Green travelers ~ The another seed ~ 作:VSBR
モニターの一つには、今まさに崩れ落ちようとしているデストロイの姿が映っている。別のモニターには、アークエンジェルの眼前で静止するフリーダムの姿が映し出されていた。だがクルーの視線は、そのどちらにも向けられていない。戦闘の喧騒からまだそれほど離れていないが、ブリッジの内部は不気味に静まり返っている。センサー類の電子音や、艦の各部からの通信が、その静けさを破ることは無い。
それはただ静かなのではない。緊張感が、ブリッジ全体の空気を堅く張り詰めさせている。視線の集まる場所、その緊張感の中心から声が上がる。だがその声は、およそ緊張感とはかけ離れた声だ。
「ハーイ、みなさんリラックスして下さい」
「雑談とかオッケーです。話があるのはスレイ・カルガくんだけなんで」
銃を手にしたインとヤンが、キャプテンシートの後ろに立っていた。艦長は既に下に追いやられ、シートには代わりにグスタフ・ユングリングが座っている。その頭部には銃口が突きつけられていた。
ブリッジのスピーカーが、悲鳴のような連絡を受け取っていた。グスタフの警護官が死んでいると言う。ブリッジに張り詰めた緊張感が、一層その堅さを増す。
返答の無いブリッジに、各所から何かあったのかとの問い掛けが集まってきた。インがマイクをとって言う。
「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」
ケタケタと笑って全てのスピーカーを切らせる。抵抗を禁じた艦長へ慇懃無礼に礼を言うと、ヤンが本題に入った。フリーダムとの通信が開かれ、モニターの一つにコクピットの様子が映った。
バイザーを上げるように指示を出すと素直に従う。悲しげな表情のスレイに、インとヤンは再びケタケタと笑う。
「お前、ボキャブラリーだけじゃなくて表情も少ないのな」
「もぅ見飽きた、その顔」
スレイを一通り弄ると、ようやく要求を口にする。唇を噛むスレイは、言葉を噛み締めるように条件を出す。
「人質は解放して下さい。あと、他の人にも危害を加えないで下さい」
「俺らだってこんな役立たずいらねぇよ」
「あ、既に危害を加えちゃった人がいるのは勘弁ね。あと、抵抗しても加えちゃうよ」
インの銃が火を噴いた。ブリッジクルーの手元を掠めて、機械の一部を破壊する。初期消火用二酸化炭素噴出装置のスイッチが破壊される。今のはサービスと言って、弾の掠めた手元をさすっているクルーの眉間に銃口を当てる。
スレイが大きな声で了解の意志を示し、インは拳銃を下ろした。フリーダムが着艦を始める。ヤンは、後ろ手に縛られたグスタフを立ち上がらせ、MSデッキに向かおうとした。人質をインに任せ、拳銃を構えてブリッジの扉を開く。同時に、桃色の何かが飛び込んできた。
払いのけたボール状の物体に視線が流れた瞬間、ヤンは肩口に衝撃を感じる。同じ桃色の髪をした女が、ナイフを右肩に突き立てたのだ。そのまま押し倒そうという勢いを受け止め、逆に女を蹴り飛ばす。だが上手に脚を受け流され、相手の体勢を崩すことが出来なかった。
ナイフだったのは人質に銃弾が当たる事を恐れてであろう。その甘さに、ヤンは肩をすくめてナイフを抜いた。もう一本のナイフを取り出して身構える女に向かって、悠然と足を進める。目の端には、驚いた顔も見せず助ける気もなさそうなインが欠伸をかみ殺しているのが見える。抵抗をやめるように言う気すらないらしい。
ここの連中にしてみても、この人質とスレイの交換は微妙な線なのだろう。女にいたっては、スレイを優先する事も辞さないといったところだ。ホントに使えねぇ、ヤンはそうつぶやいて右手を振るった。
肩から滴る血液が、指先から女の顔に飛ぶ。意表を突いた攻撃に女の一分の隙が生じた。その瞬間には、ヤンの手が女の首にかかっている。軽々と持ち上げられた女は、声を出す事もできない。ナイフが落ちる音と共に、インが声を出す。
