義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
黥布とは、黥(いれずみ)の布さんと言う意味。
「奉先様!」
「……?」
口いっぱいに猪料理を頬張りながら、呂布は候成の方へと振り向いた。
長く伸ばした焦茶の髪を後ろで括った女性―――候成は三瞬ほどその愛らしさに気を取られ、力強く首を横に振る。
「郭汜軍から軍使です。なんでも、奉先様に会いたいだとか」
「……会わなきゃ、だめ?」
「追い返します。今すぐに」
食事時に来たほうが悪いのだ。
楽しい楽しいご飯の時間を邪魔されたことに悲しむ呂布の微妙な表情の変化を目敏く察し、候成はすぐさま軍使を追い返す。
網のようにめぐらされた甬道にただ一点の痛点が形成され、それが原因で軍が崩壊の危機に瀕していることを知っている郭汜は、この応対を受けて憤慨。一気に呂布軍を圧し潰すべく北上した。
汝南袁家連合に対しての最後の戦いとなる宛城の戦い。
その一連の戦いの端緒である西郢の戦いが、今切って落とされた。
「呂布は居るか!」
「……ん」
お昼寝あとの眠たげな目を擦り、呂布は赤兎馬に乗って呼び出しに応じる。
特に思惑もないし、理由もない。彼女からすれば、ただ呼ばれたから来ただけであった。
「我らの温情を無碍にし、最早敗北が決まった陣営につくとは度し難い愚かさだな!」
「……………?」
対壇石塊。三十万対五万。壇石塊を討ち取って逆転。
対和連。五十万対一万。和連を討ち取って追撃をかけ、五度にわたって敗走させる。
対魁頭。和連の甥が率いる四十五万対、景気の良い戦勝によって軍事費が削減された并州軍五千。
兵糧を燃やし尽くした挙句に峡谷に誘いこみ、十万を討ち取って二十万を捕虜に、軍馬十万を得る。魁頭は首を斬られ、塩漬けにして鮮卑の捕虜たちに送らせる。
対歩度根。魁頭の弟率いる二十万対、また軍事費が削減された并州軍三千。行軍中の奇襲と強襲で神経を削られたところに現れた関籍率いる百に突撃し、予め掘ってあった落とし穴に嵌って敗走。無論、背後に居た張遼に歩度根は首をはねられ、鮮卑・匈奴が服従。
一年後、烏丸の侵攻に苦しむ幽州に援軍に赴き、蹹頓を邀撃。二十倍差を苦もなくひっくり返し、蹹頓を捕虜として烏丸を服従させる。
涼州の乱の合間にも羌族とぶつかり合い、これを服従させ。
こんな大戦の間に百程度の戦いがあり、場所は虎牢関へと移る。
ここでやっと、一敗。
そして、つい先頃に二十五万対一万数千で野戦をし、大勝。
通算成績百十六勝一敗。戦術的な参謀・或いは指揮官として殺した敵は五十万以上。挙げた大将首は十数を越す。
「………愚かなのは、お前」
「ハハハハハ!戦略的に袁家に負け続けている奴が何を言うか!」
郭汜は無論、袁術が何も無くなった新野に閉じ込められ、周囲の城と街道を固められていることなどは知らない。
そもそも主である関籍ですら郭嘉がどうにかするであろうとは思っていたが、そこまでやっているとは知らなかったのだから、しかたないことだろう。
匈奴に対してはその武勇を李広に準えた飛将軍。
関籍の配下としてはその背にある黥と諱の『布』から、今項羽と準えて黥布。
どちらにせよ猛火のような攻めを得意とする彼女に当て嵌まる渾名を持っていた。
「……恋は、難しいことはわからない。だけど―――」
「うん?」
「お前らは、穢い」
行動が、なのか。
それとも心根が、なのか。
どちらにせよ自覚のあった郭汜は、完全に頭に血が上った。
「言ったな蛮夷がッ!」
怒声とともに郭汜の背後に在る涼州兵が動き出し、指揮官自らが先頭に立っての突撃を開始する。
因みに。呂布は匈奴との混血であるため、蛮夷と言うのは強ち間違ってはいない。黥は義従側―――即ち、義に従って漢に属した異民族の人間だという証明であるから、それは明らかであった。
「…………蛮夷」
そう悲しげに呟き、方天画戟を空に一振りする。
それを合図に、紅い呂旗が前進を開始。
両軍は、激突した。
「呂布!」
「……?」
開始半刻で既に触れるを幸いに西郢の大地を朱に染めている呂布は、正に悪鬼の如き武勇を涼州兵に見せつけていた。
月牙で敵の首を飛ばし、突きで二人をいっぺんに刺し貫き、刺し貫いたままに人付きの方天画戟を鈍器のように振り回して敵を圧殺。
空いた片腕で敵の馬を撲殺し、転んだ所を馬蹄にかける。
馬蹄にかけた瞬間にも、方天画戟は二、三人の命を吸っていた。
「死ね!」
「やだ」
郭汜による背後からの奇襲も方天画戟の石突で刺突することによって逸らし、振り向きざまに馬を斬って捨てる。
「お前が死ね」
赤兎馬が嘶き、巨大な馬蹄が郭汜の腹に目掛けて振り下ろされた。
しかし、郭汜も一角の武人である。
