天下無双   作:しるうぃっしゅ

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黄巾の章
一話  銀と河


 

 

 

 後漢と呼ばれることになる時代のとある辺境には命の価値が無いに等しい裏街があった。当たり前のように物が盗まれ、暴行が行われ、命が奪われる。

 それこそ力のない者、知恵のない者は、泥水を啜り、塵屑を漁って命を繋ぐ。

 そんな光景が日常で見られる、この世の地獄とも言える、とある街の一画。

 暴力が支配する誰も彼もが腐った瞳をしている住人がうろつく、薄汚れた路地裏の奥まった通路にて、幾つかの人影が見受けられた。

 

 汚れた衣服を身に纏い明らかにまともじゃない風体をした男性が三人。

 彼らだけならばこんな裏路地にいたとしても納得のいく男達ではあるが、彼らに囲まれている相手は少し違った。

 多少の汚れは見られるが、それでも男達よりは余程上等な薄桃色の衣服。長い黒髪に金色の簪がよく映えている。顔立ちも衣服と同じで僅かに薄汚れてはいるが、それでも目を引くきめ細やかな肌。日に焼けたこともないような白い肌が印象的で、周囲の注目を集める―――もっとも見たところ精々が十になったかどうかという年齢の歳の少女、ということを含めて、どう考えてもこんな場所に居るのが不似合いと言えた。

 

 黒髪の少女は見知らぬ男達に囲まれて、どこか不安そうな表情で周囲を見渡している。

 助けを呼ぶか、逃げ出そうか、どちらの手段を取ろうか迷っているようだが、どちらを選んだとしても邪魔が入ることはないことを三人の無頼は知っていた。

 この貧民街で、他者を気にかける余裕がある者などいやしない。

 自分達が生き抜くだけでも、明日があやふやな境界線をここの者達は毎日彷徨っているのだから。

 

 それがわかっているのかいないのか。

 それでも意を決して助けを呼ぼうと口を大きく開けた少女が叫ぶよりもはやく、男の一人が彼女の口を塞ぐ。

 くぐもった声しか塞がれた口からは漏れ出てこず、結局はこの路地から外へと届くことは無かった。

 しかし少女は諦めることなく、男の手から逃れようとこの場から逃げ出そうとするが、他の二人の男達によって身体を押さえつけられその場から逃走することを許されない。

 

 絶望が少女の心を支配する。

 この後の自分の末路がどうなるか、まだ年端もいかない彼女とて薄々理解していた。

 どう考えてもまともな状況にはならないだろう。

 家が没落し、父と母に見捨てられ、迷いに迷った挙句このような場所へ来てしまった己の愚かさを少女は悔いたが、すべては遅すぎた。

 

 決して泣くまいと自分を律していたが、それでも恐怖と悔しさから目の端から涙が滲む。

 下卑た笑みを浮かべる男達に見下ろされながら、身体を押さえつけられていた少女の身体が持ち上げられようとしたその時―――。

 

 ぐちゃり。

 

 まるで柔らかい野菜を潰したかのような、そんな気色の悪い音が路地裏にて木霊する。

 少女の目の前で、男の一人の頭が赤く染まった。

 びちゃっと生暖かい液体が、地面と少女を赤く染め上げ、鼻がツンっと鉄臭い匂いを嗅ぎ取った。

 

 茫然としていた残された男達二人が慌てて視線を路地裏の入り口の方向へと向けて―――表情を引き攣らせる。

 彼らの視線の先には、一人の少年がいた。男達に比べれば随分とましとはいえ、それでも少女とは比べるまでも無い粗末な衣服。青というよりは、黒に近い色合い。いや、赤黒いといった方が正確なのかもしれない。

 年齢は少女より幾つか上程度だろうか。少なくとも少女から見ても精々が十五もいってないように思われた。

 身長もそこまでではなく、少女を取り押さえている男達よりも頭一つ低い。

 ただし、風に靡くただ伸ばされただけの銀の髪が奇妙なほどに少女の目を引く。顔の造形もよく、優男といっても過言ではないだろう。

 

 少年と男達。

 戦えばどちらが勝つかは一目瞭然。

 体格のことを考えても、風体のことを考えても。

 少年がまともに喧嘩をするような光景を思い浮かべることは出来なかった。

 

