義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
迫りくる黒い群れは、得もしれぬ不気味さを放っていた。
無言で敵を討ち、貫く。
馬蹄に踏み敷かせ、圧し潰す。
袁術の軍勢の第一陣の二万があっという間に左右に断たれ、わっ、と左右に逃げるように分かれた。
雑軍では、決してない。しかし、天下一の強兵の突撃の鋭鋒を受け止める力は彼らにはなかったのである。
「関籍が先頭に立っておらぬというのに何という体たらく……ッ!」
袁術軍の佐将が歯ぎしりをし、槍を扱いて吶喊した。
一兵一兵が他の十にも匹敵するのが、精鋭。
そしてそれが騎兵ならば馬上の利も相まって、一人二十殺に至るか至らぬかというほどの凄まじい威力を発揮するであろう。
これを止めるのはやはり、将たる者の武勇であった。
幸いにも、関籍は中軍に居る。桁が外れた吶喊能力は健在だが、兵を散らせるほどの武威はない。
しかしこの佐将は、間違いを犯していた。
「将官か」
一人を槍に掛けたところで、重い声色が佐将の背を圧す。
無声の軍に在って、ただ一人の音。
「何も―――」
誰何の声を言い切ることなく、馬ごと頭から両断された佐将の五体を巡る血が雨のように袁術軍の兵卒を濡らす。
「吶喊」
偃月刀で正面を突き崩し、散った兵の間隙に騎兵を捩じ込んだ。
先鋒が再び関籍を抜き、再び中軍が包み込む。
一陣の一翼を構成する佐将を斬られたからか、たちまち二陣目が潰乱し、袁術の兵が再び左右にわかれた。
「返せ」
一陣で蹴散らした兵が包囲運動を開始したことを目敏く察知し、後曲が袋の中で暴れる錐のように包囲を突き破る。
関籍は、相変わらずに中軍に居た。
後曲が錐に、先鋒が鎚になって敵軍を破砕していく姿は、嘗ての関籍軍にはない。
ただひたすらに突っ込むだけでいいのは先鋒の将のみ。大将は全体を見極めねばならないと言う、郭嘉の教育の賜物である。
「中軍百騎、続け」
先鋒の鋭気が鈍った瞬間に、関籍は再び馬を前に進めた。
中軍の中にあって最精鋭の百騎を率いて先鋒の隊列の隙間を抜け、最前線に到達するまでには、ほんの数分とかからない。
偃月刀が煌めき、血が飛沫のように飛び散り、首が飛び、武器を持った手が白い骨を見せながら後続の兵へとぶつかる。
二振り、三振り。四回目に薙ぎ払った時には、第一陣の包囲運動による陽動が生んだ時間で固まりつつあった第二陣が崩れていた。
第三陣も同じように突破し、関籍が再び中軍に下がるであろうと、皆が思う。
ここぞという時、一番危険な時に『自身という駒を前線に投入する』。後曲の錐のような働きで包囲を免れ、ジワリジワリと相手の陣を押し戻していく。
それが、四回繰り返されたのだ。下士官も中堅指揮官も兵卒も、皆が思った。
『もう下がる』と。
先鋒が中軍の百騎に追いついたとき、その考えは不動のものとなった。
この戦では、こう来るのだろう。
そういった観念が、三刻に渡る激闘の末に刷り込まれていた。
「吶喊」
中軍百騎が先鋒を率いて疾風の如く吶喊し、第四陣二万があっという間に貫かれる前までは。
ある程度場数を踏んだ将にはそれぞれ戦術の癖、と言うものがある。
つまりそれは『必勝の戦術』ということであり、知られても敗られぬ一芸であり、その将の能力と士卒を勝利へ導く一本道。
孔明は『偽装退却・敵の誘引による包囲殲滅』であり、張遼は『二体に分けた部隊での高機動力を活かした挟撃』であり、魏延であらば『敵の最も堅固な箇所を叩き壊して指揮系統を潰す』ということである。
では、関籍は何か。
答えは簡単。意識誘導と誘導によって生じた隙間を突くことである。
即ち、敵を騙す。恐怖によって幻惑して、仮定を信じ込ませ、敵の思考を固定する。
しかも質の悪いことに、彼は運が良かった。少々の読み違いや誤差を修正しようとしてくれる味方が居ない時はその誤差はごく僅かなものに抑えられ、時折起こす一の読み違いが雪だるま式に膨れ上がる、といった現象も主に張遼が何とかしてくれていた。
野戦でどうしようもなく強いのは、『無理矢理に切迫した状態に陥れた敵は意識誘導が簡単だから』に他ならない。
「関籍」
「羽か」
第五陣まで突破し、風穴開けてきたのは十万。地に伏した兵は二万。
「お覚悟を」
二振りの青龍偃月刀が火花を散らして鎬を削る。
二者と象徴とも言える黒が靡き、爆音のような金属同士のぶつかる音が響いたとき。
関籍は、僅かに引き始めていた。
全力の殺し合いをしながら、馬を器用に後退させる。北に居なければなし得ない卓越した馬術であった。
「……中々」
柄で防ぎ、防いだ時にかかった勢いを利用して攻撃に転ず。
