風が身体を撫で通り抜けていく。梢(こずえ)がさわさわと波の音を立て、土と緑の匂いが心地いい。
――気持ちいい。このまま眠ってしまいそう。
目を瞑ったまま、意識が微睡(まどろ)みかけたとき、声が聞こえた。
「キミ、大丈夫かい? こんなところで寝ては駄目だよ。起きなさい!」
揺すり起こされて、ゆっくりと瞼を開いた。
目の前に見えたのは短い鳥の足にオレンジの身体。少し視線を上げれば、黄色いくちばしに、つぶらな黒い瞳が此方を心配そうに覗き込んでいた。
知ったポケモンだ。
「……アチャモ?」
オレンジのヒヨコのようなポケモンが目の前に立っている。
名を口にすると、アチャモは安堵したように吐息を漏らした。
「いかにも。ワタシはアチャモのデビーだが、キミは何故ここで寝ていたのかい?」
デビーと名乗ったアチャモにそう言われ、脳が一瞬停止した。一気に覚醒した意識は思わず叫びに変わる。
「アチャモがしゃべったぁぁぁ!?」
ポケモンは普通、言葉を話さない。
アチャモが、しかも見た目の可愛らしさに反して尊大な口調で話したことに驚いた。それに、アチャモ――デビーが怪訝な顔をする。
「騒がしいな」
「だって、普通ポケモンは人間の言葉を話さないよ?!」
「人間? ワタシは人間の言葉など喋らぬ」
「え……、今話してるよね。もしかして、人間のわたしがポケモンの言葉を理解出来るようになった、とか……?」
「何を言っているのかね。ワタシにはキミがフシギダネにしか見えないが」
言われて自分の手を見た。腕が太いせいで小さくみえる丸い掌、短い指、緑色の手。握ったり、開いたり、ちゃんと自分の意識で動く自分自身の手の感触。
「信じないというのなら、そこの水溜まりにでも姿を映してみたらどうだい?」
デビーに言われて恐る恐る近くの水溜まりを覗き込む。水面に映ったのは青空と不安げな表情の見知ったポケモン。猫耳のカエルのような顔に、赤い大きな目に可愛い八重歯の生えた口。背中には黄緑色の玉ねぎのような種を背負っていた。
図鑑でよく見ていたフシギダネのものだ。
――どうしてこうなってしまったのか、何も覚えていない。
混乱していると、デビーがそっと隣に来た。アチャモ特有の肩周りの柔らかな羽毛が触れ、炎タイプならではの暖かさが伝わってくる。
「良かったら何があったのか聞かせてはくれないだろうか」
「わからない。覚えてないの。自分がエリアナって言う名前だってことしか……」
消え入りそうな声で答える。
「そうか、良かったじゃないか! 自分の名前を覚えていたのなら、誰かがキミの名前を覚えているかもしれないぞ」
デビーは快活に笑って見せた。
『誰かが名前を覚えているかもしれない』ポケモンになってしまった絶望感でいっぱいだったエリアナにとって暗闇を照らす唯一のかがり火に思えた。
ありがとう、とエリアナが言い掛けたとき、遠くから叫び声が聞こえた。
「誰かー! 助けてー!」
デビーとエリアナが振り返ると、森の中からバタフリーがキッチンの窓ほどもある大きな白い翅をばたつかせ此方へ飛んでくるのが見えた。
血相をかえ慌てた様子は尋常ではない。
「落ち着きたまえ。何があったのかい?」
デビーが紋白蝶に似たバタフリーを落ち着かせようとゆっくりとした口調で言った。
「キャタピーちゃんが落っこちちゃったのよ!」
エリアナが首を傾げる。
「どこへ?」
「小さい森の地割れの中よ! 私の力じゃ助けてあげられないし、もう、どうしたらいいか……」
翅をばたつかせおろおろとその場を飛び回る。羽ばたく度にそよ風が起き、デビーの頭の黄色い飾り羽が揺れた。
バタフリーの話しを真摯に聞いていた彼は突然大声を張り上げる。
「助けにいこう! ワタシ達に任せたまえ」
肩の黄色い羽毛を膨らませてオレンジののっぺりとした胸を張る自信たっぷりなデビーにエリアナは嫌な予感がした。
「『ワタシたち』……って」
「ワタシとキミで助けに行くんだ」
――やっぱり。
「待ってよ。自分が何なのかもわからない状況なのに人――じゃなくて、ポケモン助けなんて」
「動けば何か思い出すかもしれないだろう? それともキミはそこでずっと立ち止まっているつもりかい?」
どこまでポジティブなアチャモなんだろう。
こういうタイプはきっと何を言っても聞かないだろう。たとえ聞いたとしても一人――もとい、一匹で行くと言いだしかねない。
――ミイラとりがミイラね……。
バタフリー一匹では無理でも小さいわたしたち――二匹なら……。
そう思うと、エリアナは小さく諦めのため息をついた。
「……わかったよ。わたしも行くよ」
「あ、ありがとうございます!!」
「バタフリー……さん、お礼はまだ早いですよ。キャタピーちゃんと一緒に帰って来てからにしてください」
「うむ! エリアナは良いことを言う。礼なら終わった後だ! よし、急ごう!」
一匹勇んで駆け出すデビーをエリアナが追い掛ける。
「ちょっとー! 場所わかるの!?」
「大体な」
――すごく不安。
バタフリーを置き去りにし、二匹は森の中へと入って行った。