すずかお嬢様の下半身事情   作:酒呑

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すずかお嬢様の下半身事情 そのに

 そこは仄暗い部屋だった。しかし、その部屋に設えられた白熱電球が出している橙色の柔らかな灯りが、仄暗さと相まり何処か淫靡なムード作り上げている。

 部屋の中央には通常のサイズよりもやや大きなサイズのダブルベッドが鎮座しており、サイドチェストには避妊具やその他の様々な道具――所謂大人の玩具と言う奴だ――が所狭しと並べられていた。

 部屋に備え付けられた有線のジュークボックスからは、ラテンジャズだろうか……何処か哀しげな、それでいて情熱的なミュージックが控えめな音量で室内に響いており、耳に心地良い。

 

 そんな部屋に、二人の少年と少女がいた。

 恐らく、雨にでも降られたのだろう。少年と少女の制服は上から下まで全身余す所無く濡れており、両者とも髪から水滴がぽたぽたと足元へ向かって滴っていた。少年の方が髪を掻き上げながら部屋の内部を見渡すと、部屋に備えられたタオルを見つけたのか、それを取りに歩いて行く。少女の方は赤面した表情を少年に悟られない様にする為にか、顔を下に向けて未だ濡れるその美しい紫紺の長髪で表情を隠しながらベッドサイドまでおずおずと歩いて行った。

 

 少年も、少女も。

 この近辺の学生の中では非常に賢く、同時に非常に大人びた感性を持っていた。だが、今に限って言えばそれが仇となったのだろう。少年と少女はこの部屋が『そういった』目的で使用される部屋だと言う事に気が付いていた。年の頃十五歳……そういった知識に興味を持つには十分過ぎる年齢だったというのもあるだろうが。

 

 少女がベッドサイドで顔を赤らめたまま悶々としていると、少年がタオルを片手に戻ってきた。少年の方は少女の名前を呼びかけていたが、年頃のそういった性的な事に対するあれこれを考えて悶々としている少女にはその呼びかけが中々届かない。

 少年が気付いてもらう為には仕方ないと言わんばかりの、それでいて少女の身体に触れる多少の申し訳なさが窺える表情で少女の肩に触れると、あれやこれやでぐるぐると抜け出せない思考に陥っていた少女がびくりと身体を震わせる。

 

 その時だった。足元が大理石のフローリングだった為に、髪の毛や身体から垂れた水滴が作り上げた小さな水たまりに少女は脚を取られてしまったのだ。濡れて踏ん張りの効きづらくなった靴を履いていた少女はなすすべもなくバランスを崩してしまい、少年の方へ振り向きながら後ろに倒れ始めた。

 少年は咄嗟の出来事だったがタオルを投げ捨て、少女の身体を支える為に腕を伸ばして少女の腕を掴む。掴めた事に一瞬だけ安堵したのは良い物の、少女と同じく濡れた靴を履いていた少年も運が悪く――いや、この場合は運が良いのだろうか――そのままバランスを崩して少女と共に倒れ込んでしまった。

 

 先程少女を支える為に掴んだ筈の少年の手は、少女の腕を上からベッドに抑えつける形となり。

 倒れ込む際に少しでも少女にぶつけない様に、体重を掛けない様に、と動かした少年の脚は少女の両足の間に膝を着いていた。

 

 少女が下で。

 少年が上に。

 期せずして少女を押し倒す少年の構図が出来上がってしまった。

 少年と少女の視線が合い、互いに何が起きたのかを理解しないままに見つめ合う。

 

 

 

 ほんの僅かな静寂が、二人の間に流れる。

 

 

 

 見ていると吸い込まれてしまいそうな程の深い色合いが神秘的な蒼黒の瞳と、顔に張り付く幾条かの髪の束、顔だちの美しさに魅入られ、少年の脳裏と心にこのまま少女を犯してしまいたいと言う衝動が襲い来る。

 欲望のままに犯してしまいたい。服を脱がせて少女の柔肌を堪能したい。少女の身も心も自分に屈服させてしまいたい。そう、強く思った。

 