「殺さないでよ、スレイくんがへそ曲げると大変だから」
「分かってる」
お前とは違うと言って、女を投げ捨てる。受け止めた艦長の腕の中で彼女は気を失っていた。ブリッジを出て行く二人は、デッキまでの通り道で犠牲者を出したくなかったら艦内放送を流しておけと言う。
その突然の放送に艦内は混乱した。敵の潜入工作員にスカンジナビア皇太子を人質に取られ、フリーダムパイロットのスレイ・カルガとの交換を要求されたのだ。MSデッキには、コクピットハッチを開いたフリーダムが待ち構えていた。それを遠巻きにするようにクルーが見守っている。
ヤンがスレイに降りてくるように言った。そしてデッキに各部に、銃弾で警告を出す。キャットウォークから一人のスナイパーが落下した。
「抵抗すんなって言ってるだろうが、なぁスレイよ」
両手を上げたスレイが、人質を解放するように言った。ヤンは呆れたように言う。
「アホが、お前の拘束が先だ。最高のコーディネーターが本気を出せば、俺達なんざ二秒で死ぬわ」
インがニタニタと笑みを浮かべる。手には手錠や針金が用意されていた。それで幾重にも手足を縛る。インは身動きの取れなくなったスレイを担ぎ上げた。そのままの状態で、スレイは言う。
「もういいでしょう。皇太子を解放して下さい」
「あんた、いつまでたってもバカよね。そんなことしたら手錠引きちぎられて、私らが殺されるじゃない」
「そんなこと・・・!」
「あんたがするしないじゃない、可能か否かが問題なの、この場合」
インとヤンは人質を二人抱えて、デッキの隅に向かう。遠巻きにしていた、人だかりが自然と割れて道のようになった。その先には、地上との連絡用の小型飛行機が止めてある。
ヤンが二挺の拳銃を二人の頭に押し付け、インは操縦桿を握る。軽くブリッジを脅してハッチを開けさせると、エンジンを始動させた。
「行きま~す!!」
馬鹿にしたようなインの声を残して、小型機は雲間に消えていく。ブリッジのセンサーは、高高度から降下してくる大型機の機影を捉えていた。
窓の外の日差しは春らしい穏やかさだった。陽気とは言えないまでも、寒さは和らいでいる。空を流れる雲の形を目で追いながら、カップの紅茶を口に運んだ。添えられたジャムの色が鮮やかだ。
だが視線を空から下に向けると、そのような穏やかな時間とは無縁の空間が広がっている。サンクトペテルブルクの基地は、慌しく動いていた。
デストロイの保有やスカンジナビアに対する本格的な攻撃など、コラ半島を拠点とするブルーコスモスは、その危険性の高さを周辺地域に再認識させていた。ユーラシア政府も背に腹は代えられなくなったのであろう、各地から軍部隊を引き抜き本格的な制圧作戦を開始するようである。既にバレンツ海への艦隊派遣は終わっており、海上封鎖は始まっていた。
「艦の修理が終わったら、私達も行くのだろうか」
カップを置いたアレナがつぶやく。視線を室内に戻すと、そこにはいつものように机に向かうタラスがいる。愛用の辞書は元の倍くらいに膨らんでおり、その使いようがよく分かった。
いったいどれくらいのノートを文字で埋めてきたのだろう。もともと私物らしいものを持っていなかった彼は、今やトレランシアで一番私物の多いクルーになっていた。ノートや本、プリントアウトされた論文やコピーされた資料の束が、ダンボール箱に詰められて部屋に積まれている。
どこに何をしまっているかも完璧に把握しているようで、不意に立ち上がってはダンボールの中に手を突っ込んで中身を取り出している。質問の内容も、だんだんと高度になってきていた。
「これは純粋に見解の違いと見ていいだろう」
アレナは、本と論文をタラスに返す。同一の事象に対して正反対の記述がされているのは、どちらかにデータの恣意的な引用や事実に対する誤認があるのだろうかという質問に、アレナはとりあえずの答えを出しておいた。感謝の言葉もなく、代わりに次の質問が来る。
