の水面に、自分の顔が暗く映っている。何かやる事があって、それをしている方が楽なのだ。そうでなければ、リリトの事を考えてしまう。考えの先に何も無い事は、何となく分かってきた。
では先の見える行動とは何であろうか。
「フィランディエーレ少尉とは学生時代からの付き合いだったな」
「・・・ええ」
「キスから先も含めた付き合いか?」
その不意打ちにイェレはむせ返る。遠心重力の弱い区画なので、姿勢を崩してしまいアレナに支えてもらう。基本的に堅い人で、こういう質問をしてくるとは思ってもいなかった。
「すまなかった、そんなに素直にリアクションされるとは思って無くてな。カマを掛ける必要も無かったか」
いつもの口調なのに顔が笑っていた。イェレはコップを煽って、立ち去ろうとする。アレナがそれを引き止めた。彼女は真剣な顔になって、難しい問題だなと言った。イェレが何か知っているのかと尋ねると首を横に振り、問題がある事とその問題が何かという見当が付いているだけだと答えた。
イェレは、視線でその続きを求めた。アレナがゆっくりとした声で言う。
「ズバリ、恋だ」
背を向けて立ち去ろうとするイェレを、アレナはもう一度引き止める。そして違うなら教えてくれと言った。
「別に・・・ただリリトが、その、何かに悩んでいて、それで・・・」
「気になる?」
「そりゃ、友達だし・・・」
「力になってあげたい?」
「当然でしょう!」
「自分の手で何とかしてあげたい?」
「・・・俺に何か出来るなら」
「でも、クラフ少尉に先を越された」
「!? ち、違・・・」
「悩んでいるのは君自身だ。その悩みを解決すれば、フィランディエーレ少尉の力になれる」
アレナの手がイェレの頭をポンポンと叩いた。彼女はタラスの呼び声に返事をして、そちらに足を向ける。立ち尽くすイェレを見て、タラスが怪訝そうな顔をしていた。アレナは笑って言う。
「君に、そういう悩みは無いのか?」
「はぁっ?」
答えの代わりに差し出されたのは、付箋とアンダーラインで原形が分からなくなっている本だった。タラスの目下の悩みは、旧世紀南米における左翼イデオロギーの復興過程である。
低軌道を一日周回するくらいであれば、通常居住区画を回転させることは無い。今はスカンジナビア王国皇太子を乗せている関係上、遠心重力を発生させていた。居住区は現在、月の重力と同じくらいの重力が発生している。
秘書官やボディーガードはその低重力に慣れていない感じであるが、皇太子はスカンジナビア宇宙軍での経験があるため、とりたてて困る事も無く過ごしていた。居住区の一角に、急ごしらえのVIPルームがしつらえられている。そこからのご指名で、レセディがスケジュールの報告に行く。
出来るだけ事務的に済まそうとした。未練に満ちた表情も、慕情に溢れた視線も見ないようにする。
「本艦は当初予定を変更し、十二時間後に朝鮮半島上空より降下を開始します」
当初はアリューシャン列島の上空から北極海上を降下するコースだったのだが、低軌道ステーションでの補給作業が遅れ、降下コースが変更されたのだ。秘書官が安全性の確認を何度も求める。宇宙に初めて出た人のようだ。
低軌道ステーションへ、本国との通信に行っていたもう一人の秘書官が戻ってくる。立ち上がろうとしたレセディを引き止め、皇太子は簡単な報告だけを受けて人を下がらせた。
ドアの閉じられた音と共に、部屋に沈黙が訪れる。あからさまに腕時計を見るレセディに、皇太子の目は困ったような悲しいような色を濃くする。
「そろそろ、ご用件をお伺いして良いでしょうか」
「話を・・・したいんだ」
学生ではあるまいに、レセディは胸の中で毒づく。学生の時からこういうタイプではあったが、それが許されるのも学生までだ。何も言えない煮え切らない態度を保つ皇太子には、レセディのため息も意味が無い。そのため息に込められる思いを察する事が出来ないだろうから。
