突然京太郎の前に現れた少女。
彼女の特徴を一番に挙げるなら、間違いなくその身長だろう。
中学に入ってからぐんぐんと背が伸びた結果、今や学校内では教師を含めて京太郎を見下ろす者はいない。その京太郎をもって、彼女の顔を見るためには顎を上げなければならない差があった。目算で、190cm半ばといったところ。県大会でも、これほど上背のある選手と相対したことはなかった。
しかも、女の子だ。断じて男などではない。なだらかな肩も、ほっそりとした腰も、きめ細やかな肌も、高い声も、間違いなく全てが少女のものだ。そもそもこの体格を女装で誤魔化せるはずがないだろう。
装いの白いワンピースと同じく、肌の色は純白だ。引きこもっているのならともかく、こうして陽光の下歩いているのならもう少し焼けていてもいいはずだが、染み痕一つ見られない。
対照的に腰まで達する長い髪は漆黒。白と黒のコントラストが、彼女の存在を際立たせる。背景の美しい田園も山々も、霞んでしまう。
彼女の紅い瞳に、自分の姿が映っているのを京太郎は見て取った。――視線と視線が、ぶつかり合っていた。
突然背後に現れた彼女の存在に、京太郎は戸惑っていた。この状況に、理解が追いつかない。
ただ一点、分かっていることは――
自分が彼女に、見惚れてしまっているということだけ。京太郎は、ずっと彼女を見上げてしまっていた。
「あ、あのー……」
「は、はいっ」
おずおずと、少女が声をかけてきた。京太郎の返事がうわずる。白い頬をほんのり朱に染めて、彼女は恥ずかしげに言った。
「急に話しかけて、ごめんねー。嬉しかったから、つい」
「嬉しかったから……?」
「う、うん」
胸元で指を絡めながら、少女は頷いた。
「年の近そうな子なんて、久しぶりに見たからー。嬉しくなっちゃって、つい追いかけちゃったんだー。ごめんなさい、驚かせちゃったかな」
「いえ、その、別に気にしてないんで、大丈夫です」
「なら良かったよー」
ふにゃり、と安堵で少女の頬が緩む。
「それで、あの、貴女は?」
京太郎の質問は至極真っ当なもので、少女はあわあわと両手を振った。それから麦わら帽を取って、ぺこりと頭を下げる。
「岩手に住んでる姉帯豊音です」
「……地元の人ってことですか?」
「はい」
頭を上げてにっこりと笑った彼女に、京太郎は思わず目線を逸らした。何故だか、真っ直ぐ見つめられなかった。
「俺は、須賀京太郎って言います。長野から来ました」
「長野――」
豊音と名乗った少女の表情が、ぱぁっと輝く。
「須賀くんは遠いところから来たんだねー」
「そうですね、ここに来るまで結構時間かかりました」
「ああっ、け、敬語とか要らないよー」
思い出したかのように、豊音は言った。
「たぶん、同い年くらいだよねー」
「俺は中三ですけど……」
正直、京太郎からすれば豊音の年齢はいまいち読めない。雰囲気からは成人しているように見えないが、何せこの身長だ。幾つかは上であって欲しいと思った。
「私は十六だよー。それじゃあ、私がお姉さんだね。でもやっぱり敬語は使わないで欲しいかなー……な、なんて」
ちら、と窺うような視線を豊音が送ってくる。うっ、と京太郎は声を詰まらせた。
体育会系の部活に所属していた京太郎としては、目上の人間を相手に同学年の友達と同じように接するわけにはいかない。縦社会の習慣が体に染みついてしまっている。
けれども、懇願するような彼女の眼差しは、たやすく京太郎の心を折った。級友相手にするような雑な喋り方よりも幾分か上品になるよう気を付けて、しかしできる限り砕けた口調に切り替える。
「わ、分かりまし……ああいや、分かったよ、姉帯さん」
「う、うんっ! ありがとー!」
「い、いえいえ」
たったそれだけのやりとりで、豊音はぴょこぴょこ飛び跳ねて喜び出す。身長と仕草のギャップが大きくて京太郎はやはり面食らったが、その可愛らしさに不自然なところはちっともなかった。
「それで、須賀くんはどうしてこんなところに来たのかなー。自慢じゃないけど、何もないところだよー」
「ああ、この間曾爺ちゃんが亡くなって。その葬儀に」
「……それはご愁傷様です」