如何に体力を残しておくかという削り合いの最中、黒い騎馬隊は前後左右の挟撃を巧みに防ぎながらゆるゆると退いていっている。
関羽は思わず舌打ちした。
下士官と兵の練度。そしてそれらを束ねる指揮官の練度が尋常ではない。一糸乱れぬ退却行動であり、言われるまでもなく『騎兵は防御に弱いという』指揮官の意を悟って始められた部隊運用。
正に、精鋭。
騎兵の本領発揮するところの二つは、突撃と逃走。このままでは包囲する好機を脱っされ、こちらに一方的な被害を強いてこの戦が終わるだろう。
戦略的には、向こうには更なる被害を強いねばならない。
「者共奮え!関籍とて―――」
陽動の一撃を入れ、余った片手で剣を抜く。
「武神鬼神の類ではない!」
上腕。白い戦炮が己の血で朱に染まり、青龍偃月刀から片腕が外された。
一対一での、負傷。
絶対的な武の象徴だった関籍の不利に、一糸乱れぬ黒騎兵が揺らぐ。
一対二。腕の数だけならば、こちらが勝った。
そして。
「今だ、攻めろ!敵は崩れた!」
背後の佐将―――趙雲が兵を叱咤激励し、固定の念を植え付ける。
兵とは、確信がなければ十全の武を発揮できない生物だ。将に十全の信頼を置き、従うことを是としなければまともな戦いなどはできるはずもない。
そして、勝てるという確信をも将は与えてやらねばならないのだ。
(……む)
闘争形態から本格的な逃走形態に名馬烏には追いつけず、関羽はひとまず馬脚を緩める。
兄を慕う感情を強引に切り離し、将として―――即ち、愛紗と関羽に自己を分割させた関羽は、違和感を覚えた。
背を向けて退却する彼らの中に、統率がないということである。
如何な精鋭と言えども、崩れるときは崩れる。これは当たり前だ。
だが、その退却行動の中にも術理があるのが関籍の兵だったはず。
即ちソレは、容易く三々五々に乱れることのないもの。
「……御使い殿!」
「何?雲長さん」
「うまくは、言えない。が、偽装退却によって何十倍もの戦力をひっくり返すことができる戦術を、あなたは知らないか?」
馬を中々に乗りこなし、自分の属する第六陣の中軍から白く輝く馬上の士が現れた。
時の御使い。古今東西の兵術に通じる、奇抜な参謀である。
「……釣られたってこと?」
「そうだ。あなたであれば敵を釣ってから、どうする?
何十倍もの兵力差をひっくり返すために、何をする?」
「……………俺の先祖の主君がよく使ってた戦術に、釣り野伏せってのがある。
敵に死ぬ気で立ち向かって戦い抜いて、本当に負けたかのように退いて左右の伏兵で敵を殲滅するっていう古典的な戦術が」
即ち、関籍の狙いはそれなのか。
関羽は気づき、慄いた。
誰が見ても、負けだろう。あの敗走に、あの負傷。どこをとっても全力だったし、どこを見ても僅かに力及ばず負けたように見えた。
「……あの敗走が、釣りなら」
「釣りなら?」
「二十五万人中、十万は死ぬかも知れない」
道中二万、伏兵で十万。
半数が削られれば、如何に下級指揮官何まで戦略を伝えているとはいえども、戦略そのものが瓦解する。
戦術で戦略が、ひっくり返される。
「……周公僅は、気づいているのか?」
「釣り野伏せは、前線に出てても気づかない。早くても気づくのにはあと少し掛かるだろうと思う」
関羽は、天を仰いだ。
軍師は全体を見る。周瑜は、戦略の要諦を見ている。
戦術型では、ない。
「兵を纏めます。趙雲も進撃を止めさせ、合流。活路を見出して突破するしかありません」
「―――釣り野伏せ、してくるのか?」
「兄は」
愛紗が、出た。
「生粋の野戦型戦術家です。思いついても何ら不思議ではありません」
「圧倒的な破砕力に直面し、恐驅し、慄く」
そこに見えた、一筋の光明。
それは眩いだろう。目を潰し、晦ますほどに眩く見えるだろう。
念願の怨敵が負傷し、今ならば簡単に首が取れるのだ。兵は勇躍し、狂奔に駆られたように突き進む。
逃げ延び、反転。
三叉の路地に、左右の森。
「突破力を包囲行動によって削いだのは、見事。だが―――」
追い詰められたか、観念したか。
馬首を巡らし、馬脚を止め、ただただ突っ立つ騎兵に、狂奔した兵の剣刃が迫る。
狂喜。
欲にまみれた顔が遠目にわかるほどに近づいたところで、旗を振った。
東から、『魏』。
西から、『張』。
「まだ若い」
突如現れた伏兵により、東西に挟まれて無様に潰乱し、屍を晒す敵に目掛け、三千に減った黒騎兵が再度吶喊を開始した。
関籍(武力109)張遼(武力106)魏延(武力98)によるハイパーコンボ、釣り野伏せ。
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