オラリオの地下に広がる広大な迷宮―――――通称、ダンジョン。
地表から地底へ、深度が深くなればなるほどダンジョンは広くなり、モンスターも強力になっていく。
ゆえに、新米の冒険者はダンジョン上層でまずは力を蓄え、少しずつ先へ進んでいくのが常套である。
己の力量も弁えず、身の丈に合わない階層に進もうものなら、冒険者はその命を呆気なく落とす事となるだろう。
一週間という期間、エイナというギルド職員からベルは多くのダンジョンとモンスターに関する知識を学び。
そしてこの日、遂にベルは初めてダンジョンへと潜る事を許された。
刃渡り20C程度の短刀を握り締めるベルの視線の先には、一匹のコボルト。
そんな彼の背後には、兄であるテクトの姿も見受けられた。
「……っ」
初めての戦闘。
初めての武器。
戦闘の空気が、武器の重量が、ベルの体へ重くのしかかる。
どうにも隙が見つけられずベルが攻めあぐねていると、不意にコボルトが動き出した。
「っぅあ!?」
「ベル!!」
ダンジョン上層に棲息するモンスター、犬頭の姿をしたコボルト。
その鋭い爪が、白髪の少年の体を浅く切り裂いた。
即座に灰髪の青年テクトが弟に近寄り、彼を庇うようにしてコボルトとの間に割り込む。
「―――ッ」
そして、青年は力を入れるように軽く腰を落とし。
目の前のコボルトを睨みつけ―――――風のように姿を消した。
『グォ……?』
敵の消失にコボルトは混乱。
事態を把握できずに動きが止まったその瞬間、コボルトの体に影が差す。
「……遅いッ!」
“跳躍していた”青年の握る両刃剣が、一直線にコボルトへと振り下ろされる。
それは銀の軌跡を描き、コボルトの体を縦に一刀両断した。
『ッ……!?』
それはまるで、豆腐に刃を入れるかの如く。
断末魔を上げる事すら叶わず、コボルトの体は綺麗に両断された魔石と共に灰と化した。
「大丈夫か、ベル?」
「うん……」
―――――強い……!
動きを追えなかった。
瞬く間に、コボルトが両断されていた。
気付いた時には終わっていた戦闘に、僕は呆然と眺める事しか出来なかった。
「包帯を持ってきていてよかった。ベル、少しじっとしていろ」
甲斐甲斐しく僕の手当をしてくれている兄。
先ほどまで両刃剣が握られていたその手には、今は白い包帯が握られている。
「あれ、ポーションは?確か持ってきていたよね?」
「あぁ、あるぞ。だがこの程度で一々ポーションなんて貴重品使ってたら、金なんてすぐ無くなる。痛いだろうが、我慢してくれな」
「う、うん……」
……動けなかった。
コボルトを前にして、僕は何も出来なかった。
いたずらに攻撃を受け、悲鳴を上げるしかできなかった。
もし兄が居なかったらどうなっていただろうか。
情けなさで一杯で―――――短刀を握る手に、思わず力が入る。
「ベル」
「……何?」
優しげな、兄の声。
気を使っているのだろうその優しさが、今は辛かった。
「攻撃を受けても、よく立っていられたな。お前は凄いよ」
「……え?」
「俺が初めてコボルトから攻撃を受けた時は、恐ろしくて尻餅ついてしまってな。随分と祖父さんにからかわれたものだよ」
想像出来ない。
あんな大立ち回りが出来る兄が、あまつさえあの一刀両断したコボルトから攻撃を受けるなんて。
そんな僕の心境を察したのか、包帯を巻き終えた兄は見上げるようにして僕と視線を合わせた。
「最初から何事も上手くいく奴なんていない。失敗して、覚えて、成長するんだ」
「……」
「大丈夫、お前なら強くなれる。あの攻撃を受けて立ち続けられたんだ……お前は、俺より強くなるよ」
兄は、断言した。
あんな一瞬で戦闘を終わらせられる兄が言うのだ……きっと間違いない。
「……うん!」
心強い兄の言葉。
目標へと向かう僕への激励。
それに応えるよう、大きく頷いて見せた。
―――――
その日の夜、弟とのダンジョン初探索を終えたテクトは青の薬舗に居た。
その一室に配置されたベッドに寝転がりながら、コボルトの上空へ跳躍したあの瞬間を思いだす。
「……凄いな、神の恩恵」
本当は、地を駆けてコボルトの目の前まで接近するつもりだった。
だが、自身にかけられていた神の恩恵の力が予想を超えていた結果、脚は地を離れ空を駆けてしまい。
急遽ダンジョンの天井を足場に減速し、何とか跳躍したという
「本当は少しずつ慣れていくもんなんだろうけど……初期レベルが高いっていうのも、なかなか面倒くさそうだ」
ミアハ様には悪いが……しばらく、一人でダンジョンに潜って
力が制御できず、パーティに傷を負わせてしまった時には、眼も当てられなくなる。
(……だけどアレ、本当に制御なんかできるのか?)
