Green travelers ~ The another seed ~ 作:VSBR
ようやく港湾施設が機能し始めた。今年は暖流の流れ込みが弱く、港は薄くなってきたとはいえまだ氷に覆われている。旧世紀には北極圏最大の都市として栄えていたこの都市も、今は雪に埋もれる辺境の街となっていた。
それでもこの都市は、北極海に臨む要衝であり旧世紀から要塞として整備が進められていた。核戦力が無用の長物と化した今でも、その膨大な軍事インフラは機能し続けている。それどころか、冬季は雪と氷に閉ざされるその環境が、ここムルマンスクを外敵から守ってさえいる。
港から直接進入できる地下ドックに、潜水輸送艦が浮き上がってきた。港の氷がなくなるまで、もうしばらくは潜水艦頼りだ。小型のコンテナの積み下ろし作業が続く中、サイレンが響いた。
「出撃のサイレン? 珍しいな、連合か?」
「あぁ。ただし海じゃないぜ」
クレーンを操作していた男がそう言って上を指差す。見上げる天井のさらに上が、今回の標的だった。朝の淡い光に照らされる滑走路には、MSが引き出されている。
それらの形状は、連合で採用されている形状とは若干異なっていた。特殊なスーツに身を包んだパイロットが、管制塔からの指示に従って機体を移動させる。後方で待機する機体を確認するように、パイロットが最後の指差を行う。
「やっこさん、高度85キロで半島上空をパスするつもりだ」
「・・・接触はボスニア湾上空か。久々に領空侵犯だな、こりゃ」
自信に満ちたような声と共に、MSのスラスターに火が入る。翼を広げ航空機のような形態になったMSは、翼下の外部ロケットブースターの轟音と共に、滑走路を飛び立っていく。上昇していく三本の噴煙を見上げながら、最後の一機が滑走路上でスタンバイを整える。
その機体はMSではなかった。しかも翼を持った航空機でもない。おそらく、MAにカテゴライズされる機体であろう。滑走を最初から諦めているように、運んできたトレーラーのジャッキによって垂直に立てられていく。
「カウント、開始しろ」
コクピットから聞こえる暗い声に押されるように、長いカウントダウンが始まる。管制塔からの説明を聞いているのかいないのか、遮光バイザーの向こう側からは、ブツブツと何かが聞こえる。
「敵との交戦可能時間は僅かだ、無理はするな。お前にはアレに乗ってもらわにゃならんのだ」
基地の司令官らしき人物の言葉にも耳を貸さない。パイロットのつぶやきはカウントダウンにつれて大きくなっていく。やがてそれは、管制塔の通信機からもはっきりと聞き取れるようになってきた。管制官が慣れた手つきでボリュームを最小にする。
先行したMSからの通信が入り、打上げ軌道の微調整が終了する。ロケットが点火され、大量の水蒸気が巻き上がった。パイロットの絶叫のような掛け声とともに、MAはミサイルさながらに上昇していく。
通信機はノイズの奥から、その言葉を伝え続けていた。
「青き清浄なる世界のために!!!!!」
モニターも今は映像を映していない。薄暗いブリッジでは、全員が息を凝らすように、自分の担当の計器を見つめている。打上げの時よりも不気味に感じる振動、トレランシアは大気圏に再突入していた。
大気圏再突入機能を備えた宇宙艦など、連合でもザフトでも片手で数えられるほどしか建造されていない。普通に使うのであれば、そんな機能は必要ないものなのだ。ある程度は確立された技術だとはいえ、シミュレーションで体験しただけの操作である。ブリッジクルーは緊張を強いられる。
時折、計器を読み上げる声が聞こえるが、ブリッジの緊張感に吸い込まれるように消えてしまう。カシアの声も少し裏返っていた。
「熱圏通過まであと十秒」
「速度安定、艦周辺温度の低下を確認」
「降下軌道誤差、想定範囲内です」