「だ、大往生だったし、姉帯さんが気にするような話じゃないから」
放っておくと泣き出しそうなくらいに落ち込む豊音を、京太郎はフォローする。――こんなにも喜怒哀楽をはっきりさせる人に会うのは、久々だった。中学に上がってから、みんな大人びたというか、大人ぶっているというか、斜に構えた生徒が多くなった気がしていた。別にそれが悪いとかいう話ではなく、とにかく、豊音の感情表現は――京太郎は嫌ではなかった。
「姉帯さんは、この辺に住んでるのか?」
「そうだよー。あっちの山のほう」
彼女が指差したのは、ここからほど近い、この周囲では一番背の低い山だった。
「小さな村があるんだよー」
「へぇー。あんなところに」
「良かったら」
豊音は言葉を一度句切って、視線を中空に彷徨わせてから、切り出した。
「良かったら、一緒に行ってみたりー……とか」
「え、良いの?」
「もちろん、須賀くんに時間があったら、だけどー」
まだ昼を過ぎたばかりだ。どうせ親類たちの宴会は夜まで延々と続くだろう。今帰ったところで京太郎にできることはお酌くらいだ。
なによりここで断って悲しませるよりも、頷いて彼女の笑顔が見たかった。――結局はそれが、京太郎の本音だった。
「行ってみたい行ってみたい。姉帯さんがどんなとこに住んでるか見てみたい」
「う、うんっ! 案内するよー!」
畦道へと、豊音が軽やかに躍り出る。京太郎は慌てて彼女の後を追った。豊音は帽子を被り直して、京太郎が隣に来るのを待つ。
「少し歩くけど、大丈夫? 暑いよねー?」
「鍛えてるから、このくらい平気平気」
「良かったよー」
豊音の先導で、二人は歩き出す。
初めて訪れた土地で、初めて出会った異性と同じ時間を過ごしている。しかも、住んでいる場所にまで招かれようとしている。十数分前は一人眠っていたはずなのに、びっくりするくらい展開が急で、京太郎はいまいち実感が湧かない。
けれども、滅入っていた気分はいつの間にかどこかに消えていた。それだけで、京太郎は充分だった。彼女についてゆくことに、疑問も抵抗もなかった。
弾むようにステップを踏む豊音に、京太郎は声をかけた。
「さっき、年の近い子に会うのは久しぶりみたいなこと言ってたけど、姉帯さんの住む村には子供少ないの?」
「うん、若い人はほとんどいないんだー。十代は、私だけ」
「そりゃまた極端だな」
京太郎からすれば信じられない世界だ。決して自分の住む長野が都会とは言わないが、流石にここまでではない。豊音が自分に声をかけてきた理由も、察せられるというものだ。
豊音の案内で細い道を抜け、京太郎は小さなトンネルの前に辿り着く。
照明がほとんどないのか、トンネルの中は真っ暗で、まるで怪物が大口を開けているみたいだ。外周は草木が生い茂り、石造りのそれはところどころひび割れているトンネルを通過する風の唸り声が聞こえた。
まるでB級ホラー映画のワンシーンのようだった。昼間ならともかく、夜は一層雰囲気が出そうだ。
「ここを通れば、私の村だよー」
豊音が先に、トンネルの入口に片足を踏み入れる。彼女の黒い髪が、闇と同化しているみたいだった。
彼女は嬉しそうに、京太郎を誘う。
「行こう、須賀くん」
「……ああ」
知らず、京太郎は唾を飲み込んでいた。最初の一歩が重い。胸がざわめく。何か見落としている気がした。試合で負ける直前にも似た感覚が、全身を包む。あのトンネルの向こう側に、得体の知れないものが待ち受けている気がした。
「須賀くん?」
「ご、ごめん。今行く」
足を止めていたのは、数十秒だったろうか。小首を傾げた豊音に再び声をかけられ、京太郎は駆けた。
深い、闇へと京太郎は進入する。アスファルトを踏む足音が、トンネル内にこだまする。
「ここはねー、村へ繋がる唯一整備されている入口なんだー。他の場所から入ろうとすると、山を越えなくちゃならないの」
「それにしちゃ……」
「ぼろぼろ、でしょー?」
京太郎の言い辛いことを、豊音は明るく笑い飛ばした。京太郎も釣られて、笑ってしまった。
おどろおどろしい空気が和らいだ気がして、京太郎は豊音の隣に並ぼうとし、
「――ッ?」
ずん、と。