アレナはもともとユーラシアの士官学校では幹部候補生だった。だが軍官僚や幕僚幹部では結局「戦争の企画立案」しか出来ないと感じ、たまたま見つけた女性テストパイロットの募集に乗って道を外れたのだ。
戦争によるMSパイロットの減少から、連合各国でも本格的に女性パイロットの育成が目指されていた。幸いにして体格にも体力にも恵まれていた彼女は、パイロットとしても十分に優秀だった。しかし、新たに設立された女性のみの教導団の幹部ポストを蹴って、この艦のパイロットに応募したのだ。
各地で起こる紛争に対し、早期の軍事介入によって迅速な解決を目指す部隊。同じ軍隊で「平和の企画立案」をしようというのだ、その野心的な試みに興味を引かれた。そしてまずは現場を知るために、パイロットとして緊急即応部隊に加わったのだ。
ゆくゆくは上に上がるつもりである。だが、とアレナは手にしていた本から視線を移した。
「彼の方が先に行くかもしれないな」
窓の桟に小鳥がとまっているのにも気付かないタラスに、アレナは小さな微笑を見せた。
作戦が伝えられるのはトレランシアの修理が終わってからという事だった。ユンディの話ではあと三日はかかると言う事だったので、それまではクルーに完全な休暇が与えられる。すっかり疲れの取れた体で、リリトはベッドに寝転がっていた。
自分は次の作戦にも参加するのだろうか。それは何故なのだろうか。答えが天井に書いているわけではないが、彼女の目は天井を見つめていた。
少なくとも分かっている事は、戦争をする理由を持っている人間がいる事と、その者達の語る言葉を理解できないという事だ。全員が全員「世界」を口にする。「世界のために」と口にする。それはいったい何なのだろうか。
プラントのための、コーディネーターのための、最高のコーディネーターとして存在していたリリトにとって、その言葉は理解しがたいものだ。世界に拘束された生き方、自分自身とは違う自分自身を要求される人生、何者かにカテゴライズされた不自由な存在。それを不幸ではなく幸福と感じる者がいる。それが端的に分からないのだ。
「開いてます」
呼び鈴にそう答える。ドアから顔を覗かせたのはイェレだった。リリトは慌てて起き上がる。
「いや、別に用ってわけじゃないけど・・・」
フィジェはカシアに半ば強引に連れ出されていた。その隙を突いたといえば聞こえは悪いが、つまりはそう言うことだった。ティーポットにお湯を注いでいるリリトに、何をしていたのかを聞く。
リリトは代わりに、今考えていた事をイェレに質問する。カップを受け取りながら、イェレは顎を撫でる。
「俺も・・・分からないな、多分リリトと同じ感覚だと思う」
彼はアカデミーでの事を話す。
入学条件の緩和と卒業後の進路要件が緩和された事によって、アカデミーのザフト色は薄まっていた。そのため入学してくる生徒も、かつてほど一様の考え方をしているわけではなかった。
それでも士官養成学校である以上ザフト志望者は多く、そういった者達の考え方は、ある程度共通していると言えた。だが、その「共通した考え方」とは一体どのようなものなのかは、明確にされていない。
そのためそれは「共通の考え方」というより、「共有化された精神」のようなものだった。感覚的に納得する事を要求するものであり、ロジカルな理解は求められない。むしろその精神をロジックにすることそれ自体を、「非精神的」として排除するような雰囲気であった。
「パイロット課程にはさ、そういうの多かったじゃん。ザフトのためにとか、大声で言ってる奴。俺、あの言葉、軽くて嫌いなんだよ」
イェレが軽いと表現する感覚は、リリトにも分かる。どれほど大声であろうと、その言葉は他人に理解されない。少なくとも、リリトには理解できない。説明を求めても自己言及で満足してしまうような言葉だ。「ザフトとはザフトだ」そんな逆ギレを見せる者は、珍しくなかった。
「何だろうな・・・ザフトでもプラントでも、コーディネーターでもいいや、とにかく、実感がないんだよ、そういう言葉って。よく分からないっていうか・・・手触りがないんだ、心の中で納得できる手触りが」
