義の刃足る己が身を   作:黒頭巾

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曹操

「……謙虚なのか卑屈なのか判断に困るわね」

 

わざと一瞬遅れて矢を放った張本人こと夏侯淵と猫耳帽子こと荀彧の報告を聞き、曹操は顎に手を当てて考え込む。

 

話を聞く限りは武勇一辺倒なわけではなく、教養もあるようだが―――

 

「元は司隷郡の農民だったかしら?」

 

「はい、華琳様」

 

華琳。未来の覇王曹操の真名であった。

真名とは本来諱が変化したものであり、生まれてすぐの幼き頃に付けられる名前のことである。

魂の本質を表すとまで言われるこの真名は、彼等にとっては非常に繊細、誇りその物のような物であり、許可なく無断で呼ぶようならば斬られてもおかしくはない程だった。

 

「司隷郡の農民が優れた武で司隷校尉に抜擢され、流れ流れて并州へ異動になったと言うのが、彼の履歴になっております」

 

夏侯淵が顔を俯かせたまま謹直に答え、荀彧が露骨に不快気な表情をする。

華琳こと曹操の愛人であり、天下無双の男嫌いである彼女からすれば、自分の敬愛してやまない主君が汚らわしい男の名を出すなど言語道断。不快でしかなかったのである。

 

「……家柄の差で遠慮をしたのか、こちらの思惑を読んでいたのか」

 

後者の言葉を聞いた途端、夏侯淵と荀彧の伏せられていた頭が跳ね上がった。

 

今の腐敗した官軍で功名争いなどはよくあることに過ぎない。その中の一つでしかない先の事柄から『自分たちを試している』と言うことが読み切れるとは思っていなかったのである。

 

かと言って、その腐敗した官軍と同じ様なことをして良いのかと良識ある人は問うであろう。

しかし、ここにいるのは曹猛徳。未来の覇王にして、天の国で超世の傑と評された傑物であり、世俗のしきたりに囚われぬ者であった。

 

彼女には欠点も無数にある。これもその一つであろう。

だが、それより多くの長所が彼女にはあり、それを以て彼女を英傑たらしめていた。

 

「まあ、どちらでもいいでしょう」

 

折り畳み式の床机に腰を下ろした曹操の目には、興味と欲望がにじみ出ていた。

 

あの武勇。正に一騎当千、兵たちを背中で従わせる将の器は、自分が新たに加えた有意の人材である楽進・李典・于禁に勝るとも劣らないだろう。

 

「波才の逃げ道を読み切って伏兵を配置したところを見るに、ただ猪突するだけの猛将でもない……秋蘭、あなたと同じ型かしら?」

 

「恐れ入ります」

 

秋蘭―――夏侯淵が更に深々と頭を下げ、主に褒められたことに対する喜びを静かに示す。

隣で荀彧がピクピクしているのは、錯覚ではないだろう。

 

「あの張遼と言う子共々、私の配下にしたいものね」

 

神速の用兵に、攻めの機を見極める慧眼。少数で多数を打ち破る軍略は、間違いなく逸材だった。

 

「……秋蘭の弓兵、春蘭の歩兵、張遼・関籍の騎兵。その三軍を指揮できれば、我が覇道に立ちふさがる物は悉く粉砕できるでしょうね」

 

弓の名手でありながら知勇兼備の名将である夏侯淵に、猪突型の猛将でありながら天性の勘で歩兵の指揮をうまくこなす夏侯惇。

そして神速の指揮を体現した張遼の青い騎兵と、破壊力に秀でた関籍率いる黒い騎兵。

 

現在考え得る最高の布陣を思い浮かべ、曹操は笑う。

 

―――いずれ必ず、全てを手に入れる。

 

覇気に満ちた主君を前に、二人の部下はひれ伏した。

 

この方こそ、天下人に相応しいという確信と共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飛龍偃月刀が宙を舞い、何回か回転した後に地面に突き刺さる。

 

ほんの数瞬前までは、互角に打ち合っていた。しかし、張遼の動きが一瞬強ばったのである。

 

「どこか負傷なされているのではありませんか?」

 

「いや、無傷なんやけど……何かこう、急に寒気が……」

 

サラシ。

袴。

羽織。

下駄。

 

「……そんな恰好していたら当然でしょう」

 

