義の刃足る己が身を   作:黒頭巾

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人材充溢

「戯志才と申します」

 

眼鏡をかけた理知的な風貌の女性が拝手し、頭を下げる。

 

彼女の目の前にいるのは、上段に居てもそれとわかる巨躯の男。

 

「戯志才殿と申されるか。拙者は関籍と申す者でござる」

 

下目の者にも驕らない、か。

偽名である戯志才を名乗って拝謁した彼女―――郭嘉は、その人物眼を研ぎ澄ませた。

 

「拙者は寡聞にして戯志才殿のことは知らなかったのだが―――」

 

鋭い視線が、内面を探るように全身に注がれる。

不思議と彼女は、そうされることが不快ではなかった。

 

「中々の才媛であられるようだ」

 

自分の内面に何を見たのか。

そう郭嘉は問いたかったが、それはあまりにも性急に過ぎるというものだった。

 

「天下の豪傑にお褒めいただき、光栄に存じます」

 

再び拝礼し、頭を上げる。

 

眼には、鋭気。

されど視線は温かく寛容であり、巨躯がその身に纏う威をより高度なものへ昇華させていた。

 

(なるほど、これは天下の英雄ですね)

 

彼女の故郷である潁川にも、その武名は聞こえていた。

 

西楚の覇王、項羽の如き武勇を誇る北の番人。并州にその人ありと謳われた張遼の腹心の部下で、飛将・呂布に追随するとも言われる卓絶した武人。

 

同郷の荀彧などは『所詮は男が粋がっているだけ』と侮っていたが、彼女の見方は少し違っていた。

 

男でありながらその他を圧倒するその才覚で引き立てられ、生まれついての不利を克服したのだと。

 

高祖・劉邦が西楚の覇王・項羽に勝って以来、女性が天下に名を残す事例が多くなっていた。

否、今まで釣り合いが取れていた均衡が高祖・劉邦の勝利によって崩れた、とでも言うのか。

 

「戯志才殿は何処の出身であられるかな?」

 

「豫州が一郡の頴川、陽翟県の出身でございます」

 

関籍の立つ上段、その一段下に侍っていた白い眉が特徴的な女性と、白い眉の女性と顔の作りが似た男性が少し驚く。

 

潁川郡は、ここ数年来優秀な人材を数々排出していた名士の宝庫。

 

名士とは即ち、名声を持って天下に鳴らすその土地の支配の要になる人物。謂わば、戦が強くとも彼らの支持を得られなければその支配は長続きしないし、逆に戦が弱ければ名士たちは支配者を見放す。

扱いの難しい、その土地を治める君主の最大の懸案。それが名士というものだった。

 

その名士の宝庫たる土地出身の、主も認める才媛が荊蛮とすら言われた荊州くんだりまでやってきたのだ。

驚くのも仕方がない、というところであった。

 

(白眉……馬季常ですか。ならば隣の似た男性は―――馬幼常)

 

馬氏の五常、白眉最も良し。

潁川にもその名が届く俊英を、口説き落としていたのか。

馬幼常こと馬謖はまだよくわからないが、自信家な己の危うさを呑み込もうとしているように思える。

 

大成しそうもなかった大器を大成させるべく更生したのは、関籍だろう。

 

「戯志才殿。この二人は馬季常と、馬幼常。季常の方は督郵(郡内内政総括官)を、幼常の方は主簿(秘書)を任せている。

二人とも、中々の俊英でな。董幼宰・董休昭親子、費文偉、蒋公琰と共に拙者を補佐してくれる自慢の部下よ」

 

「いずれの方も名立たる名士たち……関将軍は人に恵まれているようですね」

 

董幼宰こと董和も、董休昭こと董允も、費文偉こと費禕も、蒋公琰こと蒋琬も、いずれも王叡には仕えずに世を静観していた名士たちである。

 

世は彼らを不義と罵ろうが、名士は冷静に世を俯瞰し、答えを出した。

張文遠と関籍は、真の義を貫こうとして味方の裏切りに敗れた真の義士であると。

 

