義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
月夜。
張遼は、城壁の上に居た。
あぐらをかき、満月に向かって杯を掲げる。
杯の中には、透き通るように白い酒。彼女のお手製の一品であった。
「……うまいなぁ」
虎牢関。虎をも通さぬ、鉄壁の牢。
意地と虚飾を感じさせる名を聞いた時は、笑った。
城を守るは人に在り。いかな名城も守る人を得なければ容易く落ちるだろう。
―――内通者が、居る。
そう判断したのは、つい先程のことだった。
まず、汜水関。
押し寄せる連合軍と言う名の波を防ぎ続けてきた関が、落ちた。これは仕方のないことだ。何せ、元々最終的な決戦は虎牢関で行うつもりであり、汜水関には最低限の兵と兵糧しか積んでいない。
半年もの間持ちこたえたことが異常だったのだ。
しかし、その落ち方が問題である。
李儒。字は文優。賈駆と並ぶ董卓軍の軍師双璧であるこのキツネ顔の女の献策により、汜水関は落ちたと言ってよかった。
(駆け引き間違ったんなら、ええ。挽回も効くし、勝ち目もある)
しかしやはり、裏切っていたとしたら。
自分たちは、腹に敵を抱えたまま―――否。
最悪、背後と腹に敵を抱えたまま戦うことになる。
汜水関に、李儒。
虎牢関では、誰が内通しているのか。まだそれすらもわからなかった。
「――――ッ!」
城内から城壁へと登ってくる足音がして、飛び退く。
城内でも、誰が敵だか味方だかわからない。そんな恐怖が、この鋭敏な警戒の裏にはあった。
「文遠殿」
重厚さを感じさせる、声。
鋭敏に研ぎ澄まされ、不信の感情を落ち着かせるような、そんな不思議な魅力のある声。
聞き覚えのある、声だった。
「籍やん」
「はい。拙者です」
治療が、終わったのか。
少し脇腹をかばうように歩いているものの、傍目から見たらわかるほどの変化でもない。精々、足音が変なだけだろう。
回復力が高いのか、或いは医師の腕がいいのか。たった十数刻で、関籍はかなり回復していた。
「……よかったわ」
思わず、安堵の声が漏れる。
それを傷の回復を喜んだと感じたのか。静かに一礼し、そのまま立ち尽くす。
「……純やの、籍やんは」
「は?」
張遼が喜んだのは、傷の回復ではない。いや、確かに傷の回復も喜ばしいことだろう。個人的見地からしても、将としてもそう思う。
しかしこの場合の安堵は、『確実に内通の疑いのない将が側に居る』という方の安堵のほうが大きかった。
何せ、自分は余所者である。人格的に信頼の置ける者などはそうそう簡単に判断がつくものではない。
普段からその者を見てきたのならばともかく、見始めから内通している可能性もなきにしも非ずなのだ。
わからないと言うのが、この場合は一番怖いだろう。
自分と関籍と、呂布、陳宮、華雄。これらは内通者ではない。
だが、他の者共はわからない。
敵としても味方としても見られないのだ。
これが如何に恐ろしいことか。敵であらば裏切ることを前提に攻めたり守ったりを組み立てられるが、わからないのであればどうしようもない。攻めも中途半端になるし、迂闊に防御にも入れないだろう。
怪しい奴の目星はつくが、それはあくまでも目星。確定していない以上は、戦力として運用せざるを得ないのだ。
「隣、あいとるで」
「いや、拙者はここで結構」
「ウチが気にするんや。座ってーな」
別にそれほど気になるわけでもない。いつものことをいちいち気にしているほど狭量な女ではないという自負があったし、気にしているならばとっくにそう言っている。
ただ、側に来て欲しかったのだ。
「では」
拝手し、張遼の隣に腰掛ける。その動作に照れはなく、緊張もなかった。
何か話したいことがあるのだろうと、察したのである。
阿吽、とでも言うのか。
張遼と関籍はちょっとした所作や言動で、お互いが何求めているかがだいたい予想がつくようになっていた。
「……杯は?」
「無論」
あなたは戦の前に、決まって月の出る天を見上げる。
そして、緊張をほぐす為の酒を嗜む。そんなことが予想できていないと思っていたのか、と。
そう口外に言われた張遼は僅かに笑い、相方の杯に酒を注ぐ。
先程の自分のように杯を天に掲げる関籍を見て微笑み、自らの杯も天に掲げた。
「文遠殿に」
「籍やんに」
そう言ってから、飲み干す。
少し辛い、酒だった。
「洛陽にて連合軍の息のかかった者共の叛乱を抑えている賈文和殿から、『内通者がある』との書状がきましてな」
「……あー、そらすまんな。部屋におらんで」
大方の用事を察した張遼が済まなさげに口を開き、関籍は無言で頭を振る。
「ありえぬことです。耳を貸す程のものでもなかった」
少々不機嫌そうな、雰囲気。
人で在るは礼とともに在り、と言う思想にかぶれている関籍からすれば、これはありえざることだった。
一度恩を受けておきながら、不利になったからといって裏切るなどとは。
并州兵に半神が如く敬われ、或いは畏れ憚られた精神がその五体から噴出していた。
