義の刃足る己が身を   作:黒頭巾

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和名にすると、山田霞。




今項羽

「霞殿」

 

「なんや、翼?」

 

周りに誰もいない、二騎のみでの偵察行動。

黒青両騎兵の野営準備を周倉に任せ、戦勝気分に浸る間もなく、二人は荊州の黒土の上を駆けていた。

 

「真名という物は、難しいものですな」

 

「せやなぁ……并州はそこんとこも古めかしいさかい、面倒なことになってんやろなぁ……」

 

真名。諱より尊ばれ、忌まれ、史書にすら記されることがない己の本質を示す物。

 

都では平気で己の真名を一人称にしたり、不特定多数の前で言ったりするらしいが、并州では違っていた。

 

「……契り交わしたもん同士やもんな。男女間の真名交換は」

 

「はい」

 

青騎兵と黒騎兵が僅かに浮かれていたのは、自分たちが真名を交換し合ったことがバレたからだと、この二人は察している。

 

原因は無論、尊敬し、敬愛する女性から真名を預けられた嬉しさのあまりいつもよりほんの少し慎みを忘れて連呼した関籍にあった。

 

「契りなど交わしてはいないというのに、世間というのは勝手なものです」

 

「せ、せやな。まだ早いやろし、な」

 

「早い遅いの問題ではありますまい」

 

器用に片手と両腿で馬を御しながら丹田の辺りを空いた手で擦る張遼に気づかず、憮然とした様子で関籍は言う。

 

いつになく顔を赤らめ、いじらしく柔らかな皮下脂肪にくるまれた下腹に手を当ててしまった張遼を一顧だにしていなかったり、気づかなかったりするところは最早安定しているとすらいえた。

 

「ここ一帯にはいないようですな、文遠殿」

 

「うーん……もう南郷郡の南部らへんには居らんのやろか?」

 

女としての『霞』から、武将としての『張遼』へ。

すぐさま気を取り直しすあたりは、さっぱりした気性の彼女らしかった。

 

西の宜都に関しては、郝昭が自身で縄張りした長大な要塞に篭もり、防衛しているから問題はない。そもそも小城でも郝昭を篭らせれば半年は保つと謳われるほどの守城戦―――寧ろ、防衛戦の名手。それが太鼓判を押した要塞に自らが引き篭もっているのだからまず大丈夫だろう。まだ益州の劉焉は動いてはいないことであるし、こちらに援軍は必要ない。

 

義陽方面は袁術軍二十万の攻勢に幾つかの城を失いながらも馬謖直率の騎兵がいくつかの補給路を絶ちつつ奇襲と夜襲を駆使して抵抗し、真綿で首を絞めるようにじわじわと削っていっている。

 

馬謖は関籍や呂布と言った種族が得意とする、戦術を武で引っくり返す力技はできない。

 

五倍までなら正面切って絶対負けない張遼のような用兵もない。

 

しかし、安定した用兵と奇抜な戦術、中堅の武を持つ一線級の将。十代とはいえ侮るべからず。次代を担う秀才である。関籍らが援護に赴けば負けることはない。

 

江夏に攻め入った孫策軍には精気がなく、ただ長々と対陣するだけ。七万と言うのは呼称であろうという疑いが濃厚だった。

 

問題は司隷方面から発した、南陽に攻め入った軍団。

彼女らは宛城を郭汜率いる弘農一帯の軍兵に囲み、李儒が補給路を甬道―――壁で天までを囲み、重要な区画に小型の要塞を作った補給路―――によって確保し、李傕が荊州の内地へ騎兵の機動力を活かして攻め込んでいた。

それを関籍ら野戦兵力が野を駆け回って撃殺してまわり、草でも刈るかように一小隊をたちまち壊滅させてしまう。

 

真綿で首を絞めるようにではなく、岩を刃で端から破断していくように李傕軍は削られていた。

 

「今は南郷・南陽の戦線は安定しています。疾く義陽に参りましょうか」

 

「……せやな。義陽戦線は色々押され気味っちゅー話しやし」

 

李傕軍が南陽北部に逃走したと思われる以上、義陽・南郷・南陽の三郡の境にいる利を活かさねばならない。

義陽北部が袁術の手に落ちているのは仕方ないが、取り返すとまではいかずとも一回強烈な一撃を与えておいて、進撃を止めておきたいのだ。

 

「では、今夜は野営して払暁に進発。馬謖と張任と合流、袁術軍を叩きましょう」

 

「さーんせい。ウチはどこまでもあんたに着いてったるで」

 

関籍の目がちらりと張遼を捉え、すぐ逸れる。

 

張遼は平時の矢避けに代表されるような視線察知を発揮せず、珍しく向けられた視線に気づかずにいた。

信頼しきっているから全く警戒心を抱いておらず、よって視線にも気づかない。

 

無防備無防備と寡黙な関籍が口喧しく忠告する隙が、そこにはあった。

 

(……今項羽)

 

底意地の悪い、己の武勇に冠された渾名。

太祖の宿敵の、姓と字。

 

今上に在る、西楚の覇王。それが渾名に籠められた意味だった。

 

(歓迎はされまいな)

 

虎牢関で一気に広まったその名は、最早収集がつかぬまでにこの中華全土に広まっている。

 

