独りになるのは、初めてだった。
部活のチームメイトとは先輩後輩問わず全員仲が良かったし、学校内だけでなく外にだって友達がいる。持ち前のコミュニケーション能力で、少なくとも人付き合いで京太郎は苦労したことはなかった。
――だから、初めてだったのだ。
ハンドボールの県大会決勝、最後の最後、自らのミスで逆転の芽を摘んでしまった。仲間たちは責めなかった。監督も怒らなかった。お前のおかげでここまで来られたとも、皆が口を揃えて言ってくれた。
だから、許せなかったのは自分自身。あそこまで完璧な流れを整えて貰っておきながら、エースとしての役割を果たせなかった。許せるはずが、なかった。自分でも楽天的な性格をしていると思っていたのに、ここまで自責の念に駆られるとは――京太郎自身が、一番驚いた。
誰とも合わせる顔がない。そう思うと、部員のみならず、友達全員と距離をとっていた。試合の話をするのも、慰められるのも、なにもかも嫌だった。
そうしたら、独りになっていた。部活を引退したら遊びに行こう、という友達との約束もどこかに消えていた。受験勉強を見て貰うと話をしていた級友の少女とも、結局試合の日以降顔を合わせていない。
岩手に行くと親から言われたとき、不謹慎ながら京太郎はほっとした。どんな誘いも断る理由ができた。長野から、離れられると。
一方で――京太郎は、思った。
やっぱり独りは寂しい、と。
◇
柔らかな感触が、京太郎の意識を覚醒させた。汗ばむほどに、暖かい。首筋に絡まるのは細い腕。
「……え」
感触の正体に気付いて、
「わわっ」
京太郎は飛び起きた。
ずるり、と豊音の体が布団の上に落ちる。
「ううー……」
京太郎に巻き付けていた長い手で頭を抑えながら、豊音は上体を起こした。並べられた二つの布団、その真ん中に座ったまま、彼女は京太郎の姿を認めた。
「……おはよー、須賀くん」
「お、おはよう、姉帯さん」
寝惚け眼をこすりながら、彼女は立ち上がる。少しはだけた寝間着から覗く白い肌に、京太郎は視線を逸らした。
「昨日、あのまま寝ちゃったんだねー」
「みたい、だな」
あの塀を叩く音が過ぎ去った後、震えるばかりの豊音の傍を離れられず、ずっと傍にいた。怯える彼女とどちらが先に眠ってしまったのか――京太郎には分からなかったが、とにかく同衾してしまった。やましいことは何もしていないが、だからといって気にしないわけにもいかない。ふくよかな胸の感触が、まだ頬に残っている。
二人の間に落ちた気まずい沈黙を破ったのは、豊音だった。
「朝ご飯に、しよっかー」
「お、おう。そう、しようか」
昨晩と同じように、朝食の準備をしたのは豊音だった。白米と味噌汁、漬け物に納豆という質素なものであったが、起き抜けのお腹には充分であった。
食器を洗い終えて、一息つき。
窓の外を見ても、やはり一面霧だった。状況は、何一つ好転していない。そして、捜索隊が現れる気配も。
居間のテーブルに、豊音が湯飲みを二つ置く。
「須賀くん」
真摯な声で、豊音が京太郎を呼ぶ。京太郎は、彼女の前に座った。豊音はまだ迷いを見せながらも、ゆっくりと切り出した。
「昨日のこと……この村のこと、ちゃんと、話すよー」
「……頼むよ」
それはきっと――この状況に関連すること。もう一度例のトンネルに向かいたい気持ちを抑えて、京太郎は彼女の話に耳を傾けることにした。
どこから話すべきか、豊音は少しの間だけ逡巡する。
やがて彼女が語り出したのは、村のことであった。
「この村には、昔から語り継がれてきたお話があるのー」
「語り継がれてきたって……つまり、伝承とか、そういうの?」
「うん。それはね、山男と山女のお話なんだー」
聞き慣れない単語に、京太郎は首を傾げる。豊音は続けた。
「ずっと、ずーっと昔からね。この山には、山男っていう妖怪だか、神様だかが住んでいるって言われてるんだー」
「山男……」
鸚鵡返しに京太郎が呟き、豊音は頷く。