 ――だが、少年は奥歯を噛み締め、理性を総動員し、その衝動に堪え切る。

 少女の名を呼び、すみません、と絞り出すかの様に呟いた少年が急いで少女の腕を離し、四肢に力を入れて少女から離れる為に立ち上がろうとする。

 ……立ち上がろうとしたのだが、外部の要因でまた体勢を崩す事になった。抑えられていた腕が自由になった少女が、少年の首元に優しく腕を回していたのだ。

 押し倒していた体勢から更に体勢を崩した彼は、少女の胸元に顔を埋めてしまう事になった。雨に濡れて冷たい制服。その奥からじんわりと感じる、火照った少女の熱。どくどく、どくどくと早鐘を打つ少女の心音。それらを顔で感じる事になった少年は頭の中で再び理性と欲望とが綯交ぜになり、先程何とか堪えた衝動とまた相対する事になる。

 少女の心音が聞こえる度に、少年の我慢の限界は近づいていた。それでもなお、少年が理性を振り絞って堪えていると、不意に首に回されていた少女の腕が離され、少年は少女の胸元から顔を上げる事が出来た。

 

 自然と交わる少年と少女の瞳。

 少年の困惑しつつも様々な物を堪え我慢している瞳と、少女の熱を感じる潤んだ淫らな瞳が交差する。

 

 再び訪れる沈黙。僅か数瞬の間ではあったが、少年と少女はその瞬間を今まで生きてきた中で最も長い時間に感じていた。

 そして、少女は艶やかな微笑みを湛えながら口を開き――

 

「――(くん)には、月村さんじゃなくて『すずか』って、呼んで欲しいな。……んっ」

 

 ――少年の返答を聞く前に、口付で少年の唇を封じた。

 

 室内に、僅かに響く水音。唇を交わし合う少年と少女にしか聞こえない程度の小さな音ではあったが、淫靡な音が確かに二人の耳に届く。

 

 ――そして。そこが、少年の理性の限界だった。

 どちらからともなくキスを止めて顔を離すと、唇と唇の間で唾液が糸を引く。その光景を見て、少年は更に興奮して行った。尤も、今の少年には目の前の少女に関わる物なら全てにおいて興奮するのだろうが。

 

 最後の最後に、本当にいいのかと少年が問うと少女は自分からもう一度軽くキスを交わす事で返事とした。辛抱出来なくなった少年が右手を少女の制服のスカートへ伸ばす。その様子を見て、少女が再び微笑みながら口を開き。

 

「うん、いいよ……。きて……」

 

 少年と少女の身体が完全に重なり、そして――

 

 

 

「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

 

 

 ――少女は起床した。

 

 

 

―――――――――――――――

 すずかお嬢様の下半身事情

―――――――――――――――

 

 

 

 □ □ □ 

 

 ぜぇ、はぁと乱れた呼吸を整えながら、私は自室のベッドの上で自然と胸に手を合わせて心臓の動きを確認していた。掌から伝わってくる心臓の鼓動は自分でも驚くほど早く、まるで全力で激しい動きをした後の様なビートを刻んでいる。そのまま左胸を抑え二度三度と大きく深呼吸をし、少しだけ脈拍が落ち着いて来た頃にやっと周囲へと目を向ける。

 周囲を見る事が出来る余裕が生まれると、自分のベッドの乱れ方が目に付いた。普段はそうでもないのに、今日に限って何故か(彼とえっちな事をする夢を見たからじゃないと信じたい)特別布団が乱れている。

 ……先程まで見ていた『夢』の事もあり、夢とこの布団の乱れ方をなんとなくいやらしく感じ、軽い自己嫌悪に陥った。

 

 いや、今は自己嫌悪に陥っている場合ではない。そう思った私は頭を振ることでなんとか思考を自己嫌悪のループから振り払い、もう一度深く息を吸い込んで心の底から大きな溜息を一つ零す。先程から何度も深呼吸を繰り返す事によって随分と落ち着いて来た。狼狽えるんじゃあない、月村すずか。そう、お嬢様は狼狽えないっ!

