義の刃足る己が身を   作:黒頭巾

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孤軍

「……動かんな」

 

荊州、江夏。

二万の兵と二万の水軍。関籍も含めた全将の中でも一番多量の軍兵を預けられた甘寧は、対岸にはためく『孫』の旗を不審気な目で観察していた。

 

号して七万。実数不明。将旗は『孫』――――即ちは、孫一族の誰か。

そして、周泰率いる防諜部隊も居ることは確かだった。

 

(江夏は抜かれる訳にはいかない。が、これだけの遊ばせているわけにもいかない)

 

袁術と組んで雪崩のようにかかってくると思われたからこその、この配置。今も戦端の開かれていない西部戦線から後続の兵たちが補充に来ている。

 

「……文仲業」

 

「はっ」

 

「兵五千を江陵に送ってきてくれ。奴らは恐らく―――」

 

徹底した防諜に、不気味にはためく『孫』。

 

「―――張子の虎だ」

 

そう憶測でわかっていても出る訳にはいかない。もし万が一、襲った陣屋が空であり七万がその周りに伏せていたならば、江夏は落ちてしまうのだから。

 

いやな手だった。こちらの行動を封じ込める、最善の手。

 

(周公僅……)

 

周瑜の智略には軍師も一目置いている。

関籍がポツリと漏らしたそんな言葉が、甘寧のさらなる警戒心を呼び起こしていた。

 

城壁の上から見る景色は、一月前と変わらない。

旗が規則正しく立ち並び、巧緻な陣地が柵とともに構成され、中央では孫家の士官が兵を鍛えている。

 

「……わざと見せている可能性も、あるな」

 

それ以外に低地に陣取る理由もない。わざとこちらに陣の作りを見させることで奇襲を誘発させるつもりか、或いはこちらの警戒心を煽って戦線を硬着化させるつもりなのか。

 

周の旗は、そこにはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………分けた?」

 

「はい。関籍率いる一万の騎馬軍は張任率いる五千と合流した後、張遼騎兵五千・張任が弓兵歩兵の複合部隊五千を率いてそれぞれ村に略奪を働いている李傕軍の二隊を撃破しに向かいました。関籍は陣地を構築、兵を休ませている模様です」

 

帰ってきた斥候の言上した情報をゆっくりと噛み砕き、声色を確認し、顔を確認し、飲み込む。

 

「……百十五勝一敗の勇将も、遂には油断を見せたか」

 

周瑜は諜者の前だということも忘れて、呟いた。

大小様々、隙あらば攻めてくる異民族を迎撃すること九十勝、逆侵攻して斬獲すること十勝。百勝無敗を誇り、中原に出てきて更に二勝、その後一敗。

 

その後も幾度となく苦渋を舐めさせられてきた孫家の大敵が、今初めて油断した姿を晒している。

 

それが自分の誘導によるものだとしても、だ。

 

(……これが釣りだとしても、次に繋げる戦略は組んだ)

 

潰す。今度こそ首を上げ、先代や戦に散った数多の将士の骸に報いる。

 

「軍議を開くよう、袁術―――袁豫州に言上する」

 

「ハッ!」

 

自らのもたらした情報が、孫家の大敵打倒の大きな一助になることを喜んでか、諜者の顔が喜色に染まった。

 

幕下の者に目の前の諜者に褒美を与えるように指示し、袁術の天幕へと赴かせる。

 

断金の盟友たる孫策は、居ない。

諜者の頭たる周泰も、居ない。

 

「周公僅様!軍議を開く儀、了解とのよし、急ぎ本陣へと参られるようにとの袁豫州牧のお言葉でございます!」

 

心の欠片が失せるような喪失感と、それに乗ずる不安感。

二つの負の感情に苛まれながら、周瑜は一つ頷き、歩きだした。

 

歩く内にも、思考を巡らす。

ただ一人の人間を殺すための大戦略。ただ一人を核とした精強な軍と、一際光彩を放つ将。

 

「……周公僅。参りました」

 

無言の圧力の歓迎に無言で頭を下げて返礼し、用意された椅子に座る。

 

「一人だ」

 

どよめく者は、一人としていない。

 

「ただ一人を殺せば、我らの勝ちは決まる」

 

「……そうだ、な」

 

精悍な顔立ちに、光を受けて輝く純白の衣。

 

劉備の名代として、時の御使いがそこには居た。

 

背後には、関羽。虎牢関で関籍と互角に戦った智勇兼備の将。

 

残酷な物だと、周瑜は人事のように思った。

人事ではあるが、親身になりかけている、と言うのが正しいのだろう。

 

これは謂わば、自分が雪蓮――――孫策を討つ為に策を巡らすようなものなのだから。

 

