天下無双   作:しるうぃっしゅ

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五話  狂える武

 

 

 

 

 黄巾賊を率いる三兄弟。

 その次男である地公将軍張宝。彼が率いる軍勢は官軍が予想していたよりも遥かに手強かった。

 ただの農民の群れではなく、幾つもの戦で勝ち続けてきた結果、彼らは既に兵と評価しても過言ではない存在へと昇華されていたのだ。

 少なくともぬるま湯に浸かりきった官軍の大多数の兵士よりは余程役に立つ現状である。

 それに加えて黄巾の中でも随一の兵法家でもある張宝は、実に上手く官軍で渡り合ってきていた。

 

 先日から睨みあっている皇甫嵩は、兵の質でも士気でも劣る軍でよくぞ戦線を維持できたものだ、と陳宮は感心するばかりである。

 朱儁のように名ばかりの将軍と侮っていたが、すぐにその評価を取り下げ、今では皇甫嵩もまた警戒すべき人間の一人に格上げされていた。

 もっとも、もしもこの軍に曹操孟徳がいなければ、戦線は崩壊していたかもしれないと考えてもいたのだが。歴史にもしもはないので、それは幾ら考えても詮無きこと。

 

 呂布達が皇甫嵩の軍に合流してから早三日の時が流れていた。

 戦というものは、真正面からの全軍による大激突―――ということは滅多にない。

 しかも、僅か数日で決着がついた戦などということはそれこそ数えることができるほどだ。

 慎重派であり、策士でもある張宝ということもあり、この三日間は特に大きな両軍によるぶつかり合いもなかった。

 精々が小競り合いが少々、幾度かに渡って行われただけ。  

 

 そんな小競り合いでも異彩を放つ者たちはやはりいる。

 特筆すべきは劉備玄徳率いる義勇軍。配置された場所が、運が良いのか悪いのか、黄巾軍と激突した前線に彼らは身を置いていた。官軍よりは、使い捨てできる義勇軍を配置したのは皇甫嵩が悪いわけではない。どのような将とて、彼女と同じ選択を取っただろう。

 違う所を強いてあげるならば、命を落とすことになる義勇軍の兵士達のことを思って心を痛めたことくらいだ。

 

 だが、官軍に在籍するほぼ全ての人間の思惑を裏切り、劉備玄徳率いる義勇軍は黄巾軍を蹴散らし、張宝の配下でもある敵将うちの一人の首級をあげるという大手柄をあげてみせた。

 彼らの戦いぶりを見ていた官軍は、関羽雲長と張飛翼徳の二人の戦いを見て、目を疑ったという。

 たった二人の女性が、死をも恐れない黄巾賊の大軍を押し留め、切り裂き、貫いていった。常人では到底理解できない武人の力を目の当たりにして愕然としたのも無理なかろう話だ。

 

 もう一つが曹操孟徳率いる私軍。

 官軍ではなく、彼女が自分で率いてきた軍団。

 少数とはいえ圧倒的な突撃力と機動力を誇る騎馬軍団で、黄巾賊を薙ぎ払っていく。

 呂布達が来る前にも戦っていたためか、赤く染め上げている鎧を纏った騎馬軍団を見た黄巾賊は、どこか脅えを滲ませるほどだという。

 

 現在のところ、この二人が率いる軍が手柄をあげている。

 一方の呂布奉先はというと―――。

 

 

 

 結論からいうと特に働いていなかった。

 配置された場所は官軍の陣地の奥。総大将である皇甫嵩が陣を引いている場所の近くだ。

 全軍が突撃するか、ここまで敵軍に攻め込まれでもしない限り―――ここまで攻め込まれたら負け戦決定なのだが―――戦う機会などありはしない。

 

 睨み合いを続けている官軍と黄巾の軍勢を視界に入れながら、馬に乗った呂布は隠すことも無くあくびを一つ。

 