足を引っ張られた気がした。
慌てて振り向いても、そこにあるのは暗がりだけ。
「須賀くんー? どうかしたのー?」
「あ、いや、……なんでもない」
気のせい、だったのか。豊音が何かに気付いている様子もない。京太郎は気を取り直して、改めて前に進んだ。
結局そこからは妙な感覚もなく、出口の光はすぐに見えた。ほっと、京太郎は胸を撫で下ろした。
トンネルを抜け、辿り着いたのは山間の小さな集落。先ほどまでいた田園よりも家屋の数は多いが、家と家の間隔は広い。電柱の数も少なくて、空が開けている。山の緑色のほうが、圧倒的に目に付いてしまう。正に村、と呼ぶに相応しい光景だった。
村は、とても静かだった。少なくともここからでは人の姿は見えない。季節柄まだ蝉が鳴いていても良いだろうに、そんな虫の音も、あるいは鳥の鳴き声も聞こえなかった。土地柄の違いだろうか――京太郎は疑問に思う。
けれども空気は澄んでいて、とても気持ちが良かった。京太郎がしばらく立ち尽くしているのを、豊音は何も言わず待っていてくれた。
「……あ、ごめん、待たせて。案内頼むよ、姉帯さん」
「ううん、大丈夫。……と言っても、本当に何もないからねー。まーっすぐ行けば私の家があるから、そこまで行ってみよっかー。それで大体村を見て回れるから」
なだらかな坂を下りると、バス亭があった。その先に、豊音の言う真っ直ぐな道が一本通っている。その道が大雑把に村を東西に分けているらしく、途中途中で細い路地が続いていた。豊音の家は、どの路地にも入らず北へ進めばすぐに見えるらしい。
村の家屋はどこも高い垣根に囲われて、中を覗けないようになっていた。京太郎や、豊音の背丈よりも高く、道を歩いているだけで妙な圧迫感を感じた。
果たして着いたのは、山裾にある平屋だった。この、豊音の家だけは周囲を囲む垣根はなく、また他の家から一層離れた場所に位置していた。
「いらっしゃーい」
「お邪魔します」
豊音に招かれ、京太郎は敷居をまたぐ。
少し古ぼけた外装とは裏腹に、最近リフォームされたのか中は綺麗な和風建築であった。他人の家特有の、嗅ぎ馴れない匂いは、豊音が纏う香りと同じであった。
通された畳張り居間には、大きなテレビが一つあった。他の箪笥や時計、机と言った家具類は全て年代物であるのがすぐに分かったが、そのテレビだけは最新式のもののようだ。書棚には、古ぼけた書籍の他に、比較的新しい麻雀雑誌が目を引く。
「お待たせー」
「ありがとう、姉帯さん」
豊音が緑茶を入れたコップを二つお盆に載せて持ってきてくれる。
それにしても、と京太郎は部屋を見渡した。
道中もそうであったが、家の中も人気がない。本当に静かなものだった。
「家族は、出かけてるの?」
「私、一人暮らしなんだー」
「えっ」
まさかの返事に、京太郎は言葉を失う。豊音は慌てて、ぶんぶん首を振った。
「ちょ、ちょっと事情があってー。別に、須賀くんが気にするようなことじゃないよー」
「そ……そっか」
こうもはっきり言われてしまうと、京太郎も深く追求はできない。
そうなると、今度は女の子と二人きりという現状が京太郎を狼狽えさせた。スポーツマンとして学内外を問わず、彼はそこそこ女子から人気を集めていた。しかしこれまでハンドボールに全力を注いでいたため、特定の誰かと付き合った経験はない。一番距離が近しい異性のクラスメイトとも、どうこうなる気配はなかった。
麦わら帽を脱いだ豊音は、そんな京太郎の懸念も気にかけず、ずずいと顔を寄せてくる。
「あ、姉帯さんっ? どうしたんだよっ?」
「お願いがあるんだけど、聞いてくれるかなー」
「お願い?」
うん、と豊音は笑顔で頷いて、
「須賀くんのお話を聞きたいなーって」
「俺の……話を?」
「そう。須賀くんが住んでるところとかー。須賀くんの趣味とかー。とにかく、この村にないこと一杯教えて欲しいなーって。ダメかなー?」
「ダメじゃない、ダメじゃないから。……とりあえずちょっと離れてくれ。ち、近い」
「あ、ご、ごめんねー」
羞恥で豊音も頬を染めながら、京太郎から距離をとる。どきどきする胸を押さえつけ、京太郎は「分かった」と頷いた。