何よりも帝の態度が、名士たちのその判断を濃厚に肯定していたのである。

 

その名士たちの評価が安定してきたところに、関籍が江夏にやってきた。

荊州名士たちは半ばからかいに、もう半ばは化けの皮剥がしに拝謁をしに行ったらしい、が。

 

(……誑し込まれた、と)

 

関籍からすれば『名士』とは上層階級の人々であった。無論、自分の名声など地に落ちているとしか思っていない関籍は最大級の礼儀と誠意を以って接し、その献策を素直に飲み下していったのである。

 

強烈な自尊心を持った名士たちにはその素直さが心地良かったし、何よりもその勤皇の念にあてられてじわじわと尊敬の意志を持ち始めていた。

 

結果、日和見を決め込んでいたり主を探してふらふらしていた名士が関籍の元に転がり込み、関籍は更に声望を得ることになる。

これは荊州・揚州・益州・交州に根を張ったに等しく、他の群雄が為せぬほどの強固な縦の繋がりを名士たちが自ら作り上げたのだ。

 

本来名士はその声望を以って主に並ばんとする、即ち横の繋がりを強要するものだが、関籍の無意識に培っていた名声と過剰な礼節、勤皇の志、我が身を省みぬ行動力が絶妙に配合し、史上類を見ぬほどに完璧な縦の繋がりを、名士その人が求めたのである。

 

関籍が名士を遇する余り自分の給料から色々差っ引いて使っていたことも、一度好意的な目で見た名士からしてみれば『金の使い方が下手な馬鹿』よりも『自分の身を裂いてまで我らを尊重してくれる義士』と見えたのだ。

実際関籍は『名士を具体的にどの程度遇せばいいかわからない』ということで華美になりすぎない程度の礼を尽くしていたので、後者の好意的な見方は強ち間違いでもない。前者の方が近かったが。

 

(見事な統治ですね)

 

不穏な分子は土地の顔役である名士と裏の顔役である侠が潰し、名士がつけあがりそうになったらその周りの名士が釘を刺す。

無意識的な自浄作用もあるとあらば、最早江夏は孫堅が取ろうが何だろうが、その統治に凄まじい抵抗を示すだろう。

 

何せ相手は名士。難癖つけるなら超一流な奴らの集合体なのだから。

 

(面白い方だ)

 

名声に劣らぬ実像と、その人柄で比類なき完全なる統治を行う。

 

本来ならばこんなに何回も攻められていては名士に見限られ、内通者も出るはずだ。

しかし、攻められる度にこの軍の結束は固くなる。

 

虎牢関で見た絶望を乗り越え、関籍が出した結論がこれだった。

 

「うむ。この江夏に来てから拙者の宝は増える一方だ」

 

何の衒いも打算もなく、蒼天の如き爽やかさで言い切れるのが美点だろう。

欠点は、人を信じすぎることか。

 

「ですが足りぬ物もお有りかと思われます」

 

「お気づきになられたか」

 

包み隠さず、虚勢もはらず。端からこの男は、嘘をつく気がないのだとわからざるを得ない反応だった。

 

「はい。関将軍を始め、その家臣団には名将猛将多く、内政においても清廉なる名吏が多くいらっしゃいますが、惜しむらくは外交と内政、戦術的成功を積み上げ、大局を動かす者が居ない、と」

 

「その通りだ。拙者もそのような軍の師が欲しかった故に名士の方々に我が師となっていただけるよう頭を下げて回ったのだが、一人も受けてくれる者は居らなんだ」

 

蒋琬殿や費禕殿は受けてくれると思っていたのだがな、と軽口を叩き、呼ばれた二人に身体が恐縮に竦む。

 

あの荊州一円の顔役とまで謳われたキレ者名士の意外な反応に、周りに侍る文官たちがクスリと笑んだ。

適度に張り詰め、適度に緩みながらも油断はない。

 

如何にも関籍の性格に染められたらしい家臣団だった。

 

「関将軍は西楚の覇王に例えられているとか」

 

「ああ。そうだ」

 

