Green travelers ~ The another seed ~   作:VSBR

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第三十七話 春一番

 ヨーロッパの高緯度地域に人が住める環境をもたらしている一つは、はるかメキシコ湾から流れてくる暖流である。しかし旧世紀末期の温暖化が終息し、北極海に氷が戻ってきたコズミック・イラ初頭から、その暖流の恩恵が弱まってきた。ここ数年はそれに拍車がかかっている。一説にはブレイク・ザ・ワールドによる北大西洋の津波と、塵の撒き上げによる気温の低下が関係していると言われていた。

 崖に穿たれた穴から、コンクリート製の構築物が顔を覗かせている。眼下の海にはまだ氷が浮いている。スヴァルバル諸島の周囲も、今は冬季に凍結するようになっていた。今年はその融けだす時期も遅いようだ。

「何か、見える?」

 構築物の壁面の窓に寄りかかるように外を見ていた少年は、その声に向けて首をめぐらせる。曖昧に微笑むと、再び窓の外を見やった。声をかけた少女は、同じように窓に寄りかかり外を見る。

 低い曇天の下には暗緑色の海と、パズルのようにいくつものピースが寄り集まった氷が見える。暗いトーンの風景画のように、そこからの景色は全く動かない。僅かに動くのは、飛び立った大型ヘリコプターの姿だけだった。

 スヴァルバル諸島の基地に伝えられる情報は、あまり良くないものばかりであった。つい先日も、高高度ではあるが領空深くまでプルーコスモスの部隊が侵入し、皇太子の乗った連合の艦艇が襲われていた。それを巡って、また議会と行政府がもめているらしい。

 少年のつぶやきを、少女は耳に留める。

「それを、見届けないと・・・きちんと、やり遂げて」

 少年の視線が少女に注がれる。その強い微笑みは、彼の迷いにいつも指針を与える。フリーダムを駆ると決めた時も、その微笑に後押しされた。その微笑が示す信念に、自らの力の居場所を見つけた。

 立ち止まって考えていても、世界は流れ続ける。流れ続ける世界の中で、悲劇は繰り返され不幸はその準備を整える。

 ならば、その流れに立ち向かおう。この世界に、現にある不幸に、今この瞬間の悲劇に抵抗しよう。流れ続ける世界の中で、流される涙のために戦おう。自分にはその力があり、その力を発揮する場があるのだ。

「そう、だね」

 スレイ・カルガはつぶやくように言った。

 プラントの研究所から、東アジアの研究所に。彼は何例目かのメンデルベビーとして、そして現在唯一研究が可能な者として、その力を調べられていた。研究者が彼を生み出したのは、研究のためだ。

 しかしそれは、自分が何者であり、何のために生まれたのかという、彼自身の問いの答えとはならなかった。彼が彼自身に問いかける問いの答えは、その研究所の中には無かった。同じように研究されている者も、その答えは持っていなかった。

 だから彼は、少女が伸ばした手を握った。そして、研究所を出たのだ。

 そこには、問いの答えの一端、いや答えを導くための手段があった。最高のコーディネーターという力を、自分自身の存在そのものを、活用すべき場所がそこにあった。だから彼はここにいる。

 フリーダムとアークエンジェルは整備を終え、いつでも発進できる状態に保たれていた。

 

 オスロ空港への緊急着陸の時、ちょっとしたトラブルが起きた。戦闘における影響で、浮遊システムとメインスラスターを併用した急減速でもトレランシアの速度は十分に緩まず、ランディングギアで滑走路を長距離に渡って抉った上に、オーバーランして空港脇の森に突っ込む形で止まったのだ。

 艦に乗っていた者の中には怪我をした者もいた。その怪我人の一人が皇太子だったのだ。しかし軽傷だった彼は、それについては問題とせず、逆にトレランシアクルーへ最大限の謝辞を寄せてくれた。