しかし、聞かせないよりも聞かせることを選んだ判断は立派だろう。

呑み込めるかどうかは、関羽の器次第だという賭けではあるが。

 

「敵は」

 

敢えて、そのような言い方をした。

 

名を言うよりは、関羽の負担が少ない。

敵と言えば、人としての将と立場とを断つ無機物的な風韻が紛れ込んでいた。

 

「五千の兵と共に南陽に在る。これを全軍をもって叩く」

 

叩かねば千載一遇やもしれぬ機会を逃すことになり、有力な同盟者である李傕ら三人の援護をも失うことになる。

 

「二十五万で、五千を?」

 

「異議でもあるのか、御使い殿」

 

「いや……野戦だよな?」

 

無言で、頷いた。

数の利を活かせ、速攻で首を挙げられるのは攻城戦よりも、野戦だろう。

最終的には攻城戦になりうるが、未だその時ではない。

 

「野戦のつもりだ。予定戦場も既に用意してある」

 

こちらの背後―――即ち前方に峻険な山地と麓の間道を、退路に斜道。

大地を彫刻したかのような珍妙な地形に、関籍は陣幕を置いている。

 

「野戦か……」

 

「何か?」

 

「いや……多分俺は、この中で一番『知識として』敵を知ってるんだけど」

 

経験ならば、孫家だろう。

恐怖としてならば、袁家だろう。

ならば、知識としてならば。

 

「先見か」

 

「ああ」

 

先見によって知った攻略法で、戦略は立ててある。

無論先見の信憑性を信じて鵜呑みにしたわけではない。確かに、と頷くところがあったが故に戦略に組み込んだのだ。

 

即ち、この『時の御使い』の一言は、聞く価値がある。

 

「野戦にかけては右に出る者なしってのが、同時代人の認識だったみたいなんだ。奴を殺す道程においては、曹操も孫家も兎に角野戦を避けて戦ってる。実際のところはこの世界では一敗したけど、知識では最期の野戦でしか負けてない」

 

「誰に?」

 

「張遼。嘗ての盟友に初めて負けを味わわされて、都尉三人と将二人と五百人くらい斬って満身創痍になったところを、介錯みたいな感じで初の敗北と共に首を落とされたんだ。六十二歳の時に」

 

「……六十二歳まで活躍なさるとは、流石兄上」

 

信じがたい享年に、思わず黙りを決め込んでいた関羽の口が開き、すぐさま周囲の沈黙具合を見て慌てたように口をつぐむ。

 

敵陣営になっていても兄の活躍となると喜色を隠せない関羽に目を瞑り、無言で先を促した。

 

「……この時の戦力差が全体的には魏呉連合の五十万とか六十万とかで、削りに削られて二百倍とか。張遼との戦力差なら等倍」

 

「……で?」

 

「……二百倍で負けたんだけど、五十倍までなら対処出来た実績があるんだ。ここではないみたいだけど、呂布軍時代に」

 

五十倍。全滅させようとしたら一人が五十人殺さねばならないという不可能な値。

 

「どうやって?」

 

「『白乳のような霧の中、払暁と共に関公が切り込み、それに呼応して張遼が攻め込んだ。曹操軍を撃ち破ること百里に渡った』っていう記述しかないからわからないけど、多分奇襲―――それも、張遼と共同で。張遼が呂布に魯国の相に任命された時だから、張遼が二十八歳で、敵は四十歳、かな。

五十万対一万。曹操の珍しい一方的な敗北として名高い戦いだよ。俗称で言うと、第二次彭城の戦い。正式名称は彭城の戦い」

 

第一次は?

 

そう聞く者は、誰一人としていなかった。

 

彭城の戦い。高祖率いる漢軍五十六万と項羽率いる楚軍三万がぶつかりあった戦いが第一次として俗称されているのは、火を見るより明らかだったのである。

 

「場所は、狙ったのか?」

 

「いや、偶然だと思う。

……兎に角、俺が言いたいことは!」

 

――――五歳ずつ年食って経験積んでないけど兵力差に胡座かいてると、負けるってこと。

 

乱雑な口調で述べられた、しかし心胆からの忠告は諸将の心に突き刺さった。

 

(しかし、張遼の来援はない)

 

最短経路となる間道は封鎖済みであるし、こちらの後背から回り込もうとすれば峻険な斜面がこれを阻むし、後背に回り込めるほどの時間もない。

 

いけるとするならば横撃だが、それすらも間に合わない。

行軍速度は最早見切った。虎の子張遼も封殺した。

 

後は一人を殺すのみ。

 

緊迫した雰囲気の中、袁術を核とした連合軍は目的地へ向けて進撃を開始した。


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