昔の話と割り切って、学生時代の思い出話に花を咲かせても構わないであろう。それが出来ない彼女ではない。それをしないのは彼女のケジメだ。それに、そういう事をすると、男はすぐに勘違いをする。
だから、レセディは姿勢を崩さない。地球連合軍緊急即応部隊所属、航宙航空機動艦トレランシアの副長としての態度を貫く。目の前にいるのは、スカンジナビア王国の皇太子であり、それ以上の扱いはしない。
「今も僕の気持ちは変わっていない・・・あの時のままだ」
「私もです」
彼女はもう一度腕時計を見て、立ち上がる。急いでブリッジに戻る理由など無いが、この部屋に留まり続ける理由などもっとない。二度は引き止めなかった皇太子に視線を向けることなく、レセディは部屋を辞した。
廊下の向こう側から聞こえた足音に視線を向けると、曲がり角の向こう側に消える足を見た。戦闘では使えないのに、それ以外の事には目端が利く。そんな艦長に、彼女は額を押さえた。
出されたカップには手をつけなかった。ほのかに上がる湯気と、漂う香りにも心を動かされなかった。ベッドの端に小さく腰をかけ、視線を床に向けたまま時間が過ぎるのを待つ。ティースプーンが紅茶をかき回す音が止む。
「ダーリンが入れると美味しいのよ」
きっと愛ね、というユンディに、湯の温度と蒸らし時間そして最後の一滴まで注ぐのがコツだとタルハが付け加える。リリトは微動だにしない。椅子を微かに軋ませて、ユンディが彼女の方に向き直る。
飾り気ゼロだが、きちんと整えられたリリトの室は、いかにも彼女らしいと思う。カシアには見習って欲しいものだと言ってから、ユンディは軽く咳払いをした。リリトがさらに堅くなるのが分かる。
「緊張してるとこ悪いけど、別に何かを聞き出したいわけでも何でもないから」
ただ、今までのように普通に接することは出来ないのかと言った。
出来るわけがない、リリトはそう胸の中で叫ぶ。自分が普通でないことを知られてしまったのだ。だから普通でない接し方しか出来ないのだ。いや、もはや接する事すら出来ない。
人と人との関係はもはや失われ、最高のコーディネーターとその観察者という関係しか存在しないのだ。自分がプラントのため、コーディネーターのために存在する物である以上、そこに他者との関わりなどない。物が人と接するのは、ただ使われるためである。そして人は、ただ使うためだけに物に接する。
自分の正体が知られた以上、そこへ至るのは不可避であろう。あとはそれを少しでも遅らせるだけだ。
「あんたが・・・ってか、あんたの体が異常な力だって事は分かってるよ。それが原因なんだろうなってのも分かる」
それを隠す理由が分からないというユンディに、リリトは口を開いた。
「ユンディがナチュラルだったら、コーディネーターと友達になれる?」
時間だからと、リリトは立ち上がった。部屋を出ようとする彼女に、タルハが答えた。
「それはお互いの努力だろ。どっちか一方だけがんばったって、そりゃ無理さ」
意気込んで探し回るのは良いが、捕まえるまでに時間がかかった。自分のシフトと相手のシフトがなかなか交差しないのだ。カシアがフィジェを呼び止めたのは、彼の部屋の前だった。
カシアの目を見て、フィジェは部屋のドアに視線を移した。そのまま早口で言う。
「リリトとは何でもない・・・何も無かった」
「リリトの事は、今は関係ない。私は私の事を話に来たの」
カシアはゆっくりと足を進め、フィジェの真横に立つ。そしてその肩を掴んで正面を向かせる。彼の驚いた表情は、すぐに不機嫌なものに変わる。彼女は視線を逸らさずに、見つめ返した。
その整った目鼻立ちの一つ一つを確認するように見つめていく。自分の心臓の音を確かめるように、カシアは左手を胸に当てた。確信めいたもの、その音に感じる。
アカデミーの時から、意識していた。幼馴染のイェレ以外に、初めて親しくなった男性。丁寧な物腰と、優しい態度。それでいて少し強引で、ちょっとナンパな人。その視線を、その笑顔を、嬉しく思う自分が楽しかった。