「山男は、この山の支配者。この村に住んでる人たちは皆山男を恐れ、敬ってるのー。もしも山男を怒らせたら、村に災いが降りかかる――そう言われてるんだー」
湯飲みから立ち上がる湯気が、二人の間に隔たる。京太郎は口を挟めず、豊音の言葉だけが部屋に響く。
「その昔、ある女の人がこの村の近くを訪れたの。髪の長い、とても美しい人だったんだー。山から降りてきていた山男は、彼女を見つけて大層気に入ったんだー」
「……まさか」
京太郎はその先を、何となく察した。
「山男は、その人を」
「うん。攫ってしまったのー」
さらりと恐ろしい話を豊音は言ってのける。普段ならば、あくまで子供だましの昔話と聞き流していただろう。しかし現状を考えれば、その物語の恐ろしさに実感が湧いてしまう。妖怪、神様。その単語が、説得力を持ってしまっている。
「山男は、決してその女の人を逃がさなかったんだー。外に逃げようとしても、何度も何度も連れ戻したの。その度に山男は怒り狂って、村人たちも女の人をありとあらゆる手段でこの村に置こうとしたんだー。女の人は結局、村から一生出られなかったの」
「……酷い、話だな」
そうとしか、京太郎には言えなかった。あまりにも横暴なやり口だ。神様なんて言われても、京太郎には納得できない。あるいは神様だからこそ、そんな非道を行うのだろうか。
「でも、お話はまだ終わってないの」
「まだ、続くのか」
「正確には――」
豊音は、頭を振り。
京太郎の目をしっかり見据えて、言った。
「今も、続いてるんだー」
その言葉の意図を問うよりも早く、豊音は続きを語り始める。
「……さっきの女の人にはね、子供がいたんだー。その子供はね、とてもお母さんに似ていたの。村の人たちは責任を感じて、お母さんが亡くなった後も女の子を育てて――成長したら、女の子はますますお母さんみたいな美人になったんだー」
「山男は、その子も――」
「そう。この村に……この山に、閉じ込めたんだ」
身勝手だ、と京太郎は呪いたくなった。昔話にここまで感情移入したのは、初めてだった。
「彼女たちは山女と呼ばれて、村人たちもこの村に縛り付けたんだ。さらにその子供も、次の子供も。――ずっと、ずーっと。皆、山女としてこの村で生きて、そしてこの村で亡くなっていったのー」
ああ、と京太郎は納得した。
姉帯豊音が自分に興味を示した理由。しきりに自分の話を――村の外の話を聞きたがった理由。つまらないはずの話にも、目を輝かせた理由。テレビに向こうで、牌を握る少女たちに焦がれる理由。
何故なら彼女は――この村の外を、知らないのだから。
「姉帯さんは」
声を絞り出すようにして、京太郎は言った。
「山女、なんだな」
うん、と。
寂しげに、姉帯豊音は――当代の山女は、しっかりと頷いた。
◇
豊音の両親は、豊音が生まれて程なくして事故で亡くなったという。それから豊音は村ぐるみで育てられ、今は代々山女が暮らしてきたこの家で生活していた。この山一帯から離れることを許されないのだけを除けば、不自由はしていない。
けれども、年頃の少女だ。
この山の外に憧れて、当然だった。
しかし、村の掟がそれを許さない。彼女が外に出てしまえば、山男が怒り災いが降りかかる――その伝承は、まるで呪縛のようにこの土地に残っていた。
人権という言葉を知らぬ者はいないだろうが、けれどもこの非人道的な習慣はこの現代に残り続けていた。咎める者もいただろう。何とか解決しようとした者もいるだろう。
だが、現状を変えるには至らなかった。
そして、こうして豊音はこの村にいた。出られずに、いた。
「須賀くんと会ってねー」
空になった湯飲みに新しいお茶を注ぎながら、豊音は申し訳なさそうに言う。
「凄く、村の外に行きたくなったの。須賀くんと一緒に、行ってみたいってー。……きっと、そんな気持ちがいけなかったの。そのせいで、山男を怒らせちゃったんだ」
そうして、山男は強硬手段に出た。
「きっと、須賀くんを逃がさないように、この村に閉じ込めたんだと思う。須賀くんに、酷いことをするためにー」