身を捩ってこれを避けると、赤兎馬の下腹を無理な体勢で蹴り上げた。
足は僅かに痛めたが、一時的に操縦不能になった赤兎馬と呂布を後目に二騎の部下に両脇を抱えられて逃走に成功したのである。
「……どうどう」
馬の血に塗れた左手を手綱にやり、右手の方天画戟を以って敵を斬殺しながら体勢を素早く整え直して後ろを振り返った。
部下は、頑張っている。
「……」
どうするか。一騎で突っ込んで郭汜の首を飛ばすか、馬腹の脇につけてある短弓で狙撃するか。
が。
『部下は率いる物です、呂布殿』
とか何とか関籍に言われたような気もしなくもなくない。
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単騎がけの功名よりも、与えられた役目を全うする。
狂犬の皮を被った忠犬は、取り敢えず前に居る敵を薙ぎ払うと、部下に刃を向け、今にも届きそうであった槍のケラ首を斬り落とし、首を飛ばす。
振る。
薙ぐ。
突く。
裂く。
なんの工夫もない四動作を敵兵に対する必殺とし、呂布は敵兵を殺し続けていた。
「……候成」
「はい!?」
槍を以って敵の佐将二人と撃ち合っている二人の副官の内の一人に声をかけ、尋ねようとする。
そして尋ねようとしたところで、気づいた。
候成は苦戦しているのではないか、と言うことに。
そもそも呂布が見た戦場の光景で、苦戦というものがありえなかった。
これ以前に名のある武将が戦っているのを見たのが虎牢関で関籍と言う自分に伍する男の戦いぶりだったからである。
無論、武将の単騎での戦いぶりを見ていなかったのにはちゃんとした理由もあった。
興味がなかったのである。別な言い方をすれば、惹かれなかった。
自分に伍する者も居ないし、超える者などは居はしない。ある意味彼女の武技は目標が『自分』と言う自己完結の極みにあったのである。
しかし、居た。虎牢関で練習のような形で刃を交えた時に、それがわかった。
自分と伍する。或いは超える。そんな人間がいるということを。
「……助太刀、する」
初めて。
初めて、楽しいと思えた。
刃を交え、一対一で武を競うのが。
まともに打ち合える者が居ないことほど虚しいことはないということを、彼女は身をもって知ったのである。
金剛石は、金剛石でしか削れない。
あっという間に佐将二人の命を奪い去ったその武は、明らかにかつての彼女を凌駕していた。
「……大丈夫?」
「は、はい」
方天画戟を逆手に持ち直し、迫ってきた敵を突き殺す。
見もせずに馬上にある―――即ち、地に足をつけた兵卒よりも優れた武勇を誇る者たち―――武者を突き殺す手並みは、その武勇が常人には遥か届かぬ階梯にあることを如実に示していた。
「…………状況は?」
「今は、互角ですが……保って二刻です」
「……ん」
聞くだけ聞いて身を翻し、迫りくる敵を赤兎馬が踏み潰し、呂布が薙ぎ倒す。
正に人馬一体の絶技で瞬く間に五十人の命が宙へと消え、命が消えたあとの身体は、方天画戟の錆びか赤兎馬の下敷きへと成り果てた。
「二刻ですよ、奉先様!」
「もう来る」
自重と警告を促す候成の一言に確信を含んだ答えを返し、方天画戟を右から左に横に薙ぎ、纏めて目の前の敵を吹き飛ばす。
降り注ぐ矢を方天画戟を風車の如く振り回して弾き、防ぎ終わった瞬間に方天画戟を地に突き刺した。
新たに手に持つは、馬腹に備えておいた短弓。
満月のように引き絞った弓から流星の如き矢が敵の弓兵隊長の額に突き刺さり、背中から地に倒れ伏す。
「……次」
主のやることを察した候成が前衛となって防ぎ、呂布は再び弓を引き絞った。
二矢目が敵の騎兵隊長に、三矢目が敵の歩兵隊長の額に導かれたように突き刺さり、敵の前線が僅かに綻ぶ。
「往く」
地に刺した方天画戟を引き抜き、前衛を率いる候成の兵たちを掻い潜って突っ込んだ。
触れれば、散る。散った敵を、討つ。
二刻保つであろう体力を一気に消費し切るような苛烈な攻めに郭汜軍の前曲が徐々に圧されはじめた。
動揺が、奔った。
「郭汜様ぁ!」
「なんだ!?」
中軍に下がった郭汜のもとに、後曲からの騎兵が必死の形相で駆けてくる。
「後曲が張遼の奇襲を受け、左翼から関籍が突撃で壊走しております!」
「居ないという話ではなかったのか!?」
「申し上げます!」
一人目の伝騎の報告に驚愕と恐怖に顔を歪める郭汜の元に、更なる伝騎が舞い込んだ。
「関籍が左翼を無理矢理に圧し込み、呂布と合流!包囲を縮め、左翼方面から一体となって突撃してきます!」
呂布と、関籍。
綺羅星の如くこの大陸に居る数多の将星の中に在っても、最強の破壊力を持つ二人が中軍を錐の如く斬り裂き、郭汜目掛けて突っ込んできていた。