 不謹慎だと怒鳴られることもなく、漆黒の鎧と、新しく届いた兜を着こなし、地面に突き刺してある奉先画戟の柄を軽く握り締め、感触を確かめる。

 兜といっても顔すべてが隠れる形ではなく、口元は露出しているのであくびをしたのも丸わかりということだ。 

 

 呂布として、実は今の現状に特に不満はなかった。

 戦闘狂と見られがちな彼ではあるが、別に重度のそれとは異なる。むしろ、彼の本性は楽して毎日をどうやって生き抜くか、を主観にしているといってもいい。といっても、人を斬ることに躊躇いも無ければ理由も求めない異常者であることに変わりはないのだが。

 現在は故あって、どうしても呂布奉先の名前を売らなければならないため、戦争に身を投じているだけだ。

 

 ただ、曹操孟徳といった規格外の怪物に会った時などは、ついつい相手の底を知りたくて好戦的になってしまうが、そこまでの相手はそうそういない。

 

 だからこそ、今の戦線が拮抗している状況を見ても、特に思うところは無い。

 あくびのひとつも出ても仕方ないというものである。

 

 そして、ここまで呂布が気を抜いている理由はもう一つあった。

 それは、自分の出番がないことが薄々わかっていたからだ。

 彼が今いる場所もそうだが、呂布自身の本能。即ち戦争を嗅ぎ分ける独特の嗅覚が全く反応しない。つまりは自分が方天画戟を振るう機会はまだやってこないという直感を信じているということだ。

 

 その横にいる陳宮もまた、そんな呂布の姿を咎めることはない。

 長い付き合いの彼女にとっては、幾ら言っても呂布が態度を改めることが無いのは百も承知。

 それに伝説の武人としては、それくらいの態度を取って貰っていたほうが、らしく見えるということもある。

 

 そういったこともあり、二人は陣の奥深くで遥か前方に広がる小競り合いを眺めていたが―――大局が動くことなくこの日も日が暮れることになった。

 

 

 

 黄巾も官軍も兵を一旦退き、それぞれが野営の準備をしている最中。

 兵士達はそれぞれが今日一日を生き延びることが出来た喜びに浸っている。

 そんな騒がしさとは対極となる場所があった。即ち、皇甫嵩の陣幕である。

 

 その内部には多くの武将が腰を下ろしていた。

 皇甫嵩を初め、同じ将軍の朱儁。その他にも彼らの配下として軍を預かる者達。

 末席には陳宮と呂布もいた。朱儁の口添えにより、彼らもこの場にいることを許されていた。

 曹操孟徳と、彼女の横には夏侯惇も控えている。その雄雄しき気配が周囲の人間達を圧殺せんばかりに発せられているが―――肝心の対象となっている呂布は暖簾に腕押しの状態で腕組みをして静かに座っているだけだ。それを面白そうに見ている曹操だったが、周囲の人間は気が気ではない。

 

「情報によれば、やつらは撤退を開始しているという!! ならばこそ!! この機会を逃すわけにはいかない!!」

 

 激情家である朱儁が、吠えるように早口にまくし立てる。

 朱儁が言うように、先程確認された情報だが、張宝率いる軍が夜の闇に紛れて撤退を開始しているという。

 確かな情報に、小躍りをしそうになったのは朱儁である。敵軍を背後から奇襲できれば、壊滅的な被害を与えることができるのは想像に難くない。

 すぐにでも追撃を仕掛けるべきだと朱儁が皇甫嵩に詰め寄っている。

 

「……しかしですね、相手は噂に名高き地公将軍張宝です。何かしらの罠という可能性もあります」

 

 交戦を求める朱儁に比べて、皇甫嵩は消極的である。

 確かにいきなり撤退を開始するというのはあまりにもおかしい。そして、不自然だ。

 何かしらの罠という可能性が高いと踏むのが当然である。しかも、皇甫嵩が口に出したとおり、相手は張宝。今まで幾度も煮え湯を飲まされた相手なのだから、慎重になるというのは当たり前の話だ。

