詩羽無双   作:黒猫withかずさ派

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続・詩羽無双

 

 時は深夜0時前。日付がもうすぐ変わる頃。隣の部屋の連中は温泉やら観光やら…………ええいっ、羨ましくなんかない。温泉旅行本来のまっとうすぎるイベントに疲れて布団の中でぐっすりと眠っているのだろう。一部のリア充共は今もお盛んな最中かもしれないが、それはそれだ。

 かくいう俺達もはた目からは仲がいいカップルに見られているのかもしれない。

 いや、カップルにさえ見えないで、お付きの下僕に見られてしまっていても致し方ないと思えなくもない。たしかに詩羽先輩を見て振り返らない男はいないし、つい数時間前もこれから自分たちの部屋にしけこもうとしているカップルの男が詩羽先輩に見惚れてしまい、楽しいはずの夜のイベントが修羅場へとすり替わってしまっている。

 ま、この男性に関してはご愁傷さまと言うしかないんだけれど。

 ただ、当の本人たる詩羽先輩は、自分に向けられてくる特定の視線以外には全く興味がなく、最初からなにもなかったかのように過ごしているのだから、やはり先ほどすれ違った男には再度ご愁傷さまといいたい。

 そして今現在、詩羽先輩はただ唯一興味を持つ俺の視線を見て、形良い唇を緩ませて微笑んでいた。

 

「あの、詩羽先輩?」

 

「なにかしら倫理君。いいえ、今は不倫理君と言ったほうが正しいかしら? なにせこの温泉旅館の一室で、男の肉欲をたぎらせてしまう美女の前にいるんですもの」

 

「一部は認めますけど、詩羽先輩の発言のほとんどが見当違いですと言わせてください」

 

「でも……、一部は、認めるのよね?」

 

 ニヤついた唇が妖艶な笑みへと変化していく事に俺の体が反応しないようぐっと握っていた拳にさらなる力を込めてやり過ごす。

 ただ、その無駄な努力さえも詩羽先輩の糧になってしまうのだから、素直に負けを認めてしまえと、弱い心が囁いてくる。でも、一度屈してしまえばどこまでも甘えてしまい、さらに悪い事に、詩羽先輩も俺を過激なまでに甘やかしてしまうだろう。

 それはまずい。理屈であっても、理屈じゃなくてもやばいってわかる。俺は詩羽先輩のヒモにはなりたくない。事実上のヒモであっても、対等な関係とはいかないまでも、もがき続ける努力をしなければ、俺は詩羽先輩の横に立つ自信を持てなくなってしまう。

 

「ここは温泉旅館ですし、詩羽先輩が美女だということは間違えようのない事実ですからね」

 

「あら? 私が美女だと倫理君は認めてくれるのね」

 

「はい。詩羽先輩は綺麗ですよ。それもとてつもなく」

 

「倫理君に真顔で言われると、裏になにかあるって疑ってしまいそうになってしまうのよね」

 

「別に裏なんてないですよ。それとも俺以外の男連中の意見が欲しいですか? なんならうちの学校のやつらの……」

 

「興味ないわ」

 

「ですよねぇ~」

 

「でも、本当に裏がないのかしら? それとも旅先で気が大きくなってしまったのかしら? 普段は言えない事でも、旅先で普段とは違う環境に身を置く事で興奮状態に? でも、いくら旅先の事であっても、地元に戻ってからなかったことにするなんて認めないわよ」

 

「それもないから安心してください」

 

「なら、そういう事にしておきましょうか。せっかく倫理君が美しすぎる私にかしずき、一生を捧げたいといっているのだし、ね」

 

「そこまではまだ言ってませんって。ほんと勝手に話をもらないでくださいよ」

 

「……そう、「まだ」なのね」

 

 そう嬉しそうに小さく呟く詩羽先輩に、俺は聞こえないふりをして視線をそらした。

 

「それはそうと詩羽先輩」

 

 ちょっと強引過ぎたか? でも、このままの流れは非常にまずいよな。せめて終わってからにしてくれないと。

 

「なにかしら? 話題を強引に変えようと必死な倫理君」

 

「わかっているんでしたら少しは協力してくださいよ」

 