洛陽におわす帝も、天下の逆賊の名を冠する男を良い目では見ない。

帝はそう見ずとも、宦官外戚がそう見るだろう。

そういう半ば確信じみた勘が、関籍にはあった。

 

その勘を目覚めさせたのは正反対の意見を持つ魯粛であり、その他の幕僚が盛んに行う古典の引用である。

 

功臣は三族含めて処される例が、多いのだと。

 

(巻き込むようなことはあってはならん)

 

無意識に、馬脚を急がせる。

黒い、馬。

 

項羽の馬は烏騅。騅とは葦毛の一般名詞だから、黒っぽい葦毛の馬、と言うことになるか。

 

「烏、か」

 

しなやかな筋肉のついた首筋に手をあて、撫でる。

 

何?とばかりに馬が―――否、烏が振り向き、僅かに馬脚が緩んだ。

前を見ずに走るが故に、急制動の利く速さに調節したのだろう。

 

馬、馬と。呼んできたが、ここらで名をつける時だ。

 

「お前の名は、烏だな」

 

黒い。

濡れた羽根のような、しっとりとした黒さ。

 

「黒いから、烏だ」

 

呂布は、赤兎馬という馬に乗っているらしい。

全身が光をうけると赤に煌めく稀代の名馬。

 

董卓軍にいた時に、その赤兎馬と張り合って共に呂布と刃を交えたこの馬こそ、色を名にするに相応しい。

 

赤兎馬が八尺なのに対し、こいつは九尺なのが釣り合わないところではあるが、背丈的には丁度いいだろう。

 

人語を介したのか、喜びに嘶く烏の鳴き声を裂いて、関籍の耳にいつも聞いている声が届く。

 

「ちょい待ちや!」

 

後ろからも、黒い馬。

黒捷。こいつも巨馬だった。

 

六尺程の物が殆どの中華の馬と比べても、関籍と張遼が鮮卑から強奪した黒馬二頭は群を抜いて大きいのである。

八尺と少し。赤兎馬より僅かに大きく、烏より小さい。

 

彼は乗りこなせてはいなかったが、関籍の唐竹割りの犠牲者二号こと和連の持ち馬である。

因みに関籍の馬は左賢王という役職にあった者が新たに産ませた駿馬だったらしい。

 

「なんですか?」

 

「無愛想やのー、自分……」

 

「はい」

 

人馬一体、と言うのか。

一応つけている手綱も鞭も要らぬとばかりに腿だけで自在に操る二騎の武者は、騎馬を変幻自在に駆る遊牧民族ですら驚嘆するほどの腕前だった。

 

「拙者は無愛想な男です」

 

「うん、知っとるで」

 

猫のような悪戯っぽい笑みを満面に押し出し、更なる言葉を封殺する。

 

純粋に、敵わない。

 

関籍は無愛想を装ったりだとか無視とかで距離を置こうとした自分の目論見が水泡に帰したことを悟っていた。

 

「折角の遠乗りなんやから、ほれ」

 

「遠乗りではありません、偵察です」

 

「ならほれ。全速力だすと遭遇戦の時に疲れてましたーみたいなこともあるかも知れへんやろ?

ゆっくり行こや。な?」

 

温かいと、感じる。

身体から滲み出ているのだ。そういう、包み込むような温かさが。

 

「……そうですな」

 

「素直で宜しい」

 

騎馬が寄せられ、いつものように背が何回か叩かれる。

 

勇気のような、元気のような。

戦いにも生きるにも必要な何かが、一回ごとに充満したように感じた。

 

「ほな、行こ?」

 

馬脚を急かせ、前に出る。

ひょいっと馬上から水平に手が差し伸べられ、からかうようにひとつ笑った。

 

「……全く、あなたには敵わない」

 

「なんや、唐突に?」

 

肩をすくめるという関籍らしからぬ茶目っ気を含んだ行動がおかしかったのか、張遼は真顔で目を白黒させる。

 

内面が屈折した自分にも素直に可愛いものだと感じさせる反応に、関籍は笑った。

 

魯粛や何やらにくどくど危険性を諭されてから、久しぶりに笑えた気がする。

張遼は、変わらない。

清涼な風が吹き抜けるあの草原を無心に駆け、鮮卑と戦っていたあの時の心を、張遼は思い出させてくれた。

 

「霞殿は人誑しですね、と。そう言うことです」

 

何故、戦えば戦うほどに縛られるのか。

何故、無心に漢を尊び、戦っていたあの頃に戻れないのか。

 

辛い。

 

身は惜しむ気は、ない。

己が斬られるならば、それもいい。

 

(……霞)

 

呼び捨てなど、口にするなどできるはずもなく。

 

ただこの人を、失うことが怖かった。

 

「……あんな、翼」

 

「はい」

 

「ようわからへんけど、何か辛いことあるんか?」

 

死んでも弱みは見せない。

 

死んでも弱みは見せたくない。

 

唯一弱みを察してくれる相手に、この意地を張らざるを得ない己が在る。

 

「全く」

 

信じた者に裏切られるのが怖い。

 

少しずつ染み込む毒のように、主の身を案ずるあまりの臣下の言葉が関籍の心に巣食っていた。


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