 マーカスの青ざめた顔は血色を取り戻したが、レセディの顔は苦いものだった。舌打ちとともに「つまらない貸しを」とつぶやくのをカシアは聞いた。

 着陸の衝撃で散らかった艦内の片付けと、オスロ空港からの移動の準備で、クルーは忙しそうに動き回っている。スカンジナビア領内に連合の基地は無く、サンクトペテルブルグまで移動して艦の修理と補給を行う事となっていた。ブリッジを後にしたカシアは、艦内作業の邪魔にならないように自室に戻る。

 疲れたようにベッドに倒れこむ。胸が潰れて苦しいのですぐに仰向けになる。仕方ないので、枕の方を顔の上に乗せた。

「何度目だろ、これ・・・」

 枕の下でくぐもったつぶやきを発した。リリトとも、心地よい友人関係ではいられないと思っている。

 アカデミーの時に履修した一般心理学概論だか哲学史集中講座だかで「ヤマアラシのジレンマ」というのがレポートの課題となった。愛のある人間は自らが傷付く事を顧みず、互いに抱き合い温もりを伝え合う・・・と書いて出したら単位がもらえた。そんな事を軽い気持ちで書いた自分を激しく嫌悪する。

 リリトへの接し方が根本的に間違っているのだろうか。どうしてムキになってしまうのだろう。

「・・・ムキにならないと」

 消えてしまう。ただ、仲良くなって、それで終わってしまう。仲が良かったという事実そのものが終わってしまう。そして何も残らずに、今まで来てしまった。カシアは友人の数を数えてみる。右手を広げたところで終わってしまった。名前を知っている人にその範囲を拡大してみる。広げた両手を握り終えないうちに止まってしまう。顔だけ覚えている人まで広げる。虚しくなってやめた。

 気付くのが遅かったと言えばそれまでだ。だが気付いた以上は何かしなくてはならない。虚しさの中で強く生きるか、虚しさに立ち向かうか。カシアは後者を選んだ。心地よい距離から踏み込んで、血まみれで暖めあう方を選んだ。招待客のいない結婚式ほど、薄ら寒い想像はない。

「だったら・・・ショートレンジでの打ち合いしかないじゃない」

 それで、もし嫌われても、きっと無かった事にはならないと思う。終わるにしても、建設的に終わりたい。何より、嫌われるつもりなんて無かった。リリトが怖がっている物が何なのかは、何となく分かっている。

 

 ムルマンスクの街のやや北方に基地司令部はあるが、街を中心に半径五十キロの広大な扇型の範囲は、要塞化が進んでいる。旧世紀は北極海の要衝として機能し、前大戦時は北方航路の拠点して大西洋や東アジアに物資を送っていた。そして今では、ブルーコスモスの一大拠点である。

 まだ多分に雪の残る景色を見ながら、扁平の輸送機が滑走路に舞い降りた。駐機場に移動する途中で、回収されたまま放置されたようなMAが見えた。輸送機の窓からそれを指差しながら、インとヤンは口々に言う。

「生きてたじゃねぇかよ」

 チン・ヤンチャンはそれをいつものように無視した。先日、成層圏で行われていた戦闘は、彼らも確認していた。しかし最大望遠に幾重もの画像修正をかけた上での画像として捉えたに過ぎず、シャーレンの航続距離をもってしても戦闘への介入は微妙なところであった。もちろん介入する気など全く無かったが。

 彼らの目的はあくまでも、スレイ・カルガの捕獲である。その一行がスカンジナビアに潜んでいるとの情報を得て、ここまで飛んできたのだ。しかし、今回の仕事はいささか面倒だった。

 面倒ではない仕事がしてみたいものだと思いながら、ヤンチャンはコートを着て輸送機を降りる。風が強く、体感気温は温度計以下の寒さだろう。かまわずはしゃぐインとヤンに、うんざりとした気持ちになる。

 ジンビンメイの前身となった機関は、東アジア系ブルーコスモスと密接なつながりを持つ機関であった。ただ東アジア共和国自身は、ブルーコスモスをプラグマティックに利用していただけであるため、コーディネーターを含む様々な研究が可能だったのだ。それを許していた当時の東アジア系のブルーコスモスは、原理主義的な性向を持つ大西洋やユーラシアのブルーコスモスとは一線を画する存在だったといえる。