「はいはい、わかったわ。で、なにかしら?」

 

「だからぁ、俺をからかっている時間があるのでしたら原稿のほうを進めてくださいよ。まじでやばいんですって。町田さんからも言われているように、明日の午後4時までに仕上げなければ穴があくんですって」

 

「わかっているわよ、そんなこと」

 

「わかっているんでしたらまじでやってくださいよぉ」

 

「編集の仕事は作家が気持ちよく執筆できる環境を提供することだと思うのだけれど?」

 

「そうですよねぇ、そうですよ。でも、バイト編集の俺が副編集長たる町田さんに土下座までしてこの温泉旅館で缶詰できるように頼んできたんじゃないですか。詩羽先輩が正月はどこにも行けずに家にいるはめになったから、こうして温泉に来たんじゃないですか」

 

「あら? 頑張って結果を出している私にご褒美を渡すのは当然の義務だと思うのだけれど?」

 

「だからこうして温泉旅館で缶詰できいるんじゃないですか。普通でしたら編集部提供の一室でひたすらノーパソに向かい合っていなければいけない状態なのに、町田さんのはからいで温泉旅館なんていう最高すぎる環境を用意してもらったんじゃないですかっ」

 

 俺、間違ってないよな? うん、間違ってないはず。

 でも、あら何変な事言っちゃってるの?って顔をされてしまうと、俺の方が間違っている気がしてしまうのは、きっと気のせいのはずなのに、はずなのに、どうしてこうも正しい事をしている俺に多大なプレッシャーをかけるんですかっ。

 

「最高の環境ならば、美味しい料理を食べたあとは、美味しい肉体を堪能するべきだと思うのだけれど?」

 

「だあぁっ。だ、か、ら、仕事、してください、お願いします。まじでやばいんですって」

 

「わかったわ」

 

「は? ……はい。はい、ありがとうございます」

 

 拍子抜けもいいところで、あっさりと身を引いてくれる詩羽先輩に俺は単純すぎるほどにほっと胸をなでおろす。

 一息つこうとコーヒーを口に含んだが、あまりにも勢いよく喋りすぎたせいか、乾燥している唇がぱっくりと割れてひりついてくる。

 

「ねえ倫理君」

 

「はい?」

 

 顔をあげると、「今は」見たくないものが目の前に待ちうけている。

 赤い唇を舌先で濡らしながら獲物を吟味している雌豹がいるんですけど、気のせいですよね?

 

「さきほどから乾いた唇をなめたりコーヒーの水分でまぎらわせたりしているのを見ていると、気になってしょうがないのだけれど」

 

「すみませんっ」

 

「リップクリーム、持っていないのかしら?」

 

「あいにく持ってきていないんですよ。家にはあるんですけど」

 

「今持っていなければしょうがないじゃない」

 

「急な旅行でしたので支度も慌ただしくて」

 

「私のせいだって言いたいのね。原稿を完成できず、缶詰をするはめになった私が、霞ヶ丘詩羽が、霞詩子が、悪いって言うのね。倫理君は」

 

「違いますって。忘れ物をしたのは俺のミスです」

 

「そう。……でも、このまま倫理君の唇を乾いたままにしておくのは私も困るから、このリップクリームを貸してあげるわ」

 

「ありがとうございます」

 

 和テーブルの上に置かれていた小さなバッグの中から取り出したのは、この旅行中も何度かみた詩羽先輩が使っているリップクリームであった。

 色つきのリップクリームでもないし、口紅も使っていないように思えるんだけど、どうしてこうもつやっつやで色彩豊かな唇をしているんだろう? いや、つやっつやなのはリップクリームの効能もあるか。いやでも、夏でも同じくらいつやっつやでひきこまれそうな唇しているんだよな。

 まあ、あまり見過ぎてしまい、ニヤニヤしている詩羽先輩の視線に冷や汗を何度もかいていたんだけど。

 

 

「あっでも、そのリップクリームは詩羽先輩が使っていて」

 

「あら倫理君は、この淫乱女が使って唾液まみれになっているリップクリームは使いたくはないというのね。ええそうね。私が悪いのよね。ただ私は、倫理君の唇が心配で心配で、勇気を振り絞って提案しただけだというのに」

