Green travelers ~ The another seed ~ 作:VSBR
オープンカフェを爽やかな風が吹きぬける。時間が半端であるためか客はまばらであり、通りを行く人影も少なかった。路面電車がガタゴトと音を響かせながら遠ざかって行った。ウェイターがコーヒーを置いて下がる。
打ち合わせは何度か行っており、既に大筋の部分はまとまっている。後は細部に関する詰めだけだった。クルト・クラウは簡単な資料を見せながら話を始める。
「ベルリン崩壊時のスケッチもあるとか?」
「ええ。実家に連絡を取ったので届くと思います」
ただ、ジブラルタルを経由してワルシャワまでなので、届く日時までははっきりしないと、ロディ・ギャリは申し訳なさそうに言った。クルトは、それを考慮して展示作品を選ぶ事とする。クルトの勤める新聞社が主催者となり、ロディの個展を開く事となっているのだ。
もちろんロディの名がユーラシアで知られているわけではなく、クルトの取り組んでいるアフリカ報道の一環としてそれを行うのだ。社内での反応は半々であるが、クルトは手ごたえを感じている。
アフリカで偶然出会った画家、世界各地をスケッチ旅行しているという彼の描く精緻な色鉛筆画は、風景の一瞬を的確に切り取っている。クルトは、そこに力があると感じたのだ。ロディ自身は多くを語らないが、彼もその力を信じているからそこ、絵を描いているのでは無いだろうか。切り取られる瞬間は、常に美しいものではない。
写真が写すものは現実の断片だ。その断片は真実を照らし、人々にこの世界のありようを突きつける。未だに、そのようなレベルの写真を撮れたためしはないが、写真にはそのような力があり、それを信じて報道カメラマンは今も世界を駆け回っている。
では絵が描くものは何なのだろうか。
「心の断片だと思います」
クルトはコーヒーカップを置いて言った。ロディはそっと目を伏せるが、クルトは続ける。
絵は写真のように現実をそのまま写し取る事ができない。それは画家の精神を通して現れるものだからだ。ならばそれは、例え写実的な風景画であったとしても現実を描いているのではない。
現実を受け取った人間の心が描かれているのだ。
そして絵はそれを見た者に、現実ではなくその現実を受け止めた時の画家の心を突きつける。それが、絵の持っている力ではないだろうか。クルトは息をついて言葉を区切った。
アフリカの取材を続けていたクルトにとって、遠い土地での出来事をどのように伝えるかが何よりの課題であった。いくら現実を提示したところで、それが人々に伝わるかどうかは別である。
そこで、現実をそのまま提示するのではなく、その現実に触れていた人の想いを提示する事を思いついた。ロディ・ギャリの個展がそれである。彼が描いた物は、雄大な自然の姿だけではない。破壊や殺戮をも、彼は描いている。それをあえて描いたのは、彼の叫びであろう。その叫びは、見る者に現実以上の衝撃をもたらしうるのでは無いか。クルトはそう思っていた。
新聞広告に出す宣伝文句が大げさすぎるとのロディの指摘をメモし、クルトは時計を見た。腕時計を忘れた事に気付くと、時計を探す。有線ラジオから三時の時報が聞こえ、ニュースが始まった。
南部アフリカ連邦での軍と反政府勢力の大規模な軍事衝突は、反政府勢力指導者の逮捕によって終結に向かうだろうとの事であった。
市街地での戦闘は既に終結している。しかし郊外では散発的な戦闘が続いているようであり、アフリカ解放戦線自体は南部アフリカ連邦各地に潜伏するだろう。それでも、レジー・マヌカを失ったアフリカ解放戦線は早晩瓦解する。一部過激派によるテロなどへの警戒は必要だが、南部アフリカ連邦の治安情勢は一気に改善するはずだ。
ケープタウンのドックへの入港許可をもらったトレランシアは、傷だらけの艦体を引きずるように市街地を迂回するコースを取る。市街地に展開していた艦載機が次々と帰還してくる。
流石に疲れきった顔をしているレセディに代わって、マーカスが指揮を取っていた。戦闘が再開する心配がない以上、彼にも仕事が回ってくる。カシアの明るい声に、彼は顔を向ける。
「リリ・・・フィランディエーレ少尉からの通信です。グラティアは自力で艦に戻れるとの事!」