艦の温度が通常レベルまで下がり、モニターが再起動する。艦内のシートベルト着用ランプが消え、ブリッジにもホッとした空気が流れる。眼下に流れる緑を見ながら、マーカスは肩の力を抜く。このままスカンジナビアまで一直線に降りれば作戦は終了だ。横を向くと、レセディが険しい顔をしていた。
慌てて気を引き締めようとすると、彼女が手にしていた紙を渡してくれる。そして矢継ぎ早に指示を開始した。その紙には、ユーラシア上空におけるトレランシアの管制を受け持っていたサンクトペテルブルグの基地からレーザー通信で伝えられた、緊急の電文が打ち出されている。
マーカスの肩の力は最高潮になる。モニターに映し出されたのは、敵機との接触予定ポイントと時間であった。レセディは唇を引き結んでいる。
コラ半島一帯がブルーコスモスによる実行支配地域だというのは承知していた。その上空を通過するコースで降下するため、高度をできるだけ取って降下できるように大気圏再突入を設定したはずだ。
「スカンジナビア領空で高高度迎撃を仕掛けるなんて・・・」
宇宙空間での使用が可能なMSにとって、高高度の環境は別段不得手とするものではない。しかし、一回一回成層圏まで機体を打ち上げるコストは大きく、またスラスターで強引に飛行するMSにとって、推進剤を失えば高度20キロから真っ逆さまの高高度戦闘は正気の沙汰ではないのだ。たとえ出来たとしても、その戦闘時間は極めて短いものとならざるを得ない。
ブルーコスモスはそれを仕掛けてきたのだ。高度が高すぎるため、トレランシアの浮遊システムは機能せず、せいぜいスラスターを吹かせて軌道変更を行うくらいしか出来ない。艦底部の火器を起動させ、ビームによるダメージを軽減させるためもう一度融除剤ジェルを展開させる。
最大望遠になったセンサーが敵機の姿を捉えた。
はるか下には雲海、はるか上には眩しすぎる太陽。成層圏独特の空の青をバックに、三機のMSは、機体をここまで持ち上げてきたロケットブースターをパージし、戦闘モードに移行する。標的が対空砲火を上げ始めた。
戦闘機形態のまま機体下部のビームを斉射し、機関砲をばら撒きながら敵艦に突っ込む。艦の対空砲よりも精度の高い射撃が来て、三機は猛スピードで散開すると人型に変形して制動をかけた。腰部に取り付けられた、スラスター兼ビーム砲となったシールドバインダーをトレランシアに向ける。
「死ねや!」
放たれた攻撃をビームシールドで受け止めた機体がいた。艦の上にMSを展開して迎撃に当たらせているのだ。だがそれでは所詮、対空砲と変らない。再び機体を変形させて、艦の下部に回りこむ。
高高度迎撃用可変MS、ストラトス・レイダー。連合軍が開発したGAT-X370の派生機である。単独での大気圏内飛行を可能とする特徴を生かし、ザフトの降下攻撃を高高度で迎撃する事を目的に開発された機体だ。だが結局は、コスト面の問題や戦闘時間の問題を解決するには至らず、戦争の終結とともに生産も打ち切られた機体であった。
丁寧にジェルの膜を張っている艦底に、ストラトス・レイダーはその口部を向けた。蒸発してビームの威力を削いだジェルの薄くなった部分に、二射目の狙いをつける。次の瞬間、その狙いを真正面に変えた。
高出力のビームをシールドで受け流したMSが、ビームサーベルを振りかざす。一機だけ、サブフライトユニットに乗って出撃していたのだ。急接近する敵に、機体を変形させて距離を取ろうとする。牽制で発射したビームを純白の装甲で凌いだその機体は、リーチの異なる武器を繰り出した。
「なんっ!?」
細いケーブルに繋がった小型のデバイスが、両脇から回り込むようにしてビームを発射する。ビームの刃だけでなく、ビームガンとしての仕様も出来るように改良されたエクステンショナル・アレスター。グラティアの一撃がレイダーを爆散させる。
リリトはレバーを押し込んだ。ゾーリンの上でグラティアの姿勢を低くして身構える。リベルの攻撃に機体を旋回させた一機に狙いを絞って、スラスターを吹かす。