 

「確かに罠という可能性も捨てきれないが、相手が背を向けているというのは紛れもない事実!! 張宝の虚像に恐れてこの機を逃せば、勝利を掴むことなどできるはずもない!!」

「しかし……兵は、これまで長らく続いた戦いの緊張状態で疲労が隠し切れません。ましてや、今から出れば夜の行軍。この周辺の地理に慣れた黄巾に軍配があがります」

「疲労しているのは貴殿の兵士達だけではなかろうか!? 我が軍はそのようなことはありませんぞ!!」

 

 兵士が聞いたら辟易としそうな朱儁の発言だったが、それは全てが間違っているとは言えない。

 朱儁が合流する以前から、皇甫嵩の軍は黄巾賊と対峙していたのだ。夜もろくに寝れない緊張感によって目に見えて疲労しているのは仕方の無いことだった。

 

 言い争っている二人……とはいっても、皇甫嵩は何とかして朱儁を宥めようとしているのだろうが、手柄に目が眩んだ彼を落ち着かせることは実際になかなか難しい。

 追撃するにせよ、待機するにせよ、いい加減どちらかに決めてほしいと心底考えながら、ぼーと二人を眺めている呂布だったが、ふと視線を感じてそちらへと顔を向ける。

 

 視線の犯人はやはりというべきか、曹操孟徳その人である。

 底意地の悪い笑みを口元にたたえ、静かな、だが有無を言わせない美声を発した。

 

「呂布殿。天下無双たる貴殿の意見を聞きたい」

 

 皇甫嵩と朱儁の口がピタリっと閉ざされる。

 そして、二人の将軍の視線は末席にいた呂布へと送られてきた。

 それ以外にも、陣幕にいる全ての武将の瞳が呂布を貫いているが、やはりというべきか天下無双の態度に揺らぎは無い。

 

「あー、そうだな。追撃するのならば十中八九何かしらの罠を仕掛けられてるだろうが、あるならそれを食い破れば良い。どうせたいした罠じゃなさそうだしな。しないのならば、さっさと陣幕に帰って寝させてもらうぜ」

「……たいした罠ではないというのは、どういうことだ? 呂布よ」

「俺は今、曹操ちゃんと話しをしてるんだぜ、朱儁将軍? 横槍は勘弁してくれないか」

「―――っ」

 

 無礼な、と口に出そうとして朱儁は寸前で言いとどまった。

 先日からかぶっている黒い兜。口元と目元が微かにしか見えないそれに覆われているが、それがより一層呂布の恐ろしさを増長させている印象を受ける。さらには、先程までは夏侯惇の気配に満ち溢れていた陣幕だったが、今ではそれを圧倒し、喰らい尽くさんばかりに膨れ上がった呂布の気配が陣幕を支配していた。

 強制的に咽を掴まれ言葉を発することも出来ない気当たり。呼吸さえもままならなく、陣幕の内部の温度が急激にあがった錯覚さえ感じてしまっている。

 

 そんな気配が充満している中、夏侯惇は、曹操ちゃんという呼び方に眉尻をあげて口元をひくつかせた。

 あまりにも無礼な物言いに瞬時に腰の剣を抜こうとしたが、それを視線だけで呂布はとめる。

 もしも抜くならば容赦はしない―――そんな無言の忠告に、額から汗が一筋流れ落ちた。ぎりぎりっと圧迫してくる天下無双の気配に歯を食い縛る武人。

 

 それとは対照的なのが曹操だった。

 最初、自分がちゃんづけで呼ばれたことに理解できなかったのか、きょとんっとした表情で茫然とする。

 数秒もたつと意味を理解できたのか、唇を振るわせる。怒りではなく―――単純に笑うのを我慢しているという様子だ。

 

「くくくっ……いや、失礼。そ、それで貴殿の言葉の意味をわかりやすく教えてもらえないか?」

 