マーカスはホッと息をついた。カシアに回線の一つを開かせる。南部アフリカ連邦による声明が発表されるはずだ。今のNジャマー濃度では映像は映らないだろうが、音声くらいなら拾えるかもしれない。
キーボードを操作して、ノイズを消去し音声に修正をかけていく。不鮮明ながらもヘストリー・オサバの声が聞こえてきた。
「・・・外勢力を引き込み、武力による政権奪取を目論んだレジー・マヌカは、我々の知っている彼ではなくなった。かつての我々は、我々の手でケープタウンを取り戻し、我々の力で融和と共存を勝ち取った。アフリカは、アフリカの人間のものであり、我々が自らの手で育むものだ。私達政府は、いかなる国外勢力の力も借りない。私達が求めるのは、アフリカに住む人々の手助けです。皆さん、アフリカにはこれからも苦難の道が続くでしょう。未熟な政府にはその道を一人で歩く力はありません。ですから、皆さんの力が必要なのです。皆さん、一人一人の力が、アフリカを・・・」
音が途切れてノイズだけになった。一般向けの声明に先立って政府から示された文書には、アフリカ解放戦線指導者であるレジー・マヌカを国際司法裁判所に提訴するとある。容疑は人道に対する罪などであるが、他にも武器の密輸や軍事企業に対する訴訟の準備も進めているという。
なかなか面白い事になりそうだとマーカスは思うが、連合としてははなはだ厄介であろう。緊急即応部隊の交戦データが証拠として提示されれば、アフリカ解放戦線が連合やプラントの正式採用機を使用していた事が明白になるのだ。
もっとも、最終的には適当な落としどころが探られるのであろう。それよりも問題なのは、彼ら自身の落としどころである。
「それはゆっくり寝てから考えましょう」
欠伸を噛み殺していたレセディが肩を震わせた。マーカスは大きく欠伸をして、トレランシアのドック入りを命じた。
整備班の仕事が本格化する。戦闘中は艦のダメージコントロールを担当するのだが、戦闘が終われば本職に戻る。戦闘は終結し、アフリカ解放戦線の部隊が軒並み敗走を始めているとはいえ、いつ何が起こるかは誰にも分からないのだ。艦のダメージは甚大であり、MSもかなりの無理をさせていた。
各部の部品は、電池や推進剤のように簡単に補給できるものではない。フォルトゥーナの腕は全面的に取り替える事となっていた。橙色の作業着が動き回る中にサイレンが響き、アジズの怒鳴り声がそれを上回る声量でデッキを満たす。
「グラティアが着艦する! ワイヤーと冷却剤・・・ネットも張れ!!」
着艦姿勢に入ったグラティアは、見かけ上の損傷は軽微に見える。だが装甲色が灰色という事は、電源に余裕がないのだろう。突入速度が速いのはスラスターによる十分な減速が出来ないからだ。
リリトは着艦ワイヤーに狙いを定めてグラティアの姿勢を保つ。激しい音と振動、ワイヤーで止まりきらなかった機体は、緊急用ネットに倒れこむようにして止まった。そのままシートに倒れこみたい気分を、なんとか奮い起こしてコクピットのハッチを開ける。ネットに引っかかって半開きのハッチから体を引きずり出した。
手を貸してくれたのはイェレだった。ホッとすると、そのまま体の力が抜ける。張り詰めていた何かが切れて、疲れが一気に噴き出したのを感じた。慌てて体を支えてくれる彼に、そのまま体重を委ねる。
心配そうな彼に、リリトは言った。フリーダムのパイロットを逃がしたと。イェレがその事を聞き返す前に、彼女は眠りに沈んでいた。
「気分はどう、最高のコーディネーター」
墜落したフリーダムの横にグラティアを着地させ、リリトは接触通信を開いた。装甲のトリコロールを失ったフリーダムからは何の返答もなかった。だがあの程度の墜落でパイロットが死ぬはずもない。
ビームサーベルで機体を貫けば終わりだ。だが、既に終わってしまっているようなその姿に、止めを刺す気も失せていた。
もしこれを放置すれば、再び回収され同じ事を行うだろうという予測はつく。だがフリーダムとそのパイロットが何度同じ事をやろうと、そのたびに勝つだろうという確信も持っていた。逆に、その程度の相手だったという事に、徒労感のような物も感じる。リリトはグラティアのハッチを開けた。