「そう言うこともあるんやで。誰もが皆そんなふうには生きられんのや」
半神の如く敬っているのが黒騎兵であり、危うさを悟ったのが青騎兵であり、畏れ憚ったのが残してきた并州兵である。
裏切るということを知らない。知ろうともしないし、あり得るとすら思わない。
どこまでも現実を見つめる軍人という種。それの典型である関籍の、夢想家の極地がそこだった。
裏切らない。最期まで死力を尽くす。忠を捧げたものへの盾となる。如何な命令も完遂する。
絶対的な忠誠と信義。この男の真の価値は圧倒的な武にも、戦を嗅ぎ分ける勘にもなく、ただその愚直すぎるほどに愚直な性根と誠忠にあった。
「あり得ぬことです」
「……認めーや」
「拙者は人を疑いたくはありません」
他人を、ではなく、人そのものを、か。
張遼がそう気づいたのは少し時間が経ってからだった。
他人を疑うまでは、否定はしていないのだ。自然な心の動きとして容認している。
ふとした拍子に、嫌疑をかけてしまうこともあるだろう。それは仕方ないと、わかっている。
だが、人が礼とともに在って生きねばならない生物であることを疑いたくない、と。関籍はそう言ったのだ。
「……選択肢の放棄は将として失格やで、籍やん」
「彼は恩をかけられました。恩をかけられたならば返すべきです。
人は禽獣ではないはずなのです」
穴、だろう。
殆ど戦時は無敵とも言える男の見せた、欠落。ここを突かれればあっさりと死ぬであろう、陥穽。
「……恩の軽重はどう量るんや?」
「恩の軽重は、かけられた側が量るものではござらん。しかも、平時ならば『恩を返した』と言って立ち去るのも許されるでありましょうが、ともかくこの窮地にておよそ人がなすべきことではないでしょう」
くぴり、と。
一口酒を含み、飲む。
もうこれは病気みたいなものだから仕方ないと、割りと早々に張遼は諦めた。
(ま、完璧な人間なんておらへんしな。欠けてるところはウチが補えばええ話やろ)
解決を諦め、次善に走ったのは正しかった。実際に人の固定された認識とは覆すのに時間のかかるものだからである。
平時ならばじっくりと変えていけばいい話だが、差し迫っている今は根本的な解決に固執することは悪手。根本的な解決よりも、その欠点を補うことを優先するほうが正しい。
「……」
「どうかいたしましたか?」
無言で立ち上がった張遼を追うようにして立ち上がろうとして、止まる。
「そのまま」
広げた脚の間に、神速の二つ名に恥じぬ速度で張遼が座り込んだからであった。
「動かんといてな」
命令で念押しされ、完全に関籍の回避行動が潰される。
まるで親子のような背丈の差は、座っていても変わらなかった。
「文遠殿。あなたは何がしたいのですか」
「何も?」
凭れると凭れられた側が相当痛いであろう髪飾りを外し、寝起きによく見られるような真っ直ぐに流した髪型に、張遼はなる。
無論、関籍と言う名の背もたれに凭れ掛かる為であった。
「では、言い方を変えましょう。拙者に何をしてほしいのですか?」
「今、この時だけでもええから側に居て」
明日、決戦。
誰もがそう感じていた。むしろ、目の前に静けさを保ちながら陣を張る連合軍が、そう感じさせていた。
―――出て戦う。
それが、李儒ら幕僚が決めた作戦であった。
汜水関が陥落したがために董卓の洛陽における治安維持能力が落ち、体制の維持が難しくなった。故に、出撃して戦い、一戦のもとに連合軍を撃退。勇名を以って治安の保持につとむ。
政治と軍事を混同した判断だった。
いや、政治と軍事は離れ得ないもの。両輪となって組み立てていかなければならない。
戦だけをしてもいけないし、政治だけでもいけない。即ち、折衷案が丁度いい。
が、混同してはならない。軍事は政治の一手段でもないし、政治は軍事の一手段でもない。それぞれが独立し、妥協していくべきなのだ。
政治一色で軍事の色を差し挟む余地がない。そんな判断では、折角目の前にまで手繰った勝利が消えてしまう。
「不安なのですか?」
「……せや、な。不安っちゃあ、不安や」
「拙者が文遠殿を一命を賭して守り抜きます故、心配は無用です」
耳元から少し上あたりで発せられた、鼓舞するような頼もしげな声。
陣羽織一枚を隔てて背中から伝わる案外と高い体温が、寒い外気から守ってくれていた。
「……頼りにしとる」
「光栄です」
甘いような、切ないような。
そんな空気をぶち壊すように、城壁へ一人の男が上がってきた。
「お楽しみのところ申し訳なく思います」
気配も何もない、穏行。
張遼の肩がビクリと跳ね、声のした方向に振り向く。
「張繍か」
「はっ」
皮肉気な笑み、黒い鎧。
それら二つがトレードマークな彼は、今は闇に溶けこみそうな黒い服に身を包んでいた。
「関籍様に会いたいと、訪ねてきているものが居ります」
「誰かな?」
「妹御も来ております故、恐らくは汜水関を落とした、劉玄徳かと」
決戦前夜に、敵軍の使者。
思いもよらぬことが、起ころうとしていた。