 ともかく、その頃のコネクションを利用し、東アジア系ブルーコスモスからの支援という名目で彼らは送り込まれたのだ。現在の反ブルーコスモス世論を考えると、いざという時に東アジア軍が彼らの後ろ盾となる可能性は皆無である。スカンジナビアへの越境攻撃を行うブルーコスモスと行動をともにすれば、間違いなくフリーダムに遭遇するという目論見であり、それ以外の行動は差し控えるのが命令であった。

 後ろの二人がそれを守るとは到底思えず、ヤンチャンは深いため息をついた。その息が白い湯気となって顔の前に広がる。

 そもそも今のジンビンメイにブルーコスモスの思想に共感するものは少なく、むしろカルトと化したような現在のブルーコスモスには、少なからぬ嫌悪感を抱いている。上からの命令でなければ思いつきもしなかった作戦であろう。

 基地の向こう側に、ひときわ巨大な建物があった。それを見ていると、案内の人間が聞きもしないのに教えてくれる。まだそれだけのものを所有できるこの組織は、やはりただのカルトではないようだ。

 

 車輪だけのような姿の巨大な車が三両、ノロノロとワイヤーを引っ張って進んでいる。滑走路を移動するための車輪を出したトレランシアは、ようやく突っ込んだ森の中から引き出された。なぎ倒された木々を見て、自らの幸運にマーカスは感謝する。ランディングギアで抉った路面の修理も始まっていた。

 遠くに見えるターミナルビルを見ながら、ダイヤの乱れはどれほどのものだろうかと聞いてみる。レセディは聞こえない振りで応じた。

 通常空港であるオスロ空港にはトレランシアを置いておく場所は無く、新滑走路建設予定地にとりあえず移される。浮遊システムの点検と修理を終えたらすぐにでも発進しなくてはならないだろう。幸い、着陸時に受けたダメージは無く、一晩で全ての作業が終わるとの報告が入っている。

「楽な仕事のはずだったんですけどね」

 マーカスは努めて話しかける。レセディの機嫌は極めて悪かった。別に宥める理由は無いし、あの吊り上がった目尻ははっきり言って好みだ。だが別段機器の操作の必要の無いこの状況で、緊張感だけを募らせているクルーが気の毒だった。

 彼女の立ち上がる音に、全員の肩が震えた。彼女は靴音を鳴らすように回れ右をすると、冷たい声で艦長に声をかけてブリッジを出る。その棘のような声の余韻に浸る間もなく、マーカスはその後を追いかけた。艦内の放送が、ザフトから出向している六人を艦長室に呼び出す。

「いよいよ、降ろされるのかな」

「だといいけど・・・」

 タルハとユンディが、オレンジ色のペアルックならぬ作業着姿で連れ立っている。スカンジナビアはプラントとの繋がりもあり、降ろすには絶好の場所かもしれない。副長が、自分達を降ろしたがっている事は耳にしていたし、リリト達の関係もそろそろ潮時だと思っていた。

 艦長室のドアをノックし、その大仰な扉をくぐる。他の四人は先に来ていた。横並びに立っている四人に並ぶように、二人も艦長の机の前に立つ。軽い労いの言葉の後、艦長の後ろで控えていた副長が本題を口にした。

「以上です。レペタ少佐、ハミード技術大尉には内示済みですので、ただちに準備を始めるように」

 用件だけを言った彼女の雰囲気に気圧されて、六人は顔を見合わせる。何より、何故そこまで不機嫌なのかが分からない。おずおずとタルハが言う。いつか言った事のあるセリフだ。

「スカンジナビア皇太子の護衛という事ですが、我々はそのための訓練は必修一単位分しか受けていません」

 彼ら六人には、スカンジナビア皇太子の護衛としてオスロ空港から王宮のあるカルルスタッドまでの随伴が命じられていた。直接の責任者として艦長と副長が同行することとなっている。