昇降ワイヤーでフリーダムの上に降りると、そのハッチを外部から手動で開ける。電子ロックが少々厄介だったが、開けられないレベルではない。開かれたハッチから中を覗いた。万に一つも、中から銃撃される可能性は無い。
シートの上に座っているパイロットスーツ。スレイ・カルガという名のメンデル・ベビー。それは、リリト同様に最高のコーディネーターと呼ばれる存在だ。彼女はもう一度同じ事を聞いた。
「気分はどう?」
彼は自分と同じ出自であり、自分と同じような子供時代を過ごしてきたはずだ。その彼が何を考えているのか、彼自身の口から聞きたかった。
「君は・・・」
「何度も言うようだけど、質問しているのは私なの。まずはそれに答えなさい」
リリトはヘルメットを外す。軽く前髪をかき上げると、コクピットの中に入り込んで、スレイのヘルメットのバイザーを上げる。じっと見つめてくる彼の目は、何も語りかけてこない。
カシアならどうするだろうか、そう考えてみたが彼女のやり方を採用するのは止めにする。彼女なら、とうの昔にキレて、その顔に拳をめり込ませているはずだ。ひょっとしたらそれが最も賢い方法なのかもしれないが、リリトはもう少し愚かな方法を選んでみる。
「何で・・・パイロットなんてやっているの?」
「僕は・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・何か言いなさいよ」
トレランシアの娯楽用番組に、そんなコントがあったような気がする。しかしここは笑いを狙う場ではない。この会話の成り立たなさは何なのであろうか。
彼は意図的に自分の意見を隠しているのだろうか。それとも今までは、これで会話が成り立っていたのだろうか。何を語る事無く成り立つ会話など、思い込みと勘違いでしかないのではないだろうか。
アークエンジェルの中は、こんな断片の言葉が飛び交っていたのだろうか。もしそうだとすれば、あまりにも不気味だ。相手の述語を自分で勝手に補って解釈して納得する。それでは、そこにあるのは他者ではなく自分を拡張した物ではないか。
他者とはいつだって唐突で、自分の都合などお構いなしの存在のはずだ。都合のいい他人に囲まれているのは、都合のいい自分でしかない。
リリトがひた隠しにしていた秘密、それに触れないでいてくれる者に囲まれていたら、今の彼女はなかっただろう。リリトの傍には、無理やりにでもそこに触れる者がいた。何も語らないリリトを、そのまま納得してくれる人はいなかった。その事が良かったのか悪かったのか。少なくともリリトは後悔していない。
自分の事を「最高のコーディネーター」とだけ呼ぶ者より、自分の事を「リリト・フィランディエーレ」とだけ呼ぶ者より、その双方を等しく言ってくれる人。そんな人が彼女の傍にはいた。
彼は、違うのだろうか。リリトは尋ねた。
「あなたは、最高のコーディネーターでしょ」
「僕は・・・スレイ・カルガだ」
「そうか・・・そうなんだ・・・」
リリトはため息と共に言葉を漏らす。誰も、彼を「最高のコーディネーター」とは呼んでくれなかったのだ。
その呼び名は、彼女らを傷付ける呼び名だ。だがそれをなかった事には出来ない。どれほど固く口を閉ざそうとも、彼女らは「最高のコーディネーター」としての存在し続けるのだ。
それを了解して生きていくのは、本人だけではない。その周りの人間もまた、それを了解しなくてはならないのだ。彼は彼自身だけではなく、彼の周りの人間を含めて、彼が「最高のコーディネーター」である事を無視していた。それは、彼自身を無視する事に等しい。
それでいて、その力だけはちゃっかり行使しているのだ。どこまでも都合よく、自分の存在を弄んでいる。リリトのため息が増える。
「私は、最高のコーディネーターよ」
「・・・! 違う、君は・・・」
「リリト・フィランディエーレ」
カシアが口にした「最高のコーディネーター」という言葉。それは、リリト・フィランディエーレという存在を了解するための必要な言葉だった。あの白衣の連中が口にしていた、リリト・フィランディエーレという存在を消し去るための言葉とは違う。だから、リリトはその言葉を口に出来る。自分自身を了解するためには、その言葉が必要だと分かる。
