義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
「……何故だ?」
宛城から南、新野城から北。棘陽で行われた会戦によって手に入れた軍需品を略奪を受けた育陽などの民に返しつつ、余った豊潤な物資を食い潰しながら、関籍は言った。
「……我らは勝った」
「せやな」
「なのに何故気がついたら負けているような状態なのか。拙者にはそれがわからないのです」
八千七百五十六人と、軍馬が一万七頭。
これを二割ほどを迷惑料がわりに付近の都市に施したとはいえ二十五万人分の糧食で賄おうというのだから、まだ余力はある。四万の捕虜も殺すに忍びなく武器と鎧を剥ぎ、かわりに路銀と幾ばくかの糧食を与えて豫州方面に逃がしてやったから捕虜関係の問題はない。
退路は断たれ、補給もなし。
「正に『兵モ少ナク食モ尽ク』、と言ったところですか」
「やめーや、縁起でもない」
真に迫っているだけに、怖い。
驍将とまで謳われた張遼も、この気がつけば追い詰められていたという事実を受け、背に寒いものを覚えていたのである。
「呂布も居る。ウチも居る。張任も居るし、魏延も居るし、馬謖も居るやろ。逃亡兵もおらんのやから、もうちっと悲観はやめや」
項羽で例えるならば、裏切らないし勝手に立ち去ったりなどはしない龍且と季布と鍾離眛と桓楚と周蘭が居るようなものだった。
八千七百五十六人中、負傷者は千に満たない。八千騎あらば勝てる。
勝てなくともこの男を落ち延びさせることならばできる。
「……よし」
「おお、どこ行くんや?
あんたの行くとこなら、どこにでもついてったるわ」
「宛城に行きましょうか」
張遼は、固まった。
「……正気か、自分?」
「はい」
宛城。南陽戦線の要であり、十万近くの李傕郭汜軍に囲まれている城である。
こちらは八千騎であり、向こうは十万。しかも野戦陣地を大幅に拡張し、要塞のような殻に篭って城攻めを続行しているという報告も、既にあった。
「作戦は?」
「殻を壊すと被害が嵩みます。彼らには殻から出ていただきましょうか」
不敵に笑う関籍に、張遼も思わず凄みのある笑顔で笑い返す。
「延、馬謖!」
「ハイッ!」
「はっ」
方針を決め、張遼を招いていた天幕からその雄偉な身体を出すと、すぐさま魏延の名を呼ぶ。
予めかけていた招集に応じ、既に主な将は天幕にまで集まってきていた。
「二人は北上して博望へ向かい、南方で剣戟の音を聴いたら速やかに宛城攻囲網の一点を突破。宛城内に入れ。援軍の到来を知らせるのだ」
「ハッ!」
「はっ」
「張任」
「輜重隊は任せろ、長生」
以心伝心、とでも言うのか。
言う前に察した役割は寸分違わず関籍の脳にあった。
地味な仕事に見えるが、輜重を奪われたならば、即ち死。防御力が皆無な騎兵には任せることができないのである。
「…………恋は?」
「遥か司隷から西郢へ、更に宛城へと続く奴らの要塞化された補給路―――甬道と言う名目で作られた円壁を破壊していただきたい」
「…………わかった」
「最も重要な役目です。派手にやってください」
「…………うん」
「甬道を破壊して奪った食糧は勝手されるがよろしい」
「うん」
八百騎を率いて北上を開始した魏延に続き、呂布もまた方天画戟を一振りし、迅速に甬道破壊任務に動き出す。
うけた腕の傷も癒え、兵たちの負傷も動けぬほどではなくなった。
十万近くの将兵の血を吸った地を後にし、棘陽に駐屯を開始してから二ヶ月後の出来事であった。
優れた機動力によって一瀉千里に突き進み、背後をとって脅かす。
その後に甬道を破壊し、そこの一点を痛点として野戦に引きずり込み、包囲軍を撃破。
乗ってこなかったならば兵糧が断たれ、こちらの気力が充溢し、肥えるだけ。
どちらに転ぼうが、勝ちは揺るがない。
(……軍師の助言は、正に予言だ)
江陵に赴く直前に、『危機を打開したくなった時に広げてください』と渡された絹の袋。
そこには如何なる場合にも通用し、なおかつ自分を成長させようとする親心―――と言うよりは軍師心―――溢れる助言が書かれていた。
『さて、関籍殿は何をされましたか?
大方野戦に引きずり込んだところに後背を突かれ、城を取られるか糧道を断たれるかしたのでしょう。
ならば、対処法は簡単です。自分が今しようと思ったことと逆の方向に物事をすすめること。これが重要でしょう。
関籍殿の思考は孔明に読まれています。この紙面を見る前にしようと思っていたことも、読まれているに相違ありません。即ち関籍殿が巡らせた思考は、死地への誘い』
『逆に動くことです。そして、野戦に引きずり込むことです。
籠城されたならば即ち避けて他を討ち、囲まれたならば糧道を断ち、向かい合ったならば伏兵を警戒する。これが肝要だと愚考致します』
関籍は、江夏に行こうと思っていたのである。
甘寧と合流し、しかる後に襄陽へ向かって新野を落とす。これが最良の手だと、思っていた。
厳しく警戒された数本の街道の中に一本だけ、警戒のゆるい間道を見つけただけにその決心は固かった。が。
(読まれていたならば)
そう考えた瞬間、全てが覆った。
今までの戦いも何もかもが、江夏への誘導なのではないか?と。
『これを開くということは江陵には行けないということ。ならば、宛城の賈駆殿をお頼りください。賈駆殿が駄目ならば魯粛殿をお頼りください。北部に賈駆殿、中央部に魯粛殿、南部に私と。
そう軍師を分けて配置したのですから、何れかの御仁には会えましょう。
では、御武運御健勝を』
紙面を絹の袋に丁寧に畳んでしまい、号令を掛ける。
「迂遠な道を通り、北上する。我らの庭に紛れ込んだ敵に後悔の念を刻み込んでやれ!」
駆ける、風の如く。
湿ったような空気が頬に触れ、お世辞にも心地よいなどとは言えはしない。
「孔明が何だ」
こちらには側に居なくとも助けてくれる軍師がいる。
自分の軍師が天下一。郭奉孝こそが天下一なのだ。
「こちらには稟がいる」
誰にも聞こえぬような声は、風に紛れて消えてゆく。
張り巡らされた罠から、遂に猛獣が解き放たれた。
悲報:孔明の罠、初不発
書き溜めます。詳しくは活動報告を。
まあ、明るい展望を持って次話をお待ちください。