 マーカスが、本当の護衛はスカンジナビアが行い、こちらはあくまでもポーズとして随伴するに過ぎないと言った。これも、いつか聞いたことのあるような答えだ。出発は明日の夕方とされた。

 

 ピリピリとした空気はロビー脇の喫茶店にまで流れ込んでいた。客の怒鳴り声とウェイターの謝罪の声が響いている。八つ当たりされる方はたまったものではないだろう、カヲはグラスを傾けて水を口にする。頼んだコーヒーはまだ来ていない。

 だが、予定していた飛行機の離陸の目途が立っていない以上、早くコーヒーが来たところで意味はない。ガラス張りになったテラスから、宇宙艦が牽引されていく様子を眺める。皇太子を乗せた艦の緊急着陸によって、飛行機の離発着に大きな影響が出ていた。

 こればかりはどうしようもないアクシデントである。そんなものに浮き足立っても意味はない。現実が動かないのであれば、予定を動かせば済む話だ。それが出来ないバカは、ああやって意味もなく怒鳴り散らす。

「奇遇・・・ですわね」

 喫茶店は混んでいたので、相席は構わないと伝えておいた。テーブルの向かいに座ったのは金髪の美人だ。名前は確か、アンジェリカ・マイズナーといった。ターミナルのエージェントをやっている女だ。

 カヲも丁寧に会釈を返し、そのまま窓の外に視線を戻した。仕事の予定をずらした以上、今はプライベートの時間だ。女はトーストのセットを注文する。

「エフライム・ビーンシュトックの思惑、その一つはターミナルの解体です」

 顔の向きをそのままに、視線だけを女に向けた。喧騒に紛れるように、女は続ける。

 ロゴスの解体に成功しながら、オーブとプラントでたて続けに仕掛けられた金融攻撃で、ターミナルはその組織を弱体化させられていた。しかし金融業と情報関連企業を主とするターミナルが、地球圏に張り巡らせたネットワークは健在であり、当然再起を期して活動は続けられていた。

 エフライムは、そのネットワークを破壊しようとしている。その方法はいたって単純であり、アークエンジェルの運用や各地の反連合勢力への支援に、そのネットワークを足がつく形で利用するのだ。後は連合当局が、テロ支援組織としてそのネットワークを摘発すれば終わりである。

「やる気になれば、この瞬間にでも口座封鎖が可能なほどに、調べられているわ」

 ようやく運ばれてきたコーヒーをかき混ぜながら、カヲは話の続きを促す。ターミナルの行く末に興味は無いが、連合の動きによっては大きなビジネスチャンスとなる。女はトーストにジャムを塗っていた。

 ターミナルの構成企業は摘発対象とならないように、ダミー会社や匿名ファンドとの関係を断ち切っているが、それは組織の弱体化とネットワークの機能不全をもたらすものでもある。どちらにせよ、ターミナルがかつてのような影響力を行使することは困難とならざるを得なくなるだろう。

「雑談の話題としては、少し不適切ですね」

「私も就職活動を始めようと思いまして」

 トーストを口に運びながらアンジェリカは嘯いた。こういった事で貸し借りを勘定するような男ではないだろうが、ターミナルの先行きは決定的である。コネクションを広く浅く持っておくに越したことはない。

 つまらなそうに窓の外に視線を戻した男に聞こえないよう、アンジェリカは舌打ちをする。

 

 準備と言っても、カルルスタッドで一泊してそのままサンクトペテルブルグに向かう予定なので、することは無い。僅かな手荷物を整え、制服のプレスを頼んでおくくらいだろう。

 ベッドに横になり、見慣れた天井を見つめる。不意にカシアの顔を思い出した。思い直すように目を閉じる。出発まで寝ていようと思った。部屋の呼び鈴を無視する。その十分後、あまりのしつこさに根負けした。

 開いたドアの前にはカシアが立っていた。「一人にして」そう言ってドアを閉めようとしたリリトに、カシアの拳が伸びてきた。反射的にそれをかわすと、伸びきった彼女の腕が横に払われる。