目の前にいる少年には、そんな手順がなかったのだ。きっとただのスレイ・カルガとして扱われていたのだろう。自分自身の存在を考える必要を、彼は与えられなかったのだ。だから、簡単に自分自身を否定できる。
自分自身を認めない彼にとって、この世界を否定する事など造作もないのだろう。自分自身を見つめる事のない目は、この世界の何も見つめてこなかった。それでは語る言葉など生まれようが無い。
自分は自分という言葉で納得され、世界は世界という言葉で理解される。そこに話の糸口などあるはずがない。だから、彼らの言う融和と共存には話し合いなどなく、ただひたすらに正義の行使のみがある。
話して話して、理解できないと理解できるまで話して、それでも言葉しかないという絶望を目の前にして、世界への信頼へと自分自身を賭けてみる。そんな関係性を築けるかもしれない可能性を垣間見たリリトとは、全く違う場所に立っているのだ。スレイ・カルガの顔を見つめる。
だから彼に同情した。リリトが今こうしているのは、ただの幸運だ。彼はただ、その幸運を得られなかっただけなのだ。もしみんなが、リリトの出自を知った上で、それを知らない振りをして今までのように接してくれたら、リリトも彼と同じようになっただろう。テロに走ったか否かは、置かれている状況の差でしかない。
「二度と、会わないことを願うわ」
リリトはそう言ってフリーダムのコクピットから離れた。もっと話したい事はあったかもしれない。だがそれが簡単に許される状況ではなかった。昇降ワイヤーに足を掛ける。
コクピットのシートに腰を沈め、ゆっくりと機器のチェックを行う。バッテリーも推進剤も心もとない以上、戦闘が終結するまで下手に動かない方がいいかもしれない。リリトは省電力モードで機体を待機させる。
倒れたままのフリーダムを見下ろしながら、リリトは目尻を拭った。やがてはるかケープタウンの方向に、微かな信号弾の光を見つける。トレランシアが打ち上げる帰還命令の光。
リリトはそっとペダルを踏む。これからは、それほど優しくない世界で生きていかなくてはならないフリーダムのパイロットの行く末を心の隅で案じた。
クレーンの音、モーターの音、圧搾空気の音、その他諸々の音が満ちるMSデッキで、フィジェは人を探している。ネットに引っかかっていたグラティアは既にハンガーに立てかけられ、修理作業が始まっていた。
「タルハとユンディちゃんなら、アジズさんに呼ばれてたぞ」
整備員の一人が大声で教えてくれる。だが探しているのはその二人ではない。それを察してか、別の整備員が教えてくれた。フィジェは医務室へと向う。通りすがったクルーが、リリトなら大丈夫だと伝えてくれた。単なる疲労で、点滴の一本も打てばすぐにでも動けるそうだ。
医務室へと向う廊下で立ち止まる。医務室の前にカシアが立っていた。足を進めるのを躊躇する。曲がり角に身を寄せて彼女の様子を窺っていた彼は、後ろから声を掛けられて身を震わせた。
ヒューの怪訝そうな顔に、静かにするように頼む。彼はますます疑問の色を顔に浮かべる。
「・・・完全に術中だな。なかなかの手だれじゃないか、スターム少尉は」
ヒューは愉快そうに言った。不満の表情を見せるフィジェに、ヒューは言う。とりあえずキープとか、あの胸だけは欲しいとか思わないのは、その時点で本気だと。本気だからこそ、自分自身が納得できる形で彼女に接したいと思っているのだと。
口ではリリトへの未練めいた事を口にするが、それは安易に乗り換えたと思われたくないからだろう。それもまた、彼が本気だという事だ。フィジェは黙った。ヒューの言う通りなのだろうか。
出直そうとしたフィジェの背中をヒューが押した。静かにしていたぜ、と言って立ち去る彼に文句を言う前に、カシアの声が聞こえる。駆け寄ってくるかと思ったら、彼女は手招きをしている。閉められた医務室のドアから中の様子を窺っているようだ。
重傷者は既にケープタウンの病院に搬送されているため、中にいるのは点滴中のリリトだけだ。傍についているのはイェレだろう。
「お前はいいのか?」
「邪魔しちゃ悪いでしょ」
カシアはそう言いながらドアに耳をつける。いよいよイェレが告白に踏み切るはずだと。カシアもはっぱを掛けていたらしい。彼らは、明日をも知れない戦場にいるのである。先延ばしをしても、確実に先があるわけではないのだ。