 だがしかし、男達二人は明らかに脅えている。

 それこそ自分達の半分も生きていない若造如きに、腰が引けていた。

 

「ま、まってくれ。名無し、俺達は―――」

「言い訳はいらんよ。お前達は運が悪かった。それだけだ」

 

 必至に口に出した台詞を途中で遮られた男の顔に絶望が混じり、名無しと呼ばれた少年の手が霞む。

 先程と同じ音をたてて、少女を取り押さえていた二人の男の頭が弾ける。

 そしてようやく、少女は気づく。自分に降りかかってきていた液体の正体に。

 

 生理的嫌悪感を嫌がおうでも沸き立たせる―――血液。

 路地裏に倒れる頭が弾けた三つの死体。

 そして地面を赤く染め上げる血の池と、転がっている三個の拳大の石。

 目の前で起こった惨劇のため、ぼんやりとした意識で眺めていた少女は腰が抜けたように地面に座り込み、再度気づいた。

 恐らくは、少女の目では追えない速度で地面に転がっている石を投げつけ、三人を始末したということに。

 

 銀髪の少年は、人を殺したと言うのに何の感慨も無いのか蹲っている少女に一瞥を送る。

 その眼光には暖かみというものが一切感じられなかった。

 父とも母とも、今目の前で転がっている男達とも違う―――得体の知れない存在を感じさせる眼差しだ。

 しかし少女は、それに一切怯むことはなかった。恐れることは無かった。

 

 何故か分からない。

 それでも、少女は自分の運命が今ここに、音をたてて切り開かれるのを確かに感じた。

 

 そして、そう感じたのも少年にとっても同様であった。

 何故か分からない。

 普段だったならば無視して通ったはずの出来事を目の当たりにして、心よりも身体が先に動いた。

 まるでそれが運命だったかのように―――。

 

 

 これは黄巾の乱が起こる十年以上も前のある日の出来事。

 少女の名は、河。

 そして、少女によって名づけられることになる少年の名前は、銀。

 

 後の世にて、乱世そのものと称されることになる空前絶後の怪物とそれを支えることになる者。天下無双とも。万夫不当とも。天下絶双とも謳われる、黒い乱世が輝きを放ち始めた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すすめぇえええ!! すすめぇえええええええ!!」

 

 空気を振るわせる大号令のもと、無数の矢が降り注ぐ。

 方々で、まるで獣を思わせる鬨の声があがる。

 地鳴りを起こしながら突き進む大地を埋め尽くす黄色い大海原。

 いや、それは頭に黄色い頭巾を巻いた人々の大軍勢だった。

 彼らの手には剣が握られ、狂気に満ちた眼差しで眼前にそびえ立つ巨大な城を睨みつけている。

 

 中華のあらゆる箇所で巻き起こされた黄巾の乱と呼ばれる大反乱。

 官軍を滅ぼすことに一切の躊躇もない民が、進軍を開始していた。

 その前線。容易く鎮圧できると踏んでいた官軍の予想を裏切り、彼らは後退を余儀なくされ、信じられないことに篭城という現状に立たされていた。

 黄色い頭巾をかぶった彼らには迷いが無い。

 自分が死ぬことを恐れずに、ただ目の前の相手を殺すことだけを考えている。

 腑抜けた官軍―――借りにも漢という国の正規軍である兵士達をも脅えさせる凄まじさが、黄色の大軍勢からは迸っていた。

 

 地鳴りを起こしながら黄色の雪崩は城門へと殺到する。

 閉ざされた門扉は、幸いなことに未だ破られる気配を見せてはいない。

 相手が正規軍ではないことで命を拾えたといってもいい。

 黄巾とて、城門を破るための攻城兵器など持ち合わせてはいないのだから。

 だが、それでも安堵できる状況ではない。黄巾の軍はそれこそ自分達の命を捨てて城を落とそうと攻め立ててくる。

 背筋が粟立つような恐怖と焦燥が、城を守る官軍の兵士達を支配してきた。

 幾ら城壁の上から矢を放とうとも、黄色の大軍勢は減る様子を僅かたりとも見せはしない。

 降り注ぐ矢程度では、決死の覚悟を胸に抱いている彼らの気勢を削ぐには至らなかった。

 

「矢を放て!! 手を休めるな!! ここは絶対に死守せねばならんのだ!!」

 

