11
扶桑から逃げるように山城の部屋を出た時雨は、行き場もなく外に向かった。空は快晴で、陽の光を浴びれば少しくらい気分が晴れるかと期待したが、大して効果もなく、口からは溜め息が零れる。
「はぁ……」
昨晩は山城の機嫌を損ね、先程は扶桑の悩みも解決できず、まったく自分は何をやっているのだろう──と時雨は二つ目の溜め息を吐いた。
彼女達に何かをしてあげたいという気持ちが空回りしていた。そもそも時雨が彼女達の為に何かをしなければならない義務など一切ないというのに。
「……わかってるよ。今の僕に、彼女達との因果はないって事は」
自問を自答する。
あるのは過去の因果だけだ。現代の駆逐艦 時雨と現代の扶桑型戦艦のものではない。
「それでも……、無視できるはずないじゃないか」
差し伸べられた手を知っている。共に進んだ地獄を知っている。散っていった者達を知っている。そして、かつての想いを受け入れた時雨にとって、やはり彼女達は特別なのだ。それ故に幸せであってほしいと願ってしまう。
「おっ、いいところにきてくれたな、お嬢ちゃん! ちょっとこっち来てくれやー!」
時雨がとぼとぼと歩いていると、不意に話しかけられた。声の方を向いてみれば、遠くの方でツナギを着た男性が手を振っている。時雨も見覚えのある不精髭の男性は、昨日、工廠で扶桑と共にいたおやっさんと呼ばれた技術長だった。かなりの声量だったのか、それなりの距離があったにも関わらず、その声はやたらはっきりと聞こえる。
呼ばれたからには無視する訳にもいかない。とりあえずその男性の方へと駆け寄った。
「どうしたんですか」
「おー、悪いねぇ。お前さんは鎮守府から来た艦娘だろ? 今から妹さんの慣らし運転するから、ちっと頼まれてくれないかね?」
「妹さん?」
「ほれ、あそこ」
技術長は背後を指差す。その先には巨大な艤装を装着した山城が、ぶすっとした顔をして海を睨んでいた。そういえば昨晩そんな事を言っていたな──そう時雨は得心すると同時に思った。
「……なんか随分と機嫌が悪そうだね」
「ほんとは小型艇で俺が随伴するはずだったんだが、その小型艇がタイミング悪い事についさっき御臨終なされてな。この一時間、ずっと待たせてんだわ。わはは!」
「それは不機嫌になっても仕方ないね」
むしろこの日差しの中、よく我慢してるものだ──と時雨は感心した。
「若い連中に代わりの船を探させてるんだが、どうにも音沙汰がない。そこで俺の代わりに、お前さんが随伴してやってくれ。艦娘のお前さんならこっちも安心だしな!」
「僕は構わないけど……、山城がどう言うかな」
昨日の件で嫌われていないだろうかと時雨は懸念していた。
「お前さんが大丈夫なら問題はねぇよ。そんじゃお前さんの艤装を持ってくるから、それまで妹さんのご機嫌取りでもしててくれ!」
「あっ……、いっちゃった」
色々と雑な人物だった。
ともあれ山城の方を見る。海を睨み付ける彼女は、視線だけで海を殺そうとしているかのような目をしていた。……今の彼女の相手をするのは自殺行為なのではないのか──と時雨は思ったが、けれど山城とお喋りできるならそれでもいいか──と納得する。かなり歪んだ判断基準であった。
さて──と気合を入れて、時雨は山城へ歩み寄る。
「こんにちは、山城」
「んん……?」
海を見ていた山城は振り向いて、時雨を睨み付ける。しかし、そこにいたのが時雨だと気付いて、首を傾げた。
「……なんであなたがここにいるのよ。悪いけど、わたし用事があるからあなたの暇潰しには付き合えないわよ」
「その事なんだけど、キミの慣らし運転に僕が随伴する事になったんだ」
「は? なんでよ?」
「代わりの船が見付からないとかで……。一時間も待ってるんでしょ? 僕も協力するよ」
「まぁそうだけど……、はぁ……仕方ないわね。いいわ。このままじゃ頭が沸騰しそうだし」
「よかった」
とりあえず了解を得られて、時雨は安堵する。
そこからしばらく沈黙が続いた。二人は一メートルほどの距離を空けたまま、海を眺めて、技術長が戻るのを持つ。
「…………」
「…………」
沈黙が続いたが、耐え切れなくなったのか山城が口を開いた。
「ちょっとあなた、昨日みたいに話しかけてきなさいよ」
「でも馴れ馴れしくするなって」
「それは……確かに言ったけど、程度ってものがあるでしょ。ずっと黙られるよりは、昨日みたいな方がほんのちょっとだけマシよ」