中の声が聞こえないかと耳をそばだてているカシアを見つめた。それに気付いた彼女が少しはにかんだ。
不覚にも可愛いと思ってしまった自分に、先ほどのヒューの言葉を思う。先延ばしが出来ないのは、自分も同じだ。フィジェはそっと息を吸う。
「あのさ・・・」
その言葉をかき消すように医務室のドアが開いた。寄りかかっていたカシアがたたらを踏み、驚いた顔のリリトを彼女を抱きとめている。どうしたのかと聞くリリトに、何でもないと答えるカシアの声が白々しい。
二人の様子には別段変わったところはなく、リリトはフィジェに「告れなかったみたいね」と、耳打ちをした。
時間があるなら一緒に食事にしようとリリトが誘った。イェレと連れ立って歩く彼女の後ろで、フィジェは何となくホッとしていた。その後ろをついていこうとした時、カシアが思い出したように言う。
「さっきさ、何か言ったよね?」
「・・・いや、何でもない」
一瞬、間をおいたにも関わらず、結局先延ばしにしてしまった。小首をかしげながら歩くカシアの横顔に、彼女の強さを見た。自分の気持ちに気付き、それを相手に直接伝えるという事がどれほど大変か。
それを簡単にやってのけたように見せるカシアは、やっぱり魅力的だと思った。
一日がかりで終わった仕事は、デスクのパソコンにたまったメールの処理だけであった。たまに本社に戻ってきても、たいした仕事がないのが彼である。南部アフリカ連邦情勢は落ち着きを見せ、外資規制は引き続き行われるようである。これで当分、アフリカへ足を伸ばす事は無いだろう。
薄暗くなりだした外の光を検知して、ブラインドが自動的に降り始める。カヲはリモコンでそれを止め、薄暮に融ける上海の街並みを眺める。空の光に反比例して、ビル街の明かりが点り始める。
夜景を眺める俗で気障な趣味は持っていないが、疲れた頭を休めるには良い光景なのだ。部屋の明かりを消して椅子に深く腰掛けた。冷めた緑茶を口にしながら、大きく息を吐く。
「そんな休息も与えてくれませんか・・・」
受話器を取る前にそう溢した。来客があるらしい。勤務時間外に尋ねてくるのである、余程仕事熱心のバカか、相手の事を考えないバカのどちらかであろう。銀行の窓口に来ない客は、たいていがそのどちらかだ。
応接室にいたのは初対面の人間だった。連合の人間と聞いて、いつもの金融当局者かと思ったら違った。秘書から名前を伝え聞いたはずだが、聞き流していたので思い出せない。名刺というビジネス習慣を持たない非東アジア系の人間は、こういう点が厄介だった。
「地球連合常設軍事委員会事務局長、ルチアーノ・プレスです」
「カヲ・ツォピンです」
握手を交わしてカヲはほっとした。名前が分かった以上、他の心配事は無い。畑違いの人間の訪問など、表敬以外にはないだろう。
「あまり時間もないので手短に・・・連合軍に関する機密情報の流出がありまして」
「流出するような情報は機密では無いのでは?」
客用の茶の味の違いを確かめながら、カヲは言った。連合軍の南部アフリカ連邦への軍事介入は、アフリカ解放戦線議長レジー・マネカの電撃的な逮捕によって、中止に追い込まれていた。喜望峰沖で損害を受けたこともあり、強硬意見もあったらしいが、介入の理由が失われた以上、動きようがなかった。
もっともレジー・マヌカ逮捕には、連合軍緊急即応部隊による支援があり、最低限度の介入は行っていたという見方もある。カヲには与り知らぬ話、というわけには行かなかった。
だが、緊急即応部隊の現地司令官との接触はごく私的なものであり、それを追跡してきた目の前の男の有能さには驚いておいた。カヲは茶碗を置く。
緊急即応部隊が動かなければケープタウンは陥落し、アフリカ解放戦線の排除を掲げて連合軍が軍事介入を行ったはずだ。そして、アフリカ南部の各地で激しい戦闘が繰り広げられたであろう。緊急即応部隊はその危険性を排除し、代わりに連合にとって都合のいい政権樹立を阻止した事になる。
カヲが流した情報は連合軍の編成というものであり、それを巡る思惑や実際に行動するかどうかの決断は、全てトレランシアの側で行った事である。連合軍の編成が徒労に終わり加盟各国のアフリカ利権を制限する政権が維持された事を、自分の責任にされても困る。