ゾーリンから発射された牽制のミサイルは機関砲で撃ち落されるが、その爆煙に飛び込むようにして敵に肉薄する。振るったビームサーベルがレイダーのバインダーを切り落としたが、敵はそれをもろともせずに機体を捻ると口部ビームを発射する。だが、ビームが走り抜けた場所にグラティアはいない。逆に、直上からのビームがレイダーを貫いた。
リリトが後部モニターを見ると、残った一機がリベルのレールガンの直撃を受け、煙を吐きながら降下していく。ゾーリンの推進剤残量をチェックして、彼女は大きく息を吐いた。
ブリッジの緊張感が一瞬解ける。レセディの指示に従って艦の各部のチェックが行われる。対空兵装の一部に被害を受け、融除剤ジェルの残量が艦底部に張り付いている分のみとなったが、スラスター周りに異常はなかった。
既にスカンジナビアの領空であるが、護衛のための機体が到達できる高度ではない。ブルーコスモスはそれを読んでいたのだろう。トレランシアは降下速度を上げる。カシアはレセディを横目で見ながら、ホッとした口調でグラティアに帰還の指示を伝えた。
高高度でのMS戦闘は実例も少なく、降下訓練はあってもその途中での戦闘はザフトでも行われていない。単独での飛行が可能な機体をサブフライトユニットに乗せているとはいえ、墜落の危険性は通常の戦闘とは比べ物にならない大きさだ。その上、トレランシアとの距離が離れすぎて戻れなくなるというリスクもある。それを当然のように命令したレセディに、カシアは胸の中で舌打ちをする。
「・・・あれ、は?」
不意に発せられたマーカスの声に、カシアはモニターを見る。同時に両隣のクルーがキーボードを叩いた。
「アンノ・・・敵です! 直上!!」
声の直後にブリッジが揺れた。ビームの直撃を示すランプ、ラミネート装甲の排熱機構の始動を示すランプ、いくつかの区画にダメージを受けたことを示すランプが同時に点滅する。モニターには猛スピードで艦の横を通り抜ける機体の影が映った。
カメラが切り替わると、艦の下方で制動を掛けて上昇してくる敵の姿が映し出される。細長い機体の周囲を、七個の特徴的なブースターが取り囲んでいるような形状の機体。本体であろう中央部分はエグザスと呼ばれる連合のMAに酷似していた。
「左舷スラスター全開! 艦を右に滑らせて!!」
どんな場合も裏返らないレセディの声に応えるように、トレランシアがその巨体を無理やりに動かす。だが敵の放ったレールガンは、左翼のサブスラスターユニットを破壊する。
艦のバランス維持や、降下速度の修正などの指示がブリッジを錯綜する中、MSデッキから怒鳴り声が伝えられた。通信モニターには、気密服姿のアジズが大写しになる。
「フィランディエーレが出た、戻してくれ! 燃料も電池も未補給だ!!」
カシアが慌ててモニターを切り替えると、ゾーリンに乗ったグラティアが、再びトラレンシアの上を取った敵機に向かっていく。
「リリ・・・」
「何をしている、戻れ! フィランディエーレ少尉!」
カシアの悲鳴のような声に被せるように、レセディの強い声がブリッジに響いた。彼女は驚いて振り向くカシアに、呼びかけを続けろと叱責する。カシアはマイクにかじり付くようにリリトを呼ぶ。
応答の代わりに、グラティアは一瞬だけトレランシアの方を振り向いた。
片方の翼を失ってなおバランスを保ち、そればかりか甲板に展開させた艦載機で対空攻撃を行ってくる敵に、アズレト・ベノフは奥歯を噛み締める。コーディネーターが作った艦の威容に、彼は祈るようにつぶやく。
「青き清浄なる世界のために・・・」
彼の機体、高高度迎撃用MA・セマルグルは、その正面に敵艦から出撃したMSを捉えた。牽制の機関砲をばら撒き、レールガンを連射する。すれ違い様にスラスター兼用ガンバレルからビームサーベルを発振するが、それを受け流された。
