自分の世界の全てであった村を見下ろしたとき、豊音の胸に去来した想いは寂しさとも怒りとも愁いとも違う、不思議な感情であった。上手く形容できないが、少なくとも嫌な気持ちではなかった。
「ここがトヨネの故郷かー」
隣で村を見渡す彼女の名前は、臼沢塞。高校時代、豊音が所属した麻雀部の部長だ。
「綺麗なところだね!」
今にも駆け出しそうな小柄な彼女は、鹿倉胡桃だ。夏の暑さにも負けないくらい元気なところは、変わっていなくて安心した。
「ダル……」
こちらは平常運転の小瀬川白望。ダルいダルい言いながらも、ここまで来るのに歩みを止めなかった。
「ワォ!」
そして、歓声を上げるのは今回ニュージーランドから来てくれたエイスリン。変わらず手に携えるのは、ホワイトボードだ。久方ぶりに彼女が日本にやってくるのをきっかけに、かつての宮守女子の面々で同窓会を行う運びとなったのだ。
場所は、豊音の故郷の村。
大学の夏期休暇の終わり際、豊音も報告せねばならないことが沢山あったので丁度良かった。
恩師である熊倉トシだけ予定を合わせられず、学生五人だけの小旅行になってしまったのは残念であるが、致し方ない。
「こっちだよー」
坂を下り、豊音は四人を村の奥、自分の家に案内する。
かなりの時間放置していたが、村民たちが手入れをしてくれているらしく、少なくとも外観は村を出た当時と変わらなかった。当然中も含めて隅々まで、とはいかず、室内は埃っぽい。ブレーカーを上げて電気をつけると、あちこち汚れが溜まっているのがすぐに分かった。買ってきた夕食用の食材は冷蔵庫にひとまず避難させ、
「まずは掃除だね!」
「ダ……」
「シロ、ダルい禁止ね」
率先して塞と胡桃が働き出す。シロはエイスリンに腕を引っ張られていた。懐かしい光景に、豊音はくすりと微笑を零す。
「ごめんねー」
「良いの良いの、今日はみんなでここに泊まるんだから。来たときよりも美しく!」
「トヨネ、水場どこ?」
「こっちだよー」
昔もこうしてみんなで部室を掃除したな、と豊音は高校時代を思い返しながら清掃に勤しむ。あれから四年――全員同じ進路とはいかなかったものの、交流はずっと続いていた。四人とも、豊音にとってかけがえのない友達だった。
「トヨネ、村長さんのところに挨拶に行くんでしょ? ここは任せて先に行ってきて」
「えっ、いいのー?」
片付けの見通しがついたところで、提案してきたのは塞だった。
「でもー……」
「先にダルいことは済ませたほうが良い……」
「ダルイッテイッチャダメ!」
「ほら早く! 晩ご飯はみんなで作るんだから!」
「……ありがとー」
シロたちにも促される形で、豊音は一旦家を出た。
村人たちとわだかまりがないと言えば、嘘になる。どんな形であれ、古くから伝わる風習を断ち切ったのは豊音なのだ。それで良かった、と言ってくれる人間がほとんど全てと知っていてもなお、豊音は全てを割り切れなかった。両親を失った自分が生きてこられたのは間違いなく、村人たちのおかげなのだ。
――それに、また別の負い目も感じていた。
村長の家を訪れ、豊音は積もる話と村の外での出来事を報告する。
進学した大学のこと。
友達を一杯作ったこと。
大学でも麻雀に力を入れたこと。
高校のときよりも良い成績を勝ち得たこと。
決して大きなチームではないが、プロからスカウトが来ていること。そしてそれを受けようと思っていること。
みんな、賛成してくれた。ほっと、豊音は胸を撫で下ろした。
一つだけ、訊ねられた。
――この村にはこれからも帰ってくるのか、と。
豊音は迷いなく、首肯した。
夕暮れに差し掛かり、豊音は自宅に戻った。みんなで作るはずの夕食は、既に準備されていた。食欲をそそる香りが、部屋の中に充満していた。胡桃が魚の煮付けを指差しながら、自慢気に言う。
「どう、トヨネっ? これシロが作ったんだよ!」
「ほんとうにーっ? びっくりしたよー」
「ダル……」
当の本人は畳の上に寝っ転がっていた。塞とエイスリンに怒られる姿もまた、懐かしい。
とても美味しく、とても楽しい夕食の時間はあっという間に過ぎ去った。夜が訪れ、五人は他の家から借り入れた布団を敷く。
「修学旅行みたい!」
「いやいや、五人で行ったことなかったよね」
「インハイ!」
「ああ、そっちがあったか。懐かしい」
「思い出したら悔しくなるけどね!」
「エイスリンさんも麻雀続けてるんだよねー」
「ウン!」
ホワイトボードにエイスリンが赤ペンを走らせる。描きあげられたのは、豊音とエイスリンが卓を挟んで向かい合っている絵だった。翻訳したのは、シロ。
「お互い国別代表になって戦おう……?」
「イエス!」
「良いね。でも、どっちを応援するか悩むわぁ」
「取らぬ狸の皮算用だよー」
過去だけでなく、未来の話にも想いを馳せる。こんな当たり前のことに、今でも豊音はこの上ない幸福を感じる。様々な巡り合わせに、恵まれたのだ。
五人は布団の上で、お互い寝かさないと言わんばかりに会話を続けた。こういうときは真っ先に眠りに落ちるシロまでも、元気だった。
