反射的に振り向くと、幽霊さんが腕を掴んでいた。
何の用かと疑問符を浮かべると、彼女は身振り手振りで何かを伝えようと試みている。だが、自分でもどうすれば伝わるか分からないらしく、非常に焦った様子でわちゃわちゃ体を動かしていた。幽霊さんの外見でそれをやるととっても怖いんですが。
「えっと、うーん、分からん。なんかヤバイことでもあった?」
ぶんぶん頷く幽霊さん。髪がボサボサになってるからもうちょい落ち着け。
「マジか。どうヤバいのか分かんないけど……とりあえず、なんかした方が良いんだよね。逃げたほうがいい? それとも隠れたほうがいい?」
そう聞くと彼女はダダッと駆け足をしてバッテンを作り、机の下に潜り込んでマルを作った。どうやら隠れるほうがいいみたい。
「了解です。よし、聞いたか皆の者。各々誰にも見つからぬよう身を潜めよ」
その言葉と共に振り向くと、すでに三人の姿はなかった。一色さんの言った通り、俺には速さが足りなかったみたいだ。
謎の敗北感を味わいながらも掃除用具入れのロッカーに入り、扉にある隙間から音をたてないように職員室を覗きこんだ。
廊下は注意深く見ても遠くが見えない程暗く、保健室は普通に明るかったが、職員室はその間くらいの明るさであり、中途半端に見えるせいで余計に恐怖を濃く感じてしまう。職員は何をやってるんだ、電灯の電球切れかかってますぜ。仕事してくださいお願いします。
俺は恐怖を忘れるために、考えを絶やさず頭に巡らせ続ける。
――コツッ。
静かな校舎に響いたその音は、俺の頭を一気に冷やした。
――コツッ。コツッ。コツッ。
誰かが。廊下から。近づいてくる。
ぶわっと汗が噴き出す。一気に体が芯まで冷たくなって、指先の感覚がなくなった。
嫌な汗っていうのはこういうものを言うんだな。知りたくもなかった。
人間っていうのは不思議なもので、危機的な状況になると対処を考えるより先に逃避に走ってしまうことが多い。恐怖によって防衛本能が働くのだろうか。だが、危機は月曜日のように必ず訪れる。逃避をする大多数の人間は危機に直面して、初めて相対するのだ。
しかし世界は広い、危機に陥ってもすぐに対処を考えることができる人間も存在する。そういった人はたいていの場合重要な役柄についているはずだ。追い詰められても現実で対応できるという事は、逃げては不味い事態がちゃんと理解できているという事である。判断力が優れているのだ。
だから出世のチャンスは逃さないし、失敗しても次のチャンスへの糧とする。七転び八起きを地で行けるからこそ、危機という石に躓いてもすぐに立ち直ることができるという訳だ。
貴方の友人にも切り替えが早いなこいつ、と思う人はいないだろうか。しかもそいつが夏休みの宿題をすぐにやってしまうタイプならば、注意すべきだ。いずれは社長になるかもしれないので、不快にさせないよう媚を売っておこう。
ちなみに俺は夏休みの宿題は速攻で終わらせておくタイプだ。おう、社長様のお通りだぞ、野郎ども存分に媚び売れや。
――ガラリ。
俺の脳内がダイナミック現実逃避をしている内に、無慈悲にも職員室の扉は開き、招かれざる客が訪れた。
隙間から、入り口を見る。
入ってきた人物は、青い警備服を着た男性だった。右手に懐中電灯を持ち、室内を照らす。照らした光が壁に反射して、はっきりと姿が目に映る。どうやら普通の警備員のようだった。
……ただし。
その肌が干からびたように血管が浮き出る緑色でなければ、だが。
「―――ッ」
息を殺せ。
恐怖で埋め尽くされた胸は、怯えるようにどくりどくりと躍動する。まともに思考できない頭では、気づかれないように祈ることしかできない。
その事がどうしようもなく不安で、めまいがするほど不安で。それなのに、目を閉じることは出来なかった。
緑色の警備員は千鳥足で室内を歩く。しきりに首を回し、辺りを見渡す。何かを探しているのだろうか。
机の上や床を執拗に見ながら、ゆっくりと俺の潜むロッカーに近づいてくる。
彼は手に持った懐中電灯をロッカーに向けていて。動悸が止まらない俺の、目の前に、辿り着いて。
そのまま通り過ぎた。
安堵から体の力が抜け、慌てて気を引き締め直す。まだ安心できない。せめてこの部屋から出るまでは踏んばらなければ。
警備員は、頼りない足取りで出口へと向かっている。お願いします早く出てってください後生ですから!