 上体をのけぞらせるようそれを避けた。カシアはさらに踏み込み、のけぞった上体を狙って拳を繰り出す。飛び下がって距離を取ったリリトの前で、カシアは拳の勢いのままに床に手を着くと、逆立ちのような格好で両足を開き一回転する。アカデミーの体術の実習でカシアが得意としていた連携。

「ミニスカートで!?」

 流石に意表を突かれ、両手を使って左足の蹴りを受け止める。その瞬間、右足の踵が風を切ってリリトの頭を襲った。

 しかしリリトの足が、カシアを支えていた手を払っていたため、カシアの足がリリトに届く前に彼女は派手に倒れる。打ち付けた肩口を押さえるカシアの胸倉をリリトは掴んだ。泣きたいのか怒りたいのか、何だかよく分からない表情の彼女を、カシアはしっかりと見据える。

「流石、最高のコーディネーターね」

 リリトの表情が固まり、蒼白になっていくのが分かる。胸倉を掴む手が震えていた。握力無くなった手はカシアを支えきれず、彼女を取り落とすと後ずさりを始めた。口元は痙攣し、表情が奇妙に歪む。呼吸が荒く早くなり、目の焦点が定まらなくなっていた。

 カシアが唇を噛み締める。その言葉がどれほど残酷か、自分には到底理解の出来ない事だと理解しているつもりだ。だがそれを口にしなければ、どうしても欺瞞の薄皮が残ってしまう。それを破って、直接触れなくてはならないはずだ。彼女は足を踏み出した。

 近づくカシアから、リリトは逃げるように下がる。壁際まで追い詰められ、彼女は脱力したように床に座り込んだ。突き刺さるようだったリリトの胸の痛みは、いつの間にか空洞に様になっている。

 彼女の頭の中で、何かが音を立てて崩れそうになった。か細く叫ぶリリトを、カシアは抱き締める。

「ごめん、ごめんね・・・リリト。ひどい事、言って・・・怖いんだよね、自分の事が、私達の事が、だから隠してた・・・怖いから、見たくないから、隠してた。ずっと隠していられれば、良かったよね。でも、私、知っちゃったから・・・リリトの事。それは、どうでもいい事なんかじゃないんだよね。リリトの事だから、絶対に逃げられない事だから、だから・・・これからは一緒にいよう。一人で最高のコーディネーターであることに立ち向かわなくていいから、一緒にいるから、もう怖がらなくていいから。だから逃げないで、私から、私達から・・・ずっと一緒にいてよ・・・」

 涙に埋もれる声は、もはや何を言っているのか分からない。伝えたい事がありすぎて、言葉ではなく涙になってしまう。

 本当はもっとスマートに決めるつもりだった。もっとカッコよく伝えるつもりだった。最高のコーディネーターなんか関係ない、リリトが友達だという事実は揺るがないと、胸を張って言うつもりだった。

 それがどうしてこうなるのだろう。支離滅裂に言葉を紡ぎながらカシアは泣いた。リリトの涙が胸を濡らすのを感じながら、カシアは泣いた。

 

 スカゲラク海峡を抜け、カテガット海峡に入る。ブリッジの緊張感は否が応にも高まっていた。北海とバルト海を結ぶのはこの先の、エーレスンド海峡かストレ海峡しかない。どちらも海峡の幅は狭く、水深も浅い。この艦の大きさだと、十分な潜水は不可能である。

 一般船舶であれば自由に往来できるここも、ユーラシアが管轄する海である事に変わりは無い。お尋ね者のアークエンジェルがここを抜けるのは骨の折れる作業だ。

「飛べれば楽だったのにな」

 キャプテンシートの男がぼやいた。先日、連合艦とブルーコスモスの間で行われた高高度戦闘の影響で、スカンジナビア領空の警戒態勢が高まっていた。国王の庇護を受けているとはいえ、それは秘密裏の事であり、スカンジナビア軍を刺激するような行動は取れない。

 次の作戦はバルト海に入っていた方がやりやすい。男は気を引き締めるように細かな指示を送る。対ソナー機器をフル回転して海峡を進む。こちらの音を抑えるため、MSデッキは完全固定であった。

