暑い。もう九月の半ばというのに。
場所が変われば環境も変わる。わかりきってはいたが、体中から汗を流しながら瑞鳳はため息をついていた。
いっそのこと緑色の巫女服のような制服を脱ぎ捨て、薄着で冷房や扇風機のある部屋でごろごろしていたい――普段が真面目な瑞鳳ですらこんなことを考えている。他の艦娘も暑さであまり動けないのか、各々の寮や食堂でぐでんと脱力している者が多かった。
瑞鳳もそうして食堂でぐったりしている者の一人だった。隣には机に伏せて「あちー」「だるー」を繰り返している鈴谷と、そんな彼女を「やめなさいな、はしたない」とたしなめながらも、水の入ったコップを手放さない熊野がいた。
そんなやりとりを横目に瑞鳳は水を飲む。すっかりぬるくなっているが、飲まないよりは遥かにマシだった。
「ねえねえ瑞鳳」
「え?」
「秘書艦の仕事は終わったの?」
気だるそうな感じを隠すことなく鈴谷が話しかける。そうだよ、と瑞鳳も気だるげに返事を返す。
青海提督の下で働いてから半年が過ぎようとしているが、瑞鳳はこの二人とは特に仲がよく、非番の時には街へ遊びにいくこともあった。故に、熊野の「シャキッとしなさい」という言葉もかなり友好的に瑞鳳に向けられていく。
「昨日と今日でやってたのが、補給ルートの確保や防衛のための計画を立てたりとか。あとは基地を維持するための哨戒ルートとか、予定のシフト表作成とかだったの」
「うっわなにそれ、めんどくさそうじゃん」
「めんどくさいよ。でも、仕事が始まるのは明日だから。ぐでぐでしていいのは今日までだからね」
「えー。マジ嫌なんですけどー」
ため息混じりに鈴谷が軽く机を叩いてみせる。熊野はもう喋る元気もないのか、ぬるいコップを額にあてがったりしているだけだった。
「今日はもうみんなお仕事が無いし、せっかく南の島にいるんだから、浜辺に行こうよ」
「それマジで言ってるの? 今日はもう部屋に戻って休みたいんだけど」
「そう言うとは思ったわ」
「……あのさあ。瑞鳳のお姉さんいるじゃん、祥鳳さん」
「え? うん、姉さんがどうかした?」
「あの人って戦いの時はほとんど脱いでるようなもんじゃん」
「まあそうだけど、なにかあった?」
「あれでいいなら私も水着で出撃したいなーとか思ったわけ。艦娘の防御なんて不可視装甲があるし、服の有無でどうこうってわけじゃないし」
「さすがに水着はダメなんじゃないかな」
「ダメだって分かってて言ってるのにさ。もっと乗っかってきてもいいじゃん」
んもー、と不満を漏らしながら鈴谷は熊野の手からコップを奪って一気に飲み干してしまった。
隣で「あああーっ!」と驚きと嘆きの詰まった熊野の声を無視し、鈴谷は「生き返るぅ~」と満足そうに息をついている。
こうなると姉妹ケンカが始まるのは目に見えていた。自分から動きたくはないが、厄介なことに巻き込まれたくはない。空母寮に戻って自分の部屋――とはいえ姉の祥鳳との相部屋だが――に戻って休もうと、瑞鳳は鈍い動きで席を立つ。
壁にかかった時計に目がとまる。17時38分。もうじき夕食が振る舞われる時間である。もう仕事は終わっているので私服に着替えてもいいが、行き来を挟むと食事を一番最初に楽しめない。
人の体を得てから瑞鳳が楽しみにしていることはといえば、一日三食の食事を楽しむことだった。気の置けない友人と共に、たった一人の姉と共に卓を囲んで味を楽しむ、糧を得ることが、いまの瑞鳳が好きなことの一つだ。
着替えか食事か。どちらを優先させようか迷う瑞鳳の肩になにかが乗った。人の手だ。それもゴツさからいえば男性の。青海提督だろうか、と明るく振り返った瑞鳳の表情は瞬時に緊張していく。
瑞鳳の後ろには見知らぬ男が立っていた。長身でかなり体格の良い、筋肉質な男だ。黒髪のオールバック、いかにも強そうですと言わんばかりの精悍な顔立ち。目つきは鋭く、並の人間ならこの見た目だけでたじろいでしまうだろう。
「あ、あの……どちらさま?」
もちろんこの男性と瑞鳳は初対面である。青海提督も筋肉質な体をしているが、ここまで背は高くないし顔立ちだって怖いような雰囲気はない。
男は背の低い瑞鳳を見下ろし、そのまま黙っている。白い割烹着に黒のエプロンという格好からして料理人なのだろうが、全く似合っていない。服に着られているのか、男の雰囲気が服を圧倒しているのか、瑞鳳にはわからなくなってしまった。
「……なぁんだ、そんなに怖がらなくてもいいじゃないですか!」
外見からは想像もできないくらいに明るく高い声色である。状況が許せばずっこけてやれるのに、と瑞鳳は心の片隅に思いながら、それでも表情はぽかんとしていた。
「今日からここの料理人として働くケンです。あー、名前は拳三郎っていうんだけど、いままでの知り合いとか友人はケンって呼んでるので、気さくに声をかけてもらえると嬉しいです」
「は、はあ」
「瑞鳳さんというのは、たぶん、あなたのことだと思うのですが」
「ええ、ええ。私が瑞鳳です。艦娘の、軽空母の、はい」