 

 わざとらしく「よよよ」っと泣き崩れる真似をしないでくださいよ。しかも明らかに演技だとわかる演技だし。

 

「そ、そっこまで言っていませんから。むしろ俺が詩羽先輩のリップクリームを使っていいのか気になっただけですから。ほら、男の俺が簡単に借りられるようなものではないじゃないですか」

 

「そうかしら?」

 

「そうですって」

 

 首を傾げ肩から流れ落ちる黒髪にどきりとしながらも、俺ははっきりと言いきった。

 

「でも、私は、たとえ貸す相手が女であってもリップクリームを貸そうとは思わないわよ。今回リップクリームを使ってもらいたいと思ったのは、それは倫理君だからよ。いくら同性であっても貸す事はないわ。そもそも私のものを使われるのは不愉快だわ」

 

「それは、光栄なこと、です」

 

「さ、ここにいらっしゃい」

 

「はい?」

 

 間抜けな返事しかできない俺の前には、体一つ分だけ和テーブルから身を引いた詩羽先輩がここに頭をのっけろと柔らかそうな太ももを、ぽんっと叩いて手招く。

 

「せっかくだから私が塗ってあげるわ」

 

「いいですって。自分で塗れますから」

 

「あら、倫理君にしては大胆発言をしたものね」

 

「べつにリップクリームくらい自分で塗れますって」

 

「そうではなくて、私の唾液が付いたリップクリームをむしゃぶるように舐めまわそうとするなんて、倫理君も策士になったものね」

 

「だからぁ、そんなこと、一言も言っていませんから。そもそもその発言、最初は逆だったじゃないですか。俺が詩羽先輩のリップクリームを使うのが嫌だとか、そういう事を言ったのは詩羽先輩の方であって……、あぁもうっ。いいですよ、わかりました。俺が詩羽先輩の膝枕を素直に受け入れればいいんですね」

 

「たしかに最初から素直になる事が大事ね。でも倫理君。男のツンデレは見ていてもあまり気持ちのいいものではないわよ? たしかに、金髪ツインテール娘がツンデレをしても、はり倒して埋めてしまいたくなる気持ちは倫理君ではなくても抱いてしまうけれど」

 

「それ。詩羽先輩の気持ちであって、俺は関係ありませんよね?」

 

「まあいいわ。今は勝ち組正妻である私が至福の時を味わうとしましょう。雑念は最初からなかった。幼馴染みのお嬢様も、慣れ慣れすぎるイトコも、人懐っこい後輩も、頼りになる同級生も、最初からいなかった。そう、すべて脳内設定」

 

「やや友人関係を破壊しそうな思想が聞こえてきましたけど、それこそ最初からなかったことにしておきますね。さっさとリップクリームを塗ってくださいよ」

 

「そうね。いつまでもおあずけをしておくのも、倫理君に悪いものね」

 

「わかりましたから、あの……、その」

 

「あら、私の膝枕が気持ちよすぎて気が気じゃないのかしら? それとも私の胸を正当な理由で見あげられてご満悦かしらね?」

 

「わかりましたから。その通りですから、あの、いつまでも俺をいじめないでくださいって」

 

「わかったわよ。もう、せっかちね。…………きゅんっ。あの倫理君。あまり見つめないでくれないかしら。いくら純情すぎる私であっても、頬が火照ってしまうわ」

 

 作家が使う日本語としてはどうかとは思うけど、詩羽先輩が言いたい事はわからない事もないな。かくいう俺も至近距離で詩羽先輩に見つめられていて、手が汗で湿ってしまってるよな。

 あと、気持ちよすぎる多重攻撃の影響もあるんだけど……。

 

「目をつむればいいんですね」

 

「そうしてくれると助かるわ」

 

「…………………………………………………………………………まだですか?」

 

「もうそろそろいいかしら。今から塗ってあげるわ」

 

 ふわりとした感触が唇を覆い、そして遠慮がちに唇の上を湿った感触がなぞっていく。何度も何度もゆっくりと丁寧に、柔らかく温かみがある「リップクリーム」が俺の唇を塗っていく。