 悲鳴とも聞き取れるような雄叫びで、城壁で官軍を鼓舞するのは一人の武将。

 名を朱儁。黄巾の乱を鎮圧するために選ばれた将軍の一人だ。

 武芸に優れ、その腕前は漢軍でも十指に入るとも噂されている人物である。

 

 そんな彼が顔面を蒼白にさせて、咽を震わせながら声を張り上げているのだ。

 このままでは城は間もなく落ちるだろう。その予感に、頬が引き攣る。

 もしも城を奪われれば大失態もいいところだ。ただでさえ、黄巾軍との戦闘で撤退を強いられ、篭城をせねばならない現状。それに加えて城を落とされでもしたら、言い訳のしようがない。

 いや、このままでは命さえ危うい。仮にも将軍たる己が命を落とすことになるなど、あってはならない事態だ。

 死ぬのは兵士の役目であり、将軍たる自分は本来ならば死から最も遠い場所で戦争をするのだから。

 

 ギリっと歯が軋む音がする。

 目が眩むような怒り。憎悪。怨恨。

 反乱などを起こし、自分の手を煩わせることはおろか、将軍である朱儁の命までも奪おうとする暴挙。

 腹が煮えくり返る思いを胸に抱き、それでも城だけは死守しようと指揮を取り続ける。

 

 そんな決死の戦場のすぐ傍にて、一つの別世界があった。

  

「……ちまちま矢を撃つのも面倒だなぁ。そろそろ行っても良いか?」

 

 矢と絶叫と怒号が飛び交う戦場にて、場違いにもほどがあるのんびりとした声があがる。

 その発言者は、一言で言うならば異様。そして異質。

 上背は兵士のうちの誰よりも高く軽く百八十を超えている。漆黒というに相応しい鎧を身に纏い、無造作に切られた銀の髪が太陽の光を反射してきらりと光っていた。

 ここが戦場だというのに、彼はまるで眼下の敵兵が目に入っていないかのように眠たげな表情を隠そうともしていない。

 彼が放った不謹慎な発言は隣で城壁の上で戦場を見下ろしている己の相棒に問い掛ける程度の声の大きさだったため、必至に矢を撃っているほかの官軍の兵士の耳には届かなかったようだ。

 

 銀髪の青年は手に持っていた弓を適当とも言える所作で弦を引き、矢を放つ。

 空気を裂き、狙い違わず敵兵の眉間に叩き込まれ仰け反って倒れる姿を一瞥。

 そして、欠伸を隠そうともせずに口を大きく開けて、目尻に浮かんだ涙を指で散らす。

 

「いいや、まだ出るな。今お前がいっても手柄にはなるが、上から睨まれる可能性が高い」

 

 彼が声をかけた相手もまた、戦場にいるとは思えない気楽さで返答する。

 言葉を返したのは、一人の女性だ。ここが戦場でなければ誰もが見惚れるような容姿をしていた。

 青年の黒い鎧姿に倣ってか、同じ色合いの柔らかな服装。鎧一つ着込んでいない、兵士ならば誰もが呆れてしまいそうな軽装だ。風にたなびく黒曜石の如き長い髪。透き通るほどに白い肌。たおやかな腕。服の上からでも分かる流線を描く肉体―――ただし、まるっきり主張しない胸元を見て、美青年なのかと勘違いする人間もいそうだが、それを完全に否定する美しい顔立ち。澄み切った瞳で、黄色い大軍勢を城壁の上から見下ろしている。

 

 腰近くまで伸びた黒髪が風に揺れ、優雅にはためく。

 血と臓物の匂いが支配する戦場にて、銀髪の青年の鼻に香る花のような甘い香り。

 場違いな奴だと考えながら、弓を引く手を一旦止めると、近くの壁にたてかけておいた自分の得物に手をかける。

 

 それはあまりにも巨大な何かだった。

 成人男性の身長を容易く超える、超重兵器。三メートル近い柄と、それの穂先もまた異常。

 巨大な槍の穂先と、反り返る三日月状の刃。

 現実には有り得ないと思わせる、見るだけで死を連想させる必殺の武器―――いや、兵器。

 重量だけでも相当あるのは一目見て明らかで、並の人間ならば持ち上げることすら出来ないだろう。

 そんな異質が背後にあることに気付く余裕も無いほどに、今の官軍は目の前の黄巾の軍勢に手一杯であったのだ。

 