 ただ一人のMSパイロットは、作戦の概要を聞いていた。説明を行う男はスカンジナビア軍の制服である。

「ブルーコスモスのテロ・・・ですか」

「裏には間違いなくユーラシアがいます。テロを利用して王家への介入を画策している」

 作戦自体はシンプルだが、かなり派手な事になりそうだ。スレイ・カルガは、概要書を受け取ると、地図をMSのコンピューターに取り込ませるためデッキに向かった。すれ違う整備員の軽口に軽口を返しながら、彼はMSデッキ脇のコンピューター室のドアを開けた。

 整備主任が手を差し出した。作業は任せて休めと言う。その言葉に甘えて、彼は自室に向かった。居住区の分厚いアクリルガラスの窓から見えるのは、真っ暗な海中に映る自分の顔だ。そこにもう一つの顔が映りこむ。

 桃色の髪をショートカットにした少女、彼の恩人であり、理解者だ。その少女、ヴァゥニーユ・ペシュがじゃれるように微笑んだ。

「追い出されたんですか? 休めって」

 彼は肯定の微笑を返す。ずっと働きづめなのだから当然だと彼女は言う。そして、食事と睡眠は人間の基本だと付け加えた。彼女が彼の手を引く。食堂からはいい匂いが漂ってくる。そんな事が、とてもうれしい。

 ここでは、自分自身の事を考える必要がない。誰も彼に彼の存在を突きつけたりはしない。彼が何者であるかは、クルー全員が知っているはずだ。それでも彼はただのスレイ・カルガとして扱われる。

 最高のコーディネーターとして研究されるのではなく、ただの人間として共に生活することが出来る。自分が何者でもない自分自身である事を、ここの人達は、この少女は、言葉にすることなく教えてくれる。

 自分の過去など、ここではどうでもいい事だった。語る必要も無く詮索される事も無い。語るのはただ、現在の事と未来の事だ。

「白い服なのにカレーうどんですか?」

 少女が不思議そうに尋ねた。

 

 地球連合軍本部の置かれているダブリンから、ユーラシア連邦軍司令部のあるプラハへと移動する。ルチアーノ・プレスは、専用機の窓から見慣れたヨーロッパを眺める。政府機能が極端に分散化されているため、移動が煩雑なのがユーラシアの難点であった。高速通信網が存在するため、日常業務には何らの支障はないが、彼のように実際に人と会って話をする仕事の場合は、不便この上ない。

 ザフトのジブラルタル侵入とその後の割譲、ブレイク・ザ・ワールドによる被害、そしてベルリン崩壊。政府機能の分散化はリスク回避の手段である。議会下院はパリ、上院はワルシャワ、憲法裁判所はベオグラード、中央銀行はボン、行政府はブリュッセルとジュネーブとミラノとアムステルダムの四都市に分かれている。セクショナリズムの弊害が早期に現れるだろう事は、識者の一致した意見であった。

 その上現在は、復興を支える生産の拠点を中央アジア地域に置いているため、関連官庁の一部をそちらに移す案も出ていると言う。そうなると移動距離はもっと増えることになる。ルチアーノは資料に目を戻した。

 緊急即応部隊は順調に活動を続け、彼の仕事もスムーズに進んでいる。部隊の仕事はまだまだいくらでもあるが、二十年スパンで考えれば着実に減っていくだろう。発足したてではあるが、そのくらいの手応えは感じられた。今は各国共に仕方なく容認しているこの部隊が、積極的に利用されるようになれば、その先も見えてくる。

「その頃には私はいないな・・・」

 だが、これは自分の理想などではなく、政治的な要請、歴史的な必然なのだ。誰がこの席に座っても、向かう先は一つである。だから今は、目の前の事態を着実に処理していく。

 トレランシアがサンクトペテルブルクに移動したため、次の作戦も自動的に決定されていた。ユーラシアに部隊の有用性を認識させるには格好の舞台である。その前に、雑事を一つ片付けておかなくてはならない。