そうなって欲しいとは思ったが、そうなるために何かしたわけではない。カヲはのらりくらりと話の矛先を変え続ける。目の前の男も有能だ、無駄な努力は早々に切り上げるであろう。
手続きとは事務方が行うものであり、現場は事務方から回されて来た書類に目を通すだけだ。たいていの書類は事前にその内容がそれとなく伝わるものであり、ただサインを記せば用が足りるものである。しかし、今回の書類は事前に何の報せもなかった。マーカスは驚く事無くその書類をレセディに見せる。
艦長室の机の前で居住まいを正して立っている彼女もまた、驚きの表情を見せずに書類に眼を通した。来るべきものが来ただけである。
「もう少し、時間に余裕が欲しいところですね・・・」
「それだけ重大な事をしたのです」
レセディの声は怒っていなかった。彼女としても、あの決断を100%の間違いだとは思っていない。あの場における、最良の選択であろう。それを最善でないととがめるのはその場にいないものであり、そんな評価に一喜一憂しては組織の中にいられない。ただ、自分のキャリアアッププランに修正が必要になる事は、面倒だと思った。
それでも、目の前にいる艦長よりは身の振り方もある。その事を聞いてみると、マーカスは特に気にしている様子もなく答えた。
「鉄火場に不向きだっての嫌でも分かってます。窓際の方が性にあってますよ」
コーヒーカップに口をつけている彼を見ながら、レセディはため息を抑える。彼の自己分析に間違いは無い。だが、それは彼が無能だという事ではないのだ。彼の能力は、閑職に埋もれさせるには惜しいものがある。
もっとも、それを説いたところで彼は微笑みを返すだけだろう。彼の人生である、下手に首を突っ込む事でもない。
書類の中身は地球連合常設軍事委員会からの命令書であった。それをクルー全員に伝える手はずを打ち合わせる。それ以後は、全クルーに関する膨大な書類のやり取りをしなければならないので、ダブリンから専門の事務官が到着してからという事になった。
トレランシアには、全てのクルーが集まれる場所がMSデッキくらいしかないため、ホテルのホールでも借りようかとマーカスは提案した。せっかくなんで最後にみんなで豪華ディナーと洒落こみましょうと付け加えたら却下された。
結局MSデッキに全員を集めて、艦長が訓示とともに命令書の内容を報告する事となった。レセディは付け加える。
「せっかくなので豪華な訓示を期待しています」
マーカスは腕を組みながら、そういうのは不得意だとぼやく。地球連合軍緊急即応部隊は解体され、クルーは原隊への復帰が命じられるのだ。
表向きは、即応部隊の試験運用によってその有用性が証明されたので、部隊を拡大させるための発展的解体だとしている。だがそれが、常設軍事委員会の命令を無視して南部アフリカ連邦との共同作戦を行った事に対する制裁だというのは明白だった。結果的にそれがアフリカの安定に寄与したとしても、それが連合にとって都合のいい形ではない事が問題なのだ。
部隊解体後、同様の組織が設立されるかどうかは不明であり、今回の事を問題視して緊急即応部隊という仕組みそのものが廃止されるかもしれない。実力組織が命令を無視するという事は、あってはならない事なのだ。
リリトが見上げるのは見慣れた天井だった。それももう見納めだ。部隊の解散は、あまりにも突然だった。彼女らは手続きが済み次第、プラントに戻る事になっていた。ザフトからの出向という形であるため、彼女らの籍はザフトの中にあり、プラントに戻ってからの仕事もあるそうだ。
だが、それでいいのだろうか。リリトは天井に向かってつぶやいた。トレランシアに乗っていた時間は、長かったのか短かったのか良く分からない感覚だ。その中で彼女は、彼女らは、「何故」という疑問に答えを出せないままだった。
グラティアに乗って戦う理由、それは最後まで明確にならなかった。見てきた事、感じた事、思った事、それぞれにたくさんある。だがそれらと、MSのパイロットを行う事には、どうしても溝のようなものがある。