 夏侯惇とは別の意味で、笑いを堪えようと必至になっている曹操の言葉が震えているのは仕方の無いことだろう。

 

「あんたなら分かってると思うがねぇ。まぁ、簡単に言ってしまえば今回の黄巾の撤退はあいつらの予想外のことなんだろうさ。多分だが、病気になっているという張角の具合でも悪化したってところか。じゃなければ、こんな夜中に突然軍を退くなんてことは考え難い。となれと、自然と仕掛けることができる罠も限られてくるしな」

 

 すらすらと語る呂布に、全員が目を丸くする。

 武一辺倒だと思われていた彼が、それなりの意見を述べてきたのだから。

 

「まぁ、あくまで俺の予想だが。もしかしたら単純に俺たちを引っ掛ける罠という可能性も否定できない。その場合は虎の巣に飛び込んでいくようなものだな」

 

 俺ならそのまま虎を捻り殺すが―――と考えている呂布に対して陣幕は無言となる。

 曹操は満足そうに頷いて、視線を呂布から皇甫嵩達へと向けなおした。

 呂布が説明しなくても、これくらいはわかっていただろうに、曹操の思惑をいまいち掴めず首を捻る呂布だったが、結局はそれらしい理由に思い至らずこのことに関して思考を停止させる。 

  

「黄巾の首魁!! 張角が重度の病気を患っていることは世に知られておる!! それを考えれば呂布の意見も頷けるというもの!! やはり今こそが絶好の機会ではないか!!」

「……確かにそれは聞き及んでいます。ですが、呂布殿の言われたことはあくまで予測に過ぎません。下手に深追いすれば我が軍はとて無事ではすまない可能性も……」

「―――ならば!! 我が軍だけで奴らを追撃しましょう!! 皇甫嵩殿はこちらで蘆植殿と合流してから参られれば良かろう!!」

 

 消極的な皇甫嵩に対して遂に朱儁が我慢できなくなったのか、軍を二つに分けるという発言を口に出した。

 それに慌てたのが皇甫嵩だ。戦力を二つにわけるなど、愚策に過ぎない。もしもこれが罠でなければまだいい。しかし、罠にかかり朱儁の軍を失ってしまえばかなり厳しくなる。

  

「ま、待ってくださ―――」

「賊軍を討つことこそ我らが使命!! それをみすみす逃すなど、私は認めるわけにはいかない!!」

 

 格好良いことを言っているが、結局は目先の功に目が眩んでいるだけである。

 このまま敵軍を追い、張宝を討つことができれば、朱儁の名は天下に轟く。さらには、一体どれだけの褒章が与えられるか。地位も名誉も望むがままなのは間違いが無いだろう。

 いくら名門中の名門だからといって、一回りも年齢が下の皇甫嵩と同格の地位に甘んじている朱儁だが、この戦が終われば目にものを言わすことができるだけの昇格を望める筈だ。

 そのためにはこのまま敵の撤退を指をくわえて黙って無過ごす手は無い。

 

「それじゃあ、俺も朱儁将軍とご一緒させてもらうとするかね」

 

 静かな呂布の発言に、陣幕の中にいる人間が震えた。

 あの伝説が朱儁とともに行く。それは恐ろしいと同時に、とてつもなく頼もしい。

 呂布の参加を聞いた朱儁の反応は素早かった。これならば如何なる罠があったとしても打ち破ることは可能だという確信を得た彼は、即座に行動を開始する。

 

 自分の配下の者達を呼び出し、兵を動かす。

 出来るだけ早く、黄巾賊に追いつくために。それこそ相手に伏兵を仕掛ける時間も与えないためにも。

 

