9
駆逐艦 時雨は夢を見る。
何度も見た夢。暗黒の海をゆく船達。それらが紅蓮の華を咲かせ、火柱を上げる。そんな地獄の具現。
生き残ったのは自分だけ。最終的に地獄から生還したのは自分だけ。それを悲しいと思い、それを苦しいと感じた。
その想いは色褪せる事なく自分に焼き付いている。忘れる事の出来ない記憶として魂に刻まれている。
過去の出来事。かつての時雨が体験した地獄。それは現代の時雨には関係のない事柄。──そのはずだった。
夢にノイズが走る。
船としての時雨の夢に、艦娘としての時雨が映り込む。
ザリザリと音を発して、頭の中をノイズが暴れる。
鮮血が海に広がり、誰かが死んでいる。見覚えのある誰かが死んでいる。
それを認識した瞬間、夢が壊れた。自分の頭が弾けたように、幻が途切れた。
安堵と共にせり上がってくる不安感。
それから逃げるように意識の外へと浮上していく。
酸素を求めるような必死さで、時雨は覚醒を急いだ。
10
その眠りは短かった。
時間にして三時間。およそ仮眠と呼べるほどの睡眠である。
目覚めた彼女──時雨はしばらくの間、天井を見上げていた。
寝汗をかいたのか、衣類が肌に張り付き、気持ちが悪い。けれど、動こうとせず、ひたすらに呼吸を落ち着かせた。
「……嫌な夢」
もう数え切れないほど見た夢。地獄の光景。ただ今までとはその意味合いが異なる。
「もしも僕等の運命が定められていたとしたら……」
祥鳳は“かつて”と同じ海に没した。
その結末を夢に見て、その結末を現実で目の当たりにした。
深海棲艦は執拗に祥鳳を狙っていた。
まるでかつての航空母艦 祥鳳の運命を再現するように。
龍田の言葉を思い出す。
彼女もまた、そのような予感を持っていたという。
もはや偶然では片付けられない。
「なら、この夢も僕の運命」
自分の運命には地獄が待っている。
今からどれだけ先の未来かはわからないけれど、あの悪夢の光景は再現される。
「冗談じゃない」
呟いて起き上がる。
頬を伝う汗を拭って、ベッドから出た。
室内に明石はいない。艤装もない。
故に遠慮する事なく部屋を出て、彼女は外を目指した。
グラウンドを越え、防波堤に登る。
仮眠をとる前の温い風とは異なり、吹き付ける夜の海風は涼しい。汗が染み込んだ身体を心地良く通り過ぎていき、鬱屈とした気持ちを清涼感で塗り潰す。だが、心が晴れる事はなかった。
祥鳳の死。運命の存在。それらが心身に絡み付く。
「どうして守ってあげられなかったんだろう」
自らが取った選択に悔いはない。最善だと思う行動をした。なのに足りなかった。
わかっている。足りなかったのは力だ。理不尽に負けない力が必要だった。
「あと一歩だったと思うんだけど」
最後の攻防。あれをしのぎ切れば、祥鳳を守り抜く事が出来たはずだ。生死の境は僅かな差だったように時雨は思う。しかし、それは負け犬の遠吠えに過ぎない。結果論で物を語っても結末が変わる事はない。
空を見上げ、月を見る。
満月は煌々と夜を照らしていた。
「────」
不意に歌が聴こえた。
聞き覚えのない旋律。けれど、その歌声には覚えがあった。
誘われるように足が動く。
いつかと同じように時雨は防波堤の先端を目指す。
進んだ先に、その姿を見つけた。
見慣れた後姿は背筋を伸ばし、向き合う海へと歌を送る。以前聞いた鼻歌ではなく、美しい歌声に乗せて。
自動的に動いていた足を自分の意思で止める。少しだけ距離を取って、その歌が終わるのを待った。
綺麗な旋律は穏やかな海の潮騒と調和して、心地良い音楽を耳に残す。同時にそれは物悲しい音でもあった。変わりゆく世と輪廻する生を訴えるその歌は寂しさと優しさに満ちている。そう、時雨は感じた。
