そして、その夜。
冒険者の街でもある迷宮都市オラリオは、夜だというのに喧騒一色であった。
酒場は冒険者たちでにぎわいを見せ、大通りには頬を紅潮させながらヒューマンや亜人族が気分よく闊歩している。
ある者達は、今日の迷宮での出来高を称え合い。
またある物達は、反省会という名の失敗の押し付け合いをしたり、等々。
さながら祭りにも似た心地よい雰囲気が、街中には漂っていた。
「これで全部、かな」
そんな中。
一人の
「調合用の素材を一つ買い忘れるなんて……ミアハ様もおっちょこちょいだなぁ」
右へ、左へと人を躱す度に、女性のスカートから伸びる尻尾が左右に揺れる。
時折賑やかな酒場へと目線を移すも、足取りは止まらない。
一歩、また一歩と進むたびに、喧騒は遠ざかり、酒の匂いも薄れゆく。
つまるところ―――彼女は街の中心とは反対方向、メインストリートを外れた裏通りへと向かっていた。
そんなこんなで歩くこと、数分。
「……着いた」
人体を模したエンブレムが飾られた、こじんまりとした一軒家。
小箱を右手に抱え、左手で戸を開けようとした所で……不意に、その女性は足を止めた。
(……?)
踏み出した足に感じた、石畳とは違う柔らかな感触。
何かを踏みつけたらしいと、女性はゆらりと足元を見た。
そこにあったのは、寝そべるように横たわる人形……ではなく、ヒューマンの青年。
身長は170C程度だろうか。
髪は”くすんだ白色”……行ってしまえば灰色。
苦悩の表情を浮かべ目を瞑る彼の隣には、得物と思しき銀の剣が無造作に打ち捨てられていた。
「……死体?」
―――――
主神・ミアハの下、こじんまりとした一軒家で道具屋を営んでいるミアハ・ファミリア。
そんな店の裏手にある、ファミリア専用のプライベートルーム。
テーブルを挟み向かい合う三人の姿が、そこにはあった。
「すみません……助かりました」
その内の一人……灰色の髪の青年が、恭しく頭を下げる。
犬人の女性―――ナァーザが“死体”と断定した青年である。
「それと、申し訳ありませんでした。あんな、お店の迷惑になるような場所で倒れるなんて……」
「気にする必要は無い。君にもやむに已まれぬ理由があったんだろう」
「……本当に、すみませんでした」
謝るばかりの青年に、人のよさそうな笑みを浮かべる美青年――――主神・ミアハも、流石に苦笑する。
それが神の前で萎縮してしまっている所為である事は、誰の眼にも明らかだった。
「私の店には滅多に客も来ないからな。君が寝ていた事で売り上げが落ちたなんて事もないから、安心するといい」
「ミアハ様……自虐してどうするんですか」
「ふははっ、これは失敬」
ジト目のナァーザに、ミアハは乾いた笑いで応える。
そんな二人を外野から見守る、灰色の髪の青年。
その視線がどこか物珍しさの色を持っている事に、ミアハは目敏く気付いた。
「どうした?」
「あ、いえ、神様に対する印象が、思っていたのと大きく違っていて驚いたというか……」
「それは……良い意味で、という事か?だとしたら、嬉しい限りだ」
もっと、厳かで、傲慢で、近寄り辛い。
人の事など省みず、己の為だけに行動する。
そのような存在だとばかり思い込んでいた青年は、ミアハとナァーザの友人のような語らいに驚いたのだ。
―――――もっとも、そんな心の中に抱いていた偏見など、神の前では到底言えたものではないが。
やがて、朗らかな雰囲気の中で語らう二人をナァーザが割り込んで、抑揚のない声で問うた。
「……ねぇ、灰色の髪の青年君。そろそろ君の事……教えてくれない?」
「俺の、事……?」
「話し辛いなら……名前だけでも。灰色の髪の青年君じゃ、ちょっと面倒だし。どう?」
そこでやっと、青年はまだ自分が自己紹介すらしていない事に気付いた。
