7
日が暮れ、およそ夜と呼べる時間になった頃、攻略部隊及び援護部隊は鎮守府に帰投した。敵の追撃はなく、また遭遇戦もなかった。
作戦の失敗。艦娘の損失。その結果に消沈する彼女達に無事帰れたという安堵はなく、空虚な疲れと振り払えない悔いだけが胸に去来する。それを誤魔化すように黙々と入渠や補給作業に移行していった。
その中で漣だけは提督室へと移動する。
旗艦代理として、そして秘書艦として作戦結果を報告する為だ。
彼女もまた疲弊していたが、それを感じさせない足取りで彼女は歩き、移動は速やかに完了した。
「失礼します、ご主人様」
相変わらずの不真面目な言葉でありながら、しかし、それは誠実な口調だった。
入室した彼女は自分を射抜くように直視する提督──ゴトウの姿を確認するとゆっくり息を吸う。気持ちを落ち着かせて言葉を紡いだ。
「MO攻略部隊及び援護部隊、ただいま帰投しました。作戦目標は達成できず、航空母艦 祥鳳が沈没。彼女の絶命は多数の者が目撃している為、捜索の必要はありません」
既に電報にて報告していた事を口頭で述べる。
「実際の行動内容、消費資材、全体的な被害等は書類にまとめ、今日中に提出します」
「御苦労。……報告書は明日でいい。被害はないようだが、君も疲れているだろう。今日くらいはゆっくり休め」
「いいえ。お気遣いは結構です、ご主人様。今は何かしていないとどうにかなっちゃいそうなので」
表情を変えないまま漣は淡々と言う。悔いに苛まれる醜い内情が露見しないよう、彼女は気を張っていた。それを察するゴトウは「わかった」と返答した。
「時に漣。祥鳳君がここに来てどのくらい経ったかね?」
「……一年くらいでしょうか」
「うむ、そうだね。着任して初めて配属されてきた子だから私も覚えているよ」
「覚えているのなら聞かないでください」
「すまん。……しかし懐かしむほど昔の記憶でもないが、やはり懐かしく思ってしまうな。今では凛々しい彼女だが、ここに来てすぐの時はまともに弓もひけない娘であったね」
ゴトウの言葉に漣は目を伏せる。
「あの人、空母としては日が浅かったんで仕方ないですよ。前線に出るのもここに来てからが初めてだって言ってましたし」
「かつては龍驤が彼女を厳しく訓練し、意気消沈しているのを君が慰めるというのをよく目にしたものだ。見事な飴と鞭であったな」
「秘書艦だから仕方なく世話を焼いていただけですよ。それにやっぱり遠征中の龍驤さんの方が彼女と仲が……」
穏やかな日々を思い出し、漣の言葉が詰まる。伏せた目は揺れていた。
「──もうやめましょう。いなくなった人の話は……」
「辛いかね?」
「当たり前ですよ!」
思わず強くなった声。漣はバツが悪そうにゴトウから視線を逸らす。
「ならば、もう言わん。だが、辛いからと思い出さぬままにはするな。思い出さねば記憶は風化する。そうなれば本当に彼女はいなくなる。だからせめて……忘れないでやれ」
優しい顔で子供を諭すようにゴトウは言った。漣はその言葉を受け、チラッと彼の顔を見ると小さく頷いた。
「では御苦労だったな、漣よ。報告書が出来たら持ってきてくれ」
漣は敬礼で返し、提督室から退出する。それを見届けたゴトウは大きな溜め息と共に背もたれへと身体を預けた。その眼光は鋭く、怒りを込めて虚空を見つめていた。
自他に対する憤慨を溜め息に込めて吐き出す。激情を自制し、寂寞の想いを隠した。
「…………」
死者に捧げる静寂の時間。しかしそれは、遠慮なく鳴り響いたけたたましい電話の着信音で台無しにされる。
小さく息を吐いて、ゴトウは受話器を手に取った。
「ゴトウだ──……貴様か。そろそろ連絡してくる頃だと思っていたよ」
電話の相手は中央の鎮守府、その最高責任者である『提督』だった。
「ああ、作戦は失敗だ。軽空母 祥鳳を失った。そちらはどうか。……正規空母 翔鶴が中破か。命があって何よりだ」
中央の提督は慰めの言葉を口にする。ゴトウはそれに眉をひそめた。