ほんのすこしだけ、力を入れたつもりだった。
だというのに
本当にパーティを組めるほどに制御できるようになるだろうかと、初めてのダンジョン探索は早速不安要素が露呈する結果となった。
「それに、問題は他にだって……」
仰向けにしていた体を横に傾けると、視線の先には束となっている羊皮紙。
それは、ダンジョンの探索終了後にギルド職員のミィシャに頼み、手に入れた資料。
そこには、オラリオの全ファミリアのエンブレムが記載されている。
(ファミリア、思った以上に多かったな……)
主要なファミリアだけでいいとは言ったのだが、結局ミィシャには全て手渡された。
軽くナァーザから説明を受けたロキ・ファミリアやヘファイストス・ファミリアのような大手ならともかく、それ以外は名前だけ聞いてもさっぱりだ。
とはいえ、折角の資料、大事に有効活用したい。
それに、あの資料はあくまでも借り物であるため、いずれは返す必要がある。
そうなる前に、可能な限り頭に叩き込まなければ。
束の内の一枚を手に取り、エンブレムをじっくりと眺める。
その下には、【ソーマ・ファミリア】という名が書かれていた。
―――――どこかで聞いた事があるような……
「……何やってるの?」
「ッ!?」
音もなく掛けられた声―――やや表現がおかしいが―――に驚き、思わず手放した羊皮紙が床に落ちる。
たった今部屋に入ってきたナァーザが、訝しげにそれを拾った。
「……ソーマ・ファミリアのエンブレム?」
「の、ノックくらいしろ!驚くだろうが」
「いいじゃない。ここ、私の部屋でもあるんだし」
拾った羊皮紙を俺に手渡しつつ、ナァーザはもう一つのベッドへと腰掛ける。
……そう、俺はナァーザと相部屋であった。
「やっぱり、俺、ミアハ様の部屋で寝たほうが……」
「ミアハ様の部屋、見たでしょ?調合用の素材や大切な機材が隙間なく置かれてるそんな所に、テクトみたいな素人置けるはずないじゃない……」
「だが……」
「じゃあ客間の床で寝たら?多分、一週間もすれば体が悲鳴上げだすだろうけど……」
話は終わりとばかりに、ナァーザはそのままベッドへ潜りこむ。
冒険者は体が資本、そうでなくても床でこれから毎日寝るのは御免だ。
これ以上は自滅を招きかねない事を察し、魔石灯を消灯してから俺もそそくさとベッドへ潜り込んだ。
柔らかなベッドが疲れ切った体を癒し、意識は次第に闇の中へ―――――
「……ソーマ・ファミリアの事、調べてるの?」
―――――落ちかけたが、ナァーザの声がそれを引き留めた。
「……知ってるのか?」
「質問に質問で返さないでくれる?……まぁいいけど」
呆れたように溜息を吐くナァーザの姿は、闇に紛れよく見えない。
恐らくベッドの中で呆れた顔をしているだろう事は、想像に難くないが。
「いい噂は聞かない。あそこの冒険者、やけに必死だからね……」
「必死……?」
「とにかく金を少しでも多く稼ごうとするの。その為に争いを起こす事も少なくない……」
「金、か」
貧乏なファミリアなのだろうか。
金の貧しさは、心をも貧しくさせるという事か。
「で、そんな事知ってどうするの……?」
「……どうもしない。ただの興味だ」
「……そ」
興味の無くなったらしいナァーザは、それきり口を開く事はなく。
やがて聞こえてきた小さな寝息に、なんとなくドギマギしつつも無理やり瞼を下ろす。
(……増築してもらうための金、頑張って稼ぐか)
俺はヒューマン、ナァーザは
種族は違うが、しかしお互い伴侶を持つ前の男女である。
この状況に、俺はともかくナァーザが良い思いをしていないのは明白。
―――――弟の大層な目標とは対象的に、自身の目標はどんなに矮小なのだろう。
そのちっぽけさに自嘲しつつ、明日の為に今度こそ俺は意識を落とした。