外側に付けられた七つのスラスターを動かして、MS以上の制動を見せるセマルグルは、旋回するMSを七門のビームで狙い撃った。シールドを犠牲にしてビームに耐えたその機体は、小刻みにビームを放ちながら接近してくる。
「スラスターとして使ってるなら!」
ガンバレルは攻撃デバイスとして使用できない。その飛行スタイルから推進剤の消耗も激しいはず。リリトはペダルを踏み込んでグラティアを突っ込ませた。真正面から撃たれるだけの攻撃ならかわせる。
機体を軽く捻るようにレールガンをかわすと、ビームキャノンを牽制にしてサーベルを抜く。すれ違いざまにスラスターを斬り払おうとすると、そのスラスターが外れた。次の瞬間には、三つのガンバレルが周囲に展開されている。三条のビームが放たれ、一発はABP装甲で耐えざるを得なかった。
コクピットのアラームが鳴る。ゾーリンの方の推進剤と電源が危ない。リリトは大きく息を吸うと、意識を散らせた。
「これが・・・空の化け物の本性・・・」
アズレトの背筋に冷たいものが走る。本体の機動性を落として、七つ全てのガンバレルを展開しているというのに、全く捉えられない。それどころか、敵の動きは最小限の動きに抑制されている。まるで止まっている的のようなのに、攻撃が当たらないのだ。
既にガンバレルを二基落とされている。安全な帰還のためにはこれ以上のダメージは避けたいところであるが、目の前には地球をコーディネーターに売り払おうとする人間が乗った艦がある。アズレトは祈る。
「青き清浄なる世界のために」
一機のガンバレルを特攻させ、本体を加速させる。敵MSがガンバレルを切り払う直前にそれを自爆させた。派手な爆煙を横目に、呼び戻した四つのガンバレルのビームと本体のレールガン、全ての火器を敵艦へと向けた。
甲板上からの攻撃を避けるために敵艦の下方に回りこむと、祈りの言葉とともにトリガーを引く。だがそれが引き起こしたのは、艦の爆発ではなかった。
「バカな!?」
突っ込んできたサブフライトユニットが、ビームとレールガンの直撃を受けて四散する。そしてMSが単身で攻撃を仕掛けてきたのだ。ストラトス・レイダーとも交戦を行っていたはずの機体である。残り時間に余裕など考えられない。
ビームサーベルが突き刺さったガンバレルをパージして、セマルグルはトレランシアの下を抜ける。追いすがるMSにガンバレルのビームを放つ。
「まだ!!」
純白のABP装甲がビームを受け止め、グラティアは真っ直ぐに敵MAに迫る。敵のスラスターの向きから旋回方向を予測し、半テンポ早くグラティアを動かす。展開されたガンバレルの砲撃を掻い潜り、MA本体に肉薄した。
背後から攻撃しようとする二基のガンバレルをエクステンショナル・アレスターで貫き、必殺の間合いでビームライフルを構えた。アラームの煩さに舌打ちをしながら、リリトは引き金を引いた。
予想通り、最後のガンバレルがビームを受け止める。リリトは冷静に二回目の照準をつけた。
「・・・え?」
リリトの目はビームライフルが押しつぶされ、そのままグラティアの腕が体ごと拘束されるのを見た。エクステンショナル・アレスターのケーブルが切断された事が、モニターに表示される。
接触回線が開かれた。セマルグル本体下部から伸びた巨大なクローがグラティアを掴んでいる。慌ててPS装甲を起動させるが、内部構造体ごと押しつぶすような圧力には効果がない。
「貴様の死すべき場所は母なる大地の上ではない! 虚空に散れ、コーディネーター!!」
「いつまでも飛べないくせに!」
MS一機を保持したまま浮かび続けられるほど推進剤が持つとは思えない。帰還するには着陸用の推進剤を残しておかなくてはならないはずだ。グラティアの頭部機関砲がセマルグルの装甲板を傷つける。
「コーディネーターと戦うと決めた日から、命など捨てている!」
「このまま落ちるつもり!?」
