「古都…ヤーナム、ですか」
蒸し暑い部屋、生ぬるい風が蝋燭を不気味に揺らした
本に埋もれた机を、銀髪の女と、老いた男が挟んでいる
老人は小柄で、山のように積まれた本が、彼の表情を隠す
「そうだ、この街から東に行くと、寂れた街がある
活気のない、墓場のような雰囲気で旅行者も少ない」
話しながらも老人は執筆を止めない
声はしわがれており、小さく
おまけに俯いているので、物静かなこの部屋でも彼の声は聞き取り辛かった
「先生は訪れたことが…」
「勿論あるとも
古い友人がそこを教えてくれてね、もう二十年も前になるかな
あぁ、あいつは今どうしてるのだろう
確か、医者になるのが夢だと言っていたな
ただヤツは少し落ち着きがない…」
またか、と女は心の中でため息をつく
彼の知識量と、そこから生まれる発想は換えがない、貴重なものだが
その知識量がいつも話を脱線させる
だが、彼を知ってから早二年、女は咳払いをして軌道修正を試みた
「えーと、先生
その…」
「あぁ、すまんすまん
そうだ、ヤーナムだったな
どこまで話したか…」
「墓場のような雰囲気だと、旅行者も少なく…」
「そうだそうだ、確かにあそこは面白みがない
だがそれは一般人にとってだ
我々考古学者にとって、となると、話は大きく変わってくる」
そこで、老人は執筆の手を止め、女の顔を見た
薄暗く、また本に阻まれて、彼の表情はよく見えず
かろうじて、その隙間から、にやりと笑った口元だけが見えた
「あそこは凄いぞ、素晴らしい知識と智慧の宝庫だ」
今までとは違う声色に、女は少し怯んだ
もし部屋が明るく、また本が積まれていなければ
女は爛々と光る老人の眼に、恐怖を覚えたかもしれない
あるいは彼女が、十八年のその人生の中で、もっと人と会い、付き合いが良ければ
彼の声が孕む、少しの狂気を感じ取ることが出来ただろう
「珍しいですね、先生がそんなに真剣に話すなんて」
「珍しいとも、あのようなところは滅多にない
まぁ、滞在期間も短く、行ったのは一度きりで
おまけに少ししかその知識に触れられなかったからな
口惜しくもある
そもそもあいつが悪いんだ
無理やりに私をあの街から連れ出してくれたおかげで…」
「ハハハ…」
あぁ、これは長いな、と女は思った
これも毎度のことだ
彼の長い生の中で蓄えられた経験が、愚痴となっていつも話を脱線させる
彼女はそう分析して、そして諦めていた
しかしまた、心のどこかで楽しんでいる節もあった
友人のいない彼女にとって、人と接する数少ない機会の一つだったからだ
結局、彼の愚痴は十五分に渡り吐き出され
その間彼女はにこにこと、同情したふりをし続けなければならなかった
「で、えーと、結局私は…」
「そういえば、君に用件があったんだ
だから呼んだのだったな
ウム…」
「えっと、何故、その、ヤーナムの話を私に…」
老人の記憶のサルベージ作業をやんわりと彼女は手助けする
これもまた、いつものことだった
「あぁ…
君は…確か以前、私に相談をしたことがあったな、よりにもよって、この私に」
「あ、はい」
「そのとき君は、たしか、可笑しな質問をしたな
己を変えるには、だったか」
「えぇ…あ、それと、真理を…」
「そうだそうだ、まさか私がそのような質問をされると思ったいなかったからな
息子にもされたことがなかったのに、まさか教え子に…いや、だからこそ、というのもあるか」
皺だらけの目を細めて、過去を味わうように老人は言った
小さな感慨に浸る彼とは対称に、女は顔を少し、赤らめていた
十八の女―もしかしたら、少女だろうかーにとって、その青臭さ故の言動を掘り返されるというのは
恥ずべきことなのだろう
「ヤーナムこそ、君の望みを叶える機会だと、私は思う」
「え…でも、私フィールドワークは…」
それは、予想していたが、心の奥底では望んではいなかった言葉だった
「まぁ、安心するといい、これは強制ではなく、君が望むのならば、だ
それに、こちらへの気遣いは何もいらない
何もかもを私が手配してあげよう
滞在期間に期限も設けるつもりは無い、ゆっくりしてくるといい」
「えっと…」
「ふふ、君のことだ、しばらく時間が要るだろう
しかし無限には必要ない」
「……」
「明日から四日の間待とう
その期間を過ぎれば、この話は、残念だが無かったことにするとしよう
中途半端な期間だと思うだろう、しかしな、そもそもこれはあのいけすかん男の仕事が…」
結局その愚痴は、就寝時間三十分前まで続くことになるのだが
愚痴への対応は、いつもとは違い、ぎこちないものだった
小説執筆は初めてなので、長々とやっていくことになるかと思います