かつて、こことは違う、こことよく似た場所で、一人の友達と共に過ごした。どうしても、あの日々を思い出してしまう。間違った、まやかしの絆だったと理解してなお、全てをなかったものとして捨て去れない。それこそが、豊音が自身に与える罰だった。
そんなことを考えていたら、
「ところでさ」
少しいやらしい笑みを浮かべて、塞が豊音に視線を向けてきた。
「彼とはどうなってるの?」
「ど、どうって言われてもー」
「いまさら隠さないでよ。ねぇ、どこまで進んだの?」
「キニナル!」
「エイスリンさんまで」
「今長野で家業継いで働いてるよ。トヨネは結構頻繁に会いに行ってるみたいだけど」
「し、シローっ?」
しれっと答えるシロに、追求の手を止めない塞。エイスリンと胡桃は目を輝かせて話を聞こうとせがんで来る。恥ずかしくて布団の中に逃げ込みたかったが、完全に捕らえられていた。ぽつりぽつりと彼のことを語ってみせればみせたで、今度は「惚気か!」と怒られる始末。理不尽だった。けれども、とても楽しい時間だった。
やがて体力を使い果たし、みんなすぐに寝静まる。
しかし。
豊音は一人、故郷に帰ってきた高揚感がまだ拭えないのか、一度眠ったもののすぐに目が覚めてしまった。
眠れないときは、いつも外に出て月を見上げていた。今日もまた、そうした。みんなすぐ近くにいるというのに、昔を思い出して心細さが去来する。
既に、日付が変わりそうな時間帯。携帯電話を見つめながらかけても良いか迷っていたら、
「わわっ」
急に携帯が震えだした。電話の着信だ。相手は――
「もしもし、京太郎くん?」
『もしもし。ごめん、寝てた?』
「ううん。何だか眠れなくってー。どうかしたの?」
『ちゃんと家に帰れたのかなって思ってさ』
「大丈夫だよー」
良かった、と電話口の向こうで彼が安堵する気配が伝わってくる。先ほどまでからかわれていた影響からか、慣れ親しんだはずの彼の声を聞くと胸が高鳴った。
『今回、一緒に行けなくてごめんな』
「仕方ないよ。それに、みんなもいるから心配しないでー」
『むしろ俺が邪魔か』
「そうかもー」
お互いひとしきり笑った後、京太郎から問いかけられる。
『報告も無事、終わった?』
「うん。みんな賛成してくれたよー」
『これで来年から豊音さんもプロ雀士かぁ。でも、頑張ってたもんな。当然か』
「京太郎くんがずっと応援してくれてたからだよー」
『そんなこと』
「あるよー」
力強く豊音は言い切って、家を守る塀に背中を預ける。見上げた丸いお月様は、とても美しかった。
「――ねー、京太郎くん」
『どうした?』
「いつか私がお話しした、山男と山女の物語、覚えてるかなー」
『……ああ、ちゃんと覚えてるよ』
少し躊躇いがちな肯定が、返ってきた。豊音は構わず、続けた。
「今、私とっても幸せなんだー。村長さんたちには優しくしてもらって、さえたちがいて、熊倉先生には麻雀を教えて貰って、……京太郎くんがいて。本当に、幸せなの」
でもね、と豊音は一度言葉を句切った。迷った末、彼女は言った。
「私だけ良いのかな、って時々思うんだー」
『どういう意味だよ』
「私の前にも、山女さんはずっといて。ずっと、ずーっといて。みんな、村の中で一生を過ごしてきて。でも、私だけが外に出られたからー。外の世界を知って、いっぱいいっぱい幸せになれたからー……。良いのかなって、思うんだー」
憐れみをかける立場でもないと、豊音は重々承知している。それでもいつも心のどこかで、そんなことを考えていた。今日久方ぶりに村に戻ってきて、ますますその気持ちは強くなった。
けれども彼は、
『良いに決まってるだろ』
と、言い切った。ぽかんとする豊音をよそに、彼は言った。
『豊音さんが村を出たから山女はいなくなった。これから苦しむ子はもう、生まれない。それに、村を出るって決めるのだって辛かっただろ。――だから、そんなことに疑問を持たなくても良いんだよ』
――ああ。
「……京太郎くんは、いつも私を守ってくれるねー」
『いつもってわけじゃないだろ』
「ううん。いつも、だよー」
彼が覚えてなくとも。彼が知らなくとも。
豊音はずっと、覚えている。たった一人でも、覚え続ける。出会ったあの日から、守ってくれていたことを。噛み締める思い出は、色褪せない。
『あー、そういえばさ』
「うん? どうしたのー?」
『いや、そのな。うん、ちょっとな』
珍しく、京太郎の歯切れが悪い。繰り返し豊音が促して、ようやく、彼は言った。
『お願いがあるんだ』
「お願い? 京太郎くんのお願いならなんでも聞くよー」
『んー……次会ったとき、するよ』
「今でも良いのに」
『直接会って、話したいんだ』
豊音の頭の上には、疑問符が浮かび上がるばかり。全くもって、予想できなかった。
――彼のお願いが、また自分たちの関係を変えることなど。
差し出されるのが右手ではなく、小さな箱であることなど。
今の豊音には、想像もつかなかった。
山姫の帰郷 おわり