10
「ここは……」
目覚めて最初に見たのは、やたら少女趣味なフリルの付いた天蓋だった。知らないベッドに自分は寝ていると、少女──時雨は判断する。重たい頭を持ちあげて、上体を起き上がらせる。過度な睡眠だったのか、未だに意識が定まらなかった。
「僕は……、そうかあのまま眠ってしまったんだ」
ぼやける思考の中でも、昨晩の事だけは不思議と覚えていた。まるでその夢をずっと見続けていたみたいだ──と時雨は思った。
「──おはよう。よく眠れた?」
声が聞こえて、時雨はその声の主を見た。
ベッドの隣。青空が広がる窓を背後に、その影は椅子に座る。眩しさに耐えて目を凝らして見れば、ハードカバーの本を片手に時雨を見つめる黒髪の美女がそこにいた。
「……扶桑」
自然とその名が口から零れる。
「そう、わたしの事は知っているのね」
ずっと前から知ってるよ──そう言いかけた言葉を呑み込んで、時雨はただ頷いた。扶桑は山城から聞いたのだろうと考えて、開いていた本をパタンと閉じる。
「時雨さん……でしたよね?」
「時雨でいいよ」
「じゃあ時雨。聞きたい事があるのだけれど、質問して構わないかしら」
「余所余所しい言い方だね。もっと気軽に話してよ」
「だって初対面ですもの。最初から馴れ馴れしくしろと言われても困ってしまうわ」
扶桑の言葉に、時雨はきょとんとした顔を浮かべて、あぁ──と声を漏らした。
昨晩、山城に怒鳴られた事を想起する。過去の夢を見る時雨にとって扶桑や山城、そして満潮は身近な存在だ。しかし、それは一方的に知っているだけ。自分だけが身近に感じているだけに過ぎない。その事は十分にわかっていたつもりだが、満潮の時といい、馴れ馴れしい態度をしてしまう。これは戒めなければならないと時雨は思った。
「そうだね。ごめん……なさい」
「謝るほどの事でもないでしょう」
そう言って微笑む扶桑に、時雨は浮かない顔を隠すように「それで質問っていうのは?」と話題を投げ掛けた。
「ええ、不躾は承知で聞きたいのだけど……」
躊躇いがちに扶桑は言う。
「あなたは実戦を体験した事はある?」
「勿論。もう過度な緊張をしない程度には」
「それじゃあ深海棲艦も見た事があって、そして……殺した事もあるのね」
「うん、あるよ」
時雨は正直に答える。そんな時雨に、扶桑は笑みの消えた顔を向ける。
「時雨はなぜ戦っているの?」
「……それは、人類の為かな。艦娘にはそれが出来る力があって、艦娘にしか出来ないから戦ってる。たぶん僕だけじゃなくて、多くの艦娘がそういう理由で戦っていると思うよ」
「そう……そうよね」
その答えを呑み込もうとする扶桑に、時雨は問う。
「どうしてこんな質問をしたのか、聞いてもいいかな? 嫌だったら無理強いはしないけど」
「……いえ、聞いてほしい。艦娘の使命に従事している人にずっと聞いて欲しかった悩みなの」
時雨の問いに頷いて扶桑は立ち上がる。そして空と海が眺められる窓辺に移動した。
「わたしと妹の山城はずっと内地で過ごしてきたの。出撃した事もあるし、実戦だって一応は経験したわ。ほとんどが遠くから見ている内に終わってしまったけれど。……わたし達には問題があったから改修に次ぐ改修でね。出撃の機会もどんどん少なくなって、気が付けば本土にいるのが当たり前になっていたわ」
窓から海を見下ろしながら扶桑は語る。
「それが不服な訳ではないの。むしろ、あなた達が戦っている中、贅沢な話だと思う。……ただ、わたし達は──いえ、わたしは戦いから離れ過ぎてしまったのね」
扶桑の瞳が僅かに揺らぐ。不安を感じているように見えたが、その真意は時雨にはわからなかった。
「戦いが怖くなったのかい?」
時雨の言葉を、扶桑は瞳を閉じる事で否定した。
「恐怖は勿論あるの。けれど、それ以前にわたしは思ってしまう。──“なぜわたし達、艦娘が戦わなくてはならないの”って」
「えっ……」