恋人の手を握り締め、生きて帰ってくると誓うパイロット。その心情は理解できる。その握り締めた手、見つめる瞳のためであれば、戦えるし生き残れるだろう。だが、ザフトやプラントを対象に、そんな心情になれるのだろうか。それはただの言葉だ、見る事も触ることも出来ない。本当に大切なものは目に見えないと書いた人は、戦争に身を投じて帰らぬ人となった。
リリトやカシア、フィジェやタルハやユンディがいなければ、イェレはこうしていられただろうか。装甲一枚で隔てただけの狭い空間の中で、荷電粒子と電磁砲弾の飛び交う空に耐えられただろうか。
こうして手に触れられる、確かな何かのためだからこそ、耐えられるのではないだろうか。イェレはようやく、無意識にリリトの手に触れていたことに気付く。
「!? あっ・・・その、ゴメ・・・ん!?」
とっさに引っ込めようとした手を握られる。驚いたイェレの表情を気に留めることなく、リリトは彼の手を両手で包むようにして、しげしげと見つめる。
それなら分かる、リリトは思った。だがそれでは疑問の半分にしか答えていない。世界を口にするものは、こうして世界の手を握り締めているのだろうか。もしそうだとすれば、どうしてそれが出来るのだろうか。それはどんな形をして、どんな大きさで、どんな手触りなのだろうか。
温かくて愛おしいものなのだろうか・・・リリトは、イェレの手を引いて立ち上がった。
「私達も出かけよ」
ティーカップもそのままに、イェレはリリトに引かれて部屋を出る。彼女に誘われたのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。
いつも通りに制服を着込んでいる彼女に、少し落胆する。正規の仕事ではなく内々の相談事なので、私服で訪れるのではないかと期待していた。この部隊で寝食を共にするようになって短くないのだが、一度もレセディの私服姿を見た事がなかった。マーカスはとりあえず席を勧める。
別にプライベートを共にしているわけではなく、仕事をしているだけなので当然の事ではあるが、仮にも一つ屋根の下なのである。たまにはそういう事があってもいいのではないだろうかと思った。いつものように難しい顔をしている彼女に、せめて笑顔をと望まざるを得ない。
コーヒーに口をつけたレセディが、用件を聞く。雑談の一つもなしか、そう思ってマーカスは本題に入った。
「フィランディエーレ少尉についての照会の件です」
スカンジナビアでのテロで見た彼女の身体能力、それについての中間報告であった。もっともめぼしい情報はなく、本部もたまたま能力の秀でたコーディネーターがいたのだろうくらいにしか思っていない感じだ。やはり、目の前で見た者とそうでない者は感覚が異なる。
代わりにプラントから、メディカルスタッフの引き上げを通告されていた。フィリップ・ラフィーヌを早急にプラントに帰して欲しいとの事だった。
別段、トレランシアに必要なクルーではないため、それ自体に問題はない。だが妙な引っかかりを感じた。レセディも同じ考えのようだ。
「事情聴取を恐れて・・・と見た方が良いでしょうね」
「だとしても、妙な話です」
彼女の存在が何らかの機密であれば、なぜ連合に出向などさせたのか。それが謎だった。そして引き上げるのも、彼女自身ではなくメディカルスタッフである。これまた変な話であろう。
顔を突き合わせたまま、無言になった。可能性ならいくらでも論じられそうだが、それが意味を成すようには思えない。とりあえずはプラントとしても、リリト・フィランディエーレの存在を特別視するつもりはないのであろう。ならばプラントの思惑よりも、トレランシアのために何が最適かを考えるべきである。
とりあえず、あのメディカルスタッフはすぐにでも、ジブラルタルに向かう手続きを行う事に決まった。彼の存在が、リリトに良い影響を与えているとは思えなかった。最近では、受診拒否を続けているようで、艦長の職権で診断を受けるように命令してくれと頼まれるくらいであった。
