義の刃足る己が身を   作:黒頭巾

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反董卓連合軍
義の道


「籍やん」

 

「はっ」

 

涼州の乱が終わり、并州陣営には恩賞がくだされ、董卓ら涼州陣営は都に呼び出されて栄転を果たした。

 

その後一年続いた、ぬるま湯のような日常。

朝起きて、ぼーっとしているところに関籍が来て、抱きかかえられて机に座らされて、用意された食事を半ば無意識に口に運ぶ。

 

食べ終わったのを確認した関籍が食器を下げるために部屋を出て行った時に、やっと意識が覚醒。頬を羞恥に染め、戻ってきた関籍を何回か叩き、仕事に入る。

 

お昼頃に休憩時間が挟まれて、軽くご飯を食べてから午睡に入り、またもや恥ずかしい思いをしながらも午後の仕事を終わらせる。

 

これが夕刻までに終われば、関籍と平服で遠乗りに行けて、夜が更けるまで終わらなかったら夜酒に付き合ってくれて。

 

いつの間にか寝て、日は昇る。

 

そして、また朝になって。

 

こんなぬるま湯の日常が、嫌いではなかった。

 

「…………遠乗り、行こか」

 

まるで手のかかる娘でも見ている時の父親のような、優しげな表情で一つ頷き、関籍は馬の用意を終える。

 

最近の自分は、その表情を見る度に胸が痛んだ。

 

今は、痛まない。

別の件で傷んだ心に、水のようにそれは染み込んでいく。

 

「…………」

 

黙って馬を走らせた。

 

何も聞かれないし、何も言わない。だが、その沈黙は気不味くはなくて。

 

「何も聞かんのやな」

 

「聞かれたくなさそうな、ご様子でしたので」

 

武装は、腰に佩いた剣のみ。

身に鎧はなく、朝服もどきの青服と、黒服。

 

「文遠殿こそ、何も聞かれないのですか?」

 

「聞かれたくないような顔、しとったやんか」

 

河川まで駆け、降りる。

これも、いつものことだ。

 

乗ってきた自分たちは水のせせらぎを見て、乗られてきた馬たちは水を飲む。

 

何か変事があらば、この時に言うのが常だった。

 

「……行こか」

 

「はい」

 

沈黙のままでも、時は経つ。

水を十分に飲み終わってこちらにやってきた馬の頬を優しく撫でながら、張遼は言った。

 

遂に、言い出せなかった。

 

再び飛び乗り、駆ける。

股の締め具合で巧く馬脚を調整し、手綱には殆ど触れない。

 

卓越した馬術がなせる技だった。

 

「……なぁ」

 

ふと、こぼす。

答えは返らず、慈父のような眼差しがこちらに向いた。

 

続けばいいのにと、思う。

 

朝起きて、ご飯を食べて仕事をして、終わったらこうして遠乗りに来て。

夜になったら、一本だけお酒を飲む。

 

血と血のせめぎ合い。生命のぶつかり合い。意志の鍔迫り合い。

こうした戦いをこよなく愛す張遼からすれば、こうした想いは一笑にふす物だったはずだ。

ところがどうだ。今はその想いを抱えているのは自分であり、他者ではない。

 

「……何でもないわ」

 

自分からは、崩したくなかった。

また明日も続くかもしれないこの日常を。

 

自分が望んでいる、この日常を。

 

「文遠殿らしくもない話し方ですな」

 

その顔には、無理に作ったような笑みがある。

 

この日常を仮初めの物と知っているからこその、笑みだった。

 

「お悩みの内容は、檄文にしたためられた洛陽の内情が拙者が見聞きし、報告した物と大きく乖離しているからではありませんか」

 

「……そうや」

 

肯定を、返す。

仮初めの、繰り返されてほしい日常が、音を立てて崩れ去った。

 

檄文。洛陽にて専横を極める暴君董卓を討つべし、と。要約すればそのような内容である。

 

董卓の名が字の『仲穎』ではなく諱の『卓』で書かれていることに、その本気さが伺えた。

 

「世の謳う義は、檄文を発した側にあります。世に謳われる義を呑む物や、主を支えようとする一途な者、具体的な功績を挙げたい者はこぞって連合軍側につくでしょう。故に、拙者も軍人として提言させていただきます」

 

――――どうぞ、連合軍側につかれますように。

 

耳を疑う、言葉だった。

 

「……籍やん、あんたの言う『義』はその程度やったんか?」

 

関籍は、答えない。

 

「世の中の義と、『誠の義』は違うんやろ?」

 

関籍は、答えない。

 

「誠の義を、誠の信を!

どんな状況でも貫くっちゅーのが、関籍って男やろが!」

 

怒鳴った。

澱んだ川で見つけた、清涼な流れが汚された気がして。

 

そしてそれが、とてつもなく不快だった。

 

「拙者は軍人として申しました」

 

続く言葉が止まる。

関籍の手から、血が流れ落ちていた。

 

「恩を、情を。拙者はあなたから受け申した」

 

憤怒の気が身体から漏れ出すほどに、関籍の内は怒りが渦巻いていた。

 

「主に尽くすのが信であり忠、世の誠を為すのが義です。此度はそれが共に立ちません。義を通そうとし、主を死地に誘うは忘恩の行いです」

 

「誠の義に、背かせるのが信なんか?」

 

「世の民は誠の義を知らず。この場合の誠の義は後世まで汚名を残すことに他ならないのです。

拙者一人ならば、それも厭いません。しかし、大恩あるあなたに汚名を被せるわけにはいかない」

 

張遼は、糾弾の言葉を引っ込めた。

 

この男は、知っている。

今の行いに大義はなく、ただ欲にまみれた『不義』しかないということを。

 

大義はない。しかし、小義ならばある。

 

正しき者に、つくという道が。

 

しかしそれは、信に背く。自分を死地に陥れることになる。

 

関籍は、自分の何倍も悩んだのだろう。そして、自分を殺したくなるほどに憎みながら、下したのだ。

 

与えられた恩を返し、信を全うし、小義を捨てる決断を。

 

「関籍」

 

「はっ」

 

わざと軽い調子で、言った。

 

「戦力差って、どんくらいなんやろか?」

 

「……董仲穎殿は、都に来られるときに後任の涼州牧に軍旅を引き継がせています。一万から二万がいいところでしょう」

 

「敵は?」

 

「百万は確実かと。何せ、中華全てを敵に回すのですから」

 

笑った。全てを捨てる覚悟をして、笑った。

 

浪人になればいい。

馬鹿になればいい。

何せ、どうせ元々なのだから。

 

「なぁ、籍やん」

 

「はっ」

 

「ウチ、虐めっちゅーの嫌いなんや。量を揃えて頼りにして、弱者をさも悪であるかのようにしてなぶって、笑う」

 

「文遠殿―――」

 

目に悲壮感が現れ、素早く拝手し、跪く。

 

「諫言はいらん。ウチ、馬鹿やもん。小難しいこと聞いても理解できひんのや」

 

また、笑う。

日常を守って繰り返すために、この男を腐らせるならば。

 

「ウチ、馬鹿やから。并州牧の印返上して董仲穎につくわ」

 

呆然としている関籍を無理矢理立たせ、思いっ切り頬を張った。

 

「あんたも馬鹿。ウチも馬鹿。兵が馬鹿かは知らんけど、馬鹿なあんたはとりあえず馬鹿なウチに着いてこいや」

 

巨躯は動じない。

未だ何か、気が抜けている。

 

「わかったか、関籍!」

 

「はっ!」

 

再び拝手し、跪く。

 

腐った世の中で、ただ、流す涙だけが熱かった。

 

 

 

 


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