 …………なんてこと、あるかっ。

 だけど、緊張しきっている俺の体は俺の意思に反して動かない。気持ち悪いくらいかいていた手の汗は、さらにどばどば噴きでていて、背中の方もけっこうやばめな気もする。

 せめてもの抵抗として瞼を開けようとするが、俺の心理状態を事細かに理解してしまう詩羽先輩が先回りして、その手のひらで瞼は覆われていた。

 

「もう、いいわよ。…………ふぅっ。それとももう一回塗ってあげましょうか」

 

 瞼を開けると、予想通り満足げな顔をしている詩羽先輩が出迎えてくれる。だけど、どこか予想とずれていないか? なんというか微妙な違いなんだろうけど、ただたんにセクハラまがいの行為を強行して満足しているわけでもなく。

 

「二年参り、よ」

 

「二年参りって、初詣の事ですよね? なにが二年参りに?」

 

「倫也神社に、17歳の私が、18歳の私になるための、二年参り、ということになるのかしらね」

 

「もう31日になったんですか?」

 

「ちょうど先ほど、ね」

 

「はぁ……。キスはともかく、詩羽先輩の誕生日を俺が忘れると思っているんですか?」

 

「うっ……。倫理君のことだから忘れはしないとは思っていたわ。でも、キスは、キスは、してくれなかったでしょう? 高校最後の、しかも18歳になる誕生日。子供から大人へと成長するこの微妙な一瞬。あどけない頬笑みから妖艶な笑みとが混ざり合うこの一瞬は、今しかないのよっ」

 

 子供みたいに駄々をこねながら、子供がねだるにはアダルトすぎる要求を突き付けないでくださいよ。しかもそのギャップがすさまじく可愛すぎるもんだから、一瞬俺の方が間違ってるって思っちゃったじゃないですか。

 

「その理論からすると、二十歳になるときにも同じ事を言いそうですよね?」

 

「ううっ…………」

 

「しかも俺の誕生日の時も使えますから、少なくともあと3回はありますよ?」

 

「ぐっ!」

 

「はぁ……」

 

「でもっ、私の、霞ヶ丘詩羽の、18歳の誕生日は、一度きりしかないわっ」

 

「そんなわかりきったことをドヤ顔で言われなくても理解しています。そもそも今回の誕生日だって、詩羽先輩が締め切りをきっちり守ってくれていれば缶詰なんてしないでふつうに祝っていられたんですよ?」

 

「ぐはっ……。倫理君にいじめられたわ。きっとSに目覚めたんだわ。普段はおとなしい草食動物でマゾっけをのぞかせていたのに、私が18歳という大人の、子供とは分類されないカテゴリーになってしまったから、今までかぶっていた仮面を取り去って真正のSになってしまったのね。でもいいわ。私は倫理君を愛しているんですもの。たとえ倫理君が真正のサディストになってしまっても、全て受けれてみせるわ」

 

「わざとらしい演技をしないでくださいっ。しかもなんですかその台詞。まったくもって違いますからっ」

 

 しかも今度はわざとらしくても、わざとらしすぎない演技へと微妙に変化を加える余裕さえあるんですね。

 

「やはり倫理君は私の足で踏まれるのが好きなのかしら?」

 

「きょとんとした顔で言っても駄目ですからっ。しかもそのいいようだと、俺が前から詩羽先輩に踏まれるのが好きみたいじゃないですか」

 

「違うのかしら?」

 

「だからそのきょとんとした顔はやめてくださいって。本当に俺の方が間違っている気がするじゃないですか」

 

「わかったわ。許してあげるわ」

 

「ありがとうございます。」

 

「感謝しなさいね」

 

「なんで俺が感謝しないといけないんだろうか……。そもそも詩羽先輩が早く原稿を仕上げていれば…………」

 

「何を言っているのかしら? そもそも今回締め切りを守れなかったのは倫理君のせいなのよ」

 

「俺が?」

 

「倫理君があれもこれもと仕事を持ってくるからいけないのよ? 拝金主義の店舗特典のショートストーリー。最初から本編に加えておけばいいだけなのに、違う店で何冊も買わせるためだけに抜き取ったショートストーリーなんて誰得なのかしら? あぁ、出版社だけが得するわね。作者は読者から叩かれるだけで、なにもメリットがないもの。いくら部数が伸びたとしても、読者が納得してくれなければ次は買ってもらえないというのに」

