義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
「賑わっとるなぁ、籍やん」
「はい」
君主の自覚が出てきたのか、或いは荊州牧と言う立場を関籍が呑み込んだのか。
嘗てのように斜め右後ろを着いてくるのではなく、関籍は自然に隣を歩いている。
張遼としては、それだけでも自分の案じた一計が成功したというものであった。
「文遠殿は変わりませんな」
「ん?」
簡易に設置された店で軽食を食べ、サラリと胃の腑に流し込んでから、関籍は言った。
「籍やんも初めて合ってからなんも変わっとらへんやん。ちっと髯が綺麗になったくらいなもんやで」
「いえ、外見ではなく」
湯を飲み、爵―――小さな器。主に軽食用に使われる―――を店主に返し、立つ。
自然と張遼は後に従うように動いていたし、関籍はそれを無意識に受け入れていた。
阿吽の呼吸というものが、これほどしっくりくる二人もないだろう。
「近頃内面が劣化しつつあるように感じ申す」
「例えば?」
「有為の人材を予感のみにて嫌悪を抱き、危うく見誤るところでした」
相手に、疑心を抱く。
人として当然の反応だが、関籍にとってはそうではなかった。
基本的に信頼を寄せ、その能力を見定め、その者に相応しい役職につけるのが関籍流である。
裏切られると一手で詰みかねない危険性はあったものの、度々あったその危機は周りが何とかしていた。
「……まあ、当然やろ」
「何がですか」
「疑ったり、嫌ったり、好いたりすんのが人間や。こう……籍やんも人になってきたんやろ。人じゃない奴に人は治められへんしな」
拙者が今まで人ではなかったとでも言うのですか、と言いたげな関籍をチラリと見て、ため息をつく。
彼女からすれば、李儒ら三人の裏切りであれだけ酷い目を見て変わってないほうがおかしいと思っていた。
人は、体験して学ぶ生き物なのである。変わらないことはありえないし、変わらないことは進歩しないという意味で悪である。
関籍は―――滅多にしないものの―――疑うことを覚えて、人の君たる人格へと成長をしていると言えた。
まあ、呂蒙とは宿命的な因縁があるからこそそう感じただけだったのではあるが。
「……文遠殿」
「あん?」
「ありがとうございます」
何に対してかはわからないが、関籍は礼を言った。
それは自分の隣にいてくれる人への感謝だったのかもしれないし、人の主へと変わっていく自分を肯定してくれたからかもしれないが、ともあれ張遼は頷いた。
悪い気はしなかったのである。
「文遠殿は拙者の悩みを見切って、民情調査に誘ってくださったのですか?」
「いや?」
執務室を訪ねてきた時には既に持っていた酒を杯に注ぎながら、張遼は少し快活さを収める。
元々竹を割ったような爽やかさを持つ彼女だからこそ、僅かな憂いも非常に寂しげに見えた。
「ウチもまあ、寂しかってん」
確かに、そうである。
関籍もまた口には出さなかったものの、それと同じくらいの心細さは感じていた。
荊州牧に会うには、軍事総責任者とは言えども面倒な手続きを踏まねばならないし、気軽にからかったり話したり馬鹿やったり遠乗りに行ったりはできない。
身分が上がり、雄飛した分、失うものもあったのだ。
「……忘れられたんやないかなーって、思ったこともあったしな」
「忘れはしません。ありえぬ事です」
「でもまあ、ウチからしたらそう見えるわけなんよ。接点も少なくなってもうたし」
張遼は、竹を割ったような性格である。快活であり、爽やかな気性を持っていた。
基本的にどこにでも馴染むし、非常に庶民的なところもあるから領民にも兵にも慕われている。つまり、本人の性格と相まって到底孤独を感じる環境にいるとは見えないのだ。
実情は、どうあれ。
「なあ、籍やん」
「はい」
「ウチの真名、受け取ってくれへん?」
真名。そのものの誇りであり、存在そのもの。勝手に呼べば無礼討ちをされてもおかしくないほどに、神聖なもの。
「拙者に預けてよろしいのですか?」
「元々いつかは預けようとは、思っとったんやけどな。今が潮やと思うんや」