「ちゃうわ。物理的に寒いんやなくて、こう……精神的、本能的な恐怖が……」

 

先ほど感じた寒気よりもなお寒い眼差しで見据える関籍に対して弁解するかのように手をヒラヒラと振り、身体的異常の皆無を示す。

 

「今日はこれまでにしましょう」

 

「えー!ウチもっと籍やんとやってたいんやけど……」

 

礼など知らぬとばかりに羽織の首根っこを掴み、だだをこねる張遼を幕舎に戻した関籍は一礼し、再び誘われる前にさっさと自分も幕舎に入った。

 

「籍やんのケチ」

 

「ケチで結構」

 

強制的に戻されたことが余程不満なのか、なおもグチグチ言い続ける張遼を後目に、関籍は自分の机に積もった書類を捌き始める。

 

半刻ほどグチグチ言い続けて流石にしたが疲れたのか、或いは反応を返してくれなくなって寂しくなったのか。黙々と書類の山を崩していく関籍の方をチラチラ見始め、口が閉じた代わりに目がうるさくなっていた。

 

「何やっとんの?」

 

「今回の戦いで討ち死にした黒騎兵の遺族に対し、手紙を書いております」

 

「………どないな?」

 

いつもの如くさらさらと書くのではなく、一字一句魂を込めるようにじっくりと書かれたその手紙は、チラッと見ただけの自分をも感嘆させた。

送られた本人や、当事者ともなれば尚更そうなるだろう。

相手が遺族でなければ、だが。

 

「一人一人の名は覚えております故に、その者が立てた功績、人格、隊の中でどのような立ち位置にあったかを書きました」

 

書き終えた竹簡を積み上げ、更に数刻の間筆で一文字書いては考える作業を繰り返し、最後の者を書き終えた時には関籍は十七の竹簡を積み上げていた。

 

「…………終わりか」

 

チラチラ見ていた張遼は机につっ伏して爆睡しており、自分が長時間書いては考え、書いては考えを繰り返したことは想像に難くないな、と関籍は思った。

 

幕舎を出、ふと気づく。

 

(文遠殿は、平気だろうか)

 

まだ、肌寒さが残る。他人の幕舎で他人の机につっ伏したまま寝たのには自分にも責任があるわけだし、もっとなんとかすべきだろう。

 

そう考え、関籍はすぐさま行動に移した。

 

まずすぐさま自分の幕舎に入り、粗末な寝台を整え直す。

張遼の寝台も決して豪華なものではないが、それでも自分のよりは寝やすいはずだった。

 

しかし、わざわざ揺らして運ぶよりは起きない公算が高いと思ったのだ。

張遼は強がっていたとは言え、相当疲れがたまっているはずだった。

戦陣とはいっても、せめて戦いの後くらいはゆっくり休んでほしかったのである。

 

「…………床で寝るのも、よくあることだ」

 

地に伏せ、目を閉じる。

思った通り、眠気はすぐにやってきた。

 

 

次に彼の意識が覚醒したのは、またもや数刻後のことであった。

腹に鈍い衝撃を感じたのである。

 

「す、すまへんな、籍やん」

 

完全に寝起きボケしている張遼が横たわっていた関籍に躓き、結果として身体の平行を崩した両膝が関籍の下腹に突き刺さったのだった。

 

「いえ、お気になさらず」

 

いつも早起きし、左氏伝を読んで時間を潰し、適切な時になってから張遼の幕舎へ顔を出していた関籍に、この朝ボケの様子は新鮮だった。

何せ、訪ねるときにはいつも飛龍偃月刀を振り回していたのだから。

 

「……朝、弱い方でしたか」

 

「案外、な」

 

足下がフラフラな張遼を支え、関籍は歩幅をあわせて外へと出る。

 

朝ボケが酷い。それは張遼の意外すぎる弱点であった。

 

 

「…………まさかッ!?」

 

関籍の幕舎から一緒に出てきて、えっちらおっちら進む張遼とフラフラな張遼を支える関籍。

それを見た黒騎兵の旗持ちが邪推の元にあること無いことを妄想で補完し、青騎兵・黒騎兵に広めたとか、広めてないとか。

 

確かなことは、この二人の浮いた話がこのことを皮切りに少しずつ増えていくことだった。


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