 とりあえず、何時までもこうしてベッドの上に座っているわけにも行かない。寝汗で肌に張り付いたネグリジェが不快なので早く着替えてしまいたい。いっそシャワーでも浴びようか……等と考えながらベッドから降りようと両足を動かした時に、気付きたくなかった出来事に私は気が付いてしまった。何という事だ。死にたくなってくる。いや、もう死のう。そうだ、死んだ方がいい。

 

 ……どういうわけか、ショーツが、寝汗では到底すませないくらいの湿り気と、若干の粘性を帯びている。

 というか、どう考えてもこれは所謂、その、ええと。女性が性的に興奮した際に起こるとされている『濡れる』と言う現象……だった。

 

 夢の中に出てくる程に彼の事を思ってこうなってしまったのだろう、という結論に至った時、部屋に置いてある姿見に映った私の顔は火でも噴いているのではないかと錯覚する程真っ赤に染まり、自然と湧き上がってきた涙を湛えながらもう暫く羞恥やら乙女心やら、諸々の事情でぷるぷると震える事になったのはまた別の話である。

 

 ――お父様、お母様。私、月村すずかは自分で思っているよりもえっちな女の子だった様です。

 

 □ □ □ 

 

 その日の昼休み(正確には朝からずっとだが)は、何故か私の教室内は良く分からないが困惑で満たされていた。女子校なのに何処か顎が尖っていそうなざわ‥ざわ‥と言う喧騒が聞こえてくる。少しだけ気になったのでよくよく耳を澄ませてみると、月村さんどうしたのかしら、とかもしかして例の彼に振られたのかしら、とかあぁん私の聖女様がぁ! とか聞こえてくる。とりあえず一番最後の人は近寄ってこないで欲しいな、などと上半身をぐったりと机に突っ伏しながらぼんやりとそう思った。

 

「……で? これどうなってんのよ。アンタ達何か知ってる?」

「知らへん知らへん」

「ふーん。なのはは?」

「んー……、今日のすずかちゃんは朝からずっとこうだから分かんないかなぁ」

「そっか。なのはが分かんないなら仕方ないわね。とりあえず何があったのかさっさと聞くわよ」

「あの……実は何かしらのリアクションかツッコミ待ちやねんけど……」

「ふーん」

「あの……」

「何であたしがアンタの漫才に付き合わないといけないのよ。フェイトとでもやってなさい」

「フェイトちゃんは捕まったやろ! ええ加減にしろ!」

 

 ばんばんと両手で机を叩きながらはやてちゃんが何か騒いでいる様だが、まるで頭に入ってこない。これも多分、自分の気持ちが落ち込んでいるからだろう。……あ、いや、はやてちゃんの発言に関してはいつも通りかもしれない。まぁそんな事はどうでもいいが。

 

 机に突っ伏し、頬を天板に押し付けたまま溜息を一つ零す。

 今朝から何度も気持ちを切り替えようとしたが、ふとした拍子に今朝の諸々の出来事を思い出してしまい、自己嫌悪に陥ってしまう。そう、自己嫌悪から抜け出せないのだ。今まで自分を乙女だ乙女だと称してきたが、いざそうなってみると自分でもコントロールが効かず、侭ならない物だった。乙女心とは実に複雑である。

 

「はぁ……。私って、本当にはやてちゃんが言ってた通りのビッチなのかな……」

「は?」

「にゃ?」

「ほ?」

 

 ざわり、と周囲のどよめきが大きくなった。何かあったのだろうか。

 

 周囲のどよめきに、一瞬だけ気を逸らす事が出来たが次の瞬間には再び思考がぐるぐると巡り始める。

 朝から何度も何度も繰り返した思考だったが、抜け出せない物はどうしようも無かった。

 他のクラスメイトや親友たちがどうなのかは分からないが(そもそも聞く機会も必要も今まで無かったのだが)、恐らく付き合う前からこんなえっちな事を考えている様な子はいないんじゃないだろうか。いや、いたとしてももっと興味や好奇心と言った感情が大きいのだろう。きっと、私みたいに身体が反応してしまうと言う事は無い筈だ。やはり私ははやてちゃんの言う通りの清楚ビッチなんだろうか……そんな考えだけが、ずっと脳内を駆け巡り、自己嫌悪の度合いが深まって行く。分かっていても考える事を止められなかった。

 

 もう何度目になるのか分からないが、また一つ溜息を吐こうとした所で誰かに両肩を掴まれる。この握力と手の感じは、アリサちゃんかな。今はテンションが低いし、自己嫌悪に伴って気分も悪いのでまたシェイクされて乙女パワーを口から出しちゃったら申し訳ないなぁ、等と考えながらなんとか頑張って顔を上げると、そこには何処か焦っている様な、それでいて困惑した様な表情のアリサちゃんが私の肩を掴んでいた。

 そして、どこか緊張した様子でアリサちゃんは口を開く。

 