 一方で、皇甫嵩は唇を痛いほどに噛み締めている。

 如何に総大将といっても、所詮は三将軍のうちの一人。同格である彼をとめる権力は実の所彼女には無かった。

 しかも、彼女とて心の隅で朱儁の意見に賛同している部分も確かにあったのだ。

 罠の可能性も捨てれないが、もしもこのまま後退している敵軍の背後をつくことができたならば間違いなく各地の黄巾の反乱の勢いを止める事ができるほどの成果を上げることが出来るだろう。

 しかし、皇甫嵩は朱儁とは異なり、戦争の先を見て動く。其れゆえに、どうしても一か八かの賭けに踏み出すことに躊躇いを持ってしまった。

 

 撤退する敵を追撃するという朱儁とこの場にとどまる皇甫嵩。

 軍は見事なまでに二つに割れた。それぞれ二人の配下は強制的にどちらにつくかは決定されてしまうが、それ以外の兵士達の反応は様々だ。

 皇甫嵩とともに戦ってきた兵士達は彼女の手腕を信頼しているために、この場に残るものも多かった。

 特に劉備玄徳は、手柄をあげたいという気持ちもあったため朱儁とともに行きたかったが、彼ら義勇軍はあくまで皇甫嵩の計らいで参戦することが出来ていた。となれば、気持ちはどうであれこの場に止まることになったのは仕方の無いことだ。

 

 さらには曹操孟徳。

 彼女もまた、皇甫嵩とともにこの場に残ることを選んだ。

 もはや十分な手柄をあげたために、無茶をしなくても戦争後の恩賞は期待できる。そのために、ここに止まるのだろうというのが多くの人間の考えだったが、呂布は首を捻る。

 あの銀髪の魔人がそんな俗人のような思考で動くわけは無い。なにかしらの考えがあるのだろうと思ったが、彼女の策略を自分が読めるはずも無い。そうあっさりと判断すると、夜の最中に進撃を開始した朱儁の軍とともに轡を並べた。

 

 

 陣地から去っていく軍勢を見ながら、曹操は腕を組んで静かに佇んでいる。

 周囲で燃えさかる松明の火が、薄暗い夜の闇を赤く切り裂き、曹操の白い肌を浮き立たせていた。

 功を焦り、手柄に目が眩んだ朱儁率いる官軍の一団が地響きをたてながら彼方へと消えていく光景を見届けている曹操の横には無言で夏侯惇が控えている。

 難しい表情の彼とは異なり、曹操はどこか楽しげだ。

 

「どうした、惇? 何か言いたげにしているが……」

「……別に。お前が朱儁についていかなかったのが少々意外だっただけだ」

「何、たいした理由があるわけでもない。別にあちらに私が行かなくても壊滅的な被害を受けることはないと判断したまでさ。呂布殿がいれば大抵の窮地は潜り抜けることは可能だろう」

「つまり、お前の予想では何かしらの罠がある、と?」

「確かに突然すぎる撤退ではあるが、間違いなく張宝ならば何かしらの手を打っている筈。呂布殿が動かなければ私が行こうと思っていたが……手間が省けたぞ」

 

 流石は呂布奉先と、満足気に頷くと踵を返し自分の陣幕へと姿を消していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の帳が支配している中を、朱儁率いる軍が突き進んでいく。

 撤退をしていく張宝軍に追いすがるために、どうしても騎馬を中心とした部隊が先導する形で行軍を続けていた。

 歩兵が騎馬に必死になってついていこうとするも、如何に夜とはいえ騎馬と同速度で進むことができるはずもなく―――朱儁の軍は縦長に伸ばされて展開される形となっている状況だ。

 

 呂布と陳宮はその軍の中でも中心からやや前よりの位置にいた。

 行軍を開始して二時間ほどが経過した時分、朱儁軍は深い森が続く山道へと突入する。

 道幅は狭く、左右は木々が生い茂り、前方は道が曲がりくねり、夜の暗さもあわさって視界が非常に悪い。

 