「青海提督の秘書艦さんですね? 提督から聞いた通りの方ですね、ひと目で分かりました。さて、夕飯の準備にとりかかりますので、基地の艦娘の呼び出しをお願いしてもよろしいですか」
事務的なやりとりではあるが、いかつい顔に似合わず穏やかな調子で語りかける料理人。この人なら本当にケンと呼んでしまって構わないだろう、笑って喜ぶはずだ――瑞鳳は確信すると頷き返して食堂を出て行った。
執務室から全体放送をかけた瑞鳳は食堂に戻ると、そこがずいぶん賑わっているような声を聞いた。さっきまではみんなぐでぐでしていたのに――
「あっ瑞鳳! はやくおいで!」
――食堂の扉から祥鳳が手招きしている。戦いの時のように服をはだけさせてはいない。白い着物に長い黒髪は、穏やかそうな女性の雰囲気をかもしだしている。
「祥鳳姉さん? みんな、夕食を?」
「ええ。あのコックさんすごいのよ、あんなに暑さでやられていたみんなを元気にしてるんだから」
たかが食事ごときでそんなに劇的に変わるわけがない。そう思いながらも瑞鳳は食堂に足を踏み入れ、先の見解をすぐに取り消した。
9月の夏バテに倒れていた艦娘たちは、瑞鳳が食堂を出て行く時よりもあからさまに元気に振舞っている。いったいなにを食べているのかと瑞鳳は近くのテーブルに歩み寄った。
どのテーブルにもトマトを主役にしたサラダが乗っている。他には炒めた豚肉と野菜の盛り合わせや白米が用意されていた。どれも夏バテに効きそうなものだが、こんなにも効果が大きかっただろうか――戸惑う瑞鳳は自分の肩が軽く叩かれたことに驚いた。
「うわあ!?」
「そんな驚くことないじゃん。どしたの、食べないの? すごく美味しいよ、これ」
瑞鳳に声掛けをしたのは鈴谷だった。もう食事は終えたらしく、少し遠いところで熊野も最後の一口に手を付けようとしていた。
「じゃあ食べるよ。いただきます」
「そいじゃお先に! また明日ね!」
元気よく鈴谷が手を振って食堂をあとにする。瑞鳳も祥鳳も見送って、それから横にふたりで席について静かに食事を始めていく。
確かにすぐに元気の出る料理だった。あまり目立たない特別な調味料でも使っているのか、体中を活力が巡っていくような感覚があった。それが的確な例えかどうかは分からないが、グルメリポートを求められたらそうとしか答えようがないと瑞鳳は思う。
「思っていたより美味しいわね」
「ね! 姉さん、コックさんの顔は見た?」
「最初はヤクザかなにかかと思ったけど……人は見かけによらないものねえ」
「私は格闘家の人かなって思ったんだけど。拳三郎さんっていって、あだ名はケンでいいよって」
「そうなの。あとでそのケンさんに、卵焼きの作り方、教えてもらいましょうよ」
祥鳳の提案は瑞鳳にとってかなり都合が良いものだった。
この基地のメンバーで一番料理ができるのは、拳三郎を除けば青海提督なのだ。瑞鳳は提督に美味しい料理を振る舞いたいと思っているが、その教えを請う相手が提督であるならなんの意味もない。
料理人の拳三郎に教えを請うなら、それはとても自然な成り行きになるし、きっと青海提督に教えてもらうよりももっと上達できるに違いない。
少しだけ間を開けてから、瑞鳳は満足そうに頷く。これを完食したらあのいかつい料理人に頼んでみよう――トマトサラダのみずみずしさを口の中に転がしながら、幸せを予感して心の底から笑った。
その夜。
自ら展望台に登って見張りの任務についていた青海提督は、昼とはうってかわった寒さに肌を緊張させていた。
彼は白い軍服の上に長く分厚い灰色のコートを着込んでいるのだが、それでようやく少し暖かい程度の暖を得ていた。三十代半ばを過ぎたせいか、青海提督は寒がりなのだ。
南を向いて双眼鏡を近づけたり離したりしている横顔はとても凛々しい。どこぞの男性おじさんアイドルと言われてもおかしくない顔立ちだった。正面から、斜めから見ても、静かで落ち着いて堂々としている格好良さは変わらない。
「提督、そろそろ代わりましょうか」
後ろにある白いテーブルの上にいる妖精が声をかける。この妖精は瑞鳳の艦載機に乗り込んでいる者だ、と青海提督は確信しながら、頼むと声を返した。
すると妖精は青海提督の体に飛びつき、高速で木登りするように動いて、展望台の手すりのところに腰掛けた。そこは平らだし、妖精のような小さな体を持つものに対する防護柵もついている。
妖精は自らの首に提げていた双眼鏡で南の海を見つめる。青海提督が凝視していた方角と同じだった。これを確かめた青海提督はテーブルの上のお茶に手を伸ばす。湯のみはまだ薄いながらも湯気を立ち上らせている。ちょうどいい温度になっているはずだ。
「わっ、あれは?」
「どうしたね?」
「提督、南の空に異変が! 正体不明の発光体です!!」
切迫したように妖精が叫ぶ。すぐに青海提督も立ち上がって双眼鏡を構えた。
時刻は午前2時27分。深夜もいいところに、南の海の空で白い光がふたつ、まばゆい光を放っている。
「あれがなんだか、わかるかい」
「いえ。なんの見当もつきません」
「そうか。これは早く調査部隊を編成せねばならんな……」