「そうでした。俺はテクト・クラネルといいます。先ほどまでミアハ様の本拠地前で倒れていたのは、疲れが溜まっていたせいか気を失ってしまって……」
「疲労……。先ほど治療した時も、妙に裂傷が目立った。まさかとは思うが、テクト君は迷宮に潜ったのか?」
ミアハの、探るような視線が灰色の髪の青年……テクトを貫く。
しかしテクトはそれに狼狽えることなく、はっきりと首を横に振り否定した。
「いえ、そもそも私は今日オラリオに来たばかりでして。ここへ来る最中、ウルフの群れに襲われたんです」
「……へぇ。それは災難だったね」
モンスターの怖さは、元冒険者であるナァーザにはよく分かる。
テクトへ同情の念を抱いている彼女の隣で、ミアハは思案顔でじっとテクトを見つめていた。
「……しかし、テクト君。君は、
「えぇ。私の故郷には授けてくれる神も居ませんでしたので」
倒れていたテクトを治療していた時、服がボロボロであった所為もありミアハは不可抗力で背中をみてしまっている。
しかしそこには、冒険者にはあるべき
故にミアハは、青年はてっきり冒険者に乱暴でも働かれた一般市民だと思っていた。
無論、本来そのような事はあってはならないのだが―――現実問題として、あっても決して不思議ではない。
その証左に、ファミリア内部の抗争に巻き込まれた花屋が損壊してしまった事もある。
ただ、仮にそうだとして、それを直接聞いてもファミリアの前では答えづらいだろうからと敢えて迷宮を話題に振ったのだが……テクトの返答は、ミアハの予想していたものとは大きく異なっていて。
嘘を言っているような片鱗も、そこには全く感じられなかった。
「では君は、
「はい。ただ、これは何も不思議なことでは無いと思いますが……」
「む……まぁ、な」
神の恩恵が"子供達"に広まる以前は、子供達は独力でモンスターを倒す事もあった。
故に決して不可能な話でもなく、オラリオの外でそのような子供達が居てもおかしくは無い。
ただ、モンスターの群れを相手取り、見事単身生き残って見せた彼は、恐らくオラリオに住む冒険者の多くとそう遜色ない実力を有しているのではないか。
身体能力は抜きにしても、技や実力は恐らく負けない程度の力を持っているのではないか。
話を聞けば聞くほど、彼に対する大きな興味がミアハの中で頭をもたげてきた。
そしてそれは、ナァーザも同じである。
「それで、テクト君……君は、なんでこのオラリオに来たの?」
黙り込んでしまったミアハの代わりに、ナァーザが話題を引き継ぐ。
「……弟を、守る為です」
「弟……?」
「はい。弟が、オラリオにとても来たがっていて……そんな彼を守る為に、俺は彼についてきました……が」
だが、彼とは別れてしまった。
途中遭遇してしまったモンスターの群れから守るため、己を犠牲にし彼を守った。
あの時、死すら覚悟していた自分が生きていた事は、奇跡にも近い。
テクトはその奇跡に感謝し、群れを撃退した後も何度かモンスターに遭遇しながら、命からがらオラリオへやってきた。
それはもう、意地だった。
何が何でもオラリオへ辿り着いて、弟を一目見て、無事を知る。
ただそれだけが、オラリオへと向かうテクトの原動力となっていた。
「俺の弟は……たった一つの、宝なんです。両親が俺に残してくれた、唯一の贈物」
「……ふぅん」
大した兄弟愛だと、ナァーザはテクトを見遣った。
そしてそこまでテクトに言わせるその"弟"に、とても興味を持った。
「それで、テクト君の弟はオラリオに来てるの?」
「分かりません。探している最中に力尽きてしまって……」
「……あぁ、それであそこに倒れてたのか」
少し残念、とナァーザはひとりごちてミアハを見る。
先ほどまでずっと思案していたミアハは、ナァーザの視線には笑みだけを返し、そしてテクトに向き直り口を開いた。
「……ならば、今日は泊まっていくといい。明日、また弟君を探しに行くんだろう?」