 そんな余裕のない官軍を尻目に、銀髪の青年は肩をすくめる。

 

「まぁ、お前がそういうならもう少し待つとするか」

「お前が出れば戦況など幾らでもひっくり返すことができるんだ。もう少し辛抱してくれ」

 

 人が聞けば呆れる台詞を黒髪の女性は苦笑しながら青年へと送る。

 対して青年も、当然とばかりに相棒の言葉を受け入れて、同じ様に苦笑した。

 

 その時―――。

 

 

「その程度か!! 腑抜けた官軍どもが!!」

 

 空気を振るわせる大音量の雄叫びが上がる。

 びりっと震動した空気が強かに官軍を打ちすえ、彼らの矢を放つ手を止めさせた。

 燃え上がる灼熱の覇気ともいえる気配が黄巾の軍勢から立ち昇り、知らず知らずのうちに城壁の上にいる官軍の兵士を一歩後退させる。

 

「城に篭るばかりで、真っ向から我らと戦おうという意思はないのか!? 縮こまるだけが貴様らの得意とする戦なのか!!」

 

 兵士達の肺を握りつぶすかのような圧迫感。

 圧倒的な猛者である武将が、危険を顧みずに黄色い軍勢の前に仁王立つ。

 彼の放つ雰囲気が、痛いほどに空気が緊張感を増してゆく。 

 

「我こそは、大賢良師張角様の弟にして!! 人公将軍―――張梁!!」

 

 髭を生やした、巨大な槍を携えた大男が、馬に乗りながら軽く得物を振るう。

 物騒な音をたてて、張梁が振るった槍が激しく空気を打ち抜いた。

 それが遠く離れた官軍の兵士達にも感じられたのか、呼吸もまともに出来ないほどに顔を蒼くする。

 戦場を支配する張梁の雄叫びが、黄巾の者達には絶大な信頼を。官軍には戦う意思を挫く畏怖を与えた。  

  

 固まっている官軍の兵士達の中で異質は二人。

 銀髪の青年と黒髪の美女。

 覇気を漲らせる張梁を一目見て、嬉しそうに眼を細める青年。

 手に握っていた超重兵器を握り締めていた手がミシリっと悲鳴をあげていることに、この場にいる者で気づいたのは黒髪の女性だけだった。

 彼女もまた、張梁という大手柄を目の当たりにして目を軽く見開く。

 赤い唇を軽く舌で湿らせ、即座に周囲に目を配らせる。

 

 幸いにも、誰もが相手の気迫に呑まれており、動きを止めている現状を確認。

 ここからどう動くかを脳内で幾つもの思考を繰り返す。

 

「どうした!? 官軍ども!! この張梁と戦おうという剛の者はおらぬのか!?」

 

 さらに大きくなった怒声に、官軍の兵士がヒィっと情けない声をあげて座り込む者も現れる。

 それを見て青年は情けないと思うと同時に、仕方が無いかとも考えていた。

 

 青年が見る限り、人公将軍を名乗る張梁の腕前は相当なものだ。

 遠目からでも分かる巨体。そして、滲み出る覇気と迫力。

 数十万とも言われる黄巾賊を従える三人の首魁の一人。

 それだけの人命を、想いを、覚悟を背負って戦い続けてきた怪物なのだ。

 乱によって生み出された人外の怪物と言っても過言ではないだろう。

 

 そんな化け物相手に、官軍の兵士がどうこうできるわけもない。

 

 張梁を見ていた青年の目がさらに細まる。

 遠くに見える張梁の肉体を観察。

 今まで彼が戦ってきた中でも十分に上位に入る極上のご馳走だということに確信を得る。

 

 ミシリミシリっと悲鳴をあげる青年の肉体。

 今にも弾けそうになる彼を止めたのは他ならぬ、相棒。

 黒髪の女性は、青年の肩に手をかけると―――落ち着けっと耳元で囁いた。

 それで多少は昂揚が治まったのか、呼吸を繰り返し荒ぶる心を落ち着かせる。

 

「どうした、官軍!! 貴様らには将としての誇りは無いのか!!」

 

 戦場の片隅で、溢れ出る異質な二人がいるとは知らずに、さらに吠える張梁。  

 それに恐怖を滲ませるのは官軍の兵士達だ。

 恐怖で震える兵士を見て、将軍である朱儁は臍を噛む思いだった。

 もはや戦争が出来る状態ではない。恐怖で縮こまってしまった兵士達は全く役に立たないだろう。既に士気の低下は、どうしようもないほどまで下げられている。

 