「すずか、あんたまさか……」

 

 一体どうしたと言うのだろう。出来れば今は放っておいて欲しいのだが。

 返事をする気力も無いので、そのままアリサちゃんの言葉を待つ。すると、数秒の間は迷っていた様だったが、意を決したのかアリサちゃんは言葉を続けた。

 

「今度こそ、本当に処女膜(ヴァージン)散らしたの?」

 

 その発言の意図を理解するまでに僅かに時間が掛かったが、一度その意図を理解してしまったが為に、脳内の自己嫌悪のループが今朝の夢の内容へとシフトする。

 脳裏に思い浮かぶ彼の表情と、私の痴態。私の顔は一瞬で真っ赤に染まり、沸騰したかの様に熱くなる。羞恥心に耐えられなくなった私は、少しでも周囲の目から隠れようと顔を再び机に押し付け、頭を両腕で抑えて亀の様に身を縮めた。

 

 そんな反応を示してしまった私を、年頃の女の子たちが見逃すはずが無かった。

 次の瞬間、教室中に年頃の女の子たちの黄色い声が響き渡る事になるのであった。

 

 □ □ □ □

 

 海鳴臨海公園の鉄柵に身体を凭れさせ一人黄昏ていると、毛先を柔らかく弄ぶかの様な風が僅かに感じる磯の香りと共に爽やかに吹き抜けていく。昨日と同様、梅雨時だと言うのに見上げる空は雲一つなく晴れ渡り見事な蒼穹の様相を見せていた。きっと、こういう空模様を昔の人達は天の原と呼んだのだろう。偶々近くを飛んでいた海鳥たちも心なしか気持ち良さそうに空を飛んでいる様に見える。

 

 まぁ、尤も、今の私の心情は生憎とこの蒼天とは正反対の曇り模様を見せているのだが。

 

 昼休みのあの騒動の後(未だにどうしてアリサちゃんが再び私の処女の事を聞いて来たのかが分からない。気が付かないうちに何か悟られる様な事でもしたのだろうか)、親友たちやクラスメイトの女の子たちの好奇心から来る怒涛の質問攻めに無言を貫く事で解答として放課後まで耐え、授業を終えるや否や鞄を引っ掴んで全力で教室から逃走。案の定クラスメイトの何割かが追いかけて来たが、自慢の健脚で瞬時に振り切った。偶然すれ違った恭也さんがやはり強者……と呟いて笑んでいたのは聞かなかった事に、見なかった事にしたい。

 翠屋にはなのはちゃんがいるし、市の図書館に潜んでもきっとはやてちゃんに見つかるだろう。だからと言って学校に残っていてはクラスメイト達が襲ってくるし、習い事をしている場所はきっとアリサちゃんがいる。自宅には(と言うよりも自室にだけれど)まだ帰りたくない。どうしても思い出してしまう。

 こんな状態で親友や級友たちに捕まって根掘り葉掘りと聞かれるのは今の私の複雑な乙女心が許容しないのだが、かと言って逃げる場所も落ち着ける場所もすぐには思い浮かばない。全力で逃走しながら、しかしあてどなく海鳴市を走り続け、辿り着いたのが此処だった。

 

 身体を全力で動かした事が良い方向に働いたのか、気分はともかく思考の方は学校にいた時と比べ随分と落ち着いている事が自分でも分かる。今なら、なんとかこの気持ちとも折り合いがつけられそうだった。

 

 海と陸を隔てる鉄柵に身を預け、海をぼうっと眺めたまま、思索に耽る。考えるのは、彼の事だった。

 ふと、昨日から彼の事を考えてばかりいる自分に気が付き、またしても微笑が漏れる。尤も、今回の微笑にはやや自嘲的な物が混ざっていたが。

 

 思い返すのは、今までの事。六年と少し前から続く、少し不思議な彼との関係と、思い出。

 

 一つめは、休日の混み合った翠屋で偶々隣に座った事だった。

 沢山のお客さんで混み合う中、一人で訪れた為にカウンター席で一つだけ空いていた彼の隣の席に案内された。あの時は、きっとこうして思い出して懐かしむ事になるなんて、思ってもみなかっただろう。店員さん達の奮闘とお客さん達の話し声による喧騒の中、初めて彼の隣で本を読んだ。

 