「……僕はてっきりキミに嫌われてしまったと思っていたから」
「はぁ? 昨日の今日会ったばかりの人間に好きも嫌いもないわよ。……いいから、あなたのしたいようにしなさい。遠慮してるあなた見てると、なんかムカムカするのよ」
気を使った訳でもなく、本当にそう思った山城は腕を組んで鼻を鳴らしながら言う。山城の言葉に少し気圧されつつも、時雨は硬くなっていた頬を緩めた。遠慮のない彼女の言葉は、時雨にとって救いの言葉だった。
「キミに嫌われてなくて安心したよ。……それじゃ、そうだね。準備が出来るまで、ちょっとした小話をしようか──」
-◆-
二人は海に出た。両者共に艤装を装着し、海を滑走する。
山城の艤装からは一本のコードが伸びており、それは後方に随伴する時雨が手に持つ測定器へと接続されていた。これにより運行状態にある機関の調子を記録している。
先を進む山城からコードが伸び、後ろに位置する時雨がそれを繋いでいる様はまるで──
「──まるで犬の散歩みたいだね、山城」
「今度それ言ったら唇を縫い合わせるわよ」
「やだな、冗談だよ」
「その割には随分と楽しそうじゃないの。さっきからニコニコしちゃって」
「山城と一緒だと状況なんて関係なく無条件でニコニコしちゃうのさ」
「…………」
したいようにしろと言った途端に、これだ。これではどちらが犬なのかわからないわね──そう山城は溜め息を吐く。
「それより機関の調子は大丈夫なの? いきなり爆発して轟沈とか嫌よ、わたし」
そんな事はまずあり得ないが、自分ならあり得るかもしれないと不安な山城であった。
「うん、大丈夫。順調に稼働してる。工廠の人達が想定していた数値よりも高い値で安定してるみたいだね」
「そう。……ねぇ、なら少し自由に動いてみてもいいかしら?」
「構わないよ。ちゃんと追従するから僕の事は気にしないで」
「ええ、それじゃあよろしく」
時雨の快諾を得て、山城の機動は直線的な動きから曲線的な動きに変化する。
風を切って、自分の意思の赴くままに舵を切る。裂ける水面は飛沫となって肌を濡らす。ひんやりとした感覚は強い日差しに中和されて、穏やかな感慨を山城に与える。
楽しい──と実感する。海をゆくのは楽しくて、海にいる自分は自然だと実感する。やはりここが、この海が、自分の魂の場所なのだと実感する。
「気持ちがいい」
自分だけに聞こえるような小声で呟く。
海は嫌いだ。いずれ自分が沈み、死んでいく場所なのだから。……死は怖い。死は忌避する。それが人間だ。艦娘だって人間なのだから、そんな事は当たり前。……けれど、喜びもまたその場所にある。海を進むのは楽しい。広大な道を自分の力だけで進み続けられる、それだけで魂は満たされた。
安い女ね──と山城は自嘲する。
「やっぱりキミは海が好きなんだね」
唐突に時雨が言った。
山城の自由な動きに寸分違わず付いてきた彼女は、笑顔を振りまきながらそう言った。自分の心を見透かした時雨の言葉に、山城は不快感ではなく羞恥心を覚える。
「き、嫌いよ。ほとんど海に出た事ないから、ただ新鮮なだけで……」
改修続きで長い期間、工廠にいた彼女達は艤装を付けて海に出た回数自体が少ない。それは時雨が記憶するかつての彼女達も同じだった。故に──
「山城、船は海をゆくモノだよ。その魂を持つ僕等が海に惹かれるのは何も可笑しい事じゃない」
──憧れを抱いた。この青く広い大海を進む自分自身に。
「……本当に遠慮がないわね。人の心にズケズケと」
「したいようにしろって言ったのは山城じゃないか。でも、嫌だったのなら謝るし、今後は自重するよ」
「いいわ、もう。あなたはそういう奴なんだって思う事にしたから」
「そういう奴って、どういう奴なのかな?」
「大人しそうな顔のくせに馴れ馴れしくてズルイ奴」
「うわ、酷い感想だ」
「事実だから諦めなさい」
山城は小さく笑って、沖合まで出てみましょ──と速度をあげる。時雨もそれに続いた。
三十分ほど移動した二人は一息吐きながら振り返る。出発した港は豆粒ほどに小さく、背の高いビルディングすら指で測れた。ここまで沖合に出たのは、山城にとって本当に久しぶりな出来事だった。
「ここらへんが限界かしらね」
「うん。少し遠出し過ぎたくらいだ」
「その分、データは取れたでしょ」