 

「詩羽先輩?」

 

「あとは雑誌に載せる短編小説もくせものよね。あれってなんなのかしら? あれこそ出版社の利益しかないわよね? 普段は買わない雑誌を、お目当ての作者シリーズの短編を読む為だけに読者に買わせるのよ? しかもあとで短編集なんて形で発売するものだから、どのくらい部数を積み上げられるのかしらね? そもそも今はネットで違法ダウンロードされ放題なのだから、こういった姑息な手段は読者に見捨てられることこそあれ、読者を獲得する手段にはならないのに」

 

「う~たは、先輩っ?」

 

「出版社なら、売れる作者を目指すのなら、姑息な手段を用いず、どうどうと中身で勝負すべきなのよっ。こういった卑劣な手段を出版社がするからネットで叩かれて、いかに最低な作者だと吊し上げられるのよっ」

 

「どうどう、詩羽先輩。ここまでです。これ以上はまずいです。なにがまずいかを言うのさえまずい状況ですっ。…………えっと詩羽先輩。どうせ徹夜になるかと思って、誕生日のケーキ、用意していたんです。夜中にケーキは胃に重いかもしれませんけど、執筆活動で疲れた脳にはいいですよね? しかも誕生日なのですから、ほら。…………ちょっと待っててください。今用意しましたか」

 

 ちょっと飛んじゃったハイの状態の詩羽先輩を背に、部屋に備え付けの冷蔵庫からケーキを取り出す。

 今の詩羽先輩に無防備な背中を向けるのには勇気がいるが、いくら詩羽先輩でも襲い掛かってくる事はない……はず?

 と、若干失礼すぎる事を考えながら振り返ると、体を小さく縮ませた詩羽先輩がいて、拍子抜けになってしまう。

 

「ごめんなさい倫也君。ちょっとトランス状態になってしまったわ。正確に言うとどこからか電波が流れてきて、一瞬だけれどもどこかの作者の意識が乗り移ってしまったわ」

 

「それなら問題ないですよ。その作者。本音は拝金主義ですから」

 

「…………それもそうね」

 

「………………えっと、ろうそくも用意したんですよ」

 

「普通の高校3年生ならばセンター試験も終わって今は私立大受験に向けて追い込みをかけている時期なのに、こうやって温泉宿で倫理君としっぽり温泉だなんて最高ね」

 

「これが締め切り破りの缶詰じゃなければ最高だったかもしれませんね。……はは」

 

「来年も祝ってくれるのかしら?」

 

「……? でも缶詰旅行じゃなければ普通に祝いたいと思っていたんですよ? まあでもこうして高校生バイト編集者の稼ぎでは泊まることなんてない高級温泉宿に泊まれてるんだよな。それはそれで良しとしときましょうか」

 

「あなたの受験のことを心配しているのだけれど?」

 

「俺、ですか? 今のところ就職かなと」

 

「はぁ……。簡単に言ってくれるわね」

 

「……詩羽、先輩?」

 

「今バイトで編集をやっているけれど、そのまま正社員に本採用なんて無理よ。どこのだれが高卒を雇うものですか。たしかに能力がある人間ならば雇ってくれるでしょうけど所詮高卒で、三流大学卒にさえなっていないのよ? 編集部の出身大学を見ればわかるじゃない。いくら大学は関係ないといっても勉強もろくにやってきていない三流大学出身者を誰が雇ってくれると言うのよ? しかも高卒? 無理よ。だったら面白い文章かけなくても東大にいって、それなりの成績を収めなさい。腐っても東大生として面接を受けさせてもらえるわ。でも記念だと割り切っているのならどこの大学でも大丈夫よ。書類だけは受け取ってくれて、もしかしたら人数合わせとして上位大学だけでは不都合だから形だけは面接をしてくれるかもしれないわ。まあ、面接をしてくれても書類さえ見てくれないかもしれないけれど」

 

「……うっ。別に編集者になれなくても」

 

「この私が、どこの輩かもわからない男に、血反吐を吐いて書き上げた赤裸々なプロットや原稿を見せろとでもいうの?」

 

「どこの輩といわれても、担当編集かと」

 

「黙らっしゃい。深夜身も心も疲れ果てている状態の姿を、たとえ担当編集であったとしても、男に見られてもいいというのね。あられもない姿を見られても……」

 

「たしかに詩羽先輩がのっているときの姿はすさまじい……」

 

「ん?」

 

 その笑顔。……笑っていませんよね?