そのくせ、リリトの診察時間が長い理由は個人情報を盾に口を割らない。胡散臭い人物だと思っていた。
「彼が来てから、彼女らの関係がギスギスしましたからね・・・今は良くなったようですが」
「彼女らは、艦に残すのですね」
レセディが、カップに視線を落とすようにして言った。彼女らが降りると言わない限り、こちらから降りるように言う事はない。マーカスはそう言った。今の彼女らなら、降りるべき時は自分で判断できるのではないか、そんな風に思っていた。
カップのコーヒーが無くなる頃には話も終わった。
さっさと部屋を出て行ったレセディに、マーカスはため息をつく。ああいうタイプは、どうやって食事に誘えばいいのだろう。宿舎で一人皿をつつくのは、なかなかにわびしいものがある。
新入学生の書類整理も一段落し、事務方としても余裕のある時期に来ていた。リリト・フィランディエーレに関する件もほぼ彼女の手を離れ、心労の種もなくなったといってよかった。コーヒーカップを、その香りを楽しむようにゆっくりと傾ける。サーシャ・ローレンスは息をついた。
セプテンベルⅡの研究所は、近々閉鎖されるそうである。とはいっても、施設そのものは別の研究機関が使用を続けるらしい。先端遺伝子補助医療研究開発機構だけが、姿を消す事になっていた。
リリト・フィランディエーレに同行していたスタッフは先日プラントに戻ってきており、他の研究者ともども別の機関への転籍が決定したそうだ。それぞれの研究員が、プラント中の研究機関や病院に散っているという。あくまでも姿をくらませるためであるが、少なくともリリト・フィランディエーレに関する研究は事実上の中止であった。
「まぁ、データがどこに持ち出されたかは知らないけど・・・」
最高のコーディネーターに関する貴重な研究データである、拾う者はいても捨てる者はいないであろう。
しかしコーディネーターという存在が目指すであろう一つの極北も、科学の世界に留まれない以上は社会との折り合いをつけなくてはならない。今回はそれが出来なかったのだ。現在、プラントで顕在化しつつある「没落コーディネーター問題」が、最高のコーディネーターに関する研究をストップさせた。
コーディネーターでも、自然生殖によって生まれた第二、第三世代は、第一世代と呼ばれる者とは若干異なる。第一世代が設計図に基づいて生み出されたのに対し、第二世代以降は親の遺伝子を受け継ぐとはいえ設計図なしに生まれてくるのである。受け継いだ形質が、望ましいものであるとは限らない。
受精段階における遺伝子のやり取りによって、発現できなくなる遺伝子や、逆に発現する必要が無いのに発現する遺伝子などが生じてしまう。婚姻統制などである程度の抑制は可能であるが、それでも性能という面で見た場合、第二世代以降は第一世代より劣ることが多いのだ。
したがって、子供に自分の優れた形質を受け継がせようとすれば、再度遺伝子改良を行わなくてはならない。問題は、全てのコーディネーターにそれが出来るかどうかである。
コーディネーターは基本的に病気や怪我に対する耐性が強いため、プラントでは医療に対する公的な補助は少なく、ゼロ世代と呼ばれる第一世代の親のために公的な医療保険が存在する程度である。あとは民間の保険で十分事足りるのだ。
そのため、子供に遺伝子改良を施す場合は基本的に全て自費である。当然その技術が低廉な価格で公平に供給されているわけもなく、価格の差が能力差に直結する仕組みとなっている。それは、親の所得格差が子供の能力格差に繋がるということであり、ナチュラルとコーディネーターの間に生じていた問題が、コーディネーター同士でも生じるようになったという事だ。
こうして親に十分な遺伝子改良を施してもらうことなく生まれた、能力的に劣るコーディネーターが「没落コーディネーター」と呼ばれるようになった。今、静かにプラントを揺るがしている問題である。