豊音は言葉を濁したが、それが意味することは察せられた。
「山男は、夜になったら山から降りてくるって村では言われてるんだー」
「昨日、塀を叩いていたのは山男ってわけか。……それで、姉帯さんも確信したんだな」
「……うん」
心苦しさを表情に出しながら、豊音は首肯した。
――普通なら。
普通なら、この村の慣わしを京太郎も納得できないと、それこそ怒り狂っていただろう。あまりにも豊音が不憫だ。
けれどもこの村が「普通」と違うのは、既に京太郎も知っている。
「ごめんなさい」
深々と、豊音が頭を下げる。
「私のせいで、須賀くんを――」
「違うだろ」
豊音の声を、京太郎はすぐさま遮った。全部言われなくても、京太郎は分かっていた。
「姉帯さんの、せいじゃないだろ」
「そんなこと」
「そんなこと、ある。――こんなことが、姉帯さんの責任なわけがないだろ。姉帯さんは、何も悪くない。姉帯さんは貧乏くじ引かされてるだけなんだから」
「わ、私は不幸なんかじゃないよー。村の人たちにもすっごく良くして貰ってるし、麻雀にも付き合って貰ったりしてるしー……」
「そうだとしても、間違ってる」
そこだけは、京太郎は譲らない。ここで姉帯豊音が謝るのだけは筋違いだと、強く主張する。この村に独りで縛られる彼女を、京太郎は責められない。
「だから、謝ったりなんかしたら怒るから」
「須賀くん」
少しだけ呆れたように呟いて、豊音は目尻に溜まった涙を拭った。
「……ちょー嬉しいよー」
その控えめな笑顔がとても綺麗で、京太郎はどきりとしてしまう。どくん、と強く心臓が高鳴る。単純に、可愛かった。学校の少女たちと接していても、こんな気持ちになったことはない。――どうしたんだよ、俺。自問しながら、京太郎は豊音を真っ直ぐ見つめることができず、俯いてしまう。
「や、山男は夜になったら山から降りてくるんだろ」
誤魔化すように、京太郎は話を戻す。
「そう、聞いてるよー」
「じゃあ昼間は、村にいないんだよな」
「……うん」
「だったら今の内に、他の家に行ってみたいんだけど。……今の状況を、他の村人にも知って貰ったほうが良いと思うんだよ。もしかしたら、助けて貰えるかも」
「う、うんっ。私もそうしようと思ってたんだー」
善は急げ、と二人は立ち上がる。
山男の仕業か――立ちこめた霧は薄まっていない。だが、躊躇っている余裕はなかった。懐中電灯と雨合羽を持ち出して、彼らは豊音の家を出た。
霧を振り払いながら、村に降りる。
幸い石の塀が目立つため、豊音の案内もあってなんとか京太郎は家屋を見つけ出した。ふと、思いついた疑問を京太郎は口にする。
「この塀って、もしかして」
「うん。背の高い山男が入ってこないように、家の中を覗き込まれないように、って建てられたんだってー」
「……なるほどな」
土地柄を表していたということだ。嵐を防ぐ意味合いもあろうが、伝承が強くこの村に根付いているのを実感する。――簡単に、豊音がこの土地を離れられないということも。
表札のない玄関をくぐり、豊音が戸を叩く。
が、返事はない。
「……いつもなら、絶対にいるはずなのにー」
豊音が唇を噛む。大声で呼びかけても、結果は同じだった。そもそも、人の気配が、生活している空気が全く感じられない。豊音が言うには、飼っているはずの犬もいないということだ。
続けて隣の家に移動する。
だが、やはり家人はいない。人っ子一人、いなかった。他の家に行っても、全ての家を巡っても、結果は同じだった。
まるで、世界にふたりぼっちになったみたいだった。
「これも、山男のせいなのかなー……」
豊音が肩を落とす。今にも泣き出しそうだった。
――京太郎は、思わず彼女の手をとっていた。そうしなければいけない気がした。
「す、須賀くん?」
「もう一度、トンネルに行こう」
恥ずかしさを誤魔化すため、京太郎は言った。
「諦めるには、まだ早いだろ」
「……うん」
村の入口まで、二人は駆ける。体を動かして、無理矢理不安を振り払おうとしていた。