 

「なんでもありません。…………でも、今の担当は町田さんであって、女性ですよ?」

 

「いつまでも同じ担当とは限らないじゃない。最近町田さんも忙しさが増したみたいだし」

 

「それこそ俺が担当になれるかどうかなんて」

 

「なにかしら?」

 

 だから、絶対笑っていませんよね?

 

「いいえ、全て詩羽様の仰せのままに」

 

「……はぁ。その辺のことは大丈夫よ。私も考えているから」

 

「さようですか」

 

「私が売れればいいのよ。売れっ子作家になりさえすれば、たいていの事はごり押しできるわ。たとえ三流大学出の倫理君でも押し込む事はできるわ。でも、来年それができるかと問われれば微妙なのよね。だから倫理君。大学に行きなさい。そして少なくとも私と同じ大学にしなさい。そうすれば出身大学という問題は自然とクリヤーされるわ」

 

「すっごく不安な事を言っていますけど、詩羽先輩と同じ大学に行くのはいいかもしれませんね」

 

「でしょっ。でしょでしょでしょう。決まりね、決まり。再来年あなたは私の同級生になるのよっっ!!!」

 

「ちょちょっと待ってください。というか浴衣はだけていますって。いや、というか裸ですよね。しかも胸を押し付けないでぇ」

 

「……じゅるっ。ごめんなさい倫理君。取り乱してしまったわ」

 

「そういって反省している言葉を言っている割には俺の事をはなしてくれませんよね?」

 

「だって体をはなしたら裸を見られてしまうじゃない?」

 

「裸を押し付けている状態はいいんでしょうか?」

 

 わかりました。

 その笑顔、やはり凶器です。

 

「なんでもありません。…………ちょっと待ってくださいって」

 

「まだなにか問題があるのかしら?」

 

「問題と言うか、同級生ってなんです? 詩羽先輩と同じ大学にいければ後輩になるんじゃないですか? いや現実問題として、詩羽先輩と同じ大学だなんて今の俺には無理なんですけどね」

 

「はぁ……。ちょっと待ってなさい、安芸倫也くん」

 

 もう裸でどうかとか問題にならないんだな……。むしろ堂々と裸でいるから、俺の方が間違っているような気さえするぞ。

 

「これを見なさい」

 

「企画書ですか? それにしてはずいぶん分厚いですね」

 

「これは倫理君のご両親に提出した倫理君の今後の進路予定よ」

 

「はい?」

 

「これを作る為に年末年始をすべてつぎ込む羽目になってしまったのだけれど、ご両親も納得して下さったから、作った私としても嬉しい限りだわ」

 

「ちょちょっと待ってください。原稿はどうしたんです? 締め切り忘れてなんてことやってるんですっ。……ん? 俺の両親が納得したとかしないとか言ってませんでしたか?」

 

「安心しなさい。ご両親は納得してくれたわよ」

 

「そうですか。それはよかった…………じゃなくて、なにをやってるんですかっ」

 

「もちろんうちの両親も承知してくれているわ。私は自分の稼ぎもあるし、いつでも一人で生活できるもの。学生としても成績も格別に優秀だし、親も私の機嫌を損ねるような要求はしてこないわ。だから大学も、倫理君と一緒に楽しみたいのよ。今まで一緒の高校だったといっても、やはり先輩後輩の壁はでかかったわ。たしかに先輩先輩としたってくれる倫理君は可愛かったのだけれど、今度は同級生として接してみたくなったのよ」

 

「でも、いくら同じ大学に行けたとしても、また先輩後輩では?」

 

「私が留年すればいいだけじゃない」

 

「簡単に言ってくれますね。でもいいんですか?」

 

「来年は執筆の方に力をいれるわ。そうすれば倫理君が大学生になった時のアドバンテージくらいにはなるでしょう。まあ、あまり前倒しにして書いても意味をなさないかもしれないけれど、勉学と両立するよりは時間的余裕を産む事ができるでしょうね」