 資料に挟んであったメモは、スカンジナビア王国皇太子の護衛任務についているトレランシアクルーからの返事であった。雑事への参加を指示したのだが、案の定持って回った言い方で文句が述べられている。文面からレセディのとげとげしい声が聞こえてくるようだ。

「私のせいではないのだがな・・・」

 スカンジナビア国王・ハーラル九世の即位十周年記念式典への出席。ユーラシアは外相を、他の国は大使級の人物を送るようだ。連合も担当局長を送ると決定していた。そこにルチアーノとトレランシアの八名も加わるのだ。皇太子からの名指しであった。

 表向きはアフリカからずっと世話になっていた事への労いだが、そこで皇太子の婚約も発表されると内々に知らされていた。おそらくはそれが本当の理由だろう。

「こういうのは公私混同というのだろうが・・・」

 再構築戦争がもたらした政治体制の変革は非常に劇的であった。王制という政治制度の復活などその際たるものである。スカンジナビア王国はかつてのオーブほどでないにせよ、世襲の王家が大きな権限を持っている。公私混同なのではなく、公私の区別が存在しないのが王制なのだ。

 シートベルト着用ランプがともり、飛行機は着陸態勢に入った。

 

 泣き疲れたのか、話し疲れたのか、二人は微かな寝息を立てていた。狭いベッドの上で鼻を突き合わせるように体を寄せて、浅い眠りについている。昨夜一晩中、二人は話していた。

 リリトは今まで話せなかったことを話した。自分自身の事を、些細な事もそうでない事も、辛い事も悲しい事も苦しい事も話した。それは苦痛だった。涙は言葉を遮り、溢れる感情は言葉を失わせた。それでも、リリトは話した。

 カシアは今まで聞けなかった話を聞いた。リリトの事を。些細な事もそうでない事も、辛い事も悲しい事も苦しい事も聞いた。それは苦痛だった。今まで自分が気付き得なかった事を突きつけられた。すぐ傍にいたリリトが、ずっと苦しんでいた事に気付かなかった自分に気付いた。だから聞いた。涙を拭くのも忘れて、彼女の話を聞いた。自分自身の至らなさを胸に刻んだ。

 二人は今まで話した事を話した。アカデミーでの事を、些細な事もそうでない事も、楽しい事も嬉しい事も心地よい事も話した。それは愉快だった。涙を浮かべるほどに笑い、ついこの間の思い出にひたった。

 今まで二人が過ごした時間より長く、二人で過ごしたような気がする。それ以上に、時間の経過など気にならなくなっていた。

 カシアの寝返りにリリトが薄く目を開ける。枕元の時計に視線をやった。

「ねぇ・・・集合って何時?」

「四時よ」

「三時半・・・」

「夜の?」

「PM・・・」

 二人は、仲良く飛び起きた。寝過ごしたとか言うレベルではない。それなのに二人で、泣き腫らしたひどい顔を見合わせて思い切り笑いあう。タオルと下着を掴んでシャワールームにダッシュした。

 プレスされた制服をランドリーから持ってきて、髪を乾かす暇もなく身に着ける。化粧どころか、腫れた目を元に戻す余裕すらない。手荷物だけを引っ掴んで、艦長室まで再度ダッシュだった。

 四時ジャストにドアをノックし、荒い息を吐きながら中に入る。何か言おうとしたレセディが、そのまま絶句するのが分かる。他のみんなも、変なものを見る視線で二人を見ていた。

「遅れて、ないですよね」

「多少遅れても構いませんよ・・・というか、その姿でスカンジナビア皇太子の護衛はしてもらいたくないですね。連合の品位に関わるので」

 マーカスの言葉に、リリトとカシアが顔を見合わせる。

 目の周りは真っ赤で腫れぼったく、髪は濡れたままで乱れている。せっかくプレスされた制服も、いかにも慌てて着ましたという感じだ。カシアなど、ボタンが一段ずれている。

 リリトが思わず吹き出した。カシアも耐え切れないといった感じで笑い出す。レセディの雷が落ちるまで、二人はお腹を押さえて笑っていた。

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