 ここでどうにかして士気をあげるのが将軍たる彼の役目だ。

 だが、真っ向から眼下の張梁とは渡り合いたくないというのが彼の本音であった。

 下手に言い返して一騎打ちをする羽目になれば、間違いなく自分は敗れる。

 腕に覚えはあれど、黄巾の前に立つ張梁という名の化け物と戦って勝てる気は微塵もしない。

 もはや進退極まったという状況の、朱儁だったが―――。

 

「―――朱儁将軍!!」

 

 張梁に勝るとも劣らない声量の声があがった。

 ただし、それは張梁のような怒声ではなく、脳髄を蕩かす甘くも危険な美声だ。

 ぞくりっとまるで首筋に刃を突きつけられたかの如き死の予感を朱儁は感じた。

 

 朱儁も、官軍の兵士も、果てには張梁や黄巾の兵士までもがその声を発した人物へと視線を向けて、そして驚いた。

 

 戦場に咲く一輪の花。

 この場にいる誰もの視線を掴んではなさい美貌の女性。

 彼女は黒髪を靡かせて、優雅に一礼。

 

「私は、中牟県の県令を務めております陳宮と申す者でございます。天下十剣と名高き朱儁将軍ならば、あの程度の賊を討つなど容易いことと思います」

 

 耳に届く色香を伴った声に、呼吸がつまる。

 身体が重くなり、自然と激しくなる呼吸。息が荒くなっていく。

 

「しかしながら、あの賊が罠を張っていないとも限りません。朱儁将軍は我らが官軍の旗頭。もしも将軍が倒れれば、我が軍は瓦解してしまうのは想像に容易いことです」

「う、うむ。確かに奴らは賊軍。卑怯にも私を罠にかけようとするやもしれん」

 

 張梁へ対する内心の恐れを隠しながら、出来るだけ尊大に返答をする朱儁に、女性―――陳宮は内心で鼻で笑う。

 俗物が、と。

 

「わざわざ将軍が出るまでもありません。あの程度の賊など、我が配下の者にお任せをしていただければ!!」

 

 轟っと、周囲すべての人間を圧倒する気配を滲ませ、陳宮が吠える。

 ただし、その美声には僅かたりとも濁りはなく。

 自然と聞く者を納得させる意思が込められていた。

 

 そして、そこでようやく朱儁は陳宮が自分に助け舟を出してきていることに気づき、鷹揚に頷く。

 

「よくぞ申してくれた!! この私とて、賊の言葉に許せぬ気持ちがあるが、漢朝廷より軍の指揮を預かる身!! 迂闊な真似などできようもない!!」

 

 張梁や陳宮には劣るものの、流石は将軍職に身を置く者。

 戦場に響き渡る声には、力強さがこもっていた。

 到底数瞬前まで、脅えていた男とは思えない変わり身の早さである。

 

 しかし、朱儁の目は痛いほどに陳宮を睨んでいる。

 助け舟を出してくれたことに感謝はすれど、果たして見るだけでわかる、張梁という名の怪物を打破できる配下がお前にはいるのか、と無言で語りかけてきていた。

 その視線に、陳宮は躊躇いなく頷く。    

 

 そして口元を歪ませて、振り返り―――。

 

「―――出番だ、奉先!!」

 

 これまで以上の大声で、相棒の名を叫ぶ。

 そこには様々な感情が込められていた。

 

 それは歓喜であった。それは幸福であった。それは恋慕であり、愛情でもあった。

 

 天下よ、知れ。

 

 我が相棒の名を。

 我が愛しき者の名を。

 

 四海において名だたる武将を容易く屠る。

 万夫不当。一騎当千。天下無双。

 単騎で戦争の勝敗さえ覆すことが可能な、真なる最強。

 

 その怪物があげる産声を聞け。

 

 

 陳宮の視線の先―――この戦場にいるすべての人間の視線を真正面から受け止めた銀髪の青年。

 黒い甲冑に身を包んだ彼は、それだけの視線にさらされながら怯むことはなかった。

 そして手に持っていた超重兵器を、片手で持ち上げる天に向かって一閃。

 