 

「霞詩子ファンの一人としては嬉しいですが」

 

「それにね倫理君。せっかく大学生になるのだから、あなたと大学生生活を楽しみたいのよ。高校生活が残り少ないのと同じように、大学生活も有限なのよ。しかも期間限定で」

 

「そういってくれるのは嬉しいのですが、やはり俺の学力じゃあ先輩がいく大学には届きませんよ?」

 

「だからこそこの計画書よっ」

 

「はひ?」

 

「この私が倫也君の新妻のごとくお世話をしてあげるわ。家庭教師から下半身の世話まで全て任せなさい。もはや新妻ね」

 

「前半はともかく後半の方はご遠慮ください。……って、これ、俺の高校の成績まであるじゃないですか。あっこれ。この前の期末紙面の結果まで。ちょっと待て。これ俺の解答用紙のコピーじゃないですか。どこからとってきたんですか?」

 

「私に不可能はないわ」

 

「そもそもこの計画書作っている時間があったら、とっくに原稿仕上がっていましたよね?」

 

「なに言っているのかしら?」

 

 澄まし顔で俺を見つめる詩羽先輩は頼もしく見える。

 今の一言で次に詩羽先輩がなにを言ってくるか予想さえできるほどの自信をみなぎらせている。

 …………けれど、裸だ。しかもわずかにひっかかっている浴衣が、艶めかしいほどにエロい。

 

「原稿ならとっくの昔に町田さんに渡しているわ」

 

「担当の俺は受け取ってませんけど?」

 

「そこは町田さんに協力してもらって、今回の温泉旅行計画の実行を手伝ってもらったのよ」

 

「職権乱用も甚だしすぎますよ。この旅館いくらすると思っているんですか? 高校生には出せない金額ですよ」

 

「安心なさい。今回の旅行の代金は全て私のポケットマネーで支払っているわ。おめでとう倫理君。ヒモ男としての第一歩よ」

 

「ありがたくない称号を勝手に付けないでくださいっ」

 

「だったらのし上がりなさい。私の計画書を上回る成果を出しなさい。そしていつか私の隣にたてる存在に、いいえ、私を引っ張れる男になりさない」

 

「……うっ。わかりましたっ! わかりました。やります。その計画書、やってやろうじゃないですか」

 

 和テーブルの上に広げられている前回の試験結果を見ると、地獄を見るほど勉強しないといけないと脳裏によぎるが、目の前のご馳走には勝てないようだ。

 

「それでこそ私の倫也くんよ」

 

 もう俺の両親にまで裏工作してくれちゃってくれているから、もはや俺には何もできないじゃないですけどね。

 

「今なにか失礼なことでも考えていなかったかしら?」

 

「いいえ、詩羽先輩の隣に立ちたいっていうのは、俺も夢にみていたなぁって」

 

「夢ではなくて現実にしてくれないと困るわ」

 

「はいっ」

 

「でも今は、もう一泊予定してある温泉旅行を楽しみましょう」

 

「あれ? まじで原稿終わってたんですか?」

 

「当たり前じゃない。肉欲に満ちた時間をこれから過ごさなくてはならないのに、どうして足枷を持ってくるって言うのよ。……だ、か、ら、倫也、くん」

 

「ちょ、ちょっと待って先輩」

 

「もう少ししたら先輩も卒業して同級生になる予定なのよ? ……でも、まだ先輩と後輩でもいいかしらね」

 

「その辺の勉学に関する予定は頑張りますけど、さっきから詩羽先輩が裸なのは覚えていましたけど、いつのまに俺の浴衣まで脱がしていたんですかっ」

 

 やはりこの人には永遠にかなうことはないのだろう。

 この心地よい敗北感に酔いしれる快感を覚えてしまっては、一生この人からはなれなれないと、はなれたくないと願ってしまう。

 願うだけなら簡単だ。

 でも俺は、願うだけで満足できない体になってしまっている。

 だから俺は頑張れる。この愛らしい女性の隣にいる為に、俺は自分の全てをいとも簡単に捧げしまうのであった。

 

 

 

END

 

 


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