「気遣いは結構。慰めなど不快なだけだ。……作戦の立案と推進は貴様の指示とはいえ、それを了解したのは私自身。このような結果も承知の上だ。なれば責は等しく我等にある。傷の舐め合いをするつもりは更々ないが、今回は我等二人の失態だ」
ゴトウの言葉を提督は肯定する。
「して……、FS作戦はこのまま進めるつもりか? 進めるのならばMOの攻略は必須。戦力を補強し再度突入という事になるが……、なるほど。トラック島にて準備しているか。貴様の主力艦隊が総出ならばMO攻略も容易かろう」
次回は我々の助力は必要ないな──と、ゴトウはシニカルに笑った。
「追って報告書を送る。……なに? 後日、要請したい事があるだと? 内容によるが、立場上拒否する訳にもいかんからな。前向きに検討しておくとだけ、今は言っておこう。……ではな、中央の。貴様の真意は知らんが、精々己が使命に殉ずるといい」
そう言ってゴトウは受話器を置く。そして、もう一度大きく溜め息を吐いた。
「如何せん歳を取ると意地が悪くなるな。後輩に皮肉を零してしまった」
改めねばな──と思う反面、黙祷を邪魔した奴が悪い──と自分を正当化する。ゴトウはそんな自分を呆れるように一笑した。
-◆-
「それじゃあこの子は私が入渠させるから。ありがとね、時雨」
肩を貸していた青葉を衣笠に委ねて、時雨は一人工廠へと向かう。入渠ドックの収容人数には限りがある為、小破の時雨は工廠に待機している工作艦 明石の手を借りて修理するようにと指示されていた。
艤装を装着したまま満月が照らす渡り廊下を歩く。
横から吹き付ける潮風は生温く、張り付くように頬を撫でた。気持ちのいい夜風とは言えない。もっとも今の時雨にはどんな心地良い風だったとしても、肯定的に受け取る事は出来なかっただろうけれど。
「…………」
口にする言葉はなく、重い足取りで歩を進める。
疲れた。今は何もかも忘れて眠ってしまいたい。……考えるのはただそれだけ。疲弊した心と体はひたすらに休息を求めていた。
そんな時雨の前から、女性が一人歩いてくる。
「はぁい」
気安く話しかけてくるその女性は薄ら寒い笑みを浮かべていた。彼女を一見して、時雨は俯いていた顔を上げる。
「やあ、龍田。無事に戻れたみたいだね」
彼女──龍田は正面から時雨と向かい合って、挨拶のつもりなのかヒラヒラと片手を振っている。
「約束通り、戦艦さん達はちゃんと送り届けたわよぉ。アナタも天龍ちゃんを守ってくれたみたいでよかったわぁ。無傷じゃなかったのがアレだけどぉ……、まぁ許してあげる」
「天龍を守ったのは僕じゃなくて満潮だよ。僕は何もしてない」
「そんな事はどうだっていいわぁ。天龍ちゃんが生きてさえいてくれれば私はそれで満足だもの。誰が守ろうと、代わりに他の誰かが死のうと、それは大した問題じゃないの」
目を瞑って歌うように龍田は言う。その発言、その態度、その両方に時雨は反感を覚えた。
「祥鳳が沈んだのに、その言葉は不謹慎じゃないかな」
「あらぁ、意外ねぇ。アナタはもっと割り切って考えていると思ってたけど、そうでもないのねぇ。……私達は殺し合いをしているの。殺しているんだから、時には殺されたりもするわ。当たり前の事でしょ?」
さも当然であるように龍田は言った。
彼女の戦い方を目の当たりにしている時雨には彼女の言う事が本心である事がわかる。戦い続けた彼女にとって生命とは敵味方問わず日常的に消費されるモノ。その境遇を強いられ、環境に慣れてしまった彼女が生死に対して鈍感になるのは至極当然。それを理解しながらも、時雨は不快さを露わにした。
自分の言葉が反感を買うものだと自覚していた龍田は余裕のある顔で時雨を見つめる。
「怒っちゃったぁ?」
「うん。不愉快だった」
龍田の問いに、時雨は即答する。
それを聞き、片目を開けた龍田は笑いを我慢するように口元を手で隠した。あまりに素直な返答。飾り気のない感想は面白いほど嘘がない。
「ごめんなさいねぇ。私、アナタと同じで歯に衣着せるのが苦手なの」
「だったら黙ればいい。わざわざ人が嫌がる事を言う必要はないよ。少なくとも僕だったらそうする」