でもそれは、恋と呼ぶにはあまりにも稚拙だ。それ以上に友達であったし、フィジェがリリトを気にしている事も分かっていた。だから自分の気持ちには名前を付けないで置いたし、それよりもまずちゃんと友達でいたかった。もしリリトと上手くいくようなら、イェレには悪いが祝福しようと、二人のために祝福できるとそう思っていた。
しかし今回の件で、そうも行かなくなった。
リリトの事を考えていても、フィジェの事が、二人が彼の部屋から出てきたことが思い浮かぶ。リリトの事を考えるはずが、自分の事を考えている。悩んでいるのはリリトなのに、苦しんでいるのはリリトなのに、彼女の事を心配する事が出来ないでいる。気になるのは、フィジェと何があったのか・・・そんな事ばかりだった。
「私は、私の気持ちに名前を付けることにした」
リリトの事を考える前に、自分の中で中途半端なままにしていた気持ちの方を考える事にした。そうしなければリリトと接する上で、その気持ちが中途半端なバイアスとなって、自分の言葉や行動を歪めてしまうと思った。
その気持ちは、恋であり嫉妬であると。本当にそうなのかどうかは関係なく、カシアは自分の気持ちをそうだと決めた。決めたからこそ、彼に話に来たのだ。
「好きです」
その言葉と同時に、カシアの唇がフィジェの唇を奪った。一瞬硬直したようなフィジェは、慌てて体を翻した。彼女は彼の手を引いて、もう一度キスをする。唇を離れさせ、カシアは小さく「ゴメン」と謝った。
「だって、もう・・・心地よく友達ではいられないから」
すぐに遠く離れ、二度と会うことの無い関係であるなら、その短い期間だけ、友達を装うことは出来る。しかし、今はそうではないのだ。取り繕っても取り繕っても、心地よい友達には戻れなくなっている。
戻れないのなら、前に進むしかない。自分にまとわりつく心地よい友人関係の残渣を打ち砕き、その向こう側へ進むしかない。キスは、そのためのハンマーだ。
「・・・俺は、その」
「ちゃんと言って。キスだけじゃ、足りないから」
「返せるものが無い・・・キスされても、何も・・・返せない」
「分かってる。だから今は退くわ・・・諦めはしないけど」
カシアは微笑んで見せた。フィジェとは、しばらく辛い友達でいるつもりだ。でもそれは、視線も会話も交わせない今のような関係ではないはずだ。もっと彼に視線を向け、もっと彼に声をかけよう。カシアが再び笑顔を見せる。
釣られて微笑んだフィジェの頬をカシアが叩いた。
「振られたから叩いたんじゃないわよ。リリトのためだからね」
何を言われているのか分からないフィジェにカシアが言う。自分の中の嫉妬を自覚していれば、自分の考えの中からそれだけを排除することも出来る。今のフィジェのやり方は、どう考えてもリリトためにならない。
「あんたは、リリトに優しくしているんじゃない・・・ただリリトの弱みに付け込んで、リリトの隣を独占しているだけよ」
いきなり切り替わった話題に、フィジェは戸惑う。だがカシアにとっては、この話が本題なのだ。自分の気持ちとかキスとかは、どの道結果が見えていたのだから、重要な話ではない。ただ自分の中で気持ちにけりをつけるための儀式のようなものだ。
だがリリトの話は、そういうわけにはいかない。まだ、結果どころか筋道すら見えないのだ。それは努力の余地があるという事でもあり、手遅れになる可能性があるという事でもある。
いや、既に手遅れになりつつあるのかもしれない。カシアの視線に耐え切れず、フィジェは目を逸らした。
「俺は・・・ただ、リリトを・・・」
「それはみんな同じよ。ただ、あんたのアプローチが間違っているだけ。言ったでしょ、心地よく友達ではいられない・・・みんなそうなのよ」
「じゃあ・・・どうするんだよ」
今度はカシアが目を逸らす番だった。だがそれは具体的な方法が分からないからではない。
リリトはどんな関係を望み、自分はどんな関係を望んでいるのだろうか。まずそこから、考えなくてはならない。