5
爆発の余波に巻き込まれた身体が足を止める。
爆炎が肌を燃やし、熱風が喉を焼き、黒煙が目を潰す。艤装の保護がなければ、それほどの致命的な損傷を受けていた。しかし、艦娘である彼女には一時的なダメージに過ぎない。直撃でないなら、その程度。数秒間だけ、目を閉じていれば回復する。
「……はっ、……はっ」
呼吸は乱れ、身体は極度の緊張に支配されていた。止まらぬ汗は焦燥を加速させ、予見する最悪の光景に胸が悲鳴を上げる。その表情は絶望に彩られ、先程までの輝きは一切消え失せた。
視界が回復し、煙が晴れる。
一瞬、目を背けようとして首が動く。だが、緊張した身体は硬直し、目を背ける事を拒絶した。
「──────」
そして、青葉は彼女を目にした。
海面に浮かぶ赤白い塊。それは人。数秒前まで触れ合っていた血の通った人間。仰向けに横たわり、動き出す気配はない。
僅かに残った白い着物には炎が燃え残り、血と混ざって二色の赤を染み込ませる。焼けた肌は赤ではなく白くなり、その人形が如き艶のある白さは、およそ人の肌とは思えない。爆弾が着弾したと思われる胸元の肉が弾け、割れた傷口からは水分を失った粘着質な血液が流れ出ていた。
絶句。
けれど、唇が微かに動いたのを見た青葉は彼女に駆け寄って座りこむ。
「しょ、祥鳳さん! ……祥鳳さん!!」
彼女の名を呼ぶ。反応はない。
薄く開けれた瞳は生気なく虚空を見上げ、半開きになった口からは僅かな呼吸が零れるだけだった。
「…………っ」
間近で見た彼女の状態は目を覆いたくなるほどに酷い。もはや艤装の保護はなく、被害のほとんどが肉体に及んでいる。辛うじて海に浮いている事自体、奇跡に等しかった。
今すぐに外科的な手術を施さなければならない負傷を前に青葉が出来る事などない。懸命に考えても何一つ思い付かなかった。
「あ……!」
混乱する頭で思考を巡らせている間に、祥鳳の身体は徐々に沈み始める。奇跡は長く続かなかった。艤装の力は段々に弱まり、浮力を失っていく。艤装も、肉体も、ダメージを受け過ぎた。この結末は当然の帰結であった。
沈みゆく祥鳳の身体を、青葉は咄嗟に抱えた。
しゃがみ込む姿勢のまま、その身体に腕をまわし、底から支える。消えかけの浮力を自分の浮力で支え、重力に抗う。一瞬の間だけ持ち直して、今度は青葉ごと海に沈んでいく。船に船は乗せられない。浮力があれば曳航は出来るが、艤装の力を失った艦娘を一人で支える事など出来る筈もなかった。
それでも青葉は我が身を省みず、その愚行を続けた。
「青葉、ダメだ! キミまで沈んでしまう!」
艤装を展開し、空を警戒しながら駆け寄ってきた時雨が言う。その表情は苦渋に歪んでいた。
「時雨さん、手伝ってください! 二人なら……、鎮守府まで持つかもしれません!」
「ダメだよ。敵はまだいるんだ、彼女の近くにいるべきじゃない」
時雨が見上げる空には未だ敵艦載機が飛んでいる。先程撃墜し切れなかった機体が約十機余り。祥鳳が沈むのを確認するかのように飛んでいた。故に彼女の近くにいるのは危険だ。痺れを切らせた敵が再び襲い掛かってくるかもしれない。その時、無防備を晒していれば不要な被害を受ける可能性があった。