「まぁね。長距離航海の試験もしたいけど、生憎時間に余裕はないからね。そこは実戦で確かめるしかない」
「それは仕方ないわね。ずっとここで海を睨んでるよりかはマシよ」
そう言って山城は来た道を戻り始める。動き始めた際、頭に付けた金色の髪飾りが風を受けてなびいた。時雨はなんとなくその金色に目を取られる。
「山城、綺麗だね」
「は、はぁ!? な、なによいきなり!」
「その髪飾り、艤装の一部じゃないみたいだけど」
「へっ……、あ、ああ、これね」
自分ではなく髪飾りの事を時雨は言ったのだと理解した山城は、取り乱した事を恥ずかしく思いながら髪飾りに触れる。
「これは以前、扶桑姉様がくれた開運グッズよ。金は運気を上げるとかなんとかで……」
「へぇ、そういえば扶桑も同じ物を付けていたね」
「そうよ、姉様とお揃いなの! 羨ましいでしょう!」
「うん、とっても羨ましいな」
誇らしそうに胸を張る山城に、時雨は笑顔を向ける。髪飾りの事はどうでもよかったけれど、山城の誇らしそうな表情を見れて時雨は満足だった。
しかし、扶桑の名を聞いて、ふと思い出す。
彼女の悩み。その迷い。同じ境遇にあった山城はそれを感じていないのか。それが気になった。
「ねぇ、山城。聞いてもいいかな?」
時雨の雰囲気が変わったのに気付いた山城は「なによ?」と邪険にする事なく聞き返す。
「キミは艦娘として戦う事に迷いとか……ある?」
「……? どういう事よ、それ?」
「ほら、キミは長い間、戦わずに人の社会にいただろう? それはやっぱり艦娘としては珍しい状態で、いろいろ考える時間もあったと思うんだ。例えば、他にやってみたい職業とか、憧れとか、そういう事って思わなかった?」
「ああ……、そういうこと。艦娘の使命よりも優先したい物があるかどうかって事ね」
時雨の質問の意図を把握した山城は、一切考える間もなく即答する。
「あるわよ」
「それは……?」
「そんなこと決まっているでしょ。──姉様よ!」
その発言に、時雨はまばたきをする事しかできなかった。
「わたしの人生において姉様以上に優先する事なんてないわ。姉様が戦うなら戦うし、姉様が夢を追うならわたしは全力で応援する。艦娘の使命なんてあってないようなもの。姉様以外の人なんて全員モブ。それがわたしの生き方よ」
山城はさも当然のように言い切ると、「何か文句でもある?」と固まる時雨に問い掛ける。
「……いや、ないよ。ないけど、キミはそれでいいの? キミだけの人生だよ?」
「いいのよ。扶桑姉様の傍がわたしの居場所だもの。わたしは自分の居場所を守るだけ。そういう大本を決めたら、後はもうその時々の流れに任せるだけでしょ」
人生なんてだいたいそんな感じよ──と、山城は断ずる。そう言う彼女を見て、時雨は少しだけ脱力する。
「意外と単純なんだね。キミはもっと繊細なのかと思ってた」
「なにそれ、馬鹿にしてるの? ……ふん。というか何? やたら具体的な質問だったけど、もしかしてあなた自身の悩みか何かだったりした? その歳で生き方に迷うとか無駄だからやめておきなさい。若いうちは何も考えずに目の前の事をこなしていればいいのよ」
「ううん、僕じゃなくて、ふ──……友達が悩んでてね。キミと似たような境遇の人なんだけど」
嘘は言っていない。
「ふぅーん。で? どういう風に悩んでるのよ?」
「艦娘としての使命はちゃんとわかってるんだ。でも、普通の人としての生き方に憧れを持っているから、なぜ艦娘だからって戦わなければならないんだろう──って悩んでる」
「なるほど。……それであなたはその人になんて答えたのよ?」
「……答えられなかった。艦娘をやめろとは言えないし、普通の生き方に対する憧れを捨てろとも言えなかった」
「ん? なんでそういう事になるのよ?」
不可解そうに山城は首を傾げる。
「なぜって……、艦娘の使命を破棄する事は世間が許さない。けれど普通の生き方を夢見る事が間違いだとは思えなかったから」
「……あなたね。人の事を単純呼ばわりする前に、自分がもう少し単純に考えられるようになりなさいよ」
山城は心底呆れたかのような顔をして、見せつけるように溜め息を吐いた。
「誰だか知らないけど、その悩んでる人も馬鹿ね。もうほんと馬鹿。不覚にも笑ってしまいそうなほど馬鹿だわ」
それが親愛なる姉の悩みである事を知らない山城は、盛大に鼻で笑った。