こんな問題が存在している時に、セプテンベル政庁が二十年に渡り多額の予算を投じて最高のコーディネーターを研究していたなどという事が公になれば、どのような反発が生まれるかは容易に予想がつく。先端遺伝子補助医療研究開発機構を解散したのは、先手を打ったということであろう。
リリト・フィランディエーレに関する全ての経歴は普通のものが用意され、公的な記録を追う限りに置いては、彼女はただのコーディネーターということになっている。彼女の与り知らぬところで両親まで捏造され、そしてその死まで記録が作られた。
「だが、それも幸いかもしれない」
研究材料としての真実の経歴より、偽りでもただの経歴の方がマシであろう。真実の経歴など、これからいくらでも増えていく。研究所での年月など、やがて履歴書の染みになるだけだ。
カーテンを風が揺らした。サーシャは目をつぶってその風に耳を済ませる。遠くから吹奏楽部のチューニングが聞こえた。
ライトで照らされたMSデッキに、物資が搬入されている。騒がしいがどこか弛緩した雰囲気なのは、アジズの怒鳴り声が聞こえないからであろう。彼は自分の会社に戻っている。トレランシアの出港までには、こちらに戻ってくるそうだ。
新品同様に輝いているウェルガーを見上げているヒューに、タルハが声をかけた。トレランシアの行く先を知っているかとの問いに、ヒューは苦笑いを浮かべる。
「明日のミーティングで発表されるんだろ、事前に知るかよ」
そう言ってその場を離れるが、彼には次の作戦の予測をつけていた。中央アジアを経由して東アジア北西部の砂漠に向かうのであろう。スレイ・カルガ拉致の情報は彼の耳に入っていたし、その実行部隊の情報もいくつか入手している。
ターミナルとしても今はそれどころではないようで、情報が錯綜して不明確な部分が多い。ただビーンシュトック派がこの情報を連合にリークしたのは間違いがないらしい。ならば、それを追うのは間違いなくトレランシアの役目となる。浅からぬ因縁に、もう一度苦笑した。
そして今回の作戦の目的は、
「ターミナル潰しです」
カヲは表情を変えない。別に驚く情報でもなかった。目の前に座るのは、連合の金融当局者である。ようやく、連合やプラントの各金融当局が動く準備を整えたのであろう。ダミー会社や匿名組合、その他諸々のファンドに至るまで、ターミナルの資金の流れを一網打尽にするつもりなのだ。各金融市場は一時的な混乱を起こすと予測されるため、カヲは既に資産運用の一部を一時的に手締まっていた。
連合の金融当局は地道にターミナル関連の資金ルートを追っていた。それが高い精度で可能だったのは、ビーンシュトック派が足跡を残していたからである。おそらく意図的に残されたであろう足跡を使って、ターミナルを潰そうというのである。
エフライム・ビーンシュトックは、ターミナルの資金ルートを使ってテロ支援を行いながら、同時に連合がターミナルを潰すための手助けをしていたのだ。そしてターミナルが潰れた暁には、自分自身で構築した別のルートを利用して新たなターミナルとなる。
「その前に実力行使するということですね」
マーカスはルチアーノ・プレスに確認する。トレランシアはバイコヌールを経由して東アジアの砂漠地帯を目指す。表向きにはコラ半島への戦力供給によって、駐留戦力の低下するユーラシアの中央部に睨みを利かせるというものであった。
しかし、連合が入手した情報によると、東アジアの砂漠地帯にある研究所にフリーダムのパイロットがいるという。東アジアの特殊部隊によって拉致されたそのパイロットの奪還のために、大天使も動くという話であった。
その東アジアの特殊部隊は、アフリカなどで極秘に軍事介入を行っていた部隊であり、連合としては一石二鳥を狙っての作戦でもあるようだ。マーカスのその上手すぎる話に疑問を持ったので、確認をしておいたのだ。
「それは承知の上だ」
