義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
「華雄殿」
「ああ、 関籍殿」
銀髪を所々血に染めた女傑に、黒き装束に返り血のみを浴びた偉丈夫。
共に戦陣に立ち、孫堅の首を逃がしたと言う悔しさを共有した二人は、顔を合わせるだけで意志が通じ合った。
「正面からは私が行こう」
「では拙者は、不意をついて首を狩りましょう」
率いる黒騎兵が四隊に分かれ、四方へ駆けて行く。
華雄は己の得物から滴る血を振り払うと部下の方へと馬首を返し、声高らかに号令をかけた。
「腰抜けの孫の後は、青瓢箪の袁を潰す!私に続け!」
返ってきたのは、大地を震わす大歓声。
華雄軍の士気は、疲労を押し返すほどに高かった。
大地を砕き、砂礫が舞う。
土煙を上げながら、華雄は連合軍の左翼と激突した。
最左翼は、潁川太守李旻である。
「李旻、覚悟!」
一瞬の、交錯。
酒を酌み交わして帰り、判断力の低下した凡将などは敵ではなく、金剛爆斧の錆びと消えた。
鎧袖一触。華雄軍の鎧の袖が触れた瞬間、だらけ切った李旻軍は壊乱の惨状を晒す。
「次だ!敗兵は追い打つな!奴らを盾にし、馬にしろ!後続の隊列を崩すのだ!」
敗走した兵を後続の陣を崩す尖兵にし、ただひたすらに突き進む。
一騎打ちに足る、武の将も居ない。華雄の進撃を阻める者は一人もいなかった。
「華雄!」
立ち塞がったのは、華雄と同じ斧を持った将。
「名は!」
「潘鳳!」
一合。火花が散り、同型の武器がせめぎ合う。
二合。どちらかの手が揺れ、押し負けた。
三合。横薙ぎに振り払われた金剛爆斧が、潘鳳の胴体を横に両断する。
「敵将潘鳳、華雄が討ち取ったぞ!」
途端、敵の勢いが目に見えて縮む。
豪の者、潘鳳の死が影響したのであろうが、華雄にはそんなことを考えている暇はなかった。
「懸かれ懸かれ!一息に圧倒し、揉み潰せ!」
掛かってくる勢いが、弱い。
右翼に、関籍の旗が見える。
その速さは電撃のように、その動きはひとつの生き物のように。
美しさすら感じさせる黒い獣の顎に、朱の旗が呑み込まれた。
続いて喰われた、王の旗。
最後に待つは、曹の旗。
自分の目の前には、劉の旗。
戦いの終わりが、迫っていた。
目の前で、友が死んだ。
自分を認めてくれた、男が死んだ。
黒い獣の、牙にかかって。
「何故あいつらは500足らずの兵を止められないんだ……!」
傍らに立つ夏侯惇が憤る。
三万の兵が500足らずに散々に打ちのめされ、乱され、踏み潰されて逃げてくる。確かにそれは怠慢だ。
「春蘭、構えなさい」
静かに、告げる。
「天下有数の武の将が、全身全霊を尽くして突破しに来るわ」
三万の壁が、破られた。被害の実数はそうでもないだろう。しかし、彼らは確かに目標を達成してきている。
王匡の牙門旗が地に堕ち、鮑信の首が宙を舞った。
もはや獣を阻む物はない。
自分を爪牙にかけたら、次に袁遺を。
そして、最後に袁紹を。
盟主を殺しに、来るのだろう。
「防ぎ切るわ」
誰に言ったのかすら、わからない。
唇が、水っけが完全に抜けきったようにからからに乾いていた。
そして、わかった。
突破されかけた箇所を補えば、別の場所に喰らいつく。
喰らいつかれた場所に援兵を差し向ければ、援兵が着く頃には牙は別の箇所に向かっている。
攻勢臨界点まで、待つしかない。
攻め続けている限りは、関籍の黒騎兵は無敵なのだ。反攻をしようとしても、別の場所が食い破られる危機に晒されるから絶対に後手に回る。
食い破られれば、本陣の袁紹の首が飛ぶ。
ジリジリと、兵だけが磨り潰されていく。
「曹孟徳だな」
そんな消耗戦で自軍が立てていた喧騒が、やんだ。
もとより黒騎兵は声を立てない。死ぬ時も黙って死ぬし、殺す時も黙して殺す。
ただ、関籍の声だけが。黒騎兵の中で響くのだ。
「そう言うあなたは、関籍かしら?」
「そうだ」
側に控える猛狼が、馬上より斬りかかる。
冷静沈着な賢狼が、その身めがけて弓を張る。
七星餓狼。餓狼爪。
二匹の餓狼の爪と牙は、黒い獣を揺らがすことすらできず、身から血を流させることすらなく地に堕ちた。
馬を両断され、剣を支えにして立っている餓狼と、その牙たる弓の弦を斬られて立ち尽くす餓狼。
「もし会ったなら、問いたいことがあったのだけれど」
腹心たる配下の牙を折られながらも、その動揺を悟られることなく。
曹孟徳は、口を開いた。
「あなたは何故、この戦いに董卓側として参加したのかしら?」
「恩をかけられれば犬でも報う。
欲にまみれて義を穢すは義に非ず。
虚偽を気づき糺さぬは誠に非ず。
無実を見逃し、友の窮地を救わぬは仁に非ず。
漢の大地を無為に震わし、無為に天下を騒がすは忠に非ず。
義を守らぬは、人に非ず。誠を守らぬは礼に非ず。仁を守らぬは道に非ず。忠を守らぬは臣に非ず。これら一つが欠けても、仕方のなきこと。されど、一つも守らぬは人に非ず」
「我、禽獣に非ず」
天を頒かち、地を震わす言に、神を思わせる激烈な威。
これほど凄まじい諫言は、他になかった。
「曹孟徳。今、拙者の友が死地にある。その首取るは、敵わぬ」
夏侯惇が、夏侯淵が、許楮が、典韋が、関籍から曹操を防ぐかのように立ちはだかっていた。
「さらば」
湧き上がる感銘を抑え、敵ながら見事な信義に拝手し、言葉を喉から絞り出す。
聞こえたのか、聞こえぬのか。
その背は、二度と振り返ることは無かった。
「華雄殿、無事で何より」
「そちらこそ」
横一直線に一転突破し、左翼方面の援護に来た関籍に、華雄は頬を血に染めながら不敵に笑んだ。
「いや、それにしても―――」
お主の妹は、強いものだ。
涙を流しながら、鷹の如き視線が関籍に向く。
「兄上。私は聞こうと思っていました」
檄文の真偽。出撃前に孔明が漏らした、可能性。
自分の心に迷いを生ませぬ配慮だったのだろう。如何にもそれは、人の機微を未だ読み切れぬ孔明らしい気遣いだった。
「しかし最早、何も聞くことはありません。敵となりても、私たちは道を違えてなどいなかった」
汜水関にて。
「私は、孔明を尊びます。義に非ずとも、彼女の信念の強さは兄上に負けません」
包囲された華雄軍を救出し、悠々と去っていく。
そんな兄を、越えようと思った。