「諦めるんですか!? まだ祥鳳さんはここにいるのに!!」
「……青葉」
「まだ息をしています! まだ生きているんですよ! それを見捨てるなんてできませんよ……!!」
「…………」
返答できずに時雨は沈黙する。
鬼気迫る青葉の言葉は、情に溢れた優しい言葉。けれど、それは愚かしいヒューマニズムに過ぎない。まるで合理性のない安い感傷だ。
だが、時雨はそんな事を考えてしまう自分の冷静さを忌々しく思った。
「お願いです! お願いですから手伝ってください!」
今にも泣き出しそうな顔で青葉は懇願する。
祥鳳はもう助からない。それは誰の目から見ても明らかだった。青葉もそれをわかっている。わかっていて尚、諦めたくなかった。それは時雨とて同じ。彼女を守れなかった自責の念がある。最後の一射。あれを直撃させられていれば、こんな事にはならなかったのだから。
理性と感情を天秤にかけ、逡巡を経た結果、時雨は展開していた艤装を収納した。そして、青葉と同様に腰を落とすと祥鳳の肩と腰に手をまわし、沈みゆくその身体を支えた。
「時雨さん……!」
「鎮守府までは持たない。どこでもいいから陸地にあげよう。そこで可能な限り応急処置をして時間を稼がないと多分助からない」
「はい! じゃあ、あそこの小島に!」
時雨の協力を得られた青葉は視線だけで方向を示す。彼女が見つめる先にはぼんやりと島の影が窺えた。像がはっきりしない程度に遠い場所だが、最寄りの陸地はそこしかない。
「急ごう──ッ!」
二人が目的地を定め、行動を開始しようとした瞬間、頭上から敵艦載機が急襲してきた。やはり来たか──と、時雨は祥鳳を支えながら、艤装を操作し、両側面に装着された単装砲と連装砲を上に向け、対空射撃を行う。しかし、狙い難い体勢故にそれが命中する事はなかった。
時雨が悔しげに艦載機を睨み付けた時、突如としてそれは爆発した。
「ちょっとお二人さん、何やってんですか」
艦載機を撃墜した漣が難しそうな顔をしてやってきた。祥鳳を一見し、すぐに目を逸らすと、眉間に深いしわを寄せる。
「……そういう事ね」
小さく呟き、悲しそうに溜め息を吐く。そして砲口を空に向けた。
「あの島を目指してるんですね。護衛しますよ、その最後まで」
それだけを言って、漣は進行方向の先頭に立つ。そして、苛立ちをぶつけるように空の敵へと発砲した。
漣の行動を見た衣笠、古鷹、加古の三人も事態を悟り、対空射撃を継続する。だが、彼女達も限界を超えている。疲労によって低下した命中率で、疲れ知らずな深海棲艦の艦載機を捉えるのはこれまで以上に困難であった。
それでも無防備な祥鳳と青葉、時雨の三人に敵を近付かせない為、お粗末な弾幕を張り続けた。
守られながら、祥鳳を支える二人は進む。身体は徐々に沈んでいく。彼女が沈没する前に──と、二人は急ぐ。……けれど、それは長く続かなかった。
「青葉ッ! 敵機、直上!」
衣笠が咆える。
その必死な声を聞き、青葉と時雨は自身の真上を見上げた。
弾幕をすり抜け、一機の爆撃機が落ちてくる。両翼には爆弾を装備し、最後のトドメとばかりに墜ちてくる。
──まだ爆弾を温存する爆撃機が残っていた……!? いや、あれは……違う!