ルチアーノがあっさりと言う。ビーンシュトック派といっても、現時点では産業界に大きな基盤を有しているわけではない。彼らによるテロ支援のための秘密資金ルートが存続したとしても、ターミナル本体を潰せればお釣りが来る。そしてビーンシュトック派の力の源泉である大天使を潰せれば、資金ルートなど存在していても害はない。その上、他国への軍事介入を理由に東アジアの特殊部隊を攻撃できれば、同様の手段を用いている連合各国への牽制ともなる。
ますます上手い話になっていたので、マーカスはもう一度聞く。それで作戦が変更されるわけではないが、安心くらいはしておきたいと思う。
タクラマカン砂漠の東の外れに、航空写真で見ると耳の形のような窪地がある。かつては湖だったその窪地のほとりに、人目を忍ぶように建物が立ち並んでいた。東アジア共和国MS戦略総合開発機構第五分室、通称ロップノル研究所だ。東アジア軍の中でも一部の人間しか知らない、文字通り秘密の研究所であった。
その研究内容は、対コーディネーター用パイロットの育成。パオペイレンと呼ばれる強化兵士の開発が行われていた。砂漠の砂に煙る滑走路に、巨大な全翼機が降りて来る。ジンビンメイはこの研究所に所属する部隊であった。
「久しぶりの里帰りだぜ、もっと嬉しそうにしろよ」
薄暗い部屋の真ん中に座らされている少年に、ヤンがはしゃいだ声をかける。頑丈そうな金属の扉にほんの少しだけ開けられた覗き窓から中を見ていた。フリーダムのパイロットであるスレイ・カルガは、拘束着の上から幾重にも鎖を巻かれた姿で椅子に縛られている。
それは彼らが悪趣味だからではなく、最高のコーディネーターの研究を行ってきた者達だからこその配慮である。それでもなお、チン・ヤンチャンは今自分が生きている事を奇跡だと信じている。
駐機場に止まった輸送機に、専用の護送車が到着する。完全武装の兵士に加え、運用可能段階にあるパオペイレンも動員して、スレイ・カルガの護送を開始した。彼が反抗を見せれば、味方に当たることに構わず発砲しろと命じてある。彼が研究所内の専用施設に収容されるまで、この嫌な緊張感は消えないであろう。
「ようやく落ち着いたな。まずは作戦を成功に導いてくれた事に感謝しよう」
無邪気にそんな事を言っているのは、軍の高官だ。この計画、スレイ・カルガ奪還作戦の三人目の責任者だ。この人物も半年ほどすれば人事異動でいなくなる。
「だから気楽な事が言える・・・」
ヤンチャンは、通信を切ってそう吐き捨てた。自分達が運んできたのはコーディネーターなどではない、得体の知れない化け物なのだ。軍の連中は、せいぜい高性能の部品程度に考えているのかもしれないが、彼は人間の性能を遥かに超えているのだ。それが何を意味するかをもう一度考え直せば、気楽なセリフなど言えるはずがない。
軍はさらに、最高のコーディネーターに関する研究の継続を命令してきている。それをパオペイレンへとフィードバックし、東アジア軍の脆弱なMS戦略体系を根本的に見直そうなどと考えている。
MS開発競争で遅れを取り、フジヤマ社が鳴り物入りで開発したはずの独自MSは、各国から特許権や意匠権で訴えられる始末である。そのため東アジア軍がフジヤマ社のMSを配備する場合は、同規模のダガーシリーズやウィンダムシリーズを大西洋やユーラシアから購入する事で政治的な決着を付けていた。知的財産戦略の遅れと無理解が、国の安全保障に直結する好例である。
そこで軍の一部はMSでなくパイロットの高性能化に目をつけた。同様の研究は他国でも行っているが、これに関しては訴えられる可能性はない。
従来のブーステッドやエクステンデッドは、総合的な性能でどうしてもコーディネーターに劣る。逆を言えばコーディネーター以上の強化兵士を作ることが出来れば、戦略的にも大きなアドバンテージとなる。
そのための研究材料が、最高のコーディネーターであった。ヤンチャンは施設に向けて走り出した護送車を目で追う。次の瞬間にあの車が爆発炎上し、中からスレイ・カルガで出てきても彼は驚かないだろう。