誇りもしないが、怒りもしない。

 

度量が、寛くなっていた。

 

「関将軍が項羽、張将軍が季布、甘都督が鍾離眛、周倉殿が桓楚、臧校尉が于英、郝都尉が周蘭だと致しますれば、これらを動かす范増たる人間がいません」

 

「そうだな」

 

「僭越ながら、この私にその役を仰せつかりたく存じます」

 

郭嘉がこの『項羽の如き』と謳われた男に仕えたいと思ったのは、反董卓連合軍の前哨戦たる、陽人の戦いを見たからだった。

 

最初は、興味本位。

圧倒的な多対一で、如何にして勝利をもぎ取るかを己に頭で考え、研ぎ澄ますために彼女は高台で陽人の戦いと呼ばれる急襲戦を見ていたのである。

 

負けるだろうと、思った。数とは、策と戦術によってのみひっくり返すことができるのだと、軍師たる彼女は信じていたからである。

 

ところが、違った。

 

両腿で馬の腹を締め、岩石を山から突き落とすかのように彼は原野を疾駆する。

乗馬の所為なのか。後に続く黒騎兵すら引き離し、凄まじい速さと勢いをもって単騎で突っ込み、前後左右の兵の首を飛ばした。

 

僅かに崩れた箇所を補填する間もなく、黒い雪崩が必死に後へ続く。

瞬く間に将の首が偃月刀の錆びとなり、数倍の敵はあっという間に潰走した。

 

勿体無い。

 

そう、思った。

 

奇襲が成功した。今、将の首も飛んだ。

投降を呼び掛ければいい。そうすれば敵は抵抗の気を捨てて服するだろう。

 

しかし、そのまま黒い騎馬が前衛を断ち切り、更に突撃した。

 

関籍が、軍なのだ。

 

傍から見た彼女は、咄嗟にそう理解した。

黒騎兵を軍にしているのが関籍であり、軍そのものが関籍である。

黒騎兵は疲れを知らぬが如くその背に続き、第二陣の将の首が飛ぶ。

 

赤い軍を黒が切り裂き、青い軍をも黒が閃光のように駆けただけでたちまちの内に切り裂かれる。

 

軍たる関籍と黒騎兵と華雄が去った後も、郭嘉は身体の内から湧き出すその気持ちを抑えられなかった。

 

彼女は、嫉妬していたのである。

 

こんな将を動かせる立ち位置に在る、李儒に。

 

「……生まれついての軍師たる者は、優勢になれば果敢だが劣勢になれば裏切る、と言う印象がある。

戯志才殿は、どうか」

 

「恐れながら」

 

喝ッ、と。

軍師たる彼女の誇りが咆哮した。

 

「軍師たる者は圧倒的な優勢に在って驕りを抱かず、圧倒的な劣勢に際してその脳漿を滾らせるものです。劣勢に際して裏切るなど、軍師を名乗るに痴がましい無能かと存じます」

 

「ほう」

 

「軍師なんてものはどうしようもなく戦が好きで常に頭の中ではまだ見ぬ敵とまだ知らぬ過酷な戦を戦っているもの。それが具現化したあの戦いでその死力を尽くさず勝利を手繰らず、巡らすは醜き命乞いのみ。そんな者と私を同じくして見ていただきたくはございません」

 

敵にするは、天下の英才。

敵にするは、天下の英傑。

敵にするは、天下の兵。

 

一歩も引けぬ、背水の陣。

 

「そんな戦で心躍らずしていつ踊らせるというのですか」

 

「なるほど。拙者が軍師というのものを見誤っていたようだな」

 

雄偉な身体が曲げられ、白い頭巾が風に靡く。

 

「すまなかった。どうか、軍師として拙者の夢の力になってはくれないだろうか。戯志才殿」

 

「身に余るお言葉、この戯志才―――否、郭奉孝。謹んで軍師の任を拝命いたします」

 

偽名を使っていたことを呆気なくバラし、覚悟を決めて拝命する。

 

郭嘉が己の生涯を賭ける主が、今決まった。

 

 

 


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