 二つめは、偶然同じ本を手に取り、同じ喫茶店で読んでいた事。

 紅茶をちびりちびりと飲みながら、とある文豪の少し古い小説を読んでいた時だった。ふと視界の端にに入った彼が隣席で同じ本を読んでいた。マイナーな本だったし、まさか隣に座った男の子が同じ本を読んでいる等とは思わなかった為、少し興奮してつい話しかけてしまった。

 確か、凄い偶然ですね。本、お好きなんですか? と話しかけた筈だ。彼の方は少し驚いた様子で私を見ながら少々固まった後(ほんの数秒だった気がする)、表紙に目を落としながら嫌いでは無いですね、と返事をくれた。そこから、私たちはほんの少しだけれど会話をする様になった。

 

 三つめは、私と彼の手が重なってしまい、彼が手を引くも私の方から手を握ってみた事。

 私と彼が並んで座りながら、その日は二人とも勉強している時だった。彼がアイス珈琲を、私が紅茶を飲もうとし、偶々タイミングが重なった。

 私は右利きで、自分の右側に置いておいた紅茶へと手を伸ばした。一方で、彼は左利き。彼の左側に置いてあったアイス珈琲へと手を伸ばす。お互いに参考書の問題を解きながらだったと言うのもあったのだろう。問題から目を離さずに何となくこの辺りにある筈だ、と手を伸ばした先で、私と彼の手が少しだけ触れた。

 思わず顔を上げると、彼と目があった。少し慌てた様子でスイマセン、と謝りながら彼は手を引いたが、あの時の私は何を思ってその行動を取ったのか。離れていく彼の手を掴み、彼が唖然としている内に指を絡ませる。自分よりも一回り程大きくて、私達女の子よりも硬い手だったが、何処か安心感を憶える。そんな手だった事と、顔がとても熱かった事、胸の鼓動が凄く早くなっていた事を憶えている。凄くどうでも良い事だが、偶々ホールで働いていたお姉ちゃんに目撃されて暫く弄られた事も思い出した。無論、そのあと然るべき報復――恭也さんの盗撮写真を元データごと全て燃やし尽くした――は行ったが。

 

 四つめは、突然雨に振られて困っていた彼の手を取り、翠屋から二人で歩いて帰った事。

 天候が不安定な秋口での事だった。何をするでもなくただ彼の隣でぼんやりとしながら翠屋で紅茶を楽しんでいると、いつの間にか雨が降っていた。私自身がぼんやりとしていた事と、雨が静かにしっとりと外の路面や窓ガラスを濡らしていた為に、雨が降っている事に気が付かなかったのだろう。傘は一応持っているけれど、激しくなる様ならお姉ちゃんかファリン(ノエルはスピード狂だから除外)に迎えに来て貰おうかなぁ、なんて本日のデザート(この日は確か、ハロウィンが近いからかぼちゃを使った試作のスイーツだったかな。控えめな甘さが丁度良かった憶えがある。またたべたい)を咀嚼しながらのほほんとしていると、彼が勉強道具を片付けて立ち上がる。

 洗濯物が拙いかも、と溢している事から若干心配している事が窺えた。雨の様子を見て、彼が何かを決意した様に首を一つ縦に振ると、お会計を済ませて傘を差さずに(というか、傘を持っていなかった)歩いて行こうとしていた。時分は時折り冷たい風が吹く秋口だ、風邪でも引いたら事だろう……それになにより、彼が風邪を引いたら暫く右隣が寂しくなりそうだ。

 そう思った私は、カウンターの奥にいる士郎さんに目配せをして席を立つ。士郎さんも微笑みながら行っておいでと送り出してくれた。本当に。出来た人だと思う。

 今にも出て行こうとする彼の背を小走りで追い、後ろから声をかけながら傘をさした。

 風邪、引いちゃいますよ――そう言いながら彼の左隣に寄り添って、彼の手に傘を渡す。彼は少し照れくさそうにしながら、それではお邪魔しますとだけ言って、歩きだす。傘が私の方に寄っていたのは、きっと彼の優しさだったのだろう。

 