張遼が真名を預けた相手は、居ない。厳密に言えば親が居たが、それは預けるというよりは『知っている』という感じだし、なによりも両親ともに死んでいた。
「霞って書いて、しあ。籍やんの占いは当たっとったで」
「……霞、ですか」
その音韻を味わうように呟いた関籍の声を聞いた瞬間、張遼の肩がピクリと跳ねた。
いつも呼ばれるときは敬称や役職が付いており、関籍に呼び捨てにされたことがない彼女にとって、これは物凄く、恥ずかしかったのである。
「そ、そや。遼から生じて『はるか』に転じて、『霞』。よろしゅうな」
「はい。霞殿」
死ぬほど甘い。
そして、切ない。
剥き出しになった本質を好きな男に丹念に見られているような感覚が、張遼の全身を包んでいた。
「ぬぁー!」
奇声をあげ、張遼は突如として走り出す。
恥ずかしくなって逃げてもお代はきっちり置いていくあたりに誠実さが見え隠れしていた。
「あ、霞殿!」
そしてこの関籍も、きっちりお代をおいて口笛を吹く。
自分の足では神速を謳われた張遼に追いつけはしないことを、この男は冷静に判断していた。
それでも追い縋って走りながら、半刻に満たぬ、僅かな時を経て。
「よく来た、馬!」
襄陽の城から、関籍の愛馬が駆けてきた。
走る速さを全く落とさず、自分と馬が並んだ瞬間に手綱を掴んで一息に乗る。
最早曲芸に近い技術であった。
「馬、霞殿を追え」
誰?とばかりに目で疑問を訴えてくる馬の頬を優しく撫で、関籍は慌てずに補足する。
「文遠殿だ」
言った途端、馬の駆ける速度が大幅に加速した。
しかし張遼も速い。傍から見ればもう、馬に乗るより自分で走ったほうがいいんじゃないかと思うほどの速さだった。
田の並ぶ野の真ん中に通った道を、景色など見る間もない二人と一匹が疾駆する。
ちょっと異常な光景であった。
「掴まえましたぞ、霞殿」
疾駆すること三刻。達成感に頬を緩ませながら、関籍は猫でも捕まえるように張遼を捕獲する。
いや、捕獲しかけた。
「恥ずかしいんじゃ、ボケ!」
地に足を付け、勢いを一気に減衰。減った勢いが発生させた反動を利用し、蹴る。
関籍と馬の体重は、千斤(二百キログラム)を超えていた。
それを、蹴る。
「ぬぉ!?」
雑兵ならば突進のみで鎧ごと踏み潰せる関籍の愛馬の馬は、揺れた。
体勢が崩れたとも言っていい。こんなことは馬も関籍も未体験であった。
張遼は、強い。
特に逆境に恐るべき力を発揮して、戦況を卓袱台の如くひっくり返せる将であった。
言い換えれば、火事場のクソ力だろう。彼女はその能力を、遺憾なく発揮して関籍の手を振り切った。
最早田園はなく、荒れ地。襄陽から何百里離れたかもわからない。
一言で言うなれば、張遼の体力の限界が迫っていた。
「霞殿ー!」
「か、堪忍!堪忍してぇな!」
速い。下駄の鼻緒が千切れるか、体力が尽きるかしないと止まらない神速の暴走張遼は、遂に体力の限界によって地に伏した。
対して、関籍と馬はまだまだ元気である。
僅かに速度を緩めながら近づき、またもや猫を掴むようにして馬上に攫った。
汗に濡れた肌が艶かしく、上がった息が蠱惑的に響く。
ほんのり上気した肌もまた、彼女の魅力をかき立てていた。
「……何故、逃げたのですか」
「…………現実から、逃げたくなってもうて」
腕の中で火のような暑さを持ちながら息づく女に、関籍は静かに声を掛ける。
馬ごと自分を蹴飛ばした力がどこにあるのかと思うほどに、その身体はしなやかではあったが、華奢だった。
「呼ばれるのが、嫌やないんや。せやけど無性に恥ずかしゅうて……」
「……ではやはり、文遠殿とお呼びしましょう」
「嫌や」
我儘な女性だ、と思った。
関籍は真名を預けられて初めて、張遼を将としてでもなく、友としてなく、一個の存在としてみていたのである。
「文遠殿。拙者の真名は翼です」
「はぃ?」
何でもなしに、言い放った。
「翼です。諱とは関係がありませんが、名全体で意味を為す真名です。
翼と、時々はお呼びください」
まるで恋人か何かのように帰還した二人が、荊州の民の噂の元になったのは言うまでもなく。
民情調査ができなかったこともまた、言うまでもない。