二人は驚愕する。
視覚化した赤い威圧感を放つその爆撃機に見覚えはない。一目でも見れば忘れるはずもない。それほどの威圧感だった。
突然出現した赤い爆撃機を前に、二人は驚く事しか出来なかった。
標的は祥鳳。それは間違いない。だが、二人はその祥鳳と密着している。両翼に付けられた二つの爆弾が投下されれば、被害は青葉と時雨にも波及する。中破の重巡に、小破の駆逐艦。余波とはいえ、ここまで密着していれば被害は甚大だ。運が悪ければ轟沈すらあり得る。
にも関わらず、二人は祥鳳に覆い被さっていた。
考えての行動ではない。驚くしか出来なかった二人に思考はなく、自分達が轟沈するかもしれないという考えすら至らぬまま、条件反射で死にかけの祥鳳を守っていた。
理屈などない。
ただただ彼女を救おうとしただけの行為。純粋な善意が身体を動かした。
傍から見れば愚かな行い。死にかけの一人を庇って、無事な二人が盾になる。三人が無事で済む確率は低く、全滅する可能性は高い。リスクに対してリターンがあまりに釣り合っていなかった。
「────ッ」
故に周囲にいた四人は息を呑む。冷静に三人の死を覚悟し、次の瞬間、感嘆の声を漏らした。
-◆-
目の前には赤が広がっていた。
それが自分の血によって着色されていると気付くのに時間は要らなかった。
数回瞬きをして、空は元通り綺麗な青に戻る。
自分は空を見上げていたのか──と、彼女はようやく気が付いた。
記憶に齟齬がある。
最近の出来事を忘却していた。
思い出す。
思い出せない。
身体を動かす。
身体は動かない。
声を出す。
声が出ない。
自分の状態がどうなっているのかも判然としない。何も感じない。得られる情報は目で見えるモノだけだった。
……空がきれい。あの子達を、こういう空に飛ばせてあげたら喜ぶだろうな──と、彼女は笑みを浮かべる。否、微動だにしない彼女の顔は笑顔を作れてなどいなかった。
不意に顔が見えた。
見覚えのある顔。忘却した記憶の中に、その顔があった気がする。
酷く歪んだその子の顔はとても辛そうで、なんとかしてあげたくなる。けれど、彼女は何もできない。
空が少しずつ遠のいていく。
どうやら自分の方から離れていっているらしい。それを寂しく思った。
空から離れていく彼女の身体が支えられる。目の前にいる人物が自分を支えている事を彼女は知った。
触れられているのだろうが、その感覚はない。でも温もりを感じた。幻覚のような温かさをその子から感じ取った。
その子が何かを叫んでいる。
険しい表情で、泣き出しそうな顔で、誰かに何かを訴えている。
彼女を支える手が増えた。見えた顔は、同じく見覚えのある顔だった。
自分はその二人に支えられ、移動している。見上げる空が動く。時折、空に黒い影が走った。
──あれはなんだっただろう。あれは……。
頭痛がした。
痛みを感じて、意識が晴れる。
その途端、赤黒い影が視線の先に現われた。横切る事なく、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
赤黒い影。それは彼女を沈める為に出現した運命の使徒。抑止力の化身。その正体を感じ取った彼女は活動を再開する。
──あ、あぁ。
覚醒は性急に進められた。
焼けついた精神が最後の自分を目覚めさせる。
忘れた事を思い出す。忘れてはいけない事を思い出す。
赤黒い影は近付いてくる。自分を殺す為にやってくる。──……それはいい。これが最後だ。残す所などないくらい、全部の私だ。それを惜しむ必要はない。でも──
彼女を支える二人が、彼女に覆い被さる。守ろうと、救おうと、その身を盾とした。
──この二人は失いたくない。
赤黒い影が笑う。愚かにも救おうとする二人を笑っているように彼女には見えた。
戦う意思に火が付く。
その不快な笑みを消す為に、彼女は震える右手を空に掲げた。
瞬間、何かが砕けた。体の中の何かが音を立てて崩れていく。だが構わない。もう惜しむ必要はない。省みる事柄など今の自分に残されてはいない。
伸ばした手は決して届く事のない赤黒い影を掴む。
──おいで。
急降下する赤黒い影の正面に深緑の影が走る。
対峙するように現れた深緑の影──それは彼女が放った艦載機、その最後の一機である偵察機であった。
偵察機は機銃を撃つ。備え付けられた唯一の武装は赤黒い影に直撃する。だが、それでも撃ち落とすには足りない。故にその身を捧げた。
──……いい子ね。
両者は激突。赤黒い影は、深緑の影と交わり、空に紅蓮の華を咲かせる。
それを見届けて、掲げた手は脱力した。海に落ちた手は二度と動く事なく、静かに沈んでいく。それが彼女の全てだった。それだけが彼女に残された全部だった。
──ほら見て青葉。私、ちゃんと戦えたでしょ……? 全部、貴女がいてくれたおかげよ。
僅かに動いた唇がその言葉を紡ぐ事はなく、彼女──祥鳳の誇らしそうな表情がそれを穏やかに語っていた。