「~♪」
軽快な口笛が鳴り、軽いステップで胸元のペンダントが跳ねる。三日月マークが夕陽を受けてきらきらと輝く。待ち合わせ場所へ一歩一歩近づく度に駆け出したい気持ちが溢れ出しては止まらない。でもみっともないからと懸命に走りたい気持ちを抑えて、でもやっぱり走りたくて、その繰り返し。あまりに浮足立ってるから、行く人すれ違う人が振り返っていることに彼女は気付かない。
世間ではちょっと有名、でもプロ野球界隈では結構有名で人気者、しかもファンクラブまである存在、橘みずき。ファンは今日の彼女がオフだということは知っていても、デートの予定があることは知らない。
待ち合わせ場所に着き、きょろきょろと辺りを見渡す。相手の方はまだ来ていないようだった。ちょっとぶーたれながら携帯を取り出す。さてどうしたものか、女の子を待たせるなんて失礼な奴、電話でもして催促しちゃおうか、などと考えに耽りながら目的もなく指を動かす。
だがそう大して待つこともなかった。聞き慣れた、でも懐かしい声が遠くから聞こえてきた。
「あれ、もう来てる…」
あいつだ、と一瞬でみずきには分かった。ダーリンだ。思わずにやけそうになったのを堪えながら顔を上げる。よ、久し振りと、そんな表情で彼は片手を挙げていた。
「遅いわよ。待ちくたびれたじゃない」
「遅いって、これでも約束の30分前なんだけど」ダーリンはみずきの携帯を覗き込んで言った。「どんだけ早く来てたのさ」
「い、いいじゃない。たまたまよ、たまたま」
急に顔が近くに来たせいか、嫌なところを指摘されたせいか、みずきは思わずたじろいでしまった。
片やオリックスの絶対的先発エース、片や楽天の先発もこなせる中継ぎエース。電話やネット越しで連絡は取り合えても、大阪と仙台とでは直接会える機会はなかなか少ない。それこそチームの直接対決のカードでもない限りだ。だからこそそれだけ楽しみにしていたのだが、みずきにはそれがばれるのが恥ずかしかった。
「そんなことより行くわよ。今日はあんたの奢りでよかったわよね」
「そうだよ。この前もそうだったけど…」
「何か言った?」
「いいえ、何でもありません」両手を挙げて降参のポーズを取る。「高級ホテルの最上階でディナー、デザートにパワ堂のプリンをご馳走しますよ」
半ば呆れ気味の声にもみずきは満足そうに一足先に歩き出し、やれやれといった様子で後ろからダーリンがついて来た。
「調子はどう?」他愛もないありきたりな質問が飛ぶ。
「どうもこうも絶好調よ。当然じゃない」
「みたいだね。ここ最近はきっちりボールを四隅に集められてる。おかげで全然打たれてない。クレッセントムーンもキレが増してる気がするよ。もしかしてさ…」
「だーめ。情報を引き出そうったって無駄よ」にひひ、と小悪魔スマイルが光った。「明日から対戦するチームに教えてあげるわけないでしょ」
そりゃそうだ、とダーリンは苦笑いをした。それを見てみずきは得意げに笑った。ふりふりと水色のお下げが揺れる。
それに触発されたかのように、ダーリンの視線が、みずきの顔の、後ろの方へと移る。
「慣れないな」無意識にそうぼそりと呟いた。
「何が?」
「いや、その髪…」ダーリンが指差した先にみずきも目を向けた。「テレビとか新聞とかではよく見てるけど、生で見るとこうもイメージと変わってくるんだなぁ、て思ってさ」
「似合ってない?」
「いやいや、そうじゃないよ。とっても似合ってるよ!」慌てて言葉を繋げる。「ただ俺にとってのみずきちゃんのイメージが、ショートでサイドテールの髪型だからね。その方がしっくりくるかも、ってことだよ。それだけ」
「ふ~ん…。でも、もう結構前から伸ばしてるんだけど。いい加減慣れない?」
女性リーグを作るというあおい先輩との約束を込めた願掛けが不評に取られたのは、みずきにとって面白いことではなかった。