トンネルは変わらず、大口を開けて京太郎たちを待ち受けていた。風がトンネルの中に吸い込まれてゆく音は、まるで悪魔の囁き声のようだった。
独りであれば、このまま進むのも躊躇うであろう――人の根源的なものに訴えかける恐怖が、ここにあった。
予感はしている。
昨日と同じ結果が待ち受けていると、自分はこの村から出て行けないだろうと、京太郎は察していた。
「行こう」
だが、それは諦める理由になり得ない。
ハンドボールの試合でも、どれだけ敗色濃厚になったとしても、京太郎は諦めたことは一度としてなかった。みっともなくても、格好悪くてもあがき続ける。そうして県大会の決勝まで上り詰めたのだ。
「……うん」
頬を上気させ、豊音は頷く。彼女の視線は、一歩先をゆく京太郎のうなじに注がれていた。
霧を振り払い、闇の中に足を踏み入れる。懐中電灯で先を照らしても、闇はずっと先まで続いていた。
出られなかったとしても、何かヒントがあるのではないか――そんな想いで京太郎は地面のみならず、トンネルの壁にも明かりを照らす。震える豊音の手をしっかり握りしめ、自分の恐怖は押し殺した。
しかしながら、壁にあるのは汚れや落書きばかり。何一つとして変わったところは見られなかった。
ならば、と今一度行く先に懐中電灯を向ける。
「……くっそ」
いつの間にか、トンネルは途切れていた。
当然のように、辿り着いたのは豊音の村。霧で視界が悪くとも、すぐに分かるくらいには京太郎も馴染み始めていた。
豊音が俯く。どうすべきか、京太郎にも分からない。しかし、諦めることだけはできない。意地を張って、京太郎はもう一度トンネルに潜ろうとし、
「待ってー」
豊音に止められた。どうしたんだ、と訊ねるよりも早く、京太郎は気付いた。
いつの間にか、周囲が朱に染まり始めていた。
――陽が、傾き始めている。
霧の空を見上げると、太陽が西の空に浮かんでいるのがはっきりと分かる。その事実に、京太郎は愕然となった。
「……嘘だろ。まだ、朝になって何時間も経ってないはずだ」
既に理解を超える状況に置かれていると、認識していた。それでもなお、彼は動揺を隠せなかった。
「夜になったら……山男が、来るよー」
今度は豊音が京太郎の手を引く。
「今は、帰ろー」
「そ、そうだな」
豊音の意見に反対する術を持たず、京太郎は道を降ろうと歩き出す。
まさにそのとき、であった。
かつん――かつんと。
自分のものでも、豊音のものでもない、第三者の足音が京太郎の耳に届いた。はっと、彼は背後のトンネルを振り返った。豊音もまた、同じように振り向く。
幻聴ではなかった。
確かな足音が、聞こえてくる。複数人ではない、一人の足音。それが、トンネルの中から聞こえてくるのだ。こちら側へと、近づいてきていた。
京太郎は、動けない。
豊音もまた、動かない。
足音の正体を確かめよう、なんて余裕はなかった。もしも山男であったなら――なんて考えが、鎌首をもたげる。
足音が、止まる。
トンネルの闇、その少し先で、彼の者は足を止めた。
「――誰だ」
京太郎は威嚇するように、低い声を出した。豊音を庇うように、彼女を自分の背中に隠す。
かつん、と足音がもう一つ。
「おやおや」
果たして、闇の中から現れたのは――
「こんなに早く見つかるとはねぇ」
初老の、小柄な女性であった。着込んでいるのは、臙脂色のコート。白髪交じりの髪を、二つの丸いおさげにまとめている。一風変わっているのは、右目のモノクルだ。右手には、手提げ鞄が一つ。どこか人が良さそうな女性だった。
どう見ても、「山男」などという風貌ではない。京太郎も豊音も、唖然として彼女を見つめていた。
「二人とも、無事かい?」
彼女は穏やかに微笑んで、京太郎たちに声をかけた。
――これが、須賀京太郎と姉帯豊音の二人が、熊倉トシに出会った初めての日の出来事であった。
次回:第五回 山を見上げて
この物語はフィクションであり、実在の人物・土地・団体とは一切関係ありません。