 五つめは、気分を変えようと髪型を弄ってポニーテールにしていたら、翠屋へ入って来た彼が呆けた様子で小さくかわいいと呟いたのを聞いてしまった事。

 あの時ほどちょっと特殊な私の体質に感謝した事は無かった。彼が入店した事に気が付いたのは偶然だったが、気が付いていなければ彼がこちらを見ながら小声でそう漏らした事に気が付かなかっただろう。とても嬉しかった。その後、男性のスタッフさんに声をかけられるまで彼は私の方を見ていたと思う。断定できないのは、この時の私は気付いていないふりをしながら横目でちらりと眺めていたからだ。

 何時もの様にカウンター席へ案内された彼が隣の席へと座る。気が付いていないふりをしながら、この髪型について聞いてみようかと思ったけれど、やめておいた。嬉しさを隠しながら本を読んでいると、士郎さんが紅茶を私の前に置きながら良い笑顔だね、何か良い事でもあったのかい? と聞いて来たが、この人は本当に鋭いと思う。この出来事があった翌日から、私は髪型を今の様なポニーテールにするようになった。

 

 六つめは――

 

「好き、なんだろうなぁ」

 

 とめどなく溢れてくる彼との思い出を、一つ一つゆっくりと振り返りながら、一人、海へと呟く。

 元々、少しずつ気が付いてはいたのだ。私が彼の事を異性として好きなんだろうと言う事には。

 思えば、もう何年も前から私自身が気が付かない内に翠屋へ行く目的が変わっていたと思う。美味しい紅茶とデザートを楽しみに行くのでは無くて、僅かな時間だけでも彼と一緒の時間を過ごす為に翠屋へと赴く。彼の隣と言う場所で、心が暖かくなる時間を得る為に翠屋へ行く。……そう、翠屋へ行くのは彼に会うのが目的になっていた。今となっては翠屋へ入ると自然と彼の姿を探す癖すらもついてしまっている。

 

 彼の姿を見ただけで自然に漏れてしまう微笑も、彼の傍にいるだけでどきどきと高鳴る鼓動も、彼の横顔を格好いいなと思う事も、今日の様に彼が出る夢を見る事も。

 偶々触れた彼の手をつい握ってしまうのも、話さなくてもただ隣に座っているだけで幸せな気分になるのも。全て、私が彼の事を男の子として好きだからなのだと思えば、すとんと胸に落ちた。

 

「……うん、きっと、私は好きなんだ。彼の事が」

 

 自覚して、この気持ちを受け入れる。

 今日一日付き合ってきた鬱屈した心情が、晴れていく

 これが恋か。これが、私の初恋か。……うん、これが私の初恋だ。私は、月村すずかは、恋をした。

 

 昨日までの少し不思議な関係は終わらせよう。お互いに名前を知らない、あくまでも知人であるからこその優しい空間は、穏やかな時間は、終わらせるには少々名残惜しくはあるがこのままでは先に進めない。

 まずは、そうだなぁ。自己紹介をしよう。私は月村すずか、あなたの事が好きな女の子です、と。

 彼は一体どういう反応をしてくれるだろうか。喜んでくれるかな。

 今の私は、そんな事を考えるだけでも幸せだった。

 

 

 

 そういえば、随分昔に翠屋へ行った時、彼の姿が見つからなかった日に一人で何時もの席に座っていたら士郎さんが昔を懐かしんでいるかの様な優しげな眼差しを浮かべながら、しょんぼりしているね、どうしたんだい? と声をかけて来た事もあったっけ。

 ……そっか、あれは士郎さんが自身の青春時代を懐かしみながら私の事を見ていたのか。結構前(三年かそこらは前だと思う)の出来事だった筈なのだが、もしかして士郎さんはその頃から気付いていたのだろうか。いや、あの人ならば気付いていてもおかしくは無いか。

 

 というか、その頃から『彼が翠屋にいなくてしょんぼりする』って、もしかして私は今こうして自分で思っている以上に彼の事が大好きなのではないだろうか。

 あれ? もしかして私、彼の事好きすぎる? いや勿論彼の事は大好きなんだけれども。

 

 □ □ □ □

 

 自分の恋心を受け入れ、気の向くままに彼の事を考えている内に、いつの間にか太陽が沈みかけていた。男の子の事を考えている内に時間がこんなに過ぎているなんて、初めての事だった。やはり、私は自分の思っている以上に彼の事が大好きらしい。

 

