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その作業は日が暮れても尚、続けられていた。
鉄と油の匂いに満たされた空間で、男達がただ一人の女性の為に汗を流す。男達が触れるのは鉄と油だけ。決して女性に触れる事はない。けれど、それで十分だった。彼女に尽くせる事だけで、男達は満たされた。それだけの価値が彼女にはあったのだ。
「お嬢! 艤装の装着を頼みます!」
「はい……、わかりました」
一人、椅子に座っていた女性がゆっくりと立ち上がる。長い黒髪が揺れて、鉄と油の匂いを洗い流すように芳香を放った。
鎖に繋がれた巨大な鉄塊。天井に吊るされたそれは緩やかに下ろされ、彼女の腰に設けられた接続部に付けられる。四つの大型砲塔を搭載したそれが彼女の艤装だった。
「そのまま砲撃体勢頼みます!」
「こうですか?」
砲塔を前方に向けて固定する。男達は手元の機械を覗きこみ、しばし言葉を交わし合うと頷く。
「まだ重心がズレている。おい野郎共、修正箇所の算出急げ! ──っと、もうこんな時間か。お嬢は先にあがってくれ。後は俺達だけでもなんとかなる」
不精髭を生やした男が快活な笑顔で彼女に言う。そんな彼に、彼女は静かに首をふった。
「いえ、もう少し付き合わせてください」
「しかし、あんたに無理させる訳には……」
「わたし達の為に頑張ってくれているあなた方だけを働かせるのは忍びないんです、どうかお願いします」
「いいじゃないですか、おやっさん。お嬢がそう言ってくれるのなら、俺等のやる気も上がるってもんです」
接続した艤装の情報を収集していたメガネをかけた若い男が言う。おやっさんと呼ばれた不精髭の男は渋々それに頷いた。
「……ああ、わかった。んじゃ、あと一時間だけ付き合ってもらおう。それで今日はあがりだ」
「はい!」
彼女は嬉しそうに頷いて、周りの男達もまた嬉しそうに笑顔を浮かべた。
-◆-
その工廠の光景を主任から許可を得て工廠地区内を見学していた二人──満潮と時雨は遠目で見つめていた。
「なるほど。あの人が扶桑型戦艦、その一番艦──扶桑ね。……どう? アンタが夢見た彼女と比べてみた感想は」
「驚いたよ。想像していた以上に想像通りだった。船の姿しか見てこなかったのに、今見てる彼女が『扶桑』なんだって自然と思える。でも──」
工廠の中で微笑む彼女を見つめながら、『駆逐艦 時雨』は『戦艦 扶桑』に想いを馳せる。夢の中の彼女と目の前の彼女は間違いなく同一。けれど、それは魂だけだ。その根底が同じなだけで、目の前の彼女には彼女だけの人生があったはずだ。だから、“彼女”と“彼女”を同じにしてはいけない。自分が自分であるように、彼女もまた誰でもない彼女自身なのだから。
「──彼女は彼女だ。昔の記憶とかは関係なく、今いる彼女を心から美しいと思うよ」
「美しい……ね。確かにそれは同意するわ」
艶やかな黒い髪に、透き通るほど白い肌。柔和な笑みを浮かべる美貌。華奢に見えて、女性的な魅力に満ちた身体。満潮もこれまでに様々な美人と呼べる人物を見てきたが、女性的な美しさで言えばおよそ彼女はその究極系に等しい。……但し自分と違って、隣に立つ時雨が言う美しさとは、恐らく内面的なものなのだろうけれど──と、満潮は心中で苦笑する。
しばらく工廠の様子を眺めていた二人だが、満足したのか時雨は工廠を後にした。その後を満潮は追う。
「挨拶していかなくていいわけ?」
「作業の邪魔はしたくないからね。なに、明日になれば否応なく挨拶する機会があるさ」
口ではそう言いつつも時雨は心底残念そうな顔をしていた。そんな時雨を見て、なに遠慮してんだか。今すぐ駆け寄りたそうな顔してるくせに──と満潮は思うも、その意思を尊重した。