「俺なんかの話で良かったら、いくらでも」
「ほんとにー? やったー!」
万歳して豊音が喜ぶので、京太郎も嬉しくなってしまう。
最初はたどたどしかった語りもすぐになめらかになり、豊音の質問も交えながら、長野の話を京太郎は聞かせた。他にも学校で流行っていること、部活のこと、趣味のこと、実に多くの話をした。何てない話題でも豊音は目を輝かせるので、京太郎の口もよく回った。自分のことばかり話していて良いのかとも途中で思ったが、豊音が気にする様子はなく、むしろ次は次はと求めてくる。
気が付けば、陽は傾き始め、緑茶の入ったコップは一つが空になっていた。
長野に帰宅するのは、明日。しかし何の断りもなくこの村まで京太郎は来てしまった。帰るにしろもう少し残るにしろ、連絡の一本くらいはしておくべきだろう。
「ごめん姉帯さん、ちょっと親に電話する」
「あ、うん、分かったよー」
しかし、京太郎が携帯電話を開くと――画面には、「圏外」の文字が躍っていた。改めて田舎であることを思い知らされる。家電を借りようにも、曾祖父の家の電話番号など覚えているはずがなかった。
「……そろそろ、帰らないと」
「そ、……そっかー」
見るからに、豊音が肩を落とす。京太郎は慌てて、
「これ、俺の連絡先だから! いつでも電話してくれて構わないから!」
と、紙片にメモを書いて豊音に手渡す。
「い、良いのー?」
「もちろん!」
「……ありがとー」
目尻に涙を溜ながら、豊音は笑った。ほうっと、京太郎は一安心する。
「それじゃあ、送っていくよー」
「ああうん、お願いします」
豊音の提案に、京太郎はすぐに頷いた。忘れるほど複雑な道ではなかったが、豊音が名残惜しそうにしているのはすぐに分かった。それは京太郎とて、同じであった。
――しかし、彼らの想いをよそに。
異変は既に、起きていた。
豊音の家を出てすぐ、二人は眉をひそめる。
「霧……?」
「わわ、前が全然見えないよー」
視界を覆うほどの霧が、いつの間にか立ちこめていた。雨が降った様子も、急激に気温が低くなった気配もない。山間という条件のためだろうか、と京太郎も一瞬考えたが、どうやら豊音も困惑している様子であった。
「とりあえず……行こうか」
「う、うん」
京太郎が先に歩き出し、豊音が続く。
足元はかろうじて見えるが、路地への細い道がどこにあるかなんてさっぱり分からない。酷い視界状況だった。
おっかなびっくり歩きつつ、京太郎と豊音は村の出入り口となるトンネルへと戻ってくる。立ちこめた霧のせいで、トンネルの不気味な雰囲気はより一層強まっていた。
だが、ここを通り抜ける他帰る道はない。
先に京太郎が足を踏み入れ、豊音が後を追った。
霧はトンネルの中まで入り込んでいた。反響する足音は、二種類。先ほどまで楽しく談笑していたはずの二人は、自然と黙りこくっていた。
――何かが、おかしい。
漠然と不安を感じながらも、京太郎は歩くしかなかった。
やがて、トンネルが終わる。暗闇から抜け出る。
しかし。
「え……?」
「な、なんでー?」
霧は立ちこめたまま――その先にうっすら見えるのは、田園ではなかった。
豊音が暮らす村が、広がっていた。
「真っ直ぐ、歩いてたよな」
「真っ直ぐ、歩いてたよー」
自然と、二人の声が震える。有り得ない。有り得るはずがない。
「姉帯さん」
「し、知らない。私、こんなこと知らないよー」
戸惑いを露わに、ぶるぶると豊音が首を横に振る。彼女は嘘を言っていない。それは間違いなかった。
「も、もう一回行ってみよう」
京太郎の提案に、豊音は頷く。
駆け足で二人はトンネルを進んだ。
けれどもやはり、
「またー?」
「どうして……」
行き着くのは豊音の村。
それから三度、トンネルに入った。そして三度、同じ結果を繰り返した。
理解が全く追いつかず、京太郎は呆然となる。
たった一つ分かったのは――この村に、閉じ込められたということだけ。ここから出られないということだけ。
京太郎を嘲笑うかのように、霧がゆらめく。
彼の隣で、豊音がぽつりと呟いた。
「山男……」
その言葉の意味を、京太郎はまだ知らなかった。
次回:第三回 鳴り響いて