 伏兵が置かれるには絶好の場所。

 朱儁に仕える軍師は、今の状況に焦りを感じていた。

 直情型である朱儁は、如何に黄巾に追いつき追討するかしか考えていないが、軍師としてはそうはいかない。

 彼らは常に最悪の事態を考えに入れて行動しなければならないからだ。

 撤退している張宝軍ではあるが、何かしら足止めする策をうっていることを軍師は確信していた。そして、その手をうつならば、軍が縦に長く伸びてしまい、道の幅も狭く大軍が機能しないこの場所を狙ってくる可能性が高い。

 

 それを何度も朱儁に進言するも、聞き入れる様子は全く見られなかった。

 自分の主の姿に頭が痛くなるのを我慢しながら、何度目になるかわからない進言をしようとしたその時―――。

 

「う、うぁあああああああ!!」

「敵だ!! 敵がいるぞ!!」

「矢が、矢がふって―――」

 

 森に響く官軍の絶叫。

 朱儁から撤退をしている黄巾賊を追うということしか聞かされていない兵士達は、思いもよらない奇襲に恐慌に陥った。

 森の両側から突如として降り注いできた矢が雨のように官軍の兵士へと突き刺さる。

 馬から振りおとされ地面に叩きつけられる者もいれば、矢が頭に突き刺さって絶命する者もいた。次々と官軍を襲う矢の雨は、途切れることなく人の命を奪っていく。

 

 森の入り口近くにいた官軍は降り注ぐ矢から逃れるように撤退を開始する。

 このような状況で将の命令を待てるわけもない。ましてや左右の伏兵に対して戦いを挑む気概があるほど士気が高いわけでもない。朱儁の軍にいる兵士とて、熟練の兵士ではない。折角今夜は休めると考えていたところに、無理な行軍。

 彼らのような兵士が奇襲を受けて即座に逃げたとしても、それはある意味当然とも言えた。

 

 入り口に近かった兵士達はまだ幸運だ。

 森に潜んでいる黄巾賊にとって、第一の目的は時間を稼ぐこと。森からでた相手を追撃することはない。

 悲惨なのは森の中心から出口の兵士達である。中央付近の兵士達はどちらに逃げるか迷ったあげく、矢の雨にうたれる時間も長い。

 出口に近い―――軍の前方に居た者達もまた慌てて森から出ようと急いだものの出た瞬間、前方から狙い澄まされた矢の連打をくらって命を落とす。

 森を出た場所を包囲する形で黄巾軍が布陣しており、森から出るということは彼らの良い的になるということだけがはっきりとわかっていた。かといって、森の中に居座るということは、左右に潜んでいる敵に狙い撃ちをされるということであり―――結論を言うと、朱儁の軍はパニック状態となっていた。

 

 肝心の将軍である朱儁もまた、周囲の兵士達に庇われて命を拾うことが出来ていたが、どうやって現在の状況を打破するか目まぐるしく思考していたが、そう都合良くそんな策を思いつくほど朱儁は優れた男ではなかった。

 

 逃げ惑い、恐慌する官軍の中で、呂布はあくびをしながら手に持っていた方天画戟を一閃。

 物騒な轟音をたてて自分に迫ってきた数十の矢を一薙ぎで弾き飛ばした。ぱらぱらと散っていく矢を視界の端にとどめながら隣にいる陳宮に迫ってきた矢を同じく一閃ではたき落とす。

 怖れ、怯えている周囲の人間とは異なり、陳宮は清々しいほどに堂々としていた。まるで降り注いでくる矢など気にも留めていない姿は天晴れとも言える。呂布の横に居る限り、この程度は怖れるまでもないことを熟知していたのだ。

 

「陳腐な策ではあるが、こりゃまいったねぇ」

「ああ。本当に何も考えずに行軍していたようだな、朱儁は。ここまで考え無しとは思ってもいなかったぞ」

 