「ふぅん。ま、いいけど。それじゃ部屋に戻る? あの主任さんが言うにはVIPルームらしいわよ」
「ううん、もう少しだけ夜風にあたっていたいんだ。キミは先に行ってて」
そう言って時雨は薄く笑う。それは暗に「一人にしてほしい」と言っているように満潮には聞こえた。
「……あっそ。わかったわ、好きなだけゆっくりしてきなさい」
「うん、ありがとう」
だから満潮は大人しくその場から去っていった。振り返らずヒラヒラと手を振る満潮に、小さく手を振り返した時雨は海が見える場所を目指した。
夜空に月は輝き、夜風は髪を撫でる。穏やかな海には波が規則的にうちよせ、月光の反射が瞬いていた。その全てを全身で感じながら時雨は防波堤を一人歩く。鼓動はやや早く、やや強く、彼女の胸を打つ。ふと見つめた手のひらはじんわりと汗ばんでいた。
「ははっ。なんだろう、僕は緊張していたのかな」
いや、違うな。これはきっと嬉しかったんだ。幼い頃からずっと見てきた、自分を艦娘として決定付けた存在。その存在にようやく出会えた高揚感。彼女は僕を知らないだろう。僕だって彼女を知らない。けれど……、でも……、出会えた事がひたすらに嬉しいんだ。思わず叫び出しそうになるほど魂が震えている。
時雨は大きく息を吸う。肺が一杯になるくらい吸い込んで──叫ぶ事なく、静かに吐き出した。
「やっぱりこんな静かな夜に騒ぐのは気が引けるや」
こんな時まで冷静な自分を笑いながら、それでも悪い気分でもなく、軽やかに歩を進める。どうやら自分は珍しく浮かれているらしい──そう自覚する。
「──────」
不意に歌が聞こえた。
微かな音が旋律に乗って耳に届く。それは音であって声ではない。歌は歌でも、声なき歌。くぐもった、しかし、心地良い響きだった。
「これは……鼻歌?」
鍛えられた聴力でなければ聞き取れないほどの微かな音を辿って視線を動かす。夜目が利く時雨はすぐにその音源を発見した。……防波堤の最先端。今いる場所からまっすぐ進んだ先に、鼻歌を歌う女性の姿があった。
「あ──」
気付けば足は動いていた。誘われるように動き出した足は止まらない。一秒でも早く辿り着きたくて、がむしゃらに足が動く。歩く速度は徐々に速くなって、すぐにそれは走りに変わった。
鼓動が強く打ち付ける。その姿を見たからなのか、ただ走っているからなのか、判別は付かない。考えが及ばない。今は彼女に出会う事しか考えられなかった。
「はぁ……はぁ……」
女性の姿がはっきりしてきた地点から時雨の足は大人しくなっていった。僅かに乱れた息を正しながら、自分の声が届く距離までゆっくりと歩み寄る。鼻歌は確かな音として鼓膜を揺らす。ずっと聞いていたい旋律を、自ら遮ってしまうのが惜しく思える。だが、それでも時雨は彼女に出会いたいと願った。
足を止める。
もう目の前だ。声も届く。もう三歩進めば触れる事だって出来る。──それよりも先に、彼女の方が時雨に気付いた。
防波堤に腰をおろして海の方を向いていた彼女は、何気なく時雨へと振り向く。鼻歌が途切れ、夜の海を眺めていた赤い瞳が時雨を映す。肩までの艶のある黒髪と紅白の装束は夜に溶ける事なく、その鮮やかさを時雨の青い瞳に訴える。鼓動が一度だけ大きく高鳴った。
「……誰、あなた」
彼女が呟いた。
その声を聞いて、妙に落ち着きを取り戻している自分がいる事に時雨は気付く。うるさいほど脈打っていた鼓動はもう治まっていた。彼女の存在が夢幻でない事に安堵したのかもしれない。
「こんばんは。いい夜だね」
「えっ……ええ、こんばんは」
戸惑いに揺れる赤い瞳。反して青い瞳は喜びに満ちて輝きを放つ。
艦娘としての『駆逐艦 時雨』が原点とする二つの例外。魂に刻んだその名を忘れる事はなく、またその姿を見間違う訳もない。──この出会いを時雨はずっと待っていた。
「僕は白露型駆逐艦 時雨。これからよろしくね──“山城”」