「どうだろう。でもずっと長いこと見てきたから。やっぱり、あの時のみずきちゃんのインパクトがそれだけ強かったってことなのかな」
二人の付き合いは高校時代にまで遡る。共に野球をしてきた時間は一年余りと決して長いものではないが、三年間を通して見れば実に内容の濃いものだった。生徒会のご要望会議、恋人の演技、友情タッグトレーニング、聖とのクレッセントムーン捕球練習、そして甲子園出場。高校卒業と同時にプロ入りしてからも、ずっと交流が続く仲になったところからもそこは伺える。
みずき自身、ハチャメチャなことをしてきたという自覚はあった。正確に言えば、年を重ねる毎に、あの頃は若かった、と思い返すようになっていた。そして、髪を伸ばし始めたのはここ一、二年のこと。だから仕方ないことなのかもしれない、と一応の納得を見せる。
「じゃあさ…」何か良からぬことを思い付いたな、どダーリンは声で勘付いた。「どっちの髪型が好き?」
悪い予感は的中するものだ。
「どっちも似合ってるよ」
「私はどっちが好きかって聞いてるんだけど」
うっ、と言葉に詰まる。ダーリンの顔が少し赤みを帯びる。それをみずきが下から覗き込む。
時間が流れる。意地悪なことを聞いたかな、とみずきに思わせるくらい。二人が無言で歩く中、ダーリンは何度もみずきから目を逸らしながら答えを探した。
「ど、どっちも」ここまで言ったところで、一度口を噤み、思い直し、言い直した。「今の髪型の方が大人っぽくて好き、かもしれない」
頑張って絞り出したような声だった。若干裏返っていて様にならない。
それでもみずきは、それ以上追及できなかった。彼女もまた嬉しくなってしまっていた。予想外の答えだった。彼の性格を把握していた彼女は、最終的にはどっちもと答えるに違いないと思っていたからだ。
頬が傍から見ても分かるくらいに綻びていた。それに気が付かないのは、同じく隣で焦っていた彼くらいだろう。
「あ、ありがと…」
「ど、どういたしまして…」
歩くペースが自然と遅くなっていた。会話は途切れ、頭は回らず、街中の喧騒だけが耳に入ってくる。気まずいと思いながらも、雰囲気を正せないままだった。
しかし徐々に、次第に、不穏なことを片方の人は考え出していた。やられっぱなしじゃ気が済まない、そう思うのが橘みずきだ。恥ずかしいと思いながらも、何とかダーリンを慌てふためかしてやりたいと思考を巡らせ始めていた。何かないかと記憶を辿りつつ、目をあちこちにやってネタを探す。
ふいに、彼の唇に目が止まった。柔らかそうな唇だ。それに、男のくせに甘そう。もし、仮にもし、万が一にももし、ここでキスをしたら。あいつは絶対驚く。それこそ顔を真っ赤にさせて、走力Dの遅い足で走り出す。明日の投球に影響が出るくらいに動揺する。そこまでいったら、私の完全勝利は間違いない。
キス、しちゃってもいいかな。私は、ちょっとだけ、したいかも。
「ねぇ」微かに聞き取れるくらいの小さな声だった。「ちょっと、目閉じて」
「何で?」恐る恐る彼は尋ねた。
「いいからほら。ちょっとだけでいいから」
「何、何なの。怖いんだけど」
「早く!」
もはや完全に足は止まっていた。道のど真ん中で何をする気だと思いながらも、ダーリンは言われるがまま目を閉じた。
後悔が芽生えたのはここでだった。一体私は何をやろうとしているんだ。古くからの友人とはいえ、恋人でもない人とキスなんて、簡単にしちゃっていいのだろうか。そもそも勝手に、一方的にしちゃっていいのだろうか。もしかしたらダーリンは初めてかもしれない。私も初めてだけれど、同意もなしにいきなりされてしまってはさすがにマズいんじゃないだろうか。でもここまで来たらもう後戻りはできないような気もしてくる。ぐるぐると、今更なことばかりが思い浮かんでくる。
ええい、もうなるようになれ!