こうしたい、こうなればいい、そう思う事は、いつだってMSに乗っていない人達が行っていた事だ。そういう人達は皆、MSに乗って戦う事もまた一つの方法だという。だがリリトには、どうしても実感として掴めなかった。グラティアが手を伸ばす先にあるのは、いつだって敵の姿でしかない。
「それを・・・続ける、の?」
ザフトに戻るとはそういう事だ。通信で言葉を交わしたローレンツ事務局長は、緊急即応部隊での経験をザフトで生かして欲しいなどと、ありきたりの事を言っていた。だがリリトの経験が唯一言える事は、自分の経験を生かす場はMSのコクピットでは無いという事だ。
ではそれはどこなのだろう。いや、そもそも彼女は何を経験したのだろう。リリトは寝返りを打って頭を抱える。グルグルと回る頭を止めたのはインターホンだった。鍵を外すと、イェレが顔を覗かせた。
「丁度良かった・・・入って」
リリトはポットのお茶をカップに注ぎながら、今の疑問をそのままイェレにぶつける。カップを受け取った彼は立ち上る湯気を見ながら、一言一言を噛み締める。
「艦長が言っていた、俺達は正しい事をした、戦争を最小限に食い止め平和に貢献したってのは・・・間違いじゃないと思うんだ。だから、トレランシアに乗って戦っていた事が間違いだとは思わない。でもそれがやりたい事だったのか、これからも続けたい事なのかって言うと・・・何か違うんだ」
瓦礫の散乱するケープタウンの街をフォルトゥーナから見下ろした時、それをこれからも続ける事を納得できるのだろうか。南部アフリカ連邦に安定をもたらしたというのが事実だとしても、あの光景にはやはり納得できない。
それは今までずっとそうだった。いつだって、トレランシアが地域に平和と安定をもたらしたという人はいた。だが彼らの見てきた光景は、その言葉から程遠いものだった。その距離は、どうやったら縮められるのだろう。
「だから・・・ザフトに戻るって言われて、正直迷ってる」
イェレも、リリトと同じ答えを返した。この世界で、この世界の人達に、何をどうしたいのか。
紛争は絶えず、争いは尽きない。コーディネーターとナチュラルの諍いも、常に頭をもたげる準備をしている。その中で人々は、分かりやすい言葉で世界を理解し、そして信頼する事をやめる。フリーダムのパイロットは、そんな人々の代表なのだ。
分かり合うための言葉は、分かりやすいものではない。そしてどれほど言葉を尽くしても、結局は分かり合えない。それでもその時、言葉を交わした相手を信頼し、その信頼を得られれば、人々を繋がる事が出来るのかもしれない。リリトはそう思いため息をついた。
そんな抽象的な事を、どうしようというのだろう。カップを傾けると、再度インターホンが鳴った。今度は内線である。カシアが食堂に集まるように言っている。
「・・・で、そのカシアがいないのかよ」
食堂を見回すフィジェが言った。そしてこれからどうするのかと尋ねる。考える事は皆同じだった。
僅かな沈黙の後、タルハが口を開く。ザフトに戻る気は無いという。
「俺とユンディはさ、アジズさんに誘われてるんだ・・・会社に来ないかって」
アジズは今のMS関連の修理メーカーを発展させ、小型作業機械の製造を行う企業を立ち上げる予定であった。それに際して、優秀な人材を探していたそうだ。トレランシアの整備班には彼に声を掛けられた者が何人かいる。
何より技術者として、アジズには色々と惹かれるものがある。そこで、彼の誘いに乗ろうと決めたのだ。ユンディが一言付け加えた。
「ダーリンにはプロポーズもされちゃったから、実家に報告するために一旦プラントには戻るけどね」
少し顔を赤らめて見詰め合う二人に、三人は言葉を失った。その沈黙を破るようにカシアがやってくる。
「はい、結婚報告はお終い」
どこまで話を聞いていたのかは定かでは無いが、カシアはそう言って全員を見回す。そしてこれからの予定が決まっているのかを聞いた。全員が黙ってカシアを見る。その嬉しそうな口元は、何かとんでもない事を言うに決まっている。こちらから何かを言うには、その後でもいい。
返答がない事に満足したように、カシアは背中に回していた腕を突き出すようにして、手にしていたものを見せた。彼女の私物のポケットコンピューター。その画面には「地球の歩き方」という学生向けの旅行ガイドブックの最新版が映っていた。
「まずはさ・・・旅行の続きでしょ!」