 呆れているのか怒っているのか。

 どちらか微妙な表情で陳宮が肩をすくめた。

 別に特に優れた策という訳でもなかったが、ここまで恐慌状態に陥っていることに陳宮はため息を吐きたくなる。

 官軍の兵士の質と、将軍の能力の低さになんと言ったらいいのか、言葉にもならないとはこういうことか。

 

 そんな不満をありありと全身から滲ませている陳宮に対して、呂布は興奮している馬を撫でて落ち着かせる。そのついでに馬上から方天画戟の切っ先で転がっている剣を幾つか宙に弾きあげた。

 それを掴むと左右の森へと投擲。薄暗い森の中へと放り投げられた剣が、闇の中へと消えていくと同時に、投げられた剣の数と同じだけの人の苦痛の声が上がった。

 

 さてっと唇を舌で舐めて濡らした呂布は、口元を歪める。

 

「じゃ、行ってくるぜ」

「ああ。大丈夫とは思うが気を付けてな?」

 

 肺の中の酸素を全て吐き出し、そして数秒間かけて大きく吸い込む。

 限界まで吸いきった呂布は、ぴたりと呼吸を止めて―――。

 

 

 

「―――ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 

 

 寝静まっていた森が目覚める。

 鳥が飛び立ち、獣が逃げ出し、虫が縮こまった。

 

 到底人とは思えない。ましてや獣でもない。

 それは例えるなら幻想の種。龍の雄叫びと称するしかない、理解しがたい咆哮だった。

 

 空気が震え、森が揺れる。

 大地が怖れたように、地響きを立てたという錯覚をこの地にいる者達は感じた。

 

 呂布の周囲にいた官軍の兵士は、腰を抜かしただ呆然としている。

 黒い甲冑の化け物。触れてはならない禁忌の存在を前にして、思考を止めてしまうほどの恐怖に襲われていた。

 森の空間が軋む。呂布の咆哮で時が止まったこの場所で、ぎちぎちと音を立てて、痛いほどに静寂に響くのは呂布が発するとてつもない覇気。黒い乱世が、方天画戟を手に持ち、今にも爆発しそうな気配を漂わせて、世界を圧している。

 

 呂布の眼前にいる官軍は腰を抜かした者も、そうでない者も、自然と左右に散る。

 伏兵がいることも忘れて、呂布奉先の駆け抜ける道を造り出す。

 森に潜む黄巾の者達でさえも、弓を射る手を止めさせてしまう。彼らの時を凍えさせる一騎当千が、一つの黒い弾丸となって大地を疾駆する。

 呂布の乗る馬もまた、馬上の武人に呼応するかの如く四本の足で大地をたたいた。

 夜の闇よりなお深く暗い。そんな呂布奉先が、燃え盛る黒炎を纏い、周囲に撒き散らし、官軍が開けた道を行く。

 朱儁もまた、伝説の武人が駆け抜ける様を呆然と眺めているだけしかできない。

 

 そんな朱儁を遥か後方へと置き去りにし、息を呑むほどの圧倒的な気配とともに、呂布は森の出口へと飛び出した。

 彼が放った咆哮と、遠目からでも分かる尋常ならざる雰囲気に出口を包囲していた黄巾も動きを止める。

 そして、その存在を目の当たりにした途端、黄巾賊は理解した。彼こそが、張梁を討ったという生きる伝説。万夫不当の呂布奉先ということを。

 

 愕然としながらも、いち早く我を取り戻した人間がいた。

 それが現在この部隊を指揮している黄巾の将の一人―――高昇。

 元は漢に仕える役人であったが、太平道に魅せられて、黄巾に荷担している男だ。張宝の片腕として名を馳せる、黄巾賊としては有名な賊将の一人でもある。

 

「な、何をしている!! 如何な相手といえど、これだけの矢からは逃れられん!! 放て!!」

 