「化け物相手に綺麗な勝ちなど考えていない! 青き清浄なる世界のために、ナチュラルは十の命と引き換えに、コーディネーターの骸を一つ得るのだ!」
グラティアの装甲色が灰色になる。PS装甲を切り、敵のクローに接触する部分のみ通電させると、残りの電力を腕の駆動に回す。機体の骨格が軋んでいるのが分かる。
「共存など欺瞞、融和など偽善! ナチュラルの道具として作られた物が、優性種を名乗ってそのナチュラルを支配するか! 人にあらざる力を持つコーディネーターは、もはや人ではない! 自然の摂理から、社会の倫理から外れて作り出された化け物に、生きる場所は無い!!」
装甲の振動を通じて聞こえてくる敵の声は、呪詛のようにリリトの心を削る。
「ナチュラルのために生きる事を放棄し、その力で富を独占し化け物を再生産する! その化け物を隣人にする恐怖からの解放、その化け物に抑圧される日々からの脱出! ナチュラルの永劫の幸福のため、青き清浄なる世界のために・・・死ね! コーディネーター!」
まるでコクピットの中で声が反響を続けるように、リリトの頭の中でその言葉がリフレインしている。「違う」そんな言葉すら出てこない。
グラティアの肩のモーターがオーバーヒートを起こして緊急停止する。バッテリー残量が危険域に入り、自動的に強制電源カットが行われる。様々な赤いランプが点滅し、モニターを埋め尽くすほどにウィンドウが開いている。その全てが、リリトの目には入っていなかった。
カシアの声は泣き声だった。ブリッジのモニターにはどんどんと高度を落としていくグラティアとそれを掴む敵機の姿が映っている。既に電源を失ったような色に変わったグラティアは、今にも握り潰されようとしている。
MSデッキから連絡が入る。苛立ちを押し殺すような声で肘掛の受話器を取ったレセディは、ただちにトレランシアのスラスターを噴かせた。
「よっしゃ! 頼むぞ、イェレ!」
アジズの声がスピーカーから聞こえ、イェレはコクピットのレバーを強く握る。気密服姿のタルハやユンディが退避すると、MSデッキの床の一角が開く。緊急用の底部発射口だ。一気に吹き上がってくる風に、フォルトゥーナも姿勢を崩す。
気合を入れなおすようにペダルを踏むと、フォルトゥーナはトレランシアを飛び出した。同時に巨大なワイヤーリールも回転を始める。コンテナ搬入に使用していたワイヤーをフォルトゥーナに取り付けて、命綱としたのだ。十分とは言いがたい長さだが、トレランシアが距離を詰めればギリギリ届く。
フォルトゥーナが両手足を広げる。命綱に切れない保証はないと言い含められているのだ。切れた時の事を考えるとスラスターは無駄に吹かせない。最悪、電源を失ったグラティアを抱いて落下しなくてはならない。
広げた手足を縮め、両手をテールバインダーに収められた斬機刀に添える。モニター正面にグラティアの姿を捉えた。
「リリトっ!!」
渾身の力で振り下ろされた斬機刀はセマルグルのクローの腕部分を切断する。セマルグル本体を蹴り飛ばすと、フォルトゥーナは同時に左手を伸ばす。だが、クローに拘束されたままのグラティアはそのまま落下を始めた。
追いかけようとしたフォルトゥーナに激しい衝撃が走る。延びきったワイヤーは、一部が外側の三層目まで破断する。リールが逆回転を始め、フォルトゥーナはイェレの絶叫を残して巻き上げられていく。
ウィンドウだらけのモニターの奥に、トレランシアの姿が映った。同時に、リリトの耳はイェレの声を聞く。ノイズの向こうから聞こえる叫び声が、自分の名を呼んでいる事に気付く。
考えるより早く体が動く、強制カットされた電源を回復させ、グラティアの肘を使ってクローの拘束から逃れる。そして全体重をペダルに乗せた。開かれたスラスターの振動がコクピットにも伝わる。落下速度は低下し、やがて機体は少しずつ上昇に転じる。その時、推進剤の警告ブザーが聞こえた。トレランシアはまだ遥か上だ。