思い付いてもそれを言葉にするかは自由意思。失言とわかって口にするのは意地が悪いというものだ。時雨はそう思う。
「フフッ。悪いけど、アナタほど“他人”に思いやりはないのよねぇ。あの子の──祥鳳の死も当然のように受け入れているもの。いいえ、むしろあそこで死ぬのが当然だったとすら考えているわ」
「…………」
不愉快そうな顔をして、しかし、時雨は何も言わない。口を開けば恐らく暴言が漏れる。故にこれ以上交わす言葉はない。龍田の目の前から逃げ出すように、時雨は歩を進めて彼女の真横を通り過ぎた。
二人が交差し、龍田の紫に近い黒髪が潮風に揺れる。その時、彼女は言葉を紡いだ。
「──あの子はそういう運命だったのよ」
その一言は時雨の足を止める。
悟ったような彼女の言葉。“運命”という単語が心中に反響した。
「根拠はないのだけれど、戦う前からこうなる事はわかっていた気がするの。既視感とは違う、もっと別の嫌な予感として、私はこの結末を知っていた」
足を止めた時雨に構わず、龍田は前を向いたまま言葉を続ける。
「祥鳳の死を簡単に受け入れられたのは、私が薄情なだけじゃなくて、きっとそのせいでもあると思うの。航空母艦 祥鳳は珊瑚海で戦い、没する。それがきっと運命だったのよ。──ねぇ、アナタはどう思う?」
背中あわせに立っていた二人が同時に、顔だけを後ろに向けて振り返る。視線は再度交わり、龍田は問いの答えを待つ。その瞳は否定を求めるように揺れていた。
「…………」
時雨は答えなかった。
夢を見ていた時雨にとって、それを肯定するのは容易い。だが、否定したかった。運命など存在しないと言い切れたのならば、どれだけ心が楽になるだろうか。しかし、それは叶わない。あの夢を見た以上、そして祥鳳が目の前で沈んだ以上、否定すれば嘘になる。否定したいと思いながらも、運命の存在を確信しつつある時雨には、龍田の求める答えを出す事は出来なかった。
寂寥と苦悩が入り混じった表情のまま時雨は沈黙する。
「……そう」
沈黙という答えを得て、龍田は短い呟きを零す。そこには理解を示す優しさと小さな諦めが込められていた。
それだけを言い残して彼女は歩き出す。もう振り返る事はなく、時雨に背を向けたまま夜の帳に去っていった。残された時雨はその姿が見えなくなるまで、彼女の背中を見つめ続けた。
「運命……か」
自問するように呟いて、時雨もまた歩み出す。
絡まるような空気の中を抜けて、彼女は工廠の内部へと向かった。
とある一室に入る。中には明石が待っていた。
「やあやあ、お疲れ様だったね。ささ、入って入って。早速修理するよー」
準備していた明石は快活に笑って時雨を誘導する。けれど時雨にはわかる。彼女のそれは作り笑顔だ。決して本物の笑顔ではない。祥鳳の死に消沈する自分達を元気づける為のモノ。鬱屈とした雰囲気を晴らすようなその笑顔は、この状況下にあっても時雨の心に平穏を齎した。
「艤装はこっちに置いて、貴女はそっちのベッドに横になってね」
時雨は明石の指示に従い、艤装を作業台の上に乗せ、自分は備え付けられたベッドに横たわる。そんな時雨に明石は茶色のビンから取り出した飴玉のような球体を手渡した。
「これは?」
「明石さん特製の滋養強壮薬。疲れた体には効くんだよ、これが」
噛まずに呑み込んでね──と言う明石に頷き、時雨はその丸薬を口に含んだ。感じた味は極めてすっぱく、梅干しのような酸味があった。
すっぱさに歪む時雨の顔を見て明石は笑う。
「嚥下しやすくする為にすっぱくしてるんだよ。ほら、唾液が出てきたでしょ?」
その言葉に納得して唾液と共に飲み込む。途中で詰まる事なく、丸薬は胃まで下っていった。
「よしっ、あとは眠っちゃっていいよ。起きる頃には身体も全快してるはずだからさ」
横になった途端、眠気はやってきた。
胃の中で丸薬がじんわりと溶けていくのがわかる。腹部から熱が広がって全身に波及する。体温が上がり、心地良い眠りに落ちていく。
体の上に毛布がかけられる。
意識が途切れる直前、時雨の頭を明石が撫でた。
「おやすみなさい」
その声に安心して、時雨はゆっくりと瞳を閉じた。