 それだけの動作で、誰も彼もが茫然と空を見上げる。

 まるでそれが当たり前のことだといわんばかりに、雲が裂けた。

 ぶわっと死の香りが周囲一帯に充満する。

 ここは戦場だ。死の香りなど溢れて当然。だが、そんな戦場でおいてなお、溢れてあまりある絶望的な死の香りだった。

 足が竦み、腰を抜かす兵士までもが現れる。

 

 それも官軍の兵士のみならず、死を恐れない黄巾の者達でさえ、だ。

 

 そこにいたのは死を体現した者。絶望を身に纏った者。最強を名乗っても誰一人として異論なき者。

 

「―――ばか、な!? なん、だ!! なんだ、そやつは!? そ、それに奉先と……奉先といったのか、お主は!?」

 

 もはや隠そうともしない悲鳴を朱儁があげた。

 目を大きく見開き、新たに現れた怪物を凝視する。

 ガチガチと歯が鳴っていることに気づく余裕すら消え失せていた。

 

「あ、あれは、あんなデケェ武器を使う人間は、一人しかいねぇ!!」

「あの矛は、方天画戟!! ほ、本物だ!!」

「ほ、本当か!? 本当なのか!? じゃ、じゃあ、あれは、あの男は―――!?」

 

 仲間である官軍から次々とあがる悲鳴。

 それも当然のことだ。

 何故ならば、今まさに方天画戟と呼ばれる超重兵器を片手で担いで、城壁から眼下を見下ろしている黒色の鎧を纏った男は―――。

 

「あれなる者が、我が配下!! 朱将軍の命を受け、賊を討つ者でございます!! 生涯不敗!! 絶対無敵!! 天下無双―――呂布!! 字を、奉先!!」

「りょ、りょ、りょ、りょ、呂布ーーーー!?」  

 

 驚きで心臓を止めんばかりの勢いで、尻餅をついた朱儁は、ガクガクと震えながら後退する。

 黄巾の軍勢よりも、視線の先にいるただ一人を恐れているかのような姿を見せながら、誰一人としてそれを笑う者はいない。

 皆が皆、似たような状態だったからだ。

 まるで波紋のように恐怖は広がっていき、銀髪の青年―――呂布を中心に空洞が出来上がっていく。

 そんな恐怖を向けられても、彼は全く気にとめた様子はない。

 

 この場にいるすべての人間が測りかねていた。

 目の前に現れた呂布奉先という名の、人の姿をしただけの武の結晶のことを。

 

 そもそも呂布とは伝説だ。

 官軍にも賊軍にも味方せず、ただひたすらに殺戮を続ける最強の武。

 圧倒的であり、絶対的であり、超越的である、完全なる暴力の存在。

 如何なる武将も歯牙にもかけない一騎当千の天災。

 

 それが現れるところは、善も悪もなく、ただ死が舞い降りる。

 

 そこまで謳われる暴神の降臨に、安堵よりも恐怖を感じるのはある意味当然のことだった。

 

 だが、だが、だが、しかし―――。

 

「こ、これが呂布、奉先!? 確かにこれならば!! この存在ならば!! 伝説に謳われるのも、当然というもの、か!!」

 

 恐怖を凌駕する、未知の期待が朱儁を激しく襲った。

 わかってしまうのだ。

 目の前の黒い甲冑を纏った人間の姿をしただけの怪物が―――人ではどうしようもない領域に住まう存在ということに、納得してしまう凄味があった。

 桁が違う。格が違う。次元が違う。

 あの張梁でさえも、赤子にしか見えない絶対者。

 

 震えながら朱儁は、己の勝利に確信を得て、口元を歪にゆがめた。

 

 誰一人として近づかない。近づけない。

 孤高に生きる、殺戮の王。

 黒い甲冑の戦士―――呂布奉先。

 そこに唯一の例外がいた。

 

 美しき黒衣を纏った麗人。陳宮。

 彼女は躊躇いなく、あらゆる存在を排する気配を発している呂布へと近づいていき、口を耳元へ寄せ、そして誰にも聞こえない小さな声で呟いた。

 

「―――私達の伝説は、ここから始まる。任せたぞ、銀」

「まぁ、精々派手にやってくるとするさ。期待していていいぜ、河」

 

 誰にも聞こえない両者の囁きは、愛を語っているようにも見え―――。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伝説を騙る二人の道が、幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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