やがて歌は終わり、潮騒だけが残響する。
再び足を動かして彼女に近寄ると声をかけた。
「やあ、山城。いい夜だね」
時雨の声を聞き、歌っていた彼女──山城が振り向き、その視界に時雨を捉える。僅かな驚きの後、山城の表情は普段の無愛想なものになった。
「あなたはいつも突然現れるわね」
「うん、ごめんね。隣いいかな?」
「どうぞ」
山城は慣れたように対応して、時雨も慣れたように応対する。
防波堤に座っている山城の隣に時雨は腰を下ろす。互いの体温を感じ取れるほど近い距離。以前ならば山城が不快感を示したが、今となっては二人にとって当たり前の距離感だった。
「綺麗な歌だったね。それって鎮魂歌だったりするのかな?」
「知ってるの?」
「ううん。なんとなくそんな気がしただけ」
「そう。……まぁ、その通りよ」
「そっか」
誰の為の歌なのかは聞くまでもない。故にそれ以上の言及はしなかった。
「山城はもう大丈夫なの?」
「損傷の事? わたしは艤装のダメージだけだったから、もう回復したわ。姉様はしばらくの療養が必要だけど、生命の危険はないってお医者様が」
それを聞き、時雨は「よかった」と安堵する。
「そう言うあなたはどうなのよ? 聞いたわよ、過酷な戦いだったんでしょ」
「僕は平気だよ。明石からもらった元気の出る薬を飲んで少し眠ったら疲労もすぐに抜けたしね」
「……その薬、合法なのよね?」
「副作用があったら訴えるつもり」
「ええ、そうしなさい」
何気ない会話を交わして夜空を見上げる。二人で見る夜の光はいつもより綺麗に見えた。
「増長してたつもりはないんだけどさ。改二になったら、僕はもっと誰かを守れるようになるって思ってた。正直に白状すれば普通の駆逐艦より色々と上手くやる自信だってあったんだ」
「そうね」
山城は頷く。
それを言えるだけの技量と性能がこの駆逐艦にはあると彼女は知っている。
「でも足りなかった。自分ではこれ以上ないくらい力を尽くしたつもりだったけど、それでも足りなかった。祥鳳を守る事が出来なかった」
時雨は甘えを口にする。
出来なかった事に対する泣き言を吐露した。それは甘えに他ならない。
その甘えを受け止めて、山城は慰めを口にする。
「どれだけ頑張っても、どうせあなたは駆逐艦よ。出来る事と出来ない事がはっきりしてる。……だから、一人で背負い込む必要はないわよ」
そんな偏屈な慰めを時雨に送る。それで時雨は満たされた。
「うん、ありがとう」
「当たり前の事を言っただけじゃない。礼を言われる筋合いはないわ。……それに悔むとすればわたし達よ。あの駆逐棲姫にやられなければ状況は変わっていたかもしれないんだから」
三式弾を持っていた自分達が被害を受けて撤退しなければ祥鳳を守り切る事は出来ていたはずだと、山城は言う。
それを言われて時雨は納得する。
確かにその通りだ。僅かの差だった生死の境。それはたったそれだけの事で逆転する。駆逐棲姫さえ現れなければ扶桑型戦艦も攻略部隊と合流でき、三式弾の効力を持って敵艦載機を殲滅する事ができた。
逆に言えば、そうさせない為に駆逐棲姫は現れたと言える。運命を回避させない為に何かの力が働いた。駆逐棲姫という規格外の存在はその化身。アレこそが超えるべき壁であり明確な敵なのだと、時雨は思い至った。
「どうしたのよ、いきなり難しい顔をして」
「いいや、なんでもないよ。やっぱり山城はすごいな──って思っただけ」
「……なによそれ? 相変わらずわからない子ね、あなたは」
呆れたように言い放って、山城は月を仰ぐ。いつかの夜もこうしていた事を思い出す。
「月が綺麗ね」
「うん、そうだね」
短く呟き合って、二人は飽きるまでその満月を見上げ続けた。