「そこまで言うなら、キミは彼女の迷いに対する答えを持っているのかい?」
「ええ、もちろん」
あっけらかんと山城は答える。
「それ、教えて欲しい」
そう頼む時雨を、山城はつまらなそうに見つめた。
「いいけど……、わたしの教えた解答をその人に教えるのはナシよ?」
「……どうして?」
「自分で考えた答えでもないのに、それを悩んでる人に教えるつもり? そういうの、不誠実じゃない?」
「それは……」
そうだね──と時雨は迎合する。山城本人が教えるならばともかく、自分を通してそれを伝えるのは違う気がした。結果的に彼女の悩みが晴れる事になろうとも、正道ではなく邪道のそれだ。時雨としても快くはない。
表情が暗くなる時雨に、少し困った顔の山城は腕を組みつつ口を開く。
「まぁ、諦めなさい。たまたまあなたには解決できない類の悩みだったって事よ。あなたが悪い訳じゃない」
「…………」
「こういうものには相性というのがあるのよ。ほっとけばその内誰かがあなたの代わりに解決してくれるわ」
「……それでも僕がなんとかしてあげたかったんだ」
時雨は小さく呟く。拗ねたような言い方だった。
まるで子供ね──と山城は思ったが、いや子供か──と自分より小さい時雨を見下ろしながら思い直す。子供のくせになんでも自分で解決しようとするのが悪い。自分の出来る事と出来ない事を把握していてこそ大人と呼べる。だから、この子は子供だ。大人の自分がなんとかしてあげないといけない──そう山城は思った。
呼吸を整えて、少し緊張しながら声を出す。
「ね、ねぇ、あなたにしか解決できない悩みがあるんだけれど、聞いてくれないかしら……?」
「えっ……?」
「他の人のお悩み相談はして、わたしのは聞いてくれないわけ?」
「そ、そんなことないよ。……いいよ、なんでも聞いてよ」
突然の申し出に困惑しつつも時雨は頷く。山城は「そう、よかった」と返し、おもむろに時雨を指差した。
「あなたの呼び方。あなたは好きに呼んでいいって言ったけど、どう呼ばれるのが普通なの?」
「え、えと……時雨ってそのまま呼ばれる事が多いかな」
「そう……じゃあそう呼ぶ事にするわ」
「うん、そうして」
「…………」
「…………」
会話が途切れる。
落ち込む時雨を励まそうと、あえて自分の悩みを打ち明けてみたものの、山城は自分の方から話題を振るのが絶望的に苦手だった。聞かれた事に答える受動的な会話ならばそれなりに慣れているが、積極的に会話していくというのは山城のスタンスではない。けれど、頑張って続く言葉を探した。
「あ……あー、あなたの事を名前で呼ぶのは、どのタイミングからでいいのかしら? 流石に今すぐ呼び始めるのは性急よね。そんないきなり名前呼びだなんて、距離感縮め過ぎだものね」
「ううん、別に今すぐ呼び捨てにしてもらって構わないよ。むしろその方が嬉しいし、自然だと思う」
「あ、あっそう? そういうものなの? 扶桑姉様以外の人なんて名前で呼んだ事ないものだから、ちょっとそういうのに疎いっていうか、コミュニケーション自体が得意じゃないというか……」
山城の言葉はごにょごにょと消え入っていく。慣れない事をしてる自覚があるのか、頬も僅かに紅潮していた。そんな山城を見て、時雨はようやく気付いた。彼女が自分の為に慣れない励ましをしてくれていると。
誰かの悩みを解消できなくて落ち込んでる時雨に、自分の悩みを解決させて元気づけよう。これが山城の大人としての対応だった。自分の悩みでは慰めにはならないかもしれないが、山城にはこれ以外の方法が思い付かなかった。
なんて不器用な優しさだろう──と、時雨は思う。遠回し過ぎて、気付くのが遅れてしまった。
「あっ、あと、あとは……、そう! 笑いなさいよ、あなた──じゃなくて、し、時雨! わたしの傍にいると無条件でニコニコするんじゃなかったの! 遠慮してるあなたはムカムカするけど、暗い顔したあなたは、なんか、こう、ザワザワするわ!」
もう悩みというより文句を言っているだけだったが、時雨には何よりの励ましだった。だから言われるまでもなく、自然と笑顔を浮かべていた。
「ありがとう、山城。元気出たよ」
「なっ……、なんのことかしら? わたしは悩みを相談してただけよ?」
「うん。それでも、ありがとう」
とぼける彼女に、時雨は心からの感謝を伝えた。