充血しているのかもしれない、と不安にもなったがトイレに戻る訳にもいかなかった。運が悪いことに手鏡も眼薬も持っていなかった。他に行くところもなかったので、そのまま私は教室に入った。
そこにはまだ誰もいなかった。この講義はいつも皆が開始時間ギリギリに来るものだったからさほど不思議な光景でもなかった。定位置の、前から二段目の列の椅子に座る。
気持ちは落ち着いていなかった。悲しみと憤りがごちゃまぜになっていた。何もする気になれなかった。泣くのはみっともない。みっともないことはしたくない。けれど、こういう時って泣いていいんじゃないか。今なら誰も見ていない。いや、でも、だけど。もう自分が何をしたいのかもよく分からない。
後ろからドアが開いた音が聞こえた。は、と意識が戻る。見られて不自然じゃないかと慌てて何かしている振りをする。とりあえずテキストを手に持って、勉強している振りをした。
そして、横目でちらりと誰かと見てみた。普段着と言い張るユニフォームにキャップ、ちょっとかわいい顔。キャプテンだった。どきりと、心臓が跳ねた。
「やあ、有夢ちゃん。そんなところで何してるの? レポート?」
「これ? 公認会計士の問題集よ」
さっきまで勉強してたんだよ、とアピールするように表紙を見せる。
「ってことは、有夢ちゃんは公認会計士を目指してるの?」
「違うわ、夢は別にある。これは、そのために必要な資格よ」
「その資格が必要なほどの夢って、いったい何だよ?」
ついてない。気分が悪くなった。
よりによってこの人にそんなことを聞かれるなんて。追い払おうかと思った。でも、せっかく二人きりで話せる機会が巡って来たのを無駄にはしたくなかった。この恋は終わったはずなのに、終わらせなきゃいけないはずなのに。おかしな話だ。
「…笑わないでよ?」もう破れかぶれだ。苦笑いを取り繕う。「プロ野球選手のお嫁さんになりたいなーって」
「やけに具体的だな。けど、お嫁さんに資格って必要なくないか?」
「それは甘いわ! だって、公認会計士の資格を取れば登録して税理士にもなれるでしょ。そしたら、ダンナさんの税金対策とかでサポートしてあげられるじゃない!」
「計算高いのか、ロマンチックなのか…」
計算高かったらもっとうまく立ち回ってるし、ロマンチックだったら夢を諦めようかなどと考えない。やっぱりさっきの今でこの話題は話していて辛い。
ふむ、と彼はワンテンポ何かを考える仕草を取ると、次に、こう言った。
「じゃあ、オレのお嫁さんなんてどうかな?」
それは、予兆も何もない、予測も全くできない、突然の出来事だった。
「えぇっ!?」
「あれ、固まっちゃった? もしもーし! ちょっと、気づいてよ有夢ちゃん!」
目の焦点が合わない。ついさっきまではっきりとしていたのに、一瞬で意識が遠のいてしまいそうだった。手も、足も、何も動かせない。キャプテンが私の目の前で手を振っている景色が、ゆっくりと少しずつ、露わになってくる。
「はっ!」
「あ、よかった。ようやく気が付いた」
「こ、コホン!」誤魔化すためだけの適当なせき込みをする。「まさか、キャプテンの口からそんな言葉が聞けるなんてねぇ」
本当に、と添えたかった。じーっと彼の顔を覗き込む。まるで告白とも取れるようなことを言ったのに、彼は何ともないといった表情をしていた。私に見られ続けて少し困ったような様子を見せた程度だ。
「あの…そんなに見つめられると恥ずかしいんだけど…」
「さっき、もっと恥ずかしいことを言ったのは誰?」
「うう、ごめんよ。軽い気持ちだったんだ」
「軽い気持ち? まさか、冗談ってこと?」
ぎろりとあらん限りの目力を込めて睨みつける。そして内心では叫び続けていた。
冗談じゃないって言え、冗談じゃないって言え、冗談じゃないって言え。
彼は私から視線を逸らしては、ちらちらこちらを伺っていた。早く答えろ、と言わんばかりにまた目力を強くした。瞬きも我慢したせいで目がピリピリしてきた。
うやむやにされそうな、笑い飛ばされそうな、悪い予感ばかりが頭の中を駆け巡った。懸命に無視して、振りほどいた。私も逃げ出したくなって、何度誤魔化そうかと思ったことか。
どれくらい待ったか。彼の固く結ばれていた口が、ようやく開いた。
「いや、冗談じゃないけど。いきなりすぎたかなって」
初めて、彼の顔が赤くなった。
「そう、冗談じゃないのね」顔を伏せたのは、思わずにやけてしまったのを隠したかったからだ。「…いいわ」
「えっ?」
「お嫁さんはともかく、付き合うだけならいいって言ってるの! もう、ちゃんと理解しなさい!」
「マジで!?」
目が真ん丸になっていた。本気で驚いているらしい。そして、同時に口元も緩んでいる。
「その代わり、本気でプロ野球選手を目指すこと! 約束よ!」
「もちろん! 絶対なるよ!!」
両手を上げてのオーバーリアクションを見て、彼らしいなと思わず笑ってしまった。
しかし突然、その両手はそのまま私を抱き寄せるように覆いかぶさってきた。強く、彼の体と密着する。彼の顔が、私のすぐ横に来た。顔の熱さが、一瞬で許容範囲を超えた。
「い、いきなり何すんの!」
「え、だって…え…」耳元から困惑したような声が聞こえる。「俺達、その…恋人になったんだよね」
「それは、そうだけど」
「あまりにも嬉しかったから、つい勢いで…」
「…このナンパ野郎!」
「ナンパ野郎!?」
私を拘束する腕が緩む。顔が見えなくても動揺しているのが見え見えだった。
「待って」彼の背中へ腕を回した。近場で何度も見たことはあったけれど、実際触ってみると、思っていたより大きな背中だった。「そのままでいいわ」
難しく考え過ぎていたのかな。本当はこんなに簡単なことだったのに。独りで考え込んで、塞ぎ込んで、馬鹿らしい。でも、もう過ぎたことだから気にしない。夢が一つ叶って、もう一つの夢へも前進したのだから。間違いはいっぱいあったかもしれないけれど、よその人なんか捨て置け捨て置け。何ていったって、晴れて彼女になれたのだから。
この…この……。
「ごめん、名前何だったっけ?」
この日、私の将来の旦那は壱琉大学の頂点に立った。