頭の中を真っ白にし、背伸びをする。そして勢いよく唇を突き出した。
柔らかい感触は、しない。甘い感触も、特にしない。どれだけ頑張って唇を伸ばしても、何も感じられない。ただ吐息だけが、鼻にかかる。
ほんの数センチ、届いていなかった。ダーリンが下を向いていなかったせいか、ダーリンの背が高かったせいか、みずきの背が低かったせいか。理由を考えている暇などみずきにはなかった。
みるみるみずきの顔が赤くなる。思わず距離を取り、両手で口を塞いでしまう。
「もういい?」
みずきに返事はできない。何も反応がないのを不思議がりながら、ダーリンはゆっくりと瞼を開いた。少し前とは全く顔色の違う彼女がこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……何でも…」
返事はそれだけだった。あとは、まるでそっちが悪いんだと言わんばかりの鋭い目付きで睨むだけ。それだけ見ても、事情は分かるはずがない。
やれやれと、ダーリンは頭を掻いた。
「まったく、昔から変わらないね。みずきちゃんは」
そんな中、ダーリンは言い放った。
「何よいきなり」
「好き勝手なことばっかりして、いつも俺を振り回してさ」
「悪かったわね」
「ご要望会議では全く許可を出してくれなかったし」
「あんたが下らない要望ばっか出すからよ」
「恋人のふりをしろ、なんて突然言い出すし」
「そうでもしなきゃ私が野球できなかったんだもん」
「俺から友情タッグしよう、て言わせなきゃ気がすまないし」
「だって、何か負けた気がするし」
「聖ちゃんのためとはいえ、木に吊るされるし」
「パンツ見れたんだから良かったじゃない」
「本当、昔からずっと同じだよ、みずきちゃんは。髪型が変わっても、中身はそのまま。みずきちゃんはみずきちゃんだ」
「だから悪かったって…」
「そう、だからたまには俺だってご褒美が欲しいんだ。俺のわがままも聞いてもらわないと」
え、と聞き返す前に彼は続けてこう言った。「目は閉じなくていいよ」
みずきの視界が、彼でいっぱいになる。上から覆いかぶさるように、まるで逃げ場をなくすかのように。そしてみずきの唇は柔らかく甘いもので塞がれた。
一秒、二秒、三秒。ダーリンの腕がみずきの背中に回る。四秒、五秒、六秒。みずきの腕はどこに行ったらいいのか分からず、宙に浮いている。七秒、八秒、九秒。ダーリンの方から、名残惜しそうに離れる。ぷはぁ、と互いの口から息が漏れた。
「さっきの、実は見えてた」
「目閉じろって言ったじゃん!」
「だって、あまりにも怪しかったもんだから」
「そんなの知らないわよ!」
「で?」ダーリンは意地悪そうな視線を向けた。「何かないの?」
どきっ、とみずきの体が震えた。口を尖らせ、きょろきょろと落ち着きなく彼から視線を逸らす。
「帰っちゃだめ?」
「絶対だめ」
「お姉ちゃんが呼んでる気がしたんだけど」
「気のせい」
間髪入れずに答えられる。それでも逃げたくなって、思わずみずきは一歩下がった。
ちゃりん、と音がした。二人は音のした方を向く。三日月のペンダントで、二人の視線が重なった。
みずきは視線を上げた。それに気が付いたのか、ダーリンと視線が合った。髪型に顔の輪郭に雰囲気。変わってないのはそっちも同じじゃん、と言いたくなる。でも、昔から変わっていないからこそ、今でも好きなんだな。ぼんやりとしたものがはっきりと形になる。
手を後ろに回し、ペンダントの鎖を外した。そしてそのまま、ダーリンの首元へと回し、結び直す。
「これって…」
「そうだよ」
みずきが幼少の頃に買ったおもちゃのペンダント。三日月の形をした、彼女を象徴するもの。一度は恋人を演じるがために彼に渡り、そしてプロ入りした時に彼女に戻ってきたもの。そしてそれに秘められた想いは、いつか好きな人ができたら渡す、というもの。
「今度は嘘じゃなくて、本当に好きな人へのプレゼントだからね!」
ペンダントは軽い音を立てて胸元に収まった。いい年した大人が、ましてや男が喜んでするようなものでは到底ない。それでも、ダーリンにとっては嬉しいものだった。
お互い、照れくさそうにはにかんだ。えへへ、と笑っては、えへへ、と笑い返す。
ふいに、あ、と何か思い出したかのようにダーリンは言った。
「やっぱり髪が短い方がかわいくて好きかも」
「どっちなのよ」
呆れたようにみずきは笑った。出会って初めて手を繋いだことに、二人は未だ気付いていない。