彼は出口にたどり着き、扉を開ける。いよーし早く出てって、出て行け、出てけ!
ガタン――。
机から、音が響いた。
ぐるんと首を回して再び室内に目を向ける警備員。
中央に置いてある机。その足に、何かがぶつかるような音がなった。
そう、つまり。
誰かがやらかした、ということか。
警備員はふらふらと、しかし今度は明確な目標を持って職員室を歩く。
ゆっくりと、確実に、彼はその机へと向かう。
それを見て。
俺は覚悟を決めた。
「ふわぁー良く寝た。……あれ、警備員さん、どうしたんですか?」
ごくごく自然な動作でロッカーから出て、挨拶した。
どうしようこれマジやばいってこれ無理だろ詰んだわあーあ世の中上手くできてねぇなぁもっと楽に生きていけたらいいのにこうクラゲみたく大海原を漂う生き方みたいな。
なんて愚痴を飲み込んで、言葉を捲し立てる。
「もしかして見回りですか? ということは今何時だ? ……うわぁ、もう外真っ暗じゃん! いやまさかかくれんぼをしていたら寝てしまうなんてなーびっくりだなーいやまいったまいった早く帰らないとじゃあこれで」
ナニヲ シテイル
「えぁっ……とぅ……」
コッチヘ コイ
「いやぁ……それは遠慮したいかな……なんて」
コッチヘ
コイィィィイイイィイイィイイイイィイィイイイイイィィイイイィイイイイイイイイ
そう叫んだ警備員は、こっちへ向かって走ってきた!
「これだから! これだからホラーは嫌なんだよおおおおぉぉぉおぉおぉぉおぉぉお!」
叫びながら、廊下を全力疾走する俺。その後ろにはもちろん、
マテ マテ マテ マテ マテ
と連呼しながら追ってくる緑色の警備員がいます。
「誰が待つかバーカ! 待ってほしかったら誠意を持て誠意を! 申し訳ありませんがよろしければお待ちいただけませんかぐらい言ってみろ、大人なんだろ!? ほら言ってみろよ、このハゲ!」
ダレガハゲダアァァァアアァァアアアアァアァァァアアア
「一番気にするポイントそこ!? ……もしかしてマジでハゲてんの?」
ゼッタイ ユルサナイ
「ごめん! ほんと申し訳ありませんでした! なのでよろしければお待ちいただけませんかぁぁあああぁぁああ!」
完全に墓穴を掘りながら校舎内を走り回る。一階に下りて廊下を走り三階に上がって渡り廊下を通って北校舎へ。幸い地図を見たばっかだったから行き止まりに行くことはないけど、全然距離が開かないからいずれ捕まってしまうコワイ!
どこかで視線を切ってその瞬間に隠れるしかないか。ヤバいちびりそうだ!
階段を駆け下りて、視界に入らないうちに俺は目についた場所へ飛び込んだ。
ワンテンポ遅れて警備員が階段を下りてきた音がして、ぴたりと近くで止まる。
そりゃそうだ、すでに走る足音が途切れているのだからここらへんに隠れていると思うのが普通だろう。なに考えてんだ俺。
警備員は、しばらく動かずにいると、やがて俺の隠れている場所――トイレへと足を向ける。
今度こそ、だめか。
そう思った時。
奇跡は起きた。
アレハ――
突然警備員が足を止めると、別の場所へ歩き出した。
どうしたんだと思わず頭を廊下に出すと、その先には。
フサフサの、髪の毛が。
アア――
彼はそれを恋人のように抱きしめて、帽子を脱いで頭にかぶせる。
満ち足りた声で良かったと呟くと。
背景に溶けるように、消えていった。
その様子を呆然と見送って、俺はぼやいた。
「……なんだったんだ」
いろいろと急展開過ぎてついて行けないんですけど。