扶桑の言葉に、時雨は返す言葉を失う。その言葉は、既に艦娘の運命を受け入れている時雨にとって、遠くの昔に置き去りにしてきたものだった。自らの運命に対する疑問など、夢の中で彼女達を目の当たりにした瞬間から、とうに棄てている。だが、よりによって自分の運命を決定付けた扶桑がそれを口にした事が、時雨の言葉を奪った。
戸惑っている時雨を見て、扶桑は微笑みを取り戻す。
「そんな顔しないで……、本気で言っている訳ではないの。わたし達の戦いにはちゃんと意味と意義があって、それが艦娘にしか出来ない事だと、わたしもわかっているわ。今回、こうしてお迎えが来たのだって、とても好ましく思ってる。戦力補強の為とはいえ、誰かに求められるのは嬉しいもの」
「だったらなんでそんなこと……」
「……あなたはきっと幼い頃は人の社会の中で生きてきたのでしょう?」
戸惑いつつも時雨は頷く。
艦娘である事は出生した時点で判明し、その後、保護者の希望によって二つの境遇に分かれる。国営の特別施設に保護されるか、国の保護下で親と一緒に生活するかの二つである。前者は艦娘として社会から隔離されて育ち、後者は親の庇護下で一定の制限の下、人の社会で教養を身に付ける。時雨は後者だった。
「わたしと山城は施設で育ったの。安心して、別にそこで不幸な目に遭ったという話ではないから。むしろ施設の保証された生活は気に入っていたわ。……施設を出て、艦娘として戦って、流されて、膨大な戦いのない時間を経て、今、わたしはここにいる。その戦いのなかった時間の中で、わたしは様々な人を見てきた。人の生活を、人の幸せを見てきた」
幼い頃に人の社会を見てきたあなたとは逆ね──と、扶桑は笑う。
「そうして思ったの。艦娘と普通の人に大差はないって。……だってそうでしょう? ただ、戦える力を持っているだけの差。在りし日の艦艇の魂を持っているだけの差。艤装を扱える人類というだけの差。それ以外はほとんど変わらない。だから艦娘として生きるだけじゃなくて、他の生き方だってわたし達にはあるはずでしょう? ケーキ屋さんや看護婦さん、美容師やスチュワーデス、お嫁さんにだってなれるはずなのに、どうして戦わなければならないのだろう。どうして普通の生き方はできなかったのだろう────……って考えてしまうのよ」
理屈ではなく、大人になった視点で社会を見ると、どうしてもそう考えてしまうの。子供の頃はそんな事思い付きもしなかったのに、大きくなって可能性に気付いた途端、歯痒くなってしまったのね──そう、扶桑は独白する。
「それじゃあ、キミは迷っているんだね」
沈黙を続けていた時雨が口を開く。
艦娘の使命と、人としての生き方を天秤にかけて、その結論が出ないから迷っている。そう時雨は言った。
「……迷う?」
「うん。生き方に、さ」
「生き方に迷っている……」
時雨の言葉に扶桑は納得する。
艦娘の使命を理解しながらも、普通の人としての生き方に憧れている。だから生き方そのものに迷っている。時雨の言葉は正鵠を得ていた。
「そうね。きっとそう。……ありがとう、時雨。あなたのおかげで、わたしの悩みはすごくわかり易くなったわ」
そう言って笑う扶桑の明るい表情とは対照的に時雨の表情は暗かった。
扶桑の苦悩はわかった。使命か、憧れか。そのどちらを選べばいいかと言われれば、時雨は使命を取るべきだと言わざるを得ない。扶桑の憧れはきっと叶わないからだ。艦娘が戦いを放棄するという事を世界は認めない。深海棲艦という脅威を前に、世界はそれほど切迫している。……だが、彼女の憧れ自体が間違いとは思えない。こうして人として生まれた以上、戦う事以外の意味だってある。時雨もまたそう信じていた。
故に答えを持てない。過去を見ている時雨には未来が見えていない。
「……ごめん、扶桑。僕じゃ、キミの迷いを晴らしてあげられない。その言葉が見付からない」
ごめん──と、時雨は顔を歪めながら呟く。彼女の力になれない自分がひたすらに悔しかった。
「いいのよ。戦いの中で余計な事を考えなくて済むくらいにはすっきりしたもの」
「…………」
悩みを話すだけでも楽になったと言う扶桑に、時雨はただ「ごめん」と呟いた。