 そろそろ帰ろうか。いや、翠屋へ行って彼を探すのもいいかな。

 そう思い、鉄柵に預けていた身体を起こして振り返る。足元に置いておいた学生鞄を拾って歩き出すと、ぽつぽつと上から肌を叩く感触が伝わってきた。空を仰いでみるとさっきまで(と言っても時間を確認したら二時間以上も経っていたが)あれだけ晴れていた青空はどんよりと曇っていた。梅雨時の不安定な天候だし、仕方ないのかもしれない。

 

「雨、か」

 

 生憎と、今日は傘は持ってきていなかった。連日晴れが続いていたから今日も大丈夫だろうと思って傘を持たずに出て来たのだが、どうやら裏目に出た様だ。

 幸いなことに、学校から逃亡する際にそのまま引っ掴んだ鞄の中は濡れても問題ない程度の物しか入っていない。それに、気分もいいからこのまま歩いて帰ろうと思う。気温の高い時期だし、大丈夫だろう。

 

 雨に振られながら、海鳴臨海公園を出る。公園の入り口で少し立ち止まり、帰路を考えた。

 何も考えずに出てきたが、たしか此処からは家に帰るにしても翠屋へ行くにしても、反対側の出口に出た方が近かった気がする。

 

 恋の熱にでも浮かされたのだろう。何をやっているんだと笑いながら踵を返し、うろ覚えの記憶を頼りに、再び歩き出そうとした時だった。

 私の肌や髪を叩く雨粒が途切れた。不思議に思い、上を向いてみればシックな色合いの傘が雨を防いでくれている。一体誰が、と後ろへと振り向いて見ると――

 

 ――心配そうに私を見る、『彼』がいた。

 

 風邪、引いちゃいますよ? と何時か私が彼にした様に、まるで図ったかの様に、あの時と同じ台詞を言いながら彼は自然に私の右隣に並ぶ。私の方も、あの時の彼と同じようにお邪魔しますとだけ言って、どちらからともなく歩き始めた。

 隣に立って傘を持っている彼の左腕に(今回も少しだけ傘が私の方に寄っている)、抱き着いてみたいなぁ、という思いが生まれる。いや、これはきっと天がくれたアピールタイムなのだ。今ならば、彼の腕に抱きついても濡れない為に密着したという言い訳が出来る。寧ろ今しかないまである。

 覚悟を決めた私は、歩きながらそっと彼に近づき(と言っても一歩二歩近寄るだけだが)、何も言わずにぎゅっと彼の左腕に抱き着いた。彼が顔を真っ赤にして焦りながら何かを言おうとしているが、結局口を閉じて受け入れてくれたので気にしない事にする。と言うよりも、拒否されなかった事に嬉しさを憶え、それどころではなかった。きっと、今の私の顔も照れやら嬉しさやら乙女力(おとめぢから)やらで赤面している事だろう。

 

 顔を互いに真っ赤に染めた私達は、そのままゆっくりと歩いて行った。私も彼も何も言わなかったが、足は自然と二人とも翠屋へと向かっている。

 そういえば、あの時は会話は無かったな、と思いながら私は意を決して彼に話しかけた。

 

「『はじめまして』、私、月村すずかって言います。良かったら、私が恋してる、大好きなあなたのお名前、教えてくれませんか?」

 

 たっぷりと何秒もその場で固まった彼は、意味を理解したのかただでさえ真っ赤だった顔を更に赤く染め、空いている右手で顔を覆いながらあー、と唸っていた。

 そして、そこから更に待つ事数十秒。彼は顔を覆っていた右手を下ろし、私としっかり視線を合わせて口を開いた。

 

 

 

「――――――――――」

 

 

 

 こうして、私と彼の互いに名前を知らない不思議な関係は終わりを告げ、新たな関係が始まったのである。

 

 

 

 ちなみに、私が『はじめまして』を使った理由に彼はなんとなくであったが、気が付いていたとの事だった。




友人のなのは勢が当作品を指してこの小説面白いよってお勧めして来た所、それ書いたの私って言ったら「お前の様なゲスの極みみたいな奴が書ける内容じゃないだろ! いい加減にしろ!」って言われたからどついてしまった。私は悪くない。

思ったより評判が良かったので言っていた通り(私の考える)ラブ要素を突っ込んでみました。これが多分限界です(吐血

批評、感想で改善点などを強烈にツッコんでくださる皆様を大募集しております。改善点を大募集しております。(大事な事なので二回)ビシビシ叩いて行ってください。喜びます。

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