「え、ミアハ様……!?」
驚愕に満ちた視線を、ナァーザはミアハに向けた。
―――――てっきりこの青年を、ファミリアに誘うと思ったのに。
モンスターの群れを前に、神の恩恵も無しに生き残ってみせた青年……これほどの逸材は、他にはいまい。
だがミアハは誘う事もせず、ただ温和な笑みを浮かべるだけ。
ただでさえ困窮しているミアハ・ファミリアにとって、これ以上ない救いの手になるかもしれない逸材を、何故……
「え、よろしいんですか……?」
「いいとも。これも何かの縁だ、今日はゆっくりしていくといい。それでは私はまだ仕事が残っているのでな、先に失礼するぞ」
そして、話は終わりとばかりに席を立ったミアハ。
仕事とは、恐らく調合の事だろう。
先ほど持ってきた小箱を手に、ミアハは私室へ戻っていった。
「……」
「……」
残された二人……ナァーザとテクトの間に、沈黙が走る。
両者ともしばし俯き、黙っていたが……最初に口を開いたのは、テクトだった。
「ミアハ様は、良い神様ですね」
「……!!」
その言葉に、バッとナァーザは頭を上げた。
「神様に対し、俺は少し偏見を持っていたかもしれません。こんな見ず知らずの俺に、ここまで尽くしてくれるなんて……」
「……」
「ナァーザさんも、ありがとうございました。俺を、助けてくれたみたいで」
テクトの感謝の言葉に、ナァーザは何ともいえない笑みで返す。
―――死体だと思っていただなんて、絶対に言えない。
「それで、ナァーザさん……一つ聞きたいんですが、いいでしょうか」
「……何?」
「神の恩恵とは、一体どういうものなんでしょうか。力を与えるものなんでしょうが、漠然としか知らなくて……」
――――なるほど、神の恩恵を受けていないというのは本当らしい
首を傾げて聞いてくるテクトに、ナァーザは一つ笑みをこぼし、話す。
「私も、神様から伝え聞いた事しか知らないけど―――――」
その者の経験を力の糧へと変換し、能力を向上させる神の御業。
そしてその能力は、数値と記号の指標で表される。
レベル、熟練度、アビリティ……
神の恩恵に関してだけでなく、様々な知識を披露するナァーザに、テクトは一つ一つ頷き聞き入っていた。
「―――と、いう事なんだけど……理解出来た?」
「えぇ、ありがとうございました。ナァーザさんは、教えるのが上手いんですね」
「……おだてたって何も出ないよ」
そうは言いつつも、ナァーザの尻尾は嬉しそうに振れていて。
テクトの笑みと、その視線の先にある己の尻尾に気付き、ナァーザが赤面するまで数秒。
今度はナァーザが、口を開いた。
「……敬語禁止」
「え……?」
「タメ口でいいよ。見た感じ、私とテクトってそんなに歳離れてないでしょ?」
仲良くなるために、ナァーザは一歩踏み出した。
テクトにはそう見えたが……しかし同時に、ナァーザには打算もある。
出来るだけ仲良くなって、ファミリアを懇意にしてもらえば……そう。
そうすればきっと、ファミリアに入ってくれるのではないか。
そして冒険家業を廃業してしまった私の代わりに、迷宮へ潜りお金を稼いでくれるかもしれないのではないか。
勿論、仲良くしたくないわけではない。
ただ―――折角見つけた逸材なのだ、ここで離すわけにはいかない。
ミアハ様の意図は分からない―――なんとなく察しもついたけど―――それでも、私は私でミアハ様に恩返しをしたいのだ。
ナァーザの申し出に、テクトは幾ばくか逡巡した後……笑って、告げた。
「……分かった、ナァーザ。これでいいか?」
底抜けに明るい、笑顔。
陰の無い、人の思惑など知らなそうな笑みに、ナァーザの胸がチクリと痛む。
「うん……よろしく、テクト」
「あぁ、よろしく。ナァーザ」
彼の弟も、きっと同じ笑顔を浮かべるんだろうな―――。
テクトの綺麗な朱の瞳を、ナァーザは暫く見つめていた。