「・・・足りない」
グラティアのセンサーが示すトレランシアとの距離、スラスターの推力と推進剤の残量、リリトの頭は瞬時に答えを導いてしまった。現在の高度から自由落下して、一定の高度で残りの推進剤を全てつぎ込んだとしても、衝突の衝撃はグラティアの構造強度を上回る。
リリトは力を抜いた。最後に聞こえたのが自分の名前でよかった。最高のコーディネーターに向けられる恐怖や不信、そんな声で無く、リリト・フィラディエーレを呼ぶ声でよかった。彼女はモニターに映るトレランシアを見つめ、ノイズだけになった通信機の音の耳を傾けた。
その声は、まだ聞こえてくる。
「リリト! 飛んで!!」
レーザー通信で飛び込んできたのはカシアの声だった。グラティアの推進剤残量は、トレランシアにも伝えられている。だからカシアは叫ぶ。
まだ、飛べると。
その声は、何度も何度も頭の中にこだまする。リリトはレバーを強く握った。
金属のこすれる音、強い力で金属が引きちぎられる音、複数の金属が衝突する音、モーターは無理な回転音を上げ、アクチュエーターが軋む。腕一本でグラティアを掴んだフォルトゥーナが、MSデッキに引き上げられる。ワイヤーは破断寸前で、取り付け治具は半分が壊れていた。
引き揚げ作業を手伝っていた他の機体も、尻餅をつくようにデッキに転がり、整備員が大声をあげながら作業に取り掛かる。グラティアのコクピットからリリトが姿を見せるが、そのままガックリと倒れてしまった。デッキの喧騒が激しくなる。
「気にしないの! 艦の状況報告!!」
その声は、ブリッジから飛び出していったカシアを黙認するという事だろう。マーカスは今度こそ本当に肩の力を抜く。その艦長を横目で見ながら、レセディはますます声を大きくする。
グラティアを拾い上げるために、トレランシアはかなり無理な急降下を行った。当初の降下軌道はとっくに外れ、進路修正も減速もかなり強引に行わなくてはならない。とりあえず艦長には、オスロの空港への緊急着陸許可の要請を頼む。それでもかなり無理な機動を必要とするだろう。いっそのこと、ノルウェー沖にでも着水して曳航船を呼んでもらいたいものだ。レセディはため息を指示に変える。
準備も何もなしに、ぶっつけ本番の高高度戦闘をやり遂げてくれたのだから、彼女らの事は大目に見ても良いだろう。グラティアの無理が無ければ、間違いなく沈んでいたのだから。
「どうして・・・なんて、馬鹿な質問だよね」
カシアはベッドの脇でつぶやく。リリトに怪我は無く、ただ疲労と緊張が切れたことで気を失っただけという診断だった。今、医務室にはベッドの上のリリトと、その横に座るカシアしかいない。
額に張り付いた髪の毛をそっとかき上げ、その汗を拭く。パイロットスーツを脱いだだけの姿が痛々しい。綺麗な金髪も乱れたままだ。
プラントから来たフィリップ・ラフィーヌはイェレとフィジェが追い出し、医務室に近づかないように見張っている。彼は、リリトの診断を艦に元からいた医者に任せ、ただその身体データの収集だけを行っていたのだ。
あの医者は医者の目をしていなかった。彼の目の前に運ばれてきたのは患者ではなく、貴重なデータだった。蒼白な顔で気を失うリリトではなく、通常では考えられないレベルの戦闘をこなした最高のコーディネーターだった。それは研究の対象であって、心配する相手ではない。
それを見て、リリトがどのような扱いを受けていたかが分かった。最高のコーディネーターが、どのような存在であったかが分かった。彼女は、こんな人間に囲まれて生きていたのだ。そして、彼女を苦しめていたのだ。
リリトが過去を隠していた理由も、それなのだ。最高のコーディネーターがどのように扱われるか、それを知っていたから隠していた、言えなかった。その力は忌諱され、その存在は好奇の目にさらされる。それを嫌ったのだ。いや、せめてそのような扱いを受けないでいられる場所を守りたかっただけなのだ。