 高昇の怒号に、愕然としていた黄巾の兵士は正気を取り戻す。

 それぞれ手にしていた弓を引き絞り、飛び出してきた呂布へと狙いを定めた。 

 しかし、呂布とて無策で飛び出してきたわけでもない。彼は馬を走らせながらも方天画戟を地面へと突き刺し、勢いよく振り上げた。瞬間、地面に転がっていた官軍の兵士の死体が爆発したように弾き飛ばされる。

 人間の死体。しかも鎧を着込んだ物体が、弓から放たれた矢のように飛ばされる光景は圧巻ともいえた。

 凄まじい速度で弾かれた幾つもの死体が弓を引き絞っていた黄巾の兵士に叩きつけられ、幾人もの人間を巻き込み地面へと転がる結果を作り上げた。

 

 そんな非常識な光景に、矢を放つことも忘れて馬で駆ける黒い武人の姿に釘付けとなる。

 あまりの光景に彼の突撃を止めねばならないことを思い出すのに数秒の時を要するも、それはあまりにも遅すぎて―――。

 

 黒い炎を纏った呂布が、方天画戟を横一文字に薙ぎ払う。

 それだけで、数人の黄巾賊が消し飛ばされた。ある者は首を断たれ、ある者は胴体を両断され、ある者は肩から脇腹にかけて袈裟懸けに切り裂かれ。返す刀の一閃で、それ以上の兵士が吹き飛ばされた。

 上段に振り上げられた超重兵器が地面に叩きつけられ、小規模な爆発が巻き起こされる。大地が抉れ、土が弾き飛び、土砂が降り注ぐ。圧倒的な破壊に僅か数秒を数える間に数十の人間が物言わぬ骸と化す。

 

 呂布に呼応して、彼の馬が嘶く。

 目の前に広がる黄色の大海に怖れることもなく、彼の愛馬は人を蹴散らし、踏みつぶす。

 そのついでと言わんばかりに振るわれる方天画戟は、一振りするたびに確実に数人の命を奪っていく。

 あまりにも速く。あまりにも力強く。あまりにも無造作に。

 

 黄巾の兵士達では視認もできない超速度の斬撃が振るわれる度に、血飛沫が舞っていく。

 音を立てて積み重なっていく同胞の肉体。狂える武。圧倒的な武。凶がった武。

 

 とても人とは思えない、人の姿をしただけの黒い魔人が黄色の大海原を浸食していく。

 

 高昇は、死を怖れない。

 いや、高昇だけではない。彼の同胞である黄巾の者達は皆が三人の指導者のためならば命を捨てる覚悟があった。それに偽りはなく、恐らくは死ぬと分かっている足止めの部隊に自分達の意志で参加してきたのだから。

 だが、そんな彼らでさえ、確かに恐怖した。

 信仰をも凌駕する。漆黒の恐怖そのものに、彼らが戴く神たる存在―――張三兄弟へ対する信心さえも、粉々に打ち砕かれ。

 この場にいる黄巾の者達は、呂布の手によって死をも怖れぬ軍団から、死に怖れる民に引き戻された。

 剣から手を離す。弓をその場に落とす。槍の穂先が力なくたれる。

 

 それでも、狂う厄災は歩みをとめることはない。

 恐怖に震える黄巾賊を圧殺しながら、呂布の瞳は一直線に高昇の姿を捕まえていた。

 数十メートルはあった距離は、瞬く間に詰められ、間にいた兵士達は命無き骸に落とされ。

 

 一際高い蹄の音を高鳴らせ。

 呂布の乗る馬が高く嘶く。

 

 馬上から振り下ろされた方天画戟は、やはり高昇の視認を許さず。

 煌めく白銀の虹を夜の闇に残しながら、一直線に空間を断った。

 

 最後に高昇が見た光景は―――。

 

 彼の視界全てに広がる無残な同胞の骸。

 山のように積まれ、血の池ができあがったこの世の地獄。

 

 屍山血河。

 

 それをたった一人で作り上げた黒い怪物は。

 まさに幼き頃に聞いた絵物語の死神のようであった。 

 

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