アカデミーにいた時も、彼女は彼らの研究対象だった。でもアカデミーにいる時は、そうではないリリトでもいられた。
「旅行の行程、勝手に変えたのは、それから逃げるためだったんだ・・・」
カシアは目を強くつぶる。こみ上げるものを堪え、ちゃんと考える。彼女が守ろうとした物は失われてしまったのだろうか。カシアもイェレも、リリトの事を知ってしまった。まだ知らないままのフィジェに逃げ込もうとしたのは、そのためだ。でもそれは、いつまでも続けられない。
いつだったか、リリトが問いかけた事がある。カシアがナチュラルならコーディネーターと友達になれるか、と。それは問いかけであったが、その時リリトはどんな答えを期待していたのだろう。
最高のコーディネーターと分かってもなお、変わらずに友達でいる事を期待していたのか。それとも、最高のコーディネーターだと分かったとたん、あの医者のような態度に変わると思っていたのか。
「何か・・・腹立ってきた」
きっと後者なのだろう。だから隠していたのだ。期待されてしなかった、そういうことなのだ。自分はリリトの事でこれだけやきもきしていると言うのに、当のリリトは自分に対してたいした期待を持っていなかったのだ。
それは自分のせいなのだろうか。そうだと言われて否定できるだけの材料は無い。でも自分だけが悪いわけではないはずだ。リリトだって、何もしてこなかった。
艦が揺れ、カシアが椅子から落ちた。激しくなったスラスター音が低い唸り声のように、遠くから聞こえる。ベッドの縁に手をかけて立ち上がると、今の揺れで眼を覚ましたリリトと目が合ってしまう。
しばしの沈黙が訪れる。
「お、おはよ」
とりあえず口から出たつまらない言葉に、カシアは心の中で頭を抱えた。リリトは何かに気がついたように背を向ける。カシアの頭がカチンと鳴った。
「ちょっ、挨拶ぐらいしなさいよ」
何か違うと思いながら、カシアの口は動いていた。反応を見せないリリトの肩を掴んで、無理やりにこちらを向かせようとする。まるで石のような硬さでそれを拒むリリトに、カシアはベッドを回り込んで応じた。
右に左に向きを変えるリリトに合わせて、カシアが行ったり来たりを繰り返す。しばらくして根負けしたのはリリトだった。カシアと向かい合って、視線だけ合わせないようにする。
「私は、リリトの友達だよね?」
「・・・」
「それとも、私の片思いなの?」
「・・・」
「リリトは私の事、諦めてるの? 期待してないの?」
「・・・」
「答えてよ・・・って、答えなさいよ!!」
カシアがリリトの胸倉を掴もうと手を伸ばす。リリトはその手をいなし、逆に掴む。がっちりと固定されたカシアの手は、機械に挟まれたかのように動かない。カシアが全身使っても、振りほどくことはおろか、動かす事すらできない。
「無理よ。私の・・・」
「最高のコーディネーター? 知るか、そんなの!」
もう一方の手を振るってリリトの顔を狙うと、拳がかわされた勢いを使ってリリトを押し倒し、ベッドの上で馬乗りになる。
「あんたが何者なのかなんて、この際関係ない! 私とあんたが・・・」
医務室に駆け込んできたイェレとフィジェがカシアを引き離す。二人は状況が分からないまま、カシアをベッドから引きずり下ろし、そのまま医務室から引きずり出そうとする。
彼女は、抵抗するように身をよじり、大声で言う。
「勝手に・・・勝手に私に失望するな! 私の事だって何にも知らないくせに! 頼りにならないならそう言いなさいよ! 言っても無駄とか思うな! そんな風にバカにするな! あんただって、何にもしてないくせに!! 自分が・・・」
医務室のドアが閉められ、その後の言葉は聞こえなかった。ただ、何かを叫